賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

正常な霊的生活は人々を正しい道へ導く

2020-09-18 20:09:53 | デボーション

   あなたがたはまだ神の信者としての道のりのごくわずかしか歩んでおらず、未だに正しい道のりに入っていないため、まだ神の基準にたどり着くまでにはほど遠い。現在のあなたがたの霊的背丈は神の要求を満たすには不十分である。あなたがたの力量と元来人間が持つ堕落した性質により、あなたがたは常に神の働きをいいかげんに扱い、真剣に考えない。これがあなたがたの最大の欠点である。そのうえ聖霊の道を見出すこともできないのである。あなたがたのほとんどはそれを理解せず、はっきり見る事もできない。更に、あなたがたのほとんどはこれを全く気に留める事も無く、真剣にとらえない。もしこのような振る舞いを続け、聖霊の働きを知らずにいれば、神の信者としての歩みは無駄である。なぜならあなたがたは神の心を満たすために最善を尽くさず、神と上手く協力しないからである。それは、あなたに神が働きかけなかったわけでもなく、聖霊があなたを動かさなかったという訳でもない。単にあなたがたは不注意で聖霊の働きを真剣に捉えていないというだけである。今すぐにでもやり方を変え、聖霊の導く道を歩むべきである。これが本日の主題である。この「聖霊の導く道」というのは、人々が霊的に示しと導きを得、神の言葉の認識を得、進む道が明らかになり、一歩ずつ真理において成長して神をより深く知る事ができる道である。聖霊の導きがある道とは、基本的に、人々がその道を進むにあたり、ずれや誤解なく神の言葉を明確に理解している道である。これを達成するには、神と調和して働き、実践できる正しい道を見出し、聖霊の導く道を歩む必要がある。このことは、人々の協力、即ち神の要求を満たすためにあなたがたが何をするか、そして正しい道に入るためにどう振る舞うかと関係する。

 


   聖霊の導く道を歩むことは複雑に思えるが、実践する道が明瞭であればこのプロセスがずっとシンプルだということがわかる。実は人間は神の要求する事のすべてを達成することが可能なのである。神は人間にとって不可能な事を押し付けたりはしない。全ての状況において、神は人々の抱える問題や人間が懸念することを解決しようとしているのである。神を誤解してはならない──これはあなたがた全員が理解しなければならないことである。聖霊の道とは神の言葉によって人々が導かれる道である。前に述べたように、あなたがたの心を神に捧げなければいけないのである。これは聖霊が導く道を歩むための必要条件である。正しい道に入るためにしなければならないことである。どうすれば人は意志をもって心を神に捧げる事ができるのだろうか。日常生活にて神を感じて祈る際、特に意識することなく、何かをしながら神に祈る。これは心を神に捧げていると言えるのだろうか。あなたがたは家事や肉的な事について考え、心は常にふたごころである。これは神の臨在の中で心を静めていると言えるのだろうか。あなたの心はいつも外的な事に気をとられていて、神と向き合うことができないのである。神の前に真に平安でありたいと願うのであれば、意識して協力しなければならないのである。即ち、あなたがたひとりひとりが周りの人々や物事から離れてひとりになり、ディボーションをする時間を持ち、そうすることで心に平安を得、神の前に静まるのである。自分のディボーション用のノートを作り、神の言葉による認識やあなたがたが霊的にどのように動かされたかを、内容の深い浅いに関係なく記録すべきである。意識して神の前で心を静めなさい。1日に1、2時間を真の霊的生活に捧げる事ができれば、その日あなたの生活は豊かになり心は明るく明晰になる。日々このような霊的生活を送るならば、ますます神に心を捧げる事ができるようになり、あなたの霊はますます強くなり、聖霊の導く道を歩むことがより可能になり、神はますますあなたを祝福するようになる。霊的生活の目的は、聖霊の臨在を自ら求め、得る事である。それは規則を守ることでも宗教的儀式を行うことでもなく、神と調和して行動し、あなたがたの身体を訓練することである。これが人間のすべき事であり、そうするためにあなたがたは全身全霊を注ぐべきである。神と調和し、努力すればするほど、より神に心を向ける事ができ、神の前で心を静めることができるようになる。ある状態にたどり着くと、神はあなたの心を完全に獲得する。その状態になると、誰もあなたの心を揺さぶることも捕えることもできなくなり、あなたは完全に神のものとなるのである。この道を歩めば神の言葉があなたに常に明らかになり、理解できないことに対しても啓きが与えられる──これらはすべて神とあなたの調和があって達成できるのである。それ故神は常に、「わたしと協調するものには、二倍を与える」と言うのである。あなたがたはこの道をしっかり見ていなければならない。正しい道を歩みたいのであれば、神の心を満たすために出来る事全てをしなければならない。霊的生活を獲得するために出来る事全てをしなければならない。初めは多くを達成できないかもしれないが、後戻りしたり、否定的になったりすることなく、全力で取り組み続けなければならない。霊的生活を送れば送るほど、心は神の言葉で満たされる。あなたは常に霊的生活を送ることを考えるようになり、その重荷をになうようになる。あなたがそのような状態になると、霊的生活を通して神に自分の心の中にある真実を示すことができ、あなたのやりたいこと、考えていること、神の言葉への理解と求め方を神に伝えることができるようになる。小さなことであっても、隠しておいてはいけない。心の中にある言葉を神に話す練習をし、神に真実を伝え、躊躇せず心の中にあるものを語らなければならない。これを実践すればするほど、あなたは神の素晴らしさを感じるようになり、あなたの心はますます神へと近づけられて行くのである。その状態になると、あなたは神が誰よりも大切だと感じるようになる。何があっても決して神のそばを離れなくなる。このように日々ディボーションの時間を持ち、それをおろそかにすることなく、自分の人生における使命と捉えるならば、神の言葉があなたの心を占領するようになる。これが聖霊に触れられるということなのである。それはあたかも、あなたの心がずっと神のものであったかのようで、あなたの心に常に愛があったかのように感じるものである。それをあなたから取り上げる事のできる者はいない。この状態にまでなると、神は真にあなたの心に住み、あなたの心には神が存在するようになるのである。


死の淵から戻って

2020-09-17 22:26:40 | 勝利者の証し

   2007年、私は突然慢性腎不全になりました。クリスチャンである母と義姉、数人のカトリックの友人はこのことを知ると、みんなで私に会いに来て福音を説きました。主を頼ってさえいれば病気は治ると、母たちは言いました。ところが私は神をまったく信じていませんでした。病気を治せるのは科学的な治療方法だけで、科学で治せないのは不治の病だと思いこんでいたのです。そもそも、この世に科学の力より偉大な力などあるのでしょうか?神への信仰は一種の精神的な支えです。しかも私は公立学校の教師という立派な地位にあり、高等教育を受けて教養があったので、おいそれと神を信じるわけにはいかなかったのです。そんなわけで、私は母たちの勧めに従わず、よい治療をしてくれるところを探しまわりはじめました。二、三年のうちに、自分の住む県と省の大病院をほぼすべてめぐりましたが、それでも病状は改善しませんでした。それどころか悪化する一方だったのです。それでも私は頑として自分の見解にこだわり、科学で何でも変えられる、病気の治療は時間がかかるものだと言い張りました。

   2010年、全能神教会のある姉妹が私のもとを訪れ、神の国の福音を説きました。主イエスが俗世にお戻りになったのは新しい働きをなさるためで、その中には真理を発して人々を裁き清めることも含まれているというのです。神の働きのこの段階は、人類を徹底的に救うことが目的ですが、人類が神に救っていただく最後のチャンスでもあるのですよ、と。私はまだその言葉を全面的に受け入れるつもりはありませんでしたが、これまでの数年間、よい治療を求めて失敗と挫折をさんざん味わったために、以前ほど頑なな態度はとらず、姉妹から説得されるままに神の御言葉の本を受け取りました。けれどもその時点ではもちろん、その本にある御言葉が神によって表された真理だとは信じていませんでした。相変わらず科学だけが自分の運命を変えられるという自説を曲げずに、病状を改善できるのは薬だけだと信じつづけていたのです。やがて食事よりも薬のほうを毎日多く摂取するようになりましたが、それでも改善の兆しはほんのわずかも見られませんでした。姉妹は数えきれないくらい私の家を訪れてくれましたが、私は依然として神を信じることを拒んでいました。そんな状態が一年ほど続いたのです。

   そんなある日、両目の視界が突然ぼやけ、両脚がひどくしびれて歩けなくなりました。医者の話では、数年にわたって大量の薬を飲み続けたせいで中毒が起こり、その結果こうした症状が起きたというのです。最初は県の病院に一週間入院し、その後北京にある軍の病院に移されて一か月治療を受けました。それから同じ北京の、漢方治療で有名な病院に移され、中国の伝統的な治療を受けました。しかしそこで二か月間治療を受けても、病状はまったく改善しませんでした。私の主治医は、この病院を引退した元神経科医長に頼んで私の診察をしてもらうことまでしてくれましたが、病状は少しも改善しませんでした。その後将来の義理の娘から、私のような厄介な難病でも治せると評判の医者が雲南省にいると聞きました。そこから紆余曲折はありましたが、私はなんとか車椅子でそこに連れて行ってもらえました。ところが一か月近く治療を受けても、病状が回復しなかっただけでなく、目と脚のために服用していた薬のせいで腎臓病が悪化する結果になったのです。これでは助からないのではないかとひどい不安に陥った私は、家に帰ることにしました。その後は、腎臓を守るために目と脚の治療と薬を断念しました。

   そのころ、私は絶望のどん底にいました。自分はこんなにも科学を信じきってきたのに、科学は私の病気の治療には完全に無力だった、という思いにたびたび襲われました。科学で治療できるという望みが打ち砕かれると、私はひどく落ち込んで虚脱状態になりました。どのように生きていけばよいのかわかりません。痛みと苦しみでぼんやりする中、私はしばしばとんでもないことを考えました。

   「私はどうしてこれほど多くの病気にかかっていて、しかも薬で治してもらえないんだろう?科学を信じ、科学を信頼し、最善を尽くして最高の治療方法を探したのに、まったく効果がなかった。それどころか、病気は悪化するばかりだわ。ひょっとすると科学は私を本当に救えないんじゃないかしら?この世に神が本当に存在 するんじゃないかしら?すべての人間の運命は、本当に神の御手の中にあるのかしら?」

   こうした疑問についてどんなに考えても、答えはひとつも見つかりません。その時期、私は激痛と苦しみに耐えながら毎日を送っていて、自分が寝たきりで役立たずの病人だと思うたびに、人知れず泣き伏していました。家族に多大な迷惑をかけていると感じ、これ以上重荷になりたくないと思いました。自殺したいと思ったのも一度だけではありません。けれども死ぬのは怖かったのです。そのため私は死の訪れを待ちながら、一日一日をただ漫然と過ごしていました……

 

 

   ある日、全能神教会の姉妹が私のために置いて行った本に夫が気づきました。「あなたは知っていたか。神が人々の間で偉大な業を成し遂げたことを」 という見出しを見たとたん、夫は興味を引きつけられ、次の一節を私のために読み上げてくれました。

   「神の働きはあなたには理解できないことである。あなたの決定が正しいかどうか理解することも、神の働きが成功するかどうか知ることもできないのなら、この普通の人があなたにとって大いに助けとなるかどうか、また、神が偉大な働きを行ったかどうかを運をためしてでもいいから見てみようとしないのか。」(言葉は肉において現れる)

   この短い一節に、私は心を激しく揺さぶられました。とくに「神が偉大な働きを行ったかどうかを運をためしてでもいいから見てみようとしないのか。」という言葉が、繰り返し頭をよぎりました。まるで私の陰鬱な心に一条の光が差し込んだように、生きつづけることへのかすかな望みを見出せたような気がしたのです。私は夫をせきたてて神の御言葉の別の二節を読んでもらいました。そこには、神が御言葉をお使いになって人々を裁き清め、いのちの性質を変えられるという真理が書かれていました。その何もかもが私にとって耳新しいことで、言われていることの意味を完全に理解したわけではなくても、こうした教えが他の人々から聞いている主イエスの福音と違っていることは感じ取れました。そういった人々の言うことはたいてい、どうしたら神のお恵みを得られるかとか、私がひたすら神を信じれば病気は治るといったことだったので、私は信じていなかったのです。けれども全能神の御言葉ははるかに実践的に思えたので、聞けば聞くほどもっと聞きたくなりました。

   それから私は、夫に毎日神の御言葉を朗読してもらいました。この本には、宗教的な人々は神を信じているが神を知らず、神に抵抗までしている、そのような人はしばしば日中に罪を犯して夜に告白すると書かれていました。私はこのことにいっそううなずかされました。というのも、私の母と義理の姉妹二人はみなクリスチャンですが、この神の御言葉通りの生き方をしていたからです。母たちは本当に罪を犯したあとその罪を告白し、その後また罪を犯す、といったことを繰り返していました。私の魂が目覚めたのはその時です。これが本当に神の御声なのかしら?もし神でないなら、その著者はどうして宗教界のことをこれほどまでによく理解しているのだろう?不信心者なら理解などできず、偉人や有名人でもわからず、宗教的な人々さえも自分が神を信じていながら神に抵抗していることに気づいていない。そう考えれば考えるほど、この本の御言葉は人が発せられるようなものではなく、俗世に受肉された神がおっしゃったことなのではないかと思うようになりました。

   それから何日も経たないうちに、最初に全能神の国の福音を説いてくれた姉妹が、私が退院して家に戻ったと聞きつけ、もう一人の姉妹を連れて私の家にやって来て、ふたたび福音を説いてくれました。この時私は、良心が自分に話しかける声に気づきました。

   「私は寝たきりになったけど、この姉妹たちは私を嫌って見捨てるどころか、何度もうちに足を運んで福音を説いてくれた。普通の人にはとてもできないことよ。他の人はとっくの昔に私のことなど忘れてしまったはずなのに」

   このような愛は神に由来するにちがいありません。私の考えでは、それは火を見るより明らかでした。というのも、そうした愛は俗世では決して見つからないものだからです。「困ったときの友が真の友」ということわざの意味を、その日私はしみじみと実感しました。家族が私のそばにいるのは、家族である以上避けられないことです。けれどもこの人たちは私とは赤の他人なのに、下心があるわけでも何か条件をつけるわけでもなく、一年以上も定期的に通って私に福音を伝え、私のような寝たきりの病人のために骨を折り、自分たちの信仰や愛、忍耐強さがいかに素晴らしいかを示してくれました。私は神の愛に心から感動し、それ以降は神の福音を拒む理由がなくなりました。そうして、夫と私は二人で終わりの日の神の働きを受け入れたのです。

   2011年6月、夫と私は全能神教会での教会生活を正式に始めました。私の視力が落ちて自分では読めなかったので、ふだんは夫が私のために神の御言葉を読み上げてくれました。また教会の集会では、兄弟姉妹も神の御言葉を読んでくれました。たまに一人になったときは讃美歌にも耳を傾けました。あとになって私は、神の御言葉の中に自分が病気になり苦しんでいる理由を見出しました。

   「人間の生涯を通して経験する出生、死、疾病、老齢の苦痛は、何に由来するのでしょうか。これらの事が人間に発生する原因は何でしょうか。人間が最初に造られた時、こうした苦痛は人間に発生したか、というと、発生しなかったのではないでしょうか。それならば、こうした苦痛は、何に由来するものでしょうか。肉の苦痛や悩み、虚無感、この世における極度の悲惨さなどの物事は、人間の肉が堕落した後に発生しました。サタンが人間を堕落させた後、人間は一層堕落してゆき、人間の病は深刻になり、人間の苦難は一層激しくなり、人間は空虚感や悲劇、この世で生存し続けることが不可能であることを一層感じるようになりました。人間が感じるこの世に対する望みは減り続けました。この苦難はサタンにより人間にもたらされたものであり、サタンにより人間が腐敗させられ、堕落した後になって初めて発生したものです。… ゆえに、人間が疾病を患ったり問題に見舞われたり、自殺願望を覚えたり、この世のわびしさや人生の無意味さを感じる可能性は、依然としてあります。つまり、こうした苦難は依然としてサタンの支配下にあり、それは人間の致命的欠点です。」(『キリストの言葉の記録』の「神がこの世界の苦しみを経験することの意義」より)

   病気の痛みによる苦しみがあまりにも大きいために、私が生きる意欲を完全に失い自殺したいと思ったことを、神の御言葉はまさしく言い当てていたのです。けれども神の御言葉は、病気の痛みと苦しみはすべてサタンが人々を害する手段なのだとも述べていました。私は最初のうち、神がこのようなことをおっしゃる訳がよくわかりませんでしたが、神の御言葉を読み進むうちに少しずつ、その真理が理解できるようになりました。

   ある日の午後、夫がいつものように神の御言葉を朗読してくれていると、このような神の御言葉が耳に入ってきました。

   「初めて社会科学の考えを持つようになってから、人の精神は科学と知識に占領されてしまった。それからすぐ、科学と知識は人類を支配する道具となり、もはや人が神を礼拝する充分な余地はなくなり、神を礼拝する好ましい条件もなくなった。人の心の中で占める神の位置はどこまでも低められていった。人の心の中に神の居場所が無い世界とは、暗く、何の希望も無く、空虚である。… 科学、知識、自由、民主主義、余暇、快適な暮しは、つかの間の慰めに過ぎない。これらのものがあっても、人は必然的に罪を犯し、社会の不公正を嘆く。これらのものは、人の探求への欲求や願望を抑えることはできない。人は神によって造られたからであり、人の無意味な犠牲や探索はさらなる苦悩につながるだけである。人は常に恐怖に怯えて存在し、人類の将来にどのように向き合うべきか、目の前にある進路にどのように対峙すべきか分からない。人は科学や知識に脅かされるほどになり、自分の中にある空虚感をそれらのもの以上に恐れるようになる。」(『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より)

   この御言葉を聞いてやっと、人類の病気と苦しみはすべてサタンからもたらされていると神が言われた理由がわかりました。サタンは知識と科学を用いて私たちを堕落させているのです。サタンは「人間はサルから進化した」、「救世主などいなかった」、「知識で人の運命は変えられる」、「運命は自らの手の中にある」、「科学は人々を救う」、「人間は自然を征服できる」などといった馬鹿げた考えを私たちに詰めこんでいます。サタンはこうした哲学や法則、思想、観念で人類を洗脳しているのです。人々はこうしたものに心と魂を奪われ、知識を妄信し科学を崇めるよう仕向けられています。そして知識で運命を変えられるという妄想を抱いたり、科学を用いてあらゆる難題を解決しようとしたりしているのです。サタンの馬鹿げた考えを取り入れて生活の基盤を形成してきたために、サタンに捕らわれ、縛られ、支配されてきたのです。そして神に由来するものすべてを否定し、神のお気遣いとご加護から遠ざかりはじめているのです。サタンは人形遣いが操り人形をもて遊ぶように人々を操っています。私はそのような形で害されている何百万人の中の一人にすぎなかったのです。私は病気になったとき、科学を信頼して治療を受けました。科学を盲信して崇め、有名病院の専門医なら、最新の技術と近代的な医療設備を用いて病気を治せるはずだと本気で思っていたのです。ところが病状は改善しないどころか、私は死ぬ間際まで追い詰められました。科学がもたらしたのは、非現実的な希望と癒えることのない痛みだけだったのです。科学が私に神を信じさせないせいで、私は繰り返し神に反抗し、抵抗し、その救済を拒みました。ところが私の反抗的な態度にもかかわらず、神は決して私の救済を諦めることなく、御言葉を用いて私を終始導いてくださったのです。かつて私の魂は知識と科学によって抑えつけられていました。その魂を神は少しずつ目覚めさせてくださったのです。一度は死の淵を覗いた私ですが、今は神の御前に出てその救いを得ているのです。

   夫は毎日神の御言葉を読みつづけてくれました。そんなある日、私はこのような神の御言葉を聞きました。

   「神はこの世界を創造し、この人類を創造した。また、それだけではなく、神は古代ギリシア文化ならびに人類文明の設計者でもあった。神のみがこの人類を慰め、神のみが日夜人類のことを思いやる。人類の発展と進歩は神の支配と切り離すことはできない。また、人類の歴史と未来は神の計画から切り離せない。… 人類が良い運命を望むなら、また国家が良い運命を願うなら、人類はひれ伏して神を礼拝し、神の前で悔い改め、罪を告白しなければならない。さもなければ人類の運命と終着点は災難となることは避けられない。」(『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より)

   この一節のおかけで、すべての人の運命は神の御手の中にあり、神が人間のいのちの源であることがわかりました。神の御前に出て、神に従い、神を崇めなければ、良い運命はもたらされません。神から離れて神に抵抗し、神を見捨ててサタンを頼りにするとき、その人は自らをサタンに引き渡しています。その結果、サタンに害されて踏みにじられ、果てしない災厄と際限のない苦しみにみまわれることになりますが、人はこのようにして自らを害し、自らに死をもたらすのです。そのとき、私は自分がいかに愚かで盲目で、惨めだったかを思い知りました。知識と科学に対する考え方が毒以外の何ものでもなく、私を堕落させるために使われたサタンの道具にすぎないことを理解したのです。私はこれまで長年にわたり悪魔によって毒されていたのです。今となればそのことが悔やまれてなりません。私は心の底から神への真の憧れを感じました。聖書に記されているニネベの人々のようにふるまい、神の御前でひれ伏し、告白して悔い改めたい、そしてあらゆる邪悪な手段を投げ捨てて、神が与えてくださる導きと糧を受け入れたいと思いました。神に従い神を崇めたいと思った私は、教会による宿泊者受け入れの本分を割り当ててください、と自ら願い出ました。兄弟姉妹との交わりでは、病気のために私を見下したり蔑んだりする人はいませんでした。それどころか私を精一杯助けて支えてくれたので、私はいつも彼らの偽りのない愛に囲まれていると感じていました。

   それからしばらく経ち、病状が依然として改善しないので、私は神に、病気がよくなるようお助けくださいと訴えはじめました。ところが姉妹たちは次のように教えを説いてくれたのです。

   「神は万物の創造主でいらっしゃり、私たちはその被造物です。なので、神にどのように扱われようと、私たちはその計画とはからいを受け入れなければなりません。神に願いごとをすれば、ただ自分の分別のなさをさらけ出すことになります。病人を治したり、悪霊を払ったり、奇跡を行なったりすることが、恵みの時代の神の働きでした。けれども今は神の国の時代で、神の現在のおもな働きは、その御言葉によってすべてを成就し、御言葉を用いて人々の堕落した性質を清めて変えることなのです。神は、人々を神に従い、神に忠実で、神を知り、神を愛する者に変えて、そのような者の集団を次の時代へと導きたいと思われています。神が望まれているのは、神を知るようになった人々が自然に表わす愛と服従です。病気を治していただいた感謝の気持ちから、ご自身に従うことは望まれていません。このような神の御言葉があります。

   「神が人を救う時は、神は彼らに触れ、神の祝福と恵みを通して彼らの心を神に委ねさせることによって救うのだと人々は信じている。すなわち、神が人に触れるのは神が人を救うことである。このような救いは取引によって行われる救いである。神が彼らに百倍のものを授けて初めて、人は神の名の前に服従し、神のために尽くして栄光をもたらそうと努力する。これは人類のための神の心ではない。神は堕落した人類を救うために地上で働きに来た――このことにうそはない。そうでなければ、神は直接その業を行うために来ることは絶対にないだろう。昔、神の救いの手段は最大限の慈愛と憐れみを見せることだった。神は全人類と交換するために自らのすべてをサタンに与えたほどであった。今日は昔とはまったく違っている。今日、あなたたちの救いは終わりの日に、各人を種類によって分類する期間に生じる。あなたたちの救いの手段は慈愛や憐れみではなく、人がより完全に救われるための刑罰と裁きである。」 (『言葉は肉において現れる』の「あなたたちは地位の恩恵は脇に置き、人の救いをもたらす神の心を理解するべきである」より)

   つまり私たちは、自分がどれくらい祝福を望む気持ちに衝き動かされているか、神との関係がどれほど打算的になっているかを分析し理解しなくてはならないのです。また神の御言葉をもっと読んで生活の中でそれを実行し、神の御言葉の裁きと刑罰を受け入れ、その取り扱いと刈り込み、試練、精錬を受け入れ、自らの堕落した性質の清めと変化を求めなければなりません。あなたの病気が良くなるかどうかは神の御手の中にあり、私たちは神の計画とはからいに従わなくてはならないのです」

   姉妹との交わりを通して、ただ神のお恵みを享受するだけでは、サタン的な性質は変わらないのだと理解するようになりました。終わりの日の神の裁きと刑罰を受け入れてはじめて、自分自身の堕落した性質を一掃し、良心と理知を取り戻し、それにより神の救いを得て神の御心にかなうことができるのです。終わりの日の神の働きを受け入れないクリスチャンはみな、神の豊かなお恵みを授けられていても、いまだに罪を犯して告白することを繰り返しながら生きています。なぜならそれは彼らの堕落した性質が清められていないからです。そのため彼らは神の祝福とお恵みを得ようとしていたずらに歩きまわり疲れ果てています。別の言葉で言うと、彼らは神との取引を望んでいるので、そのため決して神に認めていただけることはないのです。神の御心を理解した私は、病気を治してくださいと神にお願いするのをやめて、その代わりに病状がどうなろうと、神を信じ崇めようと固い誓いを立てました。被造物の一人としての本分を尽くし、真理を追求して神をもっと真剣に知るために探求し、自分の堕落した性質を一掃し、神に満足していただくため真に人間らしく生きようと心に誓ったのです。いったんこうしたことを実践しはじめると、心がとても解放され、病気の痛みに束縛されて制約を受けていると感じなくなり、死も怖くなくなりました。私が望んだのはただ、全身全霊を神に捧げて、神の命令とはからいに従うことだけだったのです。

   その後は兄弟姉妹と頻繁に集まって神の御言葉を読み、真理について交わり、神を讃える讃美歌を歌いました。自分の心がとても豊かになったと感じ、それとともに苦しみが和らいできました。それ以上に不思議だったのは、いつの間にか足の麻痺が弱くなってまた少しずつ歩けるようになり、しまいには車椅子に頼らなくてもすむようになったことです。もっと思いがけないことも起こりました。ある日突然視力が戻ってきて、神の御言葉の本に印刷された文字が読めるようになったのです。私もついに自分の目で神の御言葉が見えるようになったのです!信じられませんでしたが、私は本当に奇跡を経験したのでした。私は言い表せない喜びを感じてその後も欠かさず神に祈り、感謝を捧げて神を讃えました。興奮した口調でこの良い知らせを夫に伝えると、夫は感動をあらわにしました。そして目に涙をためて、何度も泣き叫びました。

   「神様、ありがとうございます、神様、ありがとうございます!」

   そう、それはまさしく現実のことでした。私は神にほんの少し従っただけなのに、神はこの素晴らしい祝福をもたらしてくださったのです。終わりの日の神の働きにたとえ奇跡の御業が含まれていなくても、神の御言葉の権威は神の奇跡の権威をはるかに超越するということを私は深く感じました。神は本当に全能の神で、人々を愛する神なのです!

   ある日夫は、県の病院で私のかつての主治医とばったり出会いました。私の腎臓病の治療はどのように進んでいるか、透析はしているかと医師から訊かれた夫はこう答えました。

   「透析はしませんでしたが、もう病状は改善しています。今は歩けるようになって視力も回復しています!」

   医者は目を丸くして言いました。

   「へえ、そんな奇跡もあるんですね。奥さんはもうしばらく前から透析を受けているものだと思っていましたよ」

   今現在、私は普通に生活しています。親戚や友人、近所の人は必ず驚いてこのようなことを言います。

   「こんなに早く病気が良くなるとは思いもしなかった。肉体的にも精神的にも、どこも悪いようには見えないね!」

   こうした言葉を聞くたびに、私は心の中で神への感謝の言葉を述べます。

   「神様、あなたが私に愛を示し、お救いくださったことは生涯忘れません。あなたのためにできることは何一つありませんが、生涯をかけてあなたに従い、あなたを崇め、あなたの被造物としての本分を尽くして、あなたの愛に報いようと私は心に固く決めています」

   私はかつてひどく堕落していて、はじめのうち神の存在を認めず、たびたび神の救済を拒みました。それなのに神は私の罪を責めなかっただけでなく、本当に素晴らしい方法で私をお救いくださったのです。私は神の慈しみをふんだんに受けていますが、自分がそのようなお恵みにふさわしくないのは承知しています。この強烈で動かしがたい経験から、科学と知識は人を救うことができず、ただ際限のない苦しみや恐怖、死をもたらすだけなのがわかりました。宇宙の万物を創造して支配なさる方のみが、いのちと必要な糧を人間に与えられるのです。神は人類の生存の唯一の基盤であり、人類の唯一の希望と救いです。良い運命を望むなら、神を崇めるしかありません。私は神に、サタンにすっかり騙されて死にかけた私のような者を、サタンの影響からお救いくださったことに感謝しています。神は私を生き返らせ、万物の創造主である神の御前に連れ戻してくださいました。私は今、輝かしいいのちの道を歩いているのです!


正常な霊的生活について

2020-09-16 23:03:06 | デボーション

   信者は、正常な霊的生活を送らなければならない。これは神の言葉を体験し、現実に入るための基礎である。現在あなたがたが実践するあらゆる祈り、神への接近、歌、讃美、瞑想、神の言葉を理解しようとする努力は、正常な霊的生活の基準を満たしているであろうか。あなたがたのうち、これについて明確に理解している者はいない。正常な霊的生活とは、祈り、歌、教会生活、神の言葉を食べ飲みすることやその他の同様の実践に限らず、新鮮で活気ある霊的生活を送ることを指す。それは方法ではなく、結果である。ほとんどの人が、正常な霊的生活を送るためには、祈り、歌い、神の言葉を食べ飲みするか、神の言葉を理解しようと努める必要があると考えている。何かしらの結果があるか、真の理解があるかを問わず、単に外見的な運動を行うことに重点を置き、その結果には重点を置かない。彼らは、宗教儀式の中に生きる者であり、教会の中で生活している者ではなく、ましてや神の国の者ではない。この種の人の祈り、歌、神の言葉の飲み食いは、全て規則に従っており、彼らはそれらを行わずにはいられない。それらは流行に沿って行われ、自主的に行われたり、心から行われたりはしない。こういう人々がどれほど祈り歌おうとも、結果は何もないであろう。なぜなら、実践しているのは、宗教上の規則や儀式であり、神の言葉を実践しているのではないからである。方法に重点を置き、神の言葉を守るべき規則と捉えているだけであるので、神の言葉を実践しているのではなく、肉を満たし、他人に見せびらかすために行動している。こうした宗教的儀式と規則は、神ではなく人間に由来する。神は規則を守らず、律法を遵守することもない。神は日々新しいことを行い、実際的な働きを行う。毎朝の見張り、夕の祈り、食前の感謝の祈り、すべてに感謝する等の同じような実践に限定されている三自教会の人々のように、いかに多くを行ったとしても、あるいはいかに長時間行ったとしても、聖霊の働きを授かることはできないであろう。人間が規則の中で生活し、心が行動に注がれているのであれば、聖霊が働くことは一切ない。なぜなら、人々の心は規則に奪われ、人間的観念に奪われているからである。したがって、神は一切働きを行わず、人々はただひたすら律法の支配下で生活し、神の讃美を享受できないであろう。

 


   正常な霊的生活は、神の前で生活することである。祈りを捧げる時、心を神の前で静め、祈りにより聖霊の啓示を求め、神の言葉を知り、神の心を理解することができる。神の言葉を食べ飲みしている時、神がすぐに行うことを望んでいることについて一層明瞭かつ明晰に理解し、新たな実践の道を得て、保守性を回避することができるので、実践はすべていのちの進展を実現させることを目的とする。たとえば、祈りは美辞麗句を述べることや、自らの負い目を神の前でわめくことを目的とするものではなく、むしろ自らの霊を訓練し、神の前で自らの心を静め、万事に関する指導を求め、自らの心を日々新たな光へと惹かれてゆくものとし、受動的になったり怠惰になったりすることを避け、神の言葉を実践する正しい道へと進んでゆくことを目的とする。現在、ほとんどの人が方法に重点を置き、真理を求めていのちの進展を実現しようと努めていない。人々が逸脱するのは、この点である。また、新たな光を授かることができるにもかかわらず、方法が変わらない人々がいる。過去の宗教的観念を取り入れて今日の神の言葉を授かるので、彼らが受け容れるのは、宗教的観念が含まれる教義であり、現在の光を純粋に受け容れていない。したがって、彼らの実践は不純である。つまり、新たな名称の同じ事を行っており、実践がいかに優れていたとしても、それは依然として偽善的である。神は、毎日新たな事をするよう人々を導き、毎日新たな識見と認識を得て、時代遅れとなったり、単調となったりしないことを要求する。長年にわたり神を信仰してきたにもかかわらず、方法が全く変わっておらず、外見上は熱意に満ちて多忙で、神の前に来て静かな心で神の言葉を享受しないのであれば、何も得ることはできないであろう。神の新たな働きを授かる時、新たな計画を立てず、新たな方法で実践せず、新たな認識を求めるのではなく、過去の古い物事に固執し、自分の実践方法を変えること無く限られた量の新たな光のみを受けるのであれば、この種の人は名目上はこの流れにいながらも、聖霊の流れの外にいる宗教的なパリサイ人である。

   正常な霊的生活を送ることを望むのであれば、毎日新たな光を授かり、神の言葉の真の理解を追求し、真理に対する明晰さを達成しなければならない。あらゆる物事において実践の道が必要である。そして毎日神の言葉を読むことにより、新たな疑問が生まれ、自らの欠点を発見することができる。これにより、渇いて探し求める心が生まれ、その心により、あなたの存在の全体が動き始め、いつでも神の前で静まることができるようになり、遅れることを深く恐れるようになるであろう。この渇いた心、探し求める心、そして継続していのちに入るための覚悟ができれば、霊的生活への正しい道を歩んでいる。聖霊に動かされることを受け容れることができ、進歩を望み、神により完全にされることを求める意志があり、神の言葉の一層深い理解を求め、超自然を追求せずに実際的な代償を払い、神の心への実際的配慮を示し、実際的にいのちに入り、自らの経験を一層正しく現実的なものとし、教義の空虚な言葉を求めず、また超自然の感覚を求めたり偉人を崇拝することもない人は全て、正常な霊的生活に入っている。こうした人々の行動はすべて、いのちのなかで一層の進展を実現することを目的とし、霊を新鮮で淀まない状態に維持し、常に前向きに入っていけるようにしようとする。たとえば、彼らが食前の祈りを捧げる時、それは強制されるのでなく、神の前で自らの心を静め、心で神に感謝し、神のために生きることを望み、自らの時間を神の手に委ね、神に協力し、神のために費やすことを望む。心を神の前で静めることができない場合、むしろ食事をせずに実践を続けるが、それは規則に従うことではなく、神の言葉を実践することである。食前の祈りを捧げる時に、意識的に何かの動作をして、これみよがしな人がいる。信心深く見えるかもしれないが、その胸中には「なぜこうしたことを実践する必要があるのか。祈りを捧げなくても大丈夫ではなかろうか。祈りを捧げても何も変わらないのだから、どうしてわざわざ祈るのか」といった疑念がある。こういう人は規則に従っており、口では神を満足させたいと言うが、心は神の前に来ていない。彼らがこのように祈るのは、神の前で心を静める実践のためではなく、むしろ他人を欺し、他人に見せるためである。まるで他者のためにとりなすが、自分自身はいのちに入ることができない牧師のように、純粋に偽善的である。宗教指導者そのものである。神は日々新たな言葉を述べ、新たな働きを行うが、あなたは日々規則に従い、神を欺こうとし、表層的に神と接している。それならば、あなたは神に反抗する者ではなかろうか。規則を守り、神に反抗しつつ、祝福を授かることができるであろうか。あなたには、神の罰がくだるのではなかろうか。

   神の働きは急速に拡大し、様々な宗派の宗教家や教会の礼拝を遵守する著名人を遥か彼方へと追放し、あなたがたのうちでことさら規則に従うことを好む専門家を四方八方へと追いやる。神の働きは延期不可能であり、何に依存することもなく、その進行が遅くなることもない。誰かを引っ張ったり、引きずったりしない。追随できない者は、たとえ何年従ってきたとしても見捨てられるであろう。どれほど資格のある古参であっても、規則に従うならば、排除されることは確実である。この種の人には、自己認識を得て、自ら進んで慎ましくし、旧来の物事に固執しないように勧める。自らの行動原理に従って他人に神の言葉を実践させることは、人々の心を掴むことではなかろうか。あなたの実践は規則に従い、人々に教会の礼拝を守るよう教えることである。あなたは常に自分の思い通りに人々に行動させるが、それは徒党を組んでいることではなかろうか。これは教会を分裂させていることではなかろうか。それならば、どうして厚かましくも神の心に配慮しているなどと言えるのであろうか。どのような資格があって、それが他人を完全にするためであると言えるのであろうか。そのような指導を続けるのであれば、それは人々に宗教儀礼を行うよう指導しているということではなかろうか。正常な霊的生活を送り、霊的な解放と自由を日々得ている人は、自由に神の言葉を実践し、神を満足させることができ、祈りを捧げている時も、単に儀礼や手順に従っているのではなく、遅れることなく日々新たな光を得ることができる。このような人が神の前で心を静めるために実践する時、心を神の前で真に静めることが可能であり、誰もそれを邪魔することはできず、誰も、どのような出来事や物事もその正常な霊的生活を制止することはできない。こうした実践は、人々に規則を与えて守らせることではなく、結果を得ることを目的とする。こうした実践は、規則を守ることではなく、人々のいのちにおける進展を目的とする。あなたが単に規則を守るだけの者であるならば、いのちは決して変わらないであろう。他の人々はこのような実践をするかも知れないし、あなたも最終的にはそうするのだが、それでは他の人々は聖霊の働きに遅れることなく追随できる一方で、あなたは聖霊の流れから排除されるであろう。それならば、あなたは自分を欺いているのではなかろうか。ここで述べた言葉の目的は、人々が神の前で心を静め、神と向き合い、神の働きが阻害されることなく人々に対して行われ、その結果を得られるようにすることである。


神との正常な関係を築くことは極めて重要である

2020-09-15 23:15:00 | デボーション

   人間は、自らの心で神の霊に触れることにより、神を信じ、愛し、神を満足させ、それによって神の満足を獲得する。また、自らの心で神の言葉に接する時、彼らは神の霊によって動かされる。正常な霊的生活を実現し、神との正常な関係を確立することを望むのであれば、あなたはまず自らの心を神に捧げ、神の前で自分の心を静めなければならない。自らの心を全て神に注いだ後、初めて、人間は徐々に正常な霊的生活を得ることが出来る。人間が神への信仰の中で自らの心を神に捧げず、心が神の中にあらず、神の負担を自分自身のものとして扱わなかった場合、彼らが何をしても、それは神を欺くことである。そして、まさしくそれが宗教に熱心な人々の行動のすべてである。これでは神から称賛を受けることは出来ない。神はこのような人からは何も得る事が出来ない。こういう人は、神の家の装飾品のように場所を取るだけで何の役にも立たず、神の業の脇役以外に使い道がない。神はこのような者を用いない。このような人間の内では、聖霊の働く機会はない。しかしそれ以上に、このような人には完全にする価値が無い。こういう部類の人間はまさしく「生ける屍」であり、彼らには聖霊により用いられることの出来る要素が全く無い。彼らは、すべてサタンによって占有され、サタンにより極端に腐敗させられ、また、神によって排除される対象である。現在、聖霊は、人間の長所を活用することのみならず、人間の欠点を完全なものとし、変化させることによっても、人々を用いている。あなたの心を神に注ぎ、神の前に静めることが可能であれば、あなたには、聖霊により用いられ、聖霊の啓示と光を受ける可能性と資格があり、またそれ以上に、聖霊によって自分の欠点を補ってもらう機会があるであろう。自分の心を神に捧げる時、あなたは更に深く肯定的な側面に入ることができ、より高いレベルの洞察に達することができる。否定的な側面においては、自らの過ちや欠点が一層分かるようになり、神の意志を満足させることをもっと熱心に求めるようになり、受動的にではなく、活発に真理の道に入るであろう。それは、あなたが正しい人間であることを意味するであろう。あなたの心が神の前に静まっていることを条件として、あなたが聖霊から称賛を享受できるかどうか、また、神を喜ばせるかどうかということの鍵は、あなたが積極的に入ることが出来るかどうか、ということである。聖霊が人に明察を与え、人を用いる時、それは、その人を決して消極的にすることはなく、常にその人を積極的に前進させる。たとえその人に短所があっても、その人はその短所に従って生きることを回避し、自分のいのちの成長の遅延を阻み、また、神の心を満足させることを求め続けることができる。これが、あなたが聖霊の臨在を得たことを充分に証明する基準である。人が常に消極的であり、啓示を受けて自分自身を知った後も依然として消極的で受動的であり、立ち上がり神と調和して行動出来ないのであれば、この種の者はただ神の恵みを受けるが、聖霊はその人と共にいない。人が消極的である時、それは、その人の心は神へ向いておらず、その人の霊が神の霊によって動かされていないことを意味している。このことは、全ての者たちによって認識されるべきである。

 


   経験から分かることだが、最も重要な課題の一つは神の前で心を静めることである。それは、人々の霊的生活といのちの成長に関する課題である。唯一あなたの心が神の前に静まっている場合のみ、あなたの真理の追求とあなたの内の性質の変化が実を結ぶであろう。なぜなら、あなたは重荷を荷って神の前に来るからである。また、あなたは、絶えず自分に至らないことが多過ぎると感じ、知るべき真理があまりにもたくさんあり、経験すべき現実があまりにも多くあり、神の意志に全ての注意を集中させる必要があると感じているからである。また、これらのことが常にあなたの心を占めており、あたかもそれらがあなたを強く圧迫し、息ができなくなるかのようである。こうして、あなたは心に重荷を感じる(しかし、これは否定的な状態ではない)。神の言葉による啓示を受け、神の霊に動かされる資格があるのは、こうした人々のみである。彼らが神の啓示と光を受けられるのは、彼らの重荷の故である。また、彼らの心は重いからである。またそれは、彼らが払った代償と、神の前で受けた苦しみのためであると言える。というのは、神は誰も特別扱いしないからである。神は人々を常に公平に扱うが、人々に供給する際は無造作ではなく、人々に無条件で与えることはない。これは、神の義なる性質の一面である。実生活においては、まだ殆どの人々がこの領域に達していない。少なくとも、人々の心はまだ完全には神の方を向いていない。それゆえに、人々のいのちの性質には、まだそれほど大きな変化がない。それは、人々がまだ神の恵みの中だけに生きており、聖霊の働きを得ていないからである。神が人々を用いる際の条件は次のようである。人々の心が神に向いており、神の言葉の重荷を負い、神の言葉を慕う心を持ち、真理を求める決意を持っていることである。このような人々だけが、聖霊の働きを得て、頻繁に啓示と光を得ることが出来る。神が用いる人間は、礼儀正しく話し、不注意に語ることが無く、神の前で常に心を静めておくことが出来るが、外見から見ると不合理であり、他の人々と正常な関係を持っていないように見える。しかし、正にこういう人こそ聖霊に用いられるに充分なのである。神の言われるところの、この「不合理な」者は、他の人々と正常な関係を持っていないように見え、彼らには外面だけの愛や実践がない。しかし、霊的なことを分かち合っている時は、彼らは心を開き、神の前での実経験から得た啓示や光を、無私無欲で他の者たちに分け与えることが出来る。彼らはこのようにして神への愛を表し、神の心を満足させるのである。他の者たちがみな彼らを中傷し、嘲笑する時、彼らは外部の人々や出来事、物事により支配されるのを回避することができ、また、なおも神の前で静まっていることが出来る。このような人には、独自の洞察があるようだ。他の者たちがどうであれ、彼らの心は決して神を離れない。他の人たちがにぎやかに、また、おもしろそうにしゃべっている時でも、彼らの心は依然として神の前にあり、彼らは神の言葉について熟考したり、あるいは黙して心の中で神に祈り、神の意図を求めたりしている。彼らは、他の人々との正常な人間関係を維持することを決して主眼とすることが無い。このような人には全く人生哲学が無いように見受けられる。こういう人は、外見上は陽気で、愛想よくて、無邪気であるが、冷静な心も備えている。これが、神が用いる人の人間像である。人生哲学や「正常な理性」などは、このような種類の人間には伝わらない。このような人は、自らの心をすべて神の言葉に捧げており、その心には唯一神しか持っていないように見受けられる。このような種類の人こそ、神の言われるところの「理性の無い」人間であり、このような人こそが、まさに神により用いられる者である。神に用いられている人の印とは、いついかなる所においても、自らの心が常に神の前にあり、他人がいかに放埓であろうと、また彼らがどれほど欲情と肉に耽溺していようと、その人の心は、決して神を離れることが無く、群衆に流されることが無いということである。唯一このようなタイプの人のみが、神が用いるのに適し、まさに聖霊により完全にされる者である。このような境地に達することが出来なければ、あなたには、神のものとされ聖霊により完全にされる資格は無い。

   もしあなたが、神との正常な関係を持ちたいのであれば、自らの心を神に向けなければならない。そして、それを土台として、あなたは他の人々との正常な関係をも得るであろう。神との正常な関係を持たなければ、あなたが他の人たちとの人間関係を維持するために何をしようとも、また、そのためにいかに励み、いかに多くの労力を費やしたとしても、それは依然として人間の人生哲学に属するものであろう。あなたは、人々が自分を賞讃するように、人間の観点と哲学により、人々の間で自らの地位を維持している。あなたは、神の言葉に従って人々との正常な関係を確立してはいない。もしあなたが、人々との関係に重点を置かず、神との正常な関係を維持し、自らの心を進んで神に捧げ、神に従うことを学んだならば、全ての人々との関係も極めて自然に正常なものとなるであろう。このようにすれば、これらの人間関係は、肉の上にではなく、神の愛という土台の上に成り立つのである。そこには肉に基づく相互関係は、ほとんど存在しないが、霊においては、交わりと同時に、互いへの愛、慰め、補給がある。これら全ては、神を満足させる心を基礎として為されるのである。このような人間関係は人生哲学によって保たれているのではなく、神のために重荷を荷うことによって自然と形成される。これらの関係には、人間の努力は不要であり、それは神の言葉の原則により行われる。あなたには、神の心に対して思慮深くあろうとする意欲があるだろうか。あなたには、神の前で「理性の無い」者となる意欲があるだろうか。あなたは、自ら進んで心を完全に神に捧げ尽くし、人々の間で自分の地位を考慮しないだろうか。あなたが接した全ての人々のうち、あなたが一番良い関係を持っているのは、誰であろうか。また、あなたが最悪の関係を持っていたのは、誰であろうか。あなたの人々との関係は、正常であろうか。あなたは全ての人々を平等に扱うだろうか。あなたの人々との関係は、自分の人生哲学に従って保たれているであろうか、それとも神の愛という基盤の上に築かれているであろうか。人が神に自分の心を捧げなければ、その人の霊は鈍感になり、麻痺し、意識を失ってしまう。このような人は神の言葉を決して理解することが無く、決して神との正常な関係を持つことは無いだろう。この種の人は、自分の性質を決して変えないだろう。人の性質を変化させることとは、人が神に自らの心を完全に捧げる過程であり、また神の言葉から啓示と光を得る過程でもある。神の業は、人を積極的に入らせるだけでなく、人が自分の消極的側面を認識した後、その側面を取り除くことが出来るようにする。あなたが、自らの心を神に捧げることが出来るのであれば、自分の霊の中の微妙な動きの一つひとつを感じることが出来るようになり、神から受け取った一つひとつの啓示と光を知る事が出来るであろう。このことをしっかり保ちなさい。そうすれば、あなたは聖霊により完全にされる道へ、徐々に入るであろう。神の前であなたの心を静めることができればできるほど、あなたの霊は一層敏感で繊細になるであろう。そして、あなたの霊が聖霊の動きをもっと感知できるようになればなるほど、あなたの神との関係は一層正常なものとなるであろう。正常な人間関係は、自らの心を神に捧げることを基礎として成り立つのであって、人間の努力によって達成されるものではない。神なしでは、人々の間の関係は単なる肉の関係である。そうした関係は正常ではなく、情欲に耽溺することであり――それは神が嫌悪し、忌み嫌う関係である。たとえあなたが、自分は霊に動かされていると言っても、いつも自分が心を惹かれる人々や、自分が敬服する人々と交わりを持ちたがり、自分が心を惹かれない求道者が居て、その人に偏見を持ち、その人とは交わろうとしないなら、それは、あなたが感情的な人間であり、神との正常な関係を全く持っていないことを、もっぱら証明するだけである。あなたは、神を欺き、自らの醜さを隠そうとしているのである。たとえあなたがある程度の理解を分かち合うことが出来ても、正しくない意図を抱いているのであれば、あなたが為す全てのことは、ただ人間の基準によってのみ、良いと見なされるものである。神はあなたを褒めはしないであろう。あなたは神の重荷によってではなく、肉によって行動している。神の前で自らの心を静め、神を愛する全ての者たちと正しいやり取りをすることが出来るなら、その時初めてあなたは神により用いられるに相応しい者になるのである。このように、あなたが他人とどのように交わろうが、それは人生哲学によるのではなく、神の重荷のことを心に思い、神の前で生きることであろう。あなたがたのうち、そのような者は何人居るであろうか。あなたの他の人との関係は、本当に正常であろうか。あなたの人間関係はどんな基礎の上に築かれているのだろうか。あなたの中には、いくつ人生哲学があるのか。それらはすでに投げ捨てられただろうか。あなたの心を完全に神に向けることができないのであれば、あなたは神のものではなく、サタンから来た者であり、最終的にはサタンのもとへ戻されるであろう。あなたには神の民の一人となる価値が無い。これらのこと全てをあなたは慎重に考慮する必要がある。


あなたと神との関係はどのようなものか

2020-09-14 22:00:18 | 勝利者の証し

   神の信仰においては、少なくとも神と正常な関係を持つという問題を解決する必要がある。神との正常な関係がなければ、神を信仰する意義は失われる。神との正常な関係の確立は、神の存在によって心を鎮めることによって完全に実現される。クリスチャン,悔い改める,神に祈り神との正常な関係というのは、神のいかなる業をも疑ったり否定したりせずに従えるということ、そしてさらに、神の前で善意を持ち、自分を顧みず、何をしている時も、神の家族の利益をもっとも重視し、神の監視を受け入れ、神の采配に従うということを意味する。あなたは何をするときにも、神の前で自分の心を鎮めることができる。たとえあなたが神の心を理解していなくても、本分を尽くし、責任を果たすために全力を尽くす必要がある。神の心が明らかになるまで待ってから、それを実践しても遅くはない。あなたと神との関係が正常になったときには、あなたと人々との関係も正常になるだろう。すべては神の言葉という基礎の上に確立される。神の言葉を飲食することにより、神の求めに応じて行動し、自らの見解を正し、神に逆らったり教会の邪魔になるようなことをしたりしないようにしなさい。兄弟姉妹のいのちに役立たないことはせず、他の人々の役に立たないことを言わず、恥ずべきことをしないようにしなさい。何をする時にも、公正かつ高潔に、神に見られても恥ずかしくないようにしなさい。時として肉体が弱いことがあるとしても、あなたは自己の利益に固執することなく、神の家族に恩恵を与えることを最優先し、義を行う。あなたがこのように行動できるなら、あなたと神との関係は正常になる。

 

 

   あなたが何かをするときには、常に動機が正しいかどうかを吟味する必要がある。あなたが神の求めにしたがって行動できるなら、あなたと神との関係は正常である。これが最低限の基準である。自分の動機を吟味した結果、間違った動機が出てきた場合でも、そのような動機に背を向けて、神の言葉に従って行動できるなら、あなたは神の前で正しい者になるだろう。それは、あなたと神との関係が正常であることを示し、あなたのすることのすべてが、自己のためではなく神のためであることを示すだろう。何かをしたり言ったりするときには、常に心を正して義にかなうようにし、感情に流されたり、自分の意志で行動したりしないようにしなさい。これが神の信徒が自らを律する原則である。人の動機や背丈は小さなことの中に現れる。したがって、神によって全きものとされる道を進むためには、人はまず自分自身の動機や神との関係をはっきりさせる必要がある。あなたと神との関係が正常になって初めて、あなたは神により全きものとなり、そうして初めて、あなたに対する神の取り扱い、刈り込み、訓練、鍛錬が望ましい効果を達成することができる。それはつまり、人々が自分の心の中に神を抱いて、個人の利益を追求せず、個人の将来を考えず(これは肉の思いを意味する)、いのちに入るための重荷を背負って、真理の追求に最善を尽くし、神の業に従うということだ。そうすれば、あなたの追求する目標は正しく、あなたと神との関係は正常である。神との関係を正すことは、霊的な旅を始めるための第一段階であると言える。人の運命は神の手の中にあり、神によってあらかじめ決められており、自分で変えることはできないが、あなたが神により全き者とされるかどうか、神のものとされるかどうかは、あなたと神との関係が正常かどうかによって決まる。おそらく、あなたには弱い部分や従順でない部分がある。しかし、あなたの見解や動機が正しい限り、そして、あなたが神との関係を正して正常な関係にしている限り、あなたには神によって全きものとされる資格がある。あなたが神と正しい関係を持たず、肉のためや自分の家族のために行動するなら、どんなに一生懸命に働いても、何の役にもたたない。あなたの神との関係が正常であれば、すべてがあるべきところに落ち着く。神が見ているのは、あなたの神の信仰についての見解が正しいかどうかだけで、それ以外は何も見ていない。あなたが誰を信じ、誰のために信じ、なぜ信じるか。あなたがこのようなことをはっきり認識し、自分の見識や実践を正すことができれば、あなたのいのちは成長し、あなたはきっと正しい道に進むことができるだろう。あなたと神との関係が正常ではなく、あなたの神の信仰についての見解が逸脱したものであるなら、それによってそれ以外のすべては台無しになるだろう。あなたがどのように神を信仰しても、何も得られないだろう。あなたと神との関係が正常な場合にのみ、あなたが肉に背を向けて、祈り、苦しみ、耐え、従い、兄弟姉妹を助けて、神により多く献身したとき、あなたは神に認められるだろう。あなたのやることが価値や意義を持つかどうかは、あなたの意図が正しいかどうかや、あなたの見解が正しいかどうかによって決まる。近頃の多くの人の神への信仰は、首を捻じ曲げて時計を見るようなもので、その視点はねじ曲がっている。ここを突破できれば、万事が好転する。これが解決されれば万事落着するが、解決されなければ、万事が無に帰す。神の前では行儀よく振る舞うが、見えないところでは逆らってばかりいる人もいる。これはねじ曲がった偽りの現れである。この種の人はサタンの奴隷であり、神を試す典型的なサタンの化身である。わたしの業と言葉にしたがうことができて初めて、あなたは正しい人となる。あなたが神の言葉を飲食し、神に見られても恥ずかしくないことしかせず、公正かつ高潔なことしかせず、恥ずべきことをせず、人々のいのちに害のあることをせず、光の中で生き、サタンに利用されなければ、あなたの神との関係は正常化される。

   神を信じるにあたり、あなたは正しい意図と見解を正さなければならない。あなたは、神の言葉、神の業、神によって作られた環境、神によって証しされた人間、そして実践の神を正しく理解し、正しく扱う必要がある。あなたは、あなた個人の考えにしたがって行動したり、自分でささやかな計画を立てたりしてはならない。あなたは、あらゆることにおいて真理を求め、神の被造物の立場に立って、神のあらゆる業にしたがわなければならない。あなたが神によって全きものとなることを求め、いのちの正しい道に進みたいなら、あなたの心は常に神の前で生きなくてはならず、放蕩せず、サタンにしたがったり、サタンが働く機会を与えたり、自分を利用させたりしてはならない。あなたはあなた自身を完全に神にゆだね、神に支配してもらう必要がある。

   あなたはサタンの奴隷になりたいか。あなたはサタンに利用されたいか。神によって全きものとされるために、あなたは神を信じ、神を追求しているか。それとも、神の業において引き立て役になるのか。あなたは神のものとされて、意味のある人生を生きたいか、それとも、価値のないからっぽの人生を生きたいか。あなたは神に使ってもらいたいか、それともサタンに利用されたいか。あなたは神の言葉と真理で満たされたいか、それとも、罪とサタンで満たされたいか。これを考えて、選り分けよ。あなたは日々の暮らし中で、自分の言った事やした事の中から、神との関係を異常にするようなものを把握し、自らを正し、正しい生き方を選ばなければならない。常に自分の言葉、行動、やることなすこと、考えや思い付きを吟味せよ。自分の真の状態を把握し、聖霊の業の道へ入ること。このようにすることによってのみ、神との正常な関係を持つことができる。自分と神との関係が正常かどうかを測ることにより、あなたは自らの意図を正し、人の本質を理解し、自分自身を理解することができるだろう。これを通して、あなたは実体験に入り、真に自分自身を捨てて、心から委ねることができる。神との関係が正常であるかどうかを経験するような問題において、神によって全きものとされる機会を見出し、聖霊が働いているような状況を理解し、サタンの策略や陰謀の多くを見抜くことができるだろう。このようにしてのみ、あなたは神によって全きものとなることができる。神との関係を正して、神の采配に全て従うべきである。そうすればあなたは、実体験により深く入り、聖霊の業をもっと多く受け取るだろう。あなたが神と正常な関係を持つことを実践しようとするとき、肉を捨てて、神に真に協力することを通じて実践可能になることが多い。あなたは「協力の心なしでは、神の業を受け取ることは難しい。肉の試練を経ない限り、神からの祝福はない。霊が葛藤しない限り、サタンが恥じることはない」ということを理解する必要がある。このような原則を実践しはっきりと理解すれば、あなたの神の信仰についての見識は正されるだろう。あなたがたは現在の実践において、「飢えを満たすために、パンを探す」という見方や、「すべては聖霊によって成され、人が介入することはできない」という見方を捨てる必要がある。このように話す人々はみな、「人はなんでもやりたいことができ、時が来れば、聖霊が働いて、人は肉を克服する必要も協力する必要もなくなり、必要なのは聖霊に人を動かしてもらうことだけである」と考えている。このような見解はすべてばかげている。このような状況では、聖霊が働くことはできない。聖霊の業に対する大きな障害になるのは、この種の見方である。多くの場合、聖霊の業は、人の協力を通して実現される。協力や決意もなく、人の性質を変え、聖霊の業を受け、神から啓示や啓蒙を得たいと思うのは、まったく虫の良い考えである。このような態度を、「自分を甘やかし、サタンを大目に見る」と言うのだ。このような人々は、神と正常な関係を持っていない。あなたは自分自身の中にサタンの現れをたくさん見つけた。そしてあなたの過去の行動の中には、神の現在の要求に反することがたくさんあった。あなたはそれらを今捨てることができるか。神との正常な関係を獲得し、神の意図にしたがって行動し、新たな人となって新たないのちを得、過去の罪を振り返らず、後悔しすぎず、立ち上がって神と協力することができる、そして、やるべき本分を果たす。このようにすれば、あなたと神との関係は正常になるだろう。

   あなたがこのような言葉を読んだ後に、それを単に言葉通り受け止めるだけで、心を動かされなかったら、また、あなたが真剣に神と正常な関係を持とうとしていないなら、それはあなたが神との関係を重視していない証拠であり、あなたの見解はまだ正されておらず、あなたの意図は神のものとされることや神に栄光を帰すことに向けられておらず、むしろサタンの陰謀が蔓延ることや、あなたの個人的な目的を達成することを認める方向に向けられている。クリスチャン,悔い改める,神に祈りこの種の人々は、全て間違った意図や見解を持っている。彼らは、神が何をどのように言おうが無関心であり、何の変化も見られない。彼らの心はまったく畏れを感じないし、恥じることもない。この種の人は、霊のない混乱した人である。あなたは、神のいかなる発言でも、読んで理解したら、実践に移すべきである。あなたがかつてどのように実践しようが(かつてあなたの肉は弱かったかもしれないし、反抗的だったかもしれず、反逆していたかもしれないが)、それは大きな問題ではなく、あなたのいのちが今成長することを妨げることはない。あなたが今日神と正常な関係を持つことができるなら、そこには希望がある。あなたが神の言葉を読むたびに、あなたが変わり、あなたの生活がよい方向に変わったと他の人々も認めるなら、それはあなたが神と正常な関係を持っていること、関係が正されたことを示している。神は、人々の罪を基準にして扱ったりしない。あなたが理解し認識した後、二度と反抗したり逆らったりしなければ、あなたにはまだ神の慈悲がある。あなたがこのことを理解し、神により全きものとなることを求める意志があるならば、あなたの神の前での状態は正常である。何をするときにも、必ずこう考えよ。「私がこれをやったら、神はどう思うか。それは兄弟姉妹にどのような影響を与えるか。」あなたの祈り、交わり、発言、仕事、人々との接触の意図を吟味し、あなたと神との関係が正常であるかどうかを吟味せよ。もしあなたが意図と意見がどのようなものであるか見分けることができないとすれば、あなたには判断力がないということであり、それはあなたが真理を知らなすぎるということを証明している。神の行うあらゆることを明確に理解し、神の言葉にしたがって物事を見て、神の側に立って物事を見ること。このようにすれば、あなたの見解は正されるだろう。したがって、神と良好な関係を築くことは、神を信仰する誰にとっても、最優先事項になる。これは誰もが、最も重要な課題として、また、人生における重要な項目として扱うべきである。あなたのやることはすべて、神との関係が正常であるかどうかに照らして判断する必要がある。あなたの神との関係が正常であり、あなたの意図が正しいならば、それをしなさい。神との正常な関係を維持するには、個人的な利益を失うことを怖れてはならず、サタンが蔓延ることを許してはならず、サタンが自分を操ることを許してはならず、サタンがあなたを笑いものにすることを許してはならない。このようなことを避けようとすることは、あなたと神との関係が正常であることの現れである。それは肉のためではなく、むしろ、魂の平安のためであり、聖霊の業を得るためであり、神の心を満たすためである。あなたが正しい状態になろうとするなら、神と良好な関係を築く必要があり、神の信仰についての自分の見解を正す必要がある。それは、自分を神のものとされ、神の言葉の実をあなたの中に示し、あなたをさらに啓発し啓蒙することを可能にする。このようにすれば、あなたは正しい道に進むだろう。神の現在の言葉を飲食し続けて、聖霊の業の現状に溶け込み、神の現在の求めに従って行動し、古臭い慣習に従う事を止め、物事の古いやり方にしがみつくのをやめ、現在の仕事のやり方に素早く溶け込むようにしなさい。このようにすれば、あなたと神との関係は完全に正常になり、神を信仰するための正しい道に進むだろう。