賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

ペテロはどのようにイエスを知るようになったか(オーディオブック)

2020-09-13 21:10:39 | デボーション

  ペテロがイエスと共に過ごした期間、彼はイエスの中に多くの愛すべき性質、模倣する価値のある多くの局面、そして彼に与えてくれた多くのものを見た。ペテロは多くの方法でイエスの中に神の存在を見、多くの愛すべき品格を見たけれど、最初はイエスを知らなかった。ペテロは20歳でイエスについて行き、6年間従い続けた。その間、ペテロは決してイエスを知ることがなかったが、純粋にイエスへの敬愛から喜んで従って行った。イエスが最初にガリラヤ湖の岸辺でペテロを呼び寄せたとき、イエスは「ヨナの子シモン。あなたはわたしについて来るか。」と尋ねた。ペテロは「私は天の父が遣わされたお方に従わなければなりません。私は聖霊に選ばれたお方を認めなければなりません。私はあなたについて行きます。」と言った。当時、ペテロはイエスという者を、預言者の中の大預言者、神の愛するひとり子のことを話に聞いていたので、ペテロは常にイエスを探そうと望んでいた。ペテロはイエスに会う機会を探っていた(その時このようにして聖霊に導かれたので)。ペテロはそれまで一度もイエスに会ったことはなく、イエスについてのうわさに聞いていただけだったけれど、彼の心の中ではイエスに対するあこがれと敬愛が次第に大きくなり、ペテロはいつかイエスに会いたいとしばしば切望するようになった。それではイエスはペテロをどのように呼んだのだろうか。イエスもまたペテロという男のことを話に聞いていたので、それは聖霊がイエスを導いたからではなかった。「ガリラヤ湖に行け。そこにはヨナの子、シモンと呼ばれる男がいる。」ヨナの子、シモンと呼ばれる人がいて、人々は彼の説教を聞き、彼も天の国の福音を宣べ伝えており、彼の話を聞いた人々は心を動かされて涙を流していたと誰かが言うのをイエスは聞いた。これを聞いて、イエスはその人について行き、ガリラヤ湖に向かった。その時ペテロはイエスの召命を受け入れ、イエスについて行った。

 


   ペテロがイエスに従っている間に、彼はイエスについて多くの意見を持ち、常に自からの見知からイエスを裁いた。ペテロはある程度は霊について理解していたけれども、あまり啓発されることもなかったので、彼は「天の父によって遣わされたお方に従わなければならない。聖霊によって選ばれたお方を認めなければならない」という言葉を発したのである。ペテロはイエスが行ったことを理解していなかったし、啓発も受けていたわけではなかった。しばらくイエスについて行って、ペテロはイエスが行うことや言うこと、またイエス自身に次第に興味を持った。ペテロはイエスが愛と尊敬を鼓舞していることを感じるようになり、イエスと係わりイエスのそばにいたいと思うようになった。イエスの言葉はペテロに与え、助けた。ペテロが長年イエスに従って、彼はイエスの生活について全て、つまりイエスの行動、言葉、動作、表情などを観察し、心に留めた。ペテロはイエスが尋常の人のようではないことを深く理解した。イエスの人間としての外観は極めて普通であったけれど、イエスは人間に対する愛、哀れみ、寛容で満ちていた。イエスが行ったこと、言ったことの全てが人々の大きな助けとなり、ペテロはイエスのそばにいて今まで見たことも持ったこともないことを見たり学んだりした。イエスは外見が決して華やかでも、変わった人間性を持っていたわけでもないけれど、イエスにはまことに並はずれて普通にはない雰囲気があった。ペテロはそれを完全には説明できなかったけれども、イエスが他の誰とも違って行動していることは見ることができた。というのは、イエスは普通の人とははるかに違った行動をしたからである。ペテロはイエスと接するようになってから、イエスの性格は普通の人とは違うことも認識した。イエスは常に落ち着いて行動し、決して焦ることも、誇張することもなく、物事を控えめに表現することもなく、淡々と且つ称賛に値するような方法で生活を送った。イエスは会話においても、上品で、優雅で、率直で、朗らかでありながらも、穏やかで、働きを実行するときも決して威厳を失うことはなかった。ペテロはイエスがあるときは無口になったり、またあるときは話し続けたりするのを見た。イエスは時々鳩のように、いきいきと陽気になるほど幸福で、時々まるで風雨にさらされた母親のように、まったく口をきかないほど悲しい時もあった。時としてイエスは勇敢な兵士が敵を殺す任務に出て行くように、また時には吠え猛るライオンのように怒りで一杯になることもあった。イエスは時には笑い、時には祈り泣くこともあった。イエスがどのように行動したとしても、ペテロは限りのない愛と尊敬をイエスに持つようになった。イエスの笑い声はペテロを幸せで満たし、イエスの悲しみはペテロを嘆きに落とし入れ、イエスの怒りはペテロを脅かした。その一方で、イエスの憐れみ、赦し、厳しさで、ペテロはイエスに対して真の畏敬と憧れを持つようになり、心底からイエスを愛するようになった。もちろん、これらの事全ては、ペテロが数年イエスのもとで生活して、次第に分かってきたことである。

   ペテロは生まれつき聡明で、特に思慮深かったが、イエスについて行くとき、かなりたくさん無知なことをした。ペテロは一番最初の頃、イエスについてある考えを持っていた。ペテロは「人々はあなたのことを預言者と言っていますが、あなたが8歳で物事を十分理解できたとき、あなたはご自身のことを神だと知っておられましたか。あなたは聖霊によって身ごもられたことを知っていましたか。」と尋ねた。イエスは「いいえ、知らなかった!あなたにはわたしがごく普通の人には見えないのか。わたしは他の人と同じだ。父が遣わすのは普通の人で、特別な人ではない。わたしがする働きはわたしの天の父を現わしているけれど、わたしのイメージ、人格、肉は天の父のただ一部でしかなく、わたしの天の父を完全に表すことはできない。わたしは霊から生まれたが、やはり普通の人で、わたしの父はわたしを特別な人としてではなく、普通の人として地上に送った。」ペテロはこれを聞いたときはじめて、イエスについて少し理解できたのである。そして、イエスの教え、イエスの指導、イエスの支え、などについて数えきれないほどのイエスの働きを経験してからはじめて、ペテロはさらに深い理解を得たのである。イエスは30歳の年に、ペテロに全人類の贖いのために、十字架につけられることになったとこれから起こる十字架の話をした。イエスはまた十字架に張り付けになった3日後に、人の子は復活し、復活してから40日間人々に現われるともペテロに言った。ペテロはこのような言葉を聞いて悲しかったが、イエスの言葉を常に心に留めた、イエスにもっと近くなった。

   しばらくして、ペテロはイエスが行った全てのことは、神が行ったことだと認識するようになり、イエスは特別に愛すべき者であると考えるようになった。このように理解できるようになってはじめて、聖霊が彼の内から啓いたのである。それから、イエスは弟子たちやイエスに従うその他の者たちに向かって言った。「ヨハネ、あなたはわたしをだれだと言うのか。」ヨハネは「あなたはモーセです。」と答えた。それから、ルカに向かって「そしてルカ、あなたはわたしをだれだと言うのか。」と聞いた。ルカは「あなたは最も偉大な預言者です。」と答えた。そしてひとりの姉妹に尋ねた。「あなたはわたしをだれだと言うのか。」姉妹は「あなたはとこしえからとこしえに多くの言葉を語る最も偉大な預言者です。誰の預言もあなたほど偉大な預言はなく、誰の知恵もあなたほど深くはありません。あなたは預言者です。」と言った。それからイエスはペテロの向かって「ペテロ、あなたはわたしをだれだと言うのか。」と尋ねた。ペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです。あなたは天から来られ、地のものではありません。あなたは神の創造物と同じではありません。私たちは地上にいて、あなたは私たちとここにいますが、あなたは天のものです。あなたはこの世のものでも、地のものでもありません。」聖霊がペテロを導き示した経験を通して、彼はこの理解を持つことができるようになったのである。これを悟って、ペテロはイエスが行う全てのことを更に褒めたたえ、イエスのことを更に愛すべき者と思うようになり、イエスと離れたくないという思いを常に心に持つようになった。だから、イエスが十字架につけられ、蘇った後にイエスが初めてペテロに現れた時、ペテロはこの上もない幸せに泣いた。「主よ!あなたはよみがえられました!」それから、泣きながら、ペテロは大きな魚を釣り、それを料理し、イエスにふるまった。イエスは微笑んだが、語ることはなかった。ペテロはイエスが復活したことを知っていたけれど、彼はその奥義を理解していなかった。ペテロがイエスに魚を差し出したとき、イエスは拒絶することもなかったが、話すことも座って食べることもしなく、その代わり突然消えてしまった。これはペテロにとってあまりにも衝撃的なことだったが、復活したイエスと以前のイエスとは違うことをその時はじめて理解した。一旦これを理解すると、ペテロは嘆いたが、主が主の働きを完成したことを知って慰めもまた与えられた。ペテロはイエスが働きを完成したこと、イエスが人と共にいられる時が終わったこと、それからは人は自分たちの道を歩んでいかなくてはならないことを知った。イエスはかつてペテロに「あなたもわたしが飲んだ苦い杯(これはイエスが復活の後言ったことである)を飲まなければならない。あなたもわたしが歩いた道を歩み、わたしのために命を捧げなければならない。」と言った。今のように、当時は面と向かって会話はしなかったのだ。恵みの時代では、聖霊の働きは全く隠されており、ペテロは大きな困難で苦しみ、時には次のように叫ぶことさえあっただろう。「神様!私にはこのいのちしかありません。あなたにとってはあまり価値がないでしょうが、私はこのいのちをあなたに捧げたいのです。人間にはあなたを愛する価値はなく、人間の愛も心も価値がありませんが、あなたは人の心のもくろみを見ることができると私は信じています。たとえ人の肉体はあなたに受け入れられなくても、あなたに私の心を受けて欲しいのです。」このような祈りをして、ペテロが「私は神様に私の心を完全に捧げます。たとえ私は神様のために何もできなくても、私は忠実に神様の意を満たし、神様に自分自身を心から捧げます。私は神様が私の心を見てくださるに違いないと信じています。」と祈ったとき、特に励ましを受けた。ペテロは「私は人生に何も求めませんが、神様への私の愛の思いと私の心の願いが受け入れられるよう願っています。私は長い間、主イエスと共にいましたが、イエス様を愛したことはありませんでした。これこそ私の最も大きな負債です。私がたとえイエス様といても、私はイエス様を知りませんでしたし、イエス様の陰で不遜な言葉さえ語っていました。これらの事を考えると、私は主イエスにもっと恩義を感じます。」と言った。ペテロはいつもこのように祈った。彼は「私はちりよりも小さいものです。私は神様にこの忠実なる心を捧げる他には何もできません。」と言った。

   ペテロの体はほとんど完全に破壊されたが、イエスが彼の内に励ましを与えた時がペテロの体験の頂点だった。そして、イエスはペテロに一度姿を見せた。ペテロが非常に大きな苦しみに会い、心が打ち砕かれたとき、イエスはペテロに「あなたは地上でわたしと共にいたが、わたしも地上であなたと共にいた。わたしたちが天国で共に一緒になる前だけれども、それは結局霊の世界のことだ。今、わたしは霊の世界に戻っているが、あなたは地上にいる。というのはわたしは地のものではないので、あなたも地のものではないけれど、あなたは地上での役割を達成しなければならない。あなたはしもべであるので、一生懸命あなたの義務を果たさなければならない。」と指導した。ペテロは神のそばに戻ることができると聞いて、慰められた。ペテロは寝たきりになるほど苦しんでいた時、彼は「私はあまりにも堕落しており、神様に満足していただくことができない。」というほどまでに自責の念にかられていた。イエスは彼に現れ、「ペテロよ。あなたはわたしの前で決心したことを忘れてしまったのか。あなたはわたしが言ったことを本当に全て忘れてしまったのか。あなたがわたしに決意したことを忘れてしまったのか。」と言った。ペテロはその者がイエスであると分かると、床から起き上がった。イエスは彼を慰め、こう言った。「わたしは地のものではない。もうすでにあなたにそう言っておいただろう――あなたはこのことを理解しなければならないが、わたしがあなたに言ったもうひとつのことも忘れてしまったのか。『あなたも地のものではなく、世の者でもない。』ということだ。今、あなたにはしなければならないことがある。あなたはこのように嘆き、このように苦しんでいてはいけない。人間と神は同じ世界に住むことはできないけれど、わたしにはわたしの働きが、あなたにはあなたの働きがあり、いつかあなたの仕事が終わるとき、わたしたちは同じ境地に共にいて、わたしととこしえにいるようあなたを導くだろう。」と言った。ペテロはこの言葉を聞いて慰められ、再び確信を得た。彼はこの苦しみは耐えて体験しなければならないことを知っていた。それからのち霊感が与えられる。イエスはペテロに要所要所で特別に現れ、特別な導きや示し、指導を与え、彼の内に多くのことをした。そしてペテロは何を一番後悔したのだろうか。イエスはペテロに別の質問をした(それはこのようには聖書に記録されていないけれども)。ペテロが「あなたは生ける神の子です。」と言ってから間もないことで、それは「ペテロよ、あなたはかつてわたしを愛したことがあるのか。」という質問だった。ペテロはイエスが言ったことの意味が分かっていた。そして「主よ!私はかつて天の父を愛しましたが、私はあなたを愛したことはなかったことを認めます。」と答えた。するとイエスは、「人が天の父を愛さないなら、地上の子をどうして愛すことができるのだろうか。もし人が神によって遣わされた子を愛さないなら、彼らは天の父をどうして愛すことができるのだろうか。もし人が地上の子を本当に愛するなら、彼らは天の父も本当に愛しているのだ。」と言った。ペテロはこれらの言葉を聞いたとき、自分の欠陥を気づいた。彼はいつも「私はかつて天の父を愛したことはありますが、あなたを愛したことは一度もありませんでした。」と言って涙を流すほど後悔した。イエスが復活し、昇天してから、ペテロはさらにもっと自責の念にかられ、嘆いた。自分の昔の働きや現在の背丈を思い出して、彼は神の願いを満たしていなかったことや、神の基準に達していなかったことなど常に後悔と負債を感じて、しばしば祈りの中でイエスのもとへ行った。これらのことは彼の大きな重荷となった。ペテロは「いつか、私は私が持っているもの全てと私の全てをあなたに捧げます。私はあなたに価値あるものなんでも捧げます。」と言った。ペテロは「神様、私には一つの信仰と一つの愛しかありません。私の命には何の価値もありませんし、私の体にも何の価値もありません。私には一つの信仰と一つの愛しかないのです。私の気持ちの中ではあなたに信仰を持っており、心の中ではあなたに愛を持っています。この2つしかあなたに捧げる物はありません。他に何もありません。」と言った。イエスが十字架につけられる前に、ペテロに「わたしはこの世の者ではない。あなたもこの世のものではない。」と言ったので、ペテロはイエスの言葉で大いに励まされた。後に、ペテロが激しい痛みに見舞われたとき、イエスは「ペテロよ、あなたは忘れてしまったのか。わたしはこの世のものではない。わたしが早く離れたのはわたしの働きのためだけだ。あなたもこの世のものではない。忘れてしまったのか。あなたに2度言ったが、覚えていないのか。」とイエスは彼に思い出させた。ペテロはイエスの言葉を聞いて「私は忘れていません!」と言った。それからイエスは言った「あなたは天で一度わたしと幸せな時を過ごし、わたしのそばでしばらく過ごしていた。あなたはわたしがいなくて寂しく思っているが、わたしもあなたがいなくて寂しく思っている。わたしの目には被造物は述べる価値はないけれども、汚れのない愛おしい者を何故愛さずにはいられようか。あなたはわたしの約束を忘れてしまったのだろうか。あなたは地上でわたしが与えた任務を受け入れなければならない。わたしが託した仕事を果たさなければならない。いつかあなたをわたしのそばに確かに導くであろう。」これを聞いて、ペテロは増々励まされ、さらに大きな激励をもらった。それは彼が十字架につけられたとき、「神様!私はあなたをいくら愛しても十分ではありません。たとえあなたが私に死ねと言われても、やはり私は十分愛したとは言えません。あなたが私の魂をどこに送られても、あなたが約束を果たされても果たされなくても、あなたがその後何をなされても、私はあなたを愛し、信じます。」ということができた。彼がしっかり持っていたのは信仰と真の愛だった。

   ある夜、ペテロを含めて数人の弟子たちは釣り舟に乗っていた。彼らはイエスと一緒で、ペテロはイエスに「主よ!私は長い間お聞きしたいと思っていた質問があります。」と非常にあまい質問をした。イエスは「それなら聞きなさい!」と答えた。ペテロはそれから「律法の時代になされた働きはあなたがなされたことですか。」と尋ねた。イエスはまるで「この子は、なんと未熟なのだろう!」と言っているかのように、微笑んだ。イエスは目的を持って「それはわたしの働きではない。それはヤーウェとモーセがしていることだ。」と続けた。ペテロはこれを聞いて「ええっ!あなたがなさっているのではなかったのですか。」と叫んだ。ペテロはそういうと、イエスはそれ以上何も言わなかった。ペテロは「それをされたのはあなたではなかったのですね。だからあなたは律法を滅ぼしに来られたわけですね。それはあなたがなされたことではなかったのですから。」と独り言を言った。彼の心も「楽に」なった。その後、イエスはペテロはかなり未熟だと認識した。その時はまだ彼には物事を見抜く力がなかったので、イエスは他には何も言わなかったし、直接反論しようともしなかった。かつてイエスは会堂で説教をしていて、イエスの説教を聞こうとペテロも含めて多くの人たちがいた。イエスは「とこしえからとこしえに来る方は人類を罪から贖うために、恵みの時代に贖いの働きをするが、その者は人を罪から離れさせるにあたって、何の規律に縛られることもない。その者は律法から離れて、恵みの時代に入っている。その者は人類全てを贖わっている。律法の時代から恵みの時代に闊歩するが、誰もヤーウェから来たその者を知らない。モーセが行なった働きはヤーウェに贈られた。モーセはヤーウェが行った働きの故に、律法を作ったのだ。」と言った。これを言うと、イエスは「恵みの時代に恵みの時代の戒めを廃止する者たちは、大きな不幸に見舞われるだろう。彼らは神殿に立ち、神の崩壊を受けなければならず、火が彼らの上にふりかかるだろう。」と言った。ペテロはこれを聞き終わると、少し反応した。彼が経験している間、イエスはペテロを養い、支え、腹を割ってペテロと話し、それでぺテロはイエスのことをもう少し良く理解できるようになった。ペテロはその日イエスが説教したことを思い返し、釣り舟に乗っていた時にイエスに質問したこと、イエスの答え、そしてイエスが笑った様子を思い出し、そのときはじめて、ペテロは全てを理解した。その後、聖霊がペテロを啓発し、それによってのみ、ペテロはイエスが生ける神の子であることを理解した。ペテロの理解は聖霊の働きによるものだが、それには過程があった。それは質問したり、イエスが説教するのを聞いたり、イエスとの特別な交流やイエスの特別な養いを受け取るなどして、ペテロはイエスが生ける神の子であることを認識するようになった。それは一夜にして成し遂げられたことではなく、過程であって、これらは彼の後の体験に役立った。イエスは他の人たちには完全になるための働きはしなかったのに、なぜペテロだけに行ったのだろうか。それはペテロしかイエスが生ける神の子であることを知らず、他には誰も知らなかったからである。イエスについて行く間に、多くの弟子たちはたくさんの認識を得たが、彼らの認識はうわべだけのものであった。これこそペテロが完全にされる模範としてイエスに選ばれた理由である。イエスがその時ペテロに言ったことは、今日人々に言っていることで、彼らの知識や霊的成長もペテロのレベルに到達しなければならない。それは神が全ての人を完全にする条件と道に一致している。今日の人たちはなぜ真の信仰とまことの愛を持つことを要求されるのだろうか。ペテロが体験したことはあなたがたも体験しなければならないし、ペテロが自分の体験から得た実はまたあなたがたの中にも顕れなければならない。そして、ペテロがこうむった苦しみはあなたがたも確実に経験しなければならないのである。あなたがたが歩く道はペテロが歩いた同じ道である。あなたがたがこうむる苦しみはペテロがこうむった苦しみである。あなたがたが栄光を受けるとき、またあなたがたが実生活を生きるとき、あなたがたはペテロのイメージを生きているのである。道は同じで、これと一致することで、人は完全にされるのである。しかし、今日の人々の素質はペテロのそれと比較して少々欠けている。というのは時代が変わり、堕落の度合いも変わったからである。そしてまたユダヤは古代文化を伴った積年の王国だった。だから、あなたは自分自身の素質を改善する努力しなければならない。

   ペテロは非常に思慮深く、すること全てに鋭敏で、また非常に正直だった。彼は多くの挫折を体験した。ペテロは14歳で社会に出て、しばしばユダヤ会堂に出席する一方、学校にも行っていた。彼は非常に熱狂的で、いつも会合に喜んで出席した。そのとき、イエスはまだ正式には働きを始めておらず、恵みの時代の始まりに過ぎなかった。ペテロは14歳のとき、宗教関係者と接し始めた。18歳になる頃には、宗教エリートと接するようになるが、その後舞台裏で宗教的無秩序を目撃してから、彼らから離れていった。この人たちがどんなに悪賢くて、狡猾で、争いをもたらしたかを見て、彼は非常にうんざりしたのである(彼が完全にされるために、その時聖霊がこのように働いたのである。聖霊は特にペテロの心を動かし、彼の中で特別な働きをした)。そしてペテロは18歳のとき会堂を退会した。ペテロの両親は彼を迫害し、彼に信じさせなかった(彼らは悪魔に属し、信仰もなかった)。とうとう、ペテロは家を出て、意のままに旅をし、2年間魚を釣ったり、説教をしたりした。その間、かなりの人たちを導いた。今、ペテロがどんな道を歩んだのかあなたは明確に見ることができるはずである。もしこれがはっきり見えたら、今日なされている働きに確信を得ることができ、あなたは不満を言ったり、消極的になったり、何かを待ち焦がれたりすることもないだろう。あなたは当時のペテロの気持ちを経験すべきである。彼は悲しみに打ちひしがれ、もはや未来も祝福も求めることはなかった。彼は利益、幸福、名声、世の富を求めることはせず、最も意義のある人生を生きることだけ求めた。それは神の愛に答え、彼にとって最も貴重なものを神に捧げることであった。そうすることで、彼の心は満たされた。ペテロはしばしば「主イエス・キリスト様、私はかつてあなたを愛していましたが、本当には愛してはいませんでした。私はあなたを信じていると言いましたが、私は決して真の心であなたを愛してはいませんでした。私はあなたを見上げ、敬愛し、お会いしたいと思いましたが、あなたを愛していたのでもなく、心からあなたに信仰を持っていたのでもありませんでした。」とイエスに祈った。彼は常に決意をするために祈り、絶えずイエスの言葉[a]によって励まされ、それらの言葉を動機へと変えたのである。いくつかの事を経験したのち、イエスはペテロがイエスをもっと慕うようにと、あえてペテロを試した。ペテロは「主イエス・キリスト様、私はどんなにかあなたと一緒にいたいと願い、あなたを見上げる時を待ち焦がれていることでしょう。私には余りにたくさん欠けた所があり、あなたの愛に答えるに相応しいものではありません。私を早く取り除いてくれるよう切にお願いします。あなたはいつ私が必要でしょうか。あなたは私をいつ取り除いてくださるのでしょうか。私はいつもう一度あなたの御顔を拝することができるでしょうか。この体でこのまま生き、堕落し続けることを望んではいません。これ以上反抗することも望んではいません。できるだけ早く私が持っている全ての物をあなたに捧げる用意ができていますし、あなたをこれ以上悲しませたくありません。」とペテロは言った。ペテロはこのように祈ったが、その時はイエスが彼の中で何を完全にするのか、まだ分からなかった。彼が試みの中で苦しんでいる間、イエスは彼に再び現れ「ペテロよ、わたしはあなたを完全にしたいと思っている。わたしがあなたを完全なものとし、わたしの働きの結晶として、あなたが一つの実になり、わたしが喜ぶものとなるためである。あなたは本当にわたしの証しとなることができるのか。わたしがあなたに願ったことをあなたはしたのか。わたしが語った言葉をあなたは生きてきたのか。あなたはかつてわたしを愛した。あなたはわたしを愛したけれど、わたしを生き抜いたのか。わたしのために何をしてくれたか。あなたはわたしの愛にふさわしくないと思っているのが、わたしのために何をしてくれたのか。」と言った。ペテロはイエスのために何もしてこなかったことが分かり、神に自身のいのちを捧げるという以前の誓いを思い出した。それから、彼はもはや不平不満を言わず、その後の彼の祈りは更にもっと素晴らしくなった。ペテロは「主イエス・キリスト様、私はかつてあなたから去りましたが、あなたも私から去られました。私たちはともに離れて過ごしたり、いっしょに過ごしたりしてきました。でも、あなたは他の何よりも私を愛してくださいました。私はあなたに何度となく反抗し、あなたを悲しませました。そのようなことをどうして忘れることができましょう。あなたが私の中で行われた働き、私をいつも信じてくださったことなど私はいつも覚えており、決して忘れることはありません。あなたが私にしてくださった働きで持って、私は最善を尽くします。あなたは私ができることを御存知で、私の役目ももっとご存知です。あなたの願いは私の指令で、私はあなたに持っているもの全てを捧げます。私があなたにできることはあなただけが御存知です。サタンは私をずいぶん欺き、私はあなたに反抗したけれども、あなたはこのような罪を犯した私を覚えておられず、それを基準に私を取り扱われないと信じています。あなたに私の全人生を捧げたいです。私は何も求めませんし、他の望みも計画も持っていません。私はただあなたの意図に従って行動し、あなたの御心を行うことを望むだけです。あなたの苦い杯から飲み、私はあなたの意のままです。」

   あなたがたは自分が歩く道について明確でなければならない。あなたがたがこれから歩く道について、神が完全にさせること、あなたが任されたことなどについても明確でなければならない。いつか、おそらくあなたがたが試されるとき、あなたがたがペテロの体験から霊感を得ることができるなら、あなたがたはペテロの道を歩こうとしていることを示している。ペテロは彼の真の信仰、愛、神への忠誠のために、神に褒められた、そしてそれは神が彼を完全にした彼の実直さ、彼の心の神へのあこがれであった。もしあなたが本当にペテロと同じ愛、信仰を持っているなら、イエスは必ずあなたを完全にしてくれるであろう。


祈りの実践について(オーディオブック)

2020-09-12 23:27:59 | デボーション

   あなたがたは日常生活において祈りに心を留めることが全くない。人々はいつも祈りを見過ごしてきた。従来の祈りはいい加減で、人が神の前でひととおりの動作をするだけだった。誰ひとり自分の心を完全に神の前に捧げて真の祈りをする者はなかったのである。人々が神に祈るのは、自分に何かあった時だけである。あなたは、今までに本当の意味で神に祈ったことがあるだろうか。神の前で痛恨の涙を流したことがあるだろうか。神の前で自分自身を知ったことがあるだろうか。神と心を通わせて祈ったことがあるだろうか。祈りは訓練を通じて生じる。あなたが普段自宅で祈らないのであれば、教会で祈ることは全くないであろう。また普段小規模な集会で祈らないのであれば、大規模な集会で祈ることは不可能であろう。あなたが普段から神に近付き、神の言葉を熟考しないのであれば、祈る時になって、あなたには言うことが何もないであろう。そして、あなたがたとえ祈ったとしても、それは口先だけで、本当の祈りにはなっていないだろう。

   真に祈るとは何を意味するであろうか。それはあなたの心の中にある言葉を神に話すことであり、神の意志を把握し、神の言葉に基づいて神と交わることを意味する。またそれは殊更に神を身近に感じ、神が自分の目の前にいて、あなたには何か神に言いたいことがあると感じることである。またそれは、自分の心の中に光が射すのを著しく感じ、神が殊更に愛しいと感じることである。あなたは著しく霊の動きを感じるだろう。するとあなたの兄弟姉妹は、あなたの話を聞いて喜びに満たされるだろう。彼らは、あなたが話す言葉が、彼らの心の内の言葉であり、彼らが言いたいと願っていた言葉だと感じるだろう。あなたが言うことが、彼らが言いたいことを代表していると感じるだろう。真に祈るとは、このことを意味する。真に祈った後、あなたは心の中に安らぎを感じ、喜びに満たされるであろう。神を愛する強さが向上し、あなたは全生涯で、神を愛する事以上に価値があり大切なことは無いと感じるであろう。そして、これら全ては、あなたの祈りが効果的であったことを証明するであろう。あなたは、このように祈ったことがあるだろうか。

 


   また、祈りの内容についてはどうであろうか。あなたは、自分の実際の状態と聖霊によって為されるべき働きに従って段階的に祈る必要があり、また神の意志と人間に対する要求に則して神と交わるべきである。あなたが祈りの実践を開始する時は、まず最初に自分の心を神に捧げなさい。神の意志を把握しようとしてはならない。ただあなたの心の内にある言葉を神に話そうとしなさい。神の前に来て、こう言いなさい。「おお神よ、私は今日になって初めて、あなたに服従していなかったことを知りました。私は本当に堕落した、忌み嫌われるべき存在です。以前、私は時間を無駄にしていました。私は今日からあなたのために生き、意義のある人生を行動で示し、あなたの意志を満足させます。私があなたの前で響きわたるような力強い証をし、あなたの栄光とあなたの証しと、私たちの内にあるあなたの勝利の証拠をサタンに示すことが出来るよう、私は、あなたの霊がいつも私の内で働き、常に私に光と悟りを与えることを望みます。」あなたがこのように祈る時、あなたの心は完全に解放されるであろう。このように祈ったことで、あなたの心は神にいっそう近付くであろう。そして頻繁にこのように祈ることで、聖霊は必然的にあなたの中で働くであろう。あなたが常にこうして神を呼び求め、神の前で決意を固めるならば、あなたの決意が神の前で受け容れられ、あなたの心と存在全てが神のものとされる日がやがて来るだろう。そして、最終的にあなたは神によって完全にされるであろう。祈りとは、あなたがたにとって極めて重要なものである。あなたが祈る時、あなたは聖霊の働きを受け、あなたの心は、それを通して神に触れられるのだ。そして、神を愛するための力があなたの内に溢れてくるのだ。あなたが自分の心で祈らず、自分の心を開いて神と交わらないならば、神はあなたの中で全く働きようが無いであろう。もし、すでに祈り、自分の胸中の言葉を全部話してしまっても、神の霊が働かず、自分の中で心が動かされたと感じ無いのであれば、それはあなたの心が真剣でなく、あなたの言葉が真実でなく、不純であることを示している。もし祈ってから心が喜びで満たされたならば、それは、あなたの祈りが神に受け容れられ、神の霊があなたの中で働いたのである。あなたは、神の前に仕える者として、祈らずにいてはならない。あなたが神との交わりを有意義で、貴いものであると本当に思うのなら、祈りを止めたりなど出来るだろうか。神と交わらずにいることが出来る者など一人もいない。祈りが無ければ、あなたは肉の中で生き、サタンの呪縛の中で生きる。真の祈りが無ければ、あなたは闇の影響の下で生きる。わたしは、兄弟姉妹が日々真に祈ることが出来ることを願っている。これは教理に固執することではなく、ひとつの達成すべき効果である。夜明けに朝の祈りを捧げ神の言葉を楽しむために、少しばかりの睡眠と快楽を犠牲にする意欲があなたにはあるか。あなたがこのように純粋な心で祈り、神の言葉を飲み食いするならば、その時あなたは神に一層受け容れられるであろう。毎朝そのようにし、自らの心を神に捧げて神と語らい交わることを毎日実践するならば、神に関するあなたの認識は必ず増し加わり、神の意志をもっとよく把握出来るようになるであろう。あなたは、次のように言うべきである。「神よ、私は自分の本分を尽くすことを望みます。私達の中であなたが栄光を受け、私達という人間の集団の中の証しを得ることが出来るようにするために私ができることは、私の全存在をあなたに奉げ尽くすことだけです。願わくは、私があなたを真に愛し、満足させ、あなたを私が追求する目的とすることが出来るよう、私達の中で御業を行ってください。」あなたがこの重荷を負う時、神は必ずあなたを完全にするであろう。あなたは、自分のためだけでなく、神の意志を行ない、神を愛するために祈るべきである。これが最も真なる祈りである。あなたは神の意志を行なうために祈るであろうか。

   以前あなたがたはどのように祈れば良いか分からず、祈りを軽視していた。今日、あなたがたは祈るために自分を訓練するよう最善を尽くす必要がある。あなたが自分の内にある力を振り絞って神を愛することが出来なければ、どうしてあなたは祈ることが出来ようか。あなたはこう言うべきである。「神よ、私の心はあなたを真に愛することが出来ません。私はあなたを愛することを望んでいますが、私にはその力がありません。私はどうすれば良いでしょうか。私があなたの前に一切の消極的な態度を捨て去り、いかなる人や物事にも拘束されることがないように、あなたが私の霊の眼を開き、あなたの霊が私の心に触れますように。私は自分の心の全てをあなたの前に曝け出します。そうして私の全存在があなたの前に捧げられますように。また、あなたが私を思いのままに試すことができますように。今私は自分の将来性を考えることも、死に縛られることもありません。私は、あなたを愛する心で、いのちの道を求めることを望みます。あらゆる物事があなたの掌中にあり、また私の運命もあなたの手の中にあります。それどころか、私の一生はあなたの御手によって支配されています。今、私はあなたを愛することを追い求め、私があなたを愛することを、あなたがお許しになるかどうかを問わず、また、サタンがいかにして邪魔しようと、私は意を決してあなたを愛します。」あなたがそのようなことにぶつかった時は、このように祈るべきである。あなたが毎日そのようにして祈るならば、神を愛する強さは次第に向上するであろう。

   人間は、どのようにして真の祈りの境地に入ることができるだろうか。

   祈る時、あなたの心は神の前に静まっていなければならず、また真摯でなければならない。あなたは真に神と交わり、神に対して祈りを捧げなければならない。また、美辞麗句で神を欺こうとしてはならない。祈りは、神が今日完成することを望んでいる物事を中心としなければならない。自分に一層の啓き照らしを与えるよう神に願い、自分の実状や問題を神の前にさし出して祈りなさい。そして神の前で決意を固めなさい。祈りは手順に従うことではなく、真の心で神を求めることである。神があなたの心を守ってくれるように求めなさい。そうして、自分の心をいつも神の前で静めることができるように。また、神があなたのために準備した環境において、自分を知り、忌み嫌い、自分を捨て去ることができるように。よってあなたが神との正常な関係を持つことが出来るようになり、あなたが真に神を愛する者とされるように。

   祈りの重要性とは何であろうか。

   祈りは人間が神と協力する方法のひとつであり、人間が神を呼び求める手段であり、人間が神の霊に動かされる過程である。祈りのない者は霊の無い死んだ者であると言える。それは、彼らには神によって心を動かされる能力が欠けている証拠である。祈りが無ければ、人は正常な霊的生活を実現できず、まして、聖霊の働きに従うことなどできない。祈りが無ければ、彼らは神との関係を絶ち切り、神の承認を得ることが出来ない。神を信じる者として、あなたが祈れば祈るほど、神によって触れられることも多くなる。このような人々にはより強い決意があり、神から最新の啓きをもっと受けることができる。その結果このような人々だけが、最も早く聖霊によって完全にされ得るのだ。

   祈りにより達成されるべき効果とは、何であろうか。

   人々は祈りを実践し、祈りの重要性を理解することが出来るが、祈りにより達成されるべき効果とは、単純なことではない。祈りとはひととおりの儀礼を行うことでも、手順に従うことでも、神の言葉を暗唱することでもない。すなわち祈りとは言葉を模倣し、他人を真似ることではない。祈りにおいて、あなたは心を神に捧げなければならない。そして、神に心を触れられるよう、自分の胸中の言葉を神と分かち合わなければならない。あなたの祈りが効果的であるためには、その祈りはあなたが神の言葉を読むことに基づいていなければならない。神の言葉の中で祈ることによってのみ、あなたはもっと多くの啓き照らしを得ることが可能となる。真の祈りは、神による要求を待ち焦がれる心を持ち、それらの要求を自ら進んで果たすことにより示される。あなたは神が憎む物事全てを憎み、それを基礎として、神が説明する真理について知り、明瞭に理解するようになるであろう。決意と信仰、認識、また、祈った後に実践するための道を持つこと。それのみが真の祈りであり、このような祈りだけが効果的であり得るのである。しかし、あなたが神の言葉を享受すること、神の言葉の中で神と交わること。また、あなたの心が神を求めることができ、神の前で静まっていること。それらのことの基盤の上に、祈りは建て上げられねばならない。このような祈りは、既に神との真の交わりを持つ境地に達しているのである。

   祈りの基礎知識

   1.何でも思いついた言葉をやみくもに述べてはならない。あなたは心の内に重荷を持たなければならない。つまり、あなたは、祈る時目標を持たなければならない。

   2.あなたの祈りには、神の言葉が含まれていなければならない。すなわち、あなたの祈りは神の言葉に基づいていなければならない。

   3.祈る時は、昔のことを蒸し返してはならない。過ぎ去った事柄を挙げてはならない。あなたは聖霊の現在の言葉を話すよう、自分を特に訓練すべきである。そうすることで初めて、神との繋がりを持つことが出来るようになる。

   4.集会での祈りでは、今日の聖霊の働きを中心に据えなければならない。

   5.全ての者が他人のために祈る方法を習得しなければならない。神の言葉の中に、祈り捧げたい言葉を見出し、それを基礎として重荷を負い、頻繁に祈る必要がある。それは、神の意志に対する配慮の現れのひとつである。

   クリスチャン,祈り,信仰心個人の祈りの生活は、祈りの重要性と基礎知識を理解することを基盤としている。人間は、日常生活の中で、自分の欠点のために頻繁に祈る必要があり、また自分のいのちの性質の変化を遂げるために、神の言葉に関する認識を基礎として祈らなければならない。人間はそれぞれ独自の祈りの生活を確立すべきであり、神の言葉に基づいた認識を得るために祈り、神の業に関する認識を求めるために祈るべきである。自分の現況を神の前にさし出し、実際的になる必要があり、方法に気を取られてはならない。要は、真の認識を得ることと、神の言葉を実際に体験することである。霊的生活に入ることを追求する者は誰でも、様々な方法で祈ることが出来なければならない。それは、沈黙して祈ること、神の言葉の考察、神の業を知ることなどである。この的を絞った交わりの業は、正常な霊的生活に入ることを達成し、神の前における自分の状況をより良いものにし、自分のいのちにおいて更に大きな発展を遂げるためのものである。要するに、あなたが為すことは、それが神の言葉の食べ飲みであれ、黙って祈ることであれ、大声で宣言する時であれ、すべて神の言葉と業、そして、神があなたの中で獲得しようと願っていることを明瞭に理解するためのものである。さらに重要な事として、それは神が要求する基準に到達し、あなたのいのちを次の段階へと進めるためのものである。神が人々に要求する最低基準は、自分の心を神に開くことができることである。人が神に対して真心を捧げ、心の中にある本音を告げるならば、神はその人の内に働くことをよしとする。神は人の曲がった心ではなく、純粋で正直な心を求めている。人が神に自分の心の真実を話さないならば、神はその人の心を動かすことも、その人の中で働くことも無いであろう。したがって、祈りにおいて極めて重要なことは、自分の本心から来る言葉を話し、自分の欠点や反抗的な性質を神に告げ、ありのままの自分を神に曝け出すことである。そうして初めて、神はあなたの祈りに関心を抱くであろう。そうでなければ、神はあなたから顔を隠すであろう。祈りの最低基準として、あなたは自分の心を神の前で平静に保つことが出来なければならない。また心が神から離れてはならない。おそらくこの期間、あなたは新しい、もしくはより高い観点を得ていないかも知れないが、あなたは祈りを用いて現状を維持しなければならない。後戻りすることは許されない。これこそがあなたが果たさなければならない最小限である。それすら実現出来ないならば、それはあなたの霊的生活が正しい道に入っていない証拠である。その結果、あなたは元来のビジョンを持ち続けることが出来ず、神への信仰を失い、それに次いであなたの決意は消失するであろう。あなたが霊的生活に入ることは、あなたの祈りが正しい道に入ったかどうかにより特徴付けられる。全ての人がこの現実に対して真摯に取り組み、祈りにおいて自らを意識的に訓練しなければならない。消極的に待っているのではなく、意識的に聖霊に触れられることを求めなければならない。そうして初めて、彼らは真に神を求める人となるであろう。

   あなたが祈りを始める時は、現実的でなければならない。無理をし過ぎてはならない。口を開けばすぐに聖霊により触れられ、啓き照らされ、大きな恵みを授かることを願うような大それた要求をしてはならない。それは不可能なことである。神は超自然的なことは行わない。神は、自分の時に応じて人の祈りを成就する。また、時にはあなたが神の前に忠実であるか否かを見るために、あなたの信仰を試すこともある。あなたが祈る時には、信仰、根気、決意を備えている必要がある。ほとんどの人が自分で祈りの訓練を始める時、聖霊に触れられたと感じず、失望してしまう。それではいけない。あなたは粘り強さを持たなければならない。聖霊に触れられるのを感じること、また追い求め探究することに集中しなさい。時にはあなたの行動する道が間違っていたり、あなたの動機と観念が神の前で揺るぎなく立脚できないこともある。そのために神の霊があなたを動かさない場合もある。また、神はあなたが忠実であるか否かを確かめることもある。要するに、あなたは自己訓練に一層努める必要がある。あなたが行動すべき道から逸脱していることが分かった場合は、祈り方を変えればよい。あなたが真に求め、切実に望んでいるかぎり、聖霊はあなたを必ずその現実の中へと導くだろう。時に真の心で祈るが、特に心が触れられたと感じないこともある。そうした場合、あなたは自分の信仰に依り頼み、神は、あなたが祈るのを見ていることを信頼しなければならない。あなたは、祈ることにおいて不屈の忍耐を持たねばならぬ。

   あなたは正直でなければならない。また、自分の心の中の狡賢さを取り除くために祈らなければならない。あなたが必要な時にはいつでも自分を清め、神の霊に触れられるために祈りを用いるにつれて、あなたの性質は次第に変化するであろう。真の霊的生活とは祈りの生活であり、それは聖霊に触れられる生活である。聖霊に触れられる過程は、人間の性質を変える過程である。聖霊に触れられることのない生活は霊的生活ではなく、依然として宗教儀式である。聖霊により頻繁に触れられ、啓き照らされる者だけが、霊的生活に入った人々である。人の性質は、その人が祈るにつれて継続して変化し、聖霊に触れられれば触れられるほど、その人は一層積極的かつ従順になる。また、その人の心も次第に清められ、その後その人の性質は次第に変化するであろう。これこそが真の祈りの効果である。


聖書の中の終末の災害の預言は既に実現された「ノアの日々が来た」

2020-09-11 21:35:39 | 勝利者の証し

 

あらすじ
ノアの時代の人類を振り返りましょう。悔い改めることを考えずに、人はあらゆる種類の邪悪な活動を行いました。誰も神の言葉を聞きませんでした。人々の頑固さと悪は神の怒りを呼び起こし、ついに大洪水の災いに人々は飲み込まれました。ノアの家族八人 だけが神の言葉に耳を傾け、生き延びられました。今日、世の終わりはすでに到来しました。人類の堕落はさらに深刻になってきています。誰もが悪をあがめます。宗教界全体は世界の潮流に従います。人々は真理を少しも愛しません。ノアの時代はすでに到来しました。人類を救うために、人類の中で世の終わりの裁きの働きを行おうと、神はもう一度再来しました。これは神が人を救う最後の時です。人類は何を選べばよいのでしょうか。

これは実話です。四川省の清平镇の住民たちは全能神の国の福音を受け入れることを繰り返し拒否したため、二度の災いを経験しました。汶川大地震の間、全能神を信じる多くの兄弟姉妹たちは神によって奇跡的に保護され、生き残りました。これらの事実は証しを立てられました。神を受け入れ従う人々と神を否定し抵抗する人々です。これらの二種類の人々には、ふたつの非常に異なる結末があります。


神について何を理解しているのか

2020-09-10 21:57:42 | デボーション

   人々は長いこと神の存在を信じてきたが、ほとんどの人は「神」という言葉を理解していない。単にぼんやりと後について行くだけである。彼らは一体なぜ神を信じるべきなのか、あるいは一体神とは何かについてまったくわかっていない。人々が神を信じ、従うことだけは知っていても、神が何かを知らなければ、そしてまた神を理解していなければ、これは世界最大の笑い話ではないだろうか。たとえ人々が今までに多くの天の奥義を目撃しており、これまで決して把握していなかったたくさんの深遠な知識について聞いていたとしても、最も初歩的だが、いまだ熟慮されていない多くの真理に関しては何も知らない。「私たちは何年にもわたり神を信じてきた。神が何かわからないわけがない。私たちを見くびっているのではないか」と一部の人は言うだろう。しかし実際には、今日誰もがわたしに従っているものの、誰もこの現在の働きを何も理解していない。もっとも明白で簡単な問題ですら理解できず、まして神に関する問題のような極めて複雑な問題は言うまでもない。自分が払いのけて、見つけだすことのできないこれらの問題こそが、もっとも理解すべき問題であることを知るべきである。なぜならあなたは群衆に従うことしか知らず、自分が身に着けておくべきものに注意を払わず、配慮しないからである。なぜ神を信仰するべきか、本当にわかっているのか。神が何であるか、本当にわかっているのか。人が何であるか、本当にわかっているのか。神を信仰している人としてこれらのことを理解できなければ、神の信者としての尊厳を失わないだろうか。今日のわたしの働きは以下の通りである。人々に自分自身の本質を理解させること、わたしの行うすべてを理解させること、および神の本当の顔を知らせること。これはわたしの経営(救いの)計画の最終行動、わたしの働きの最後の段階である。だからわたしは前もって人生の奥義のすべてをあなたたちに語り、あなたたちのすべてがそれらをわたしから受け入れることができるようにしているのである。これは最後の時代の働きなので、わたしはあなたたちがこれまで決して会得することのなかったいのちの真理のすべてを語らなければならない。あなたたちはあまりにも不完全で、あまりにも準備不足なので、それらを吸収することやそれらに耐えることができなくても、わたしは語らなければならない。わたしはわたしの働きを完了し、わたしのすべての必要な働きを終わらせ、わたしがあなたたちに行うよう任せていることを十分に知らせて、暗闇が降りてきたとき、あなたたちがふたたび迷って、邪悪な者の策略にだまされないようにしたい。あなたたちの理解力の及ばない道、あなたたちが理解しない事柄がたくさんある。あなたたちはそれほど無知なのだ。わたしはあなたたちの霊的背丈と欠点をよく知っている。従って、たとえあなたたちが吸収できないであろう言葉がたくさんあっても、わたしはあなたたちがこれまで決して会得しなかったこれらの真理のすべてをあなたたちに話したい。あなたたちの現在の背丈では、わたしの証人になれるかどうか心配し続けているからである。あなたたちをみくびっているわけではない。あなたたちは皆、わたしの正式な訓練を受けていない獣であり、あなたたちの中にどのくらい栄光があるかは実に疑わしい。あなたたちに取り組むためにわたしは膨大なエネルギーを費やしてきたが、あなたたちには積極的な要素はほとんど存在しないようである。一方、消極的な要素は指折り数えることができ、それらはサタンを恥じ入らせる証しに向けられるだけである。それ以外にあなたたちのなかにあるもののほとんどすべてはサタンの毒である。わたしにはあなたたちが救いようもないように見える。目下のところ、わたしはあなたたちのさまざまな表現や態度を見て、ようやくあなたたちの本当の背丈を知った。だからわたしはあなたたちのことを心配し続けている。思うままに暮らすよう放置されたら、人は本当に最終的には今日よりも良い、あるいは今日と同じくらいの状態でいられるだろうか。あなたたちは自分の子供じみた背丈が心配ではないのか。あなたたちは本当にイスラエルの選民のようになり、どのようなときでもわたしに、わたしだけに忠実になることができるのか。あなたたちが今見せているのは、親の目の届かないところにいる子供のいたずら好きな特質ではなく、主人のむちの届かないところで動物に沸き起こる獣性である。あなたたちは自分の本質を知るべきで、それはあなたたちすべてが共有している弱点、共通の病気でもある。したがって、今日わたしからあなたたちへの唯一の忠告は、わたしの証人になることである。いかなる事情があろうとも、古い病気を再発させてはいけない。もっとも重要なのは、証しをすることである。それがわたしの働きの核心である。あなたたちは、マリアが夢に現れたヤーウェの告知を受入れ、信じて、従ったように、わたしの言葉を受け入れるべきである。これだけが精神的に純潔であるとみなされる。なぜならあなたたちはわたしの言葉を一番多く聞く人々であり、わたしによってもっとも祝福される人々だからである。わたしはあなたたちにわたしの貴重な所有物すべてを与え、すっかり何もかもあなたたちに授けよう。しかしながら、あなたたちの地位とイスラエルの人々の地位は非常に異なり、完全に天と地ほどもかけ離れている。それにもかかわらず、彼らに比べると、あなたたちはずっと多くのものを受け取っている。彼らが必死にわたしの出現を待っている一方、あなたたちはわたしと共に愉快な日々を過ごし、わたしの富を共有している。比較すると、何があなたたちに、不平を言い、わたしと口喧嘩し、わたしの所有物の分け前を要求する権利を与えているのか。あなたたちは十分受け取っていないのか。わたしは多くを与えているが、あなたたちがお返しにわたしにくれるものは悲痛な悲しみと不安、それに手に負えない恨みと不満である。あなたたちはあまりにも不快だが、同時に哀れでもある。よってわたしは憤りをすっかり吞み込んで、あなたたちに繰り返し反対の声を上げるしかない。この数千年にわたる働きにおいて、これまでわたしが人類にまったく異論を唱えなかったのは、人類の発展の歴史上で、あなたたちの間の偽りだけがもっとも有名であることに気づいたからである。偽りは、古代の有名な先祖によってあなたたちに残された貴重な継承物のようなものである。わたしはそれらの人間以下の豚と犬をどれだけ憎むことか。あなたたちはあまりにも良心に欠けている。あなたたちの性格はあまりにも卑劣である。あなたたちの心はあまりにも無情である。もしわたしがこれらのわたしの言葉、わたしのこの働きをイスラエル人にもたらしたら、わたしはずっと以前に栄光を獲得していただろう。しかし、あなたたちの間ではそうはいかない。あなたたちの間には、残酷な無視、あなたたちの冷たい態度、あなたたちの言い訳しかない。あなたたちはあまりにも感情がなく、あまりにも価値がない。

 


   あなたたちはわたしの働きに対してあなたたちのすべてを提供するべきである。あなたたちはわたしのためになる働きをするべきである。わたしはあなたたちにとってあいまいなことすべてについてあなたたちに話し、あなたたちに欠けているすべてをわたしから獲得できるようにしたい。たとえあなたたちの欠点が数えきれないほど多いとしても、わたしはあなたたちに対してするべき働きを行い続けることをいとわず、あなたたちにわたしの最後の慈悲を与え、あなたたちがわたしから利益を得て、あなたたちには欠けていて、世界がこれまでに見たことのない栄光を獲得できるようにしたい。わたしは長年にわたり働いてきたが、人々のうちでわたしを知るにいたったものは誰もいない。わたしはほかの誰にも話したことのない秘密をあなたたちに話したい。

   人々の間で、わたしは見ることのできない霊、決して接触することのできない霊であった。地上におけるわたしの三段階の働き(天地創造、贖い、破壊)のために、わたしは異なる時代に人々の真っただ中に現れ(決して公然とではない)、彼らの間でわたしの働きを行う。わたしが最初に彼らの中に出現したのは贖いの時代であった。もちろんわたしはユダヤ民族の中に出現した。従って神が地上に来るのを初めて見たのはユダヤ人であった。わたしがこの働きを直接行った理由は、わたしの贖いの働きの中で罪の捧げものとして、人となったわたしの肉体を使いたかったからである。そこでわたしを最初に見たのは恵みの時代のユダヤ人たちであった。わたしが肉体で働きを行ったのはそれが初めてであった。神の国の時代では、わたしの働きは征服し、完全なものにすることであるので、わたしはふたたび肉体の形で羊飼いとしての働きを行う。これはわたしが肉体の形で行う二回目の働きである。働きの最後の二段階では、人々が接触するものは、もはや目に見えない、触れることのできない霊ではなく、霊が肉体として実現化された人である。従って、人の目には、わたしはふたたび人になり、神の容貌も雰囲気も持たない。そのうえ、人々が見る神は男性だけでなく女性でもあるので、彼らには非常に驚異的で不可解である。再三再四、わたしの途方もない働きは、長年にわたり抱かれていた古い信念を粉砕し、人々は動転している。神は、聖霊、霊、7倍に強化された霊、すべてを包み込む霊であるだけでなく、人、普通の人、ことのほか平凡な人でもある。神は男性だけでなく、女性でもある。彼らはどちらも人間に生まれたという点で同じであるが、一人は聖霊によって受胎され、もう一人は生まれながらに人間であるが、霊から直接生じているという点で異なっている。彼らはどちらも神の肉体化した形で、父なる神の働きを実行するという点で同じであるが、一人は贖いの働きを行い、もう一人は征服の働きを行うという点で異なっている。どちらも父なる神を表すが、一人は親愛の情と慈悲に満たされた贖い主であり、もう一人は怒りと裁きに満たされた義の神である。一人は贖いの働きを開始するための最高司令官であり、もう一人は征服の働きを完了させる義の神である。一人は始まりであり、もう一人は終りである。一人は罪のない肉体であり、もう一人は贖いを完成させ、働きを続行し、罪によらない肉体である。彼らはどちらも同じ霊であるが、異なる肉体に宿り、異なる場所で誕生する。また、彼らは数千年も隔てられている。しかし、彼らの働きはすべて相互に補完し合っており、決して対立せず、同じ次元で語られる。どちらも人であるが、一人は男の赤子であり、もう一人は女の幼児である。長い年月のあいだ、人々が見てきたものは霊だけでなく、また人間、男性だけでなく、人間の観念と合致しない多くのことでもあり、従って、人々は決して十分にわたしを理解することはできない。彼らは、あたかもわたしは確かに存在するが、幻想的夢でもあるかのように、半ば信じ、半ば疑い続ける。そういうわけで今日まで、人々は神が何であるかをまだ知らない。あなたは単純な一文でわたしを要約することが本当にできるのか。本当に「イエスは他ならぬ神であり、神は他ならぬイエスである」とあえて言うのか。本当に大胆にも「神は他ならぬ霊であり、霊は他ならぬ神である」と言うのか。「神は肉を着ている人にすぎない」と抵抗なく言えるのか。「イエスの姿はまさに神の偉大な姿である」と断言する勇気が本当にあるのか。あなたの言葉の能力を頼りにして神の性質と姿を完全に説明することができるのか。本当に「神は自分の姿に合わせて男性だけを造り、女性は造らなかった」とあえて言うのか。もしそう言うなら、女性は誰もわたしが選んだ者の中に入らず、いわんや女性は人類の一種ではなくなるであろう。さて、あなたは本当に神が何であるか知っているのか。神は人間だろうか。神は霊だろうか。神は本当に男性だろうか。イエスだけがわたしのしたい働きを完成させることができるのか。わたしの本質を要約するために上記のうちひとつしか選ばないとしたら、あなたは非常に無知で忠実な信者であろう。わたしが一度、しかもたった一度だけしか受肉して働かないなら、あなたたちはわたしの境界を定められるだろうか。あなたは本当に一目見て、わたしを完全に理解することができるのか。生きている間に経験したものだけに基づいてわたしを本当に完全に要約できるのか。そして二回の受肉でわたしが同じ働きをすれば、あなたはわたしをどのように認識するのだろうか。永久にわたしを十字架に釘で打ち付けたままにしておくのだろうか。神はあなたが言うほど単純なものなのだろうか。

   あなたたちの信仰はとても誠実だが、あなたたちの中のだれもわたしを完全に説明することはできないし、あなたたちの中のだれもあなたたちが見る現実のすべてを十分に立証することはできない。考えてもみなさい。現時点ではあなたたちのほとんどは自分の義務を怠っており、その代わりに肉のことを追い求め、肉を満足させ、貪欲に肉を楽しんでいる。あなたたちは真理をほとんど所有していない。ではどうやってあなたたちはこれまで見てきたものすべてを証言することができるのか。あなたたちは本当にわたしの証人になれる自信があるのか。今日見てきたすべてのことをいつの日か証言できないならば、そのときまでには創造された人間として機能を失っているだろう。あなたの存在には何の意味もなくなってしまうだろう。人間である価値がなくなる。人間ではないとさえ言うことができる。わたしはあなたたちに膨大な量の働きを行ってきた。しかし、現在あなたは何も学んでおらず、何も知らず、無駄に働いているので、わたしが働きを拡大する必要があるとき、あなたはぽかんと見つめているだけで、口もきけず、まったく役に立たないだろう。それではあなたは稀代の罪人になってしまわないだろうか。その時が来たら、あなたはとてつもなく深い後悔を感じないだろうか。意気消沈してしまわないだろうか。わたしがこの働きのすべてを行っているのは暇つぶしや退屈しのぎからではなく、わたしの将来の働きの基礎を築くためである。わたしは行き詰っていないし、何か新しいことを考え出さなければならないわけでもない。わたしが行う働きを、あなたは理解するべきである。それは路上で遊ぶ子供が行うものではなく、わたしの父の表象が行う働きであることを理解するべきである。あなたたちはこのすべてを行っているのはただわたしではないことを知るべきである。それどころかわたしは父の代理を務めているのである。その一方で、あなたたちの役割はひたすら後に続き、服従し、変化を遂げ、証しをすることである。あなたたちが理解するべきことは、なぜわたしを信じなければならないかである。これはあなたたち一人ひとりが理解するべきもっとも重要な問題である。わたしの父は、その栄光のために、世界を創造した瞬間からわたしのためにあなたたちすべてを運命づけた。わたしの父があなたたちに運命づけたのは、他ならぬわたしの働きのためとわたしの父の栄光のためであった。あなたたちがわたしを信じるのはわたしの父によるのである。あなたたちがわたしに従うのはわたしの父が運命づけたことによる。このどれもあなたたちが自分で選んだものではない。さらに重要なことに、あなたたちはわたしの証しをするためにわたしの父がわたしに授けた者たちであることを理解しなければならない。わたしの父があなたたちをわたしに授けたので、あなたたちはわたしがあなたたちに授ける道、わたしがあなたたちに教える道や言葉に従うべきである。わたしの道に従うことがあなたたちの本分だからである。これが、あなたたちがわたしを信じる最初の目的である。そこで、わたしはあなたたちに言う、あなたたちはわたしの道に従うためにわたしの父がわたしに授けた人々にすぎない。しかし、あなたたちはわたしを信じるだけである。あなたたちはわたしに属していない。あなたたちはイスラエルの一族に属しておらず、その代わりに古代の蛇の種族に属しているからである。わたしがあなたたちにするよう要求することは、わたしの証人になることだけであるが、今日あなたたちはわたしの道を歩かなければならない。このすべては将来の証しのためである。あなたたちがわたしの道に耳を傾ける人々としてのみ機能するならば、あなたたちには何の価値もなく、わたしの父がわたしにあなたたちを授けたことの意義は失われるだろう。わたしがあなたたちに強く言いたいのは次のことである。「あなたたちはわたしの道を歩かなければならない。」


あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である

2020-09-09 23:05:38 | デボーション

   あなたはイエスに会いたいと思うか。イエスと共に生きたいと思うか。イエスの語る言葉を聞きたいか。もしそうであれば、イエスの再臨をどのように歓迎するのか。あなたは完全に備えができているか。どのようにしてイエスの再臨を歓迎するのか。イエスに付き従う兄弟姉妹は皆イエスをよく歓迎したいだろう。しかしあなたは考えてみたことがあるだろうか――イエスが再び来る時、あなたにイエスが本当に分かるのか。あなたがたはイエスの語る全てを本当に理解するだろうか。イエスの働きの全てを本当に、無条件に受け入れるだろうか。聖書を読んだことのある者は皆、イエスの再臨について知っており、聖書を読んだことのある者は皆、一心にイエスの再臨を待ち望む。あなたがたは皆、その瞬間の訪れにひたすら執着しており、その誠意は賞賛すべきものであり、あなたがたの信仰は本当に羨望に値する。しかし、あなたがたは自分が重大な間違いを起こしていることに気づいているか。イエスはどのように戻って来るのか。あなたがたはイエスが白い雲に乗って再臨すると信じているが、わたしはあなたがたに問う。この白い雲とは何を意味しているのか。イエスの再臨を待つ多くの信者がいる中、どの人々のところにイエスは降臨するのか。もしイエスが最初にあなたがたのところへ再臨するとしたら、他の人々はこのことをあまりに不公平だと考えないだろうか。わたしは、あなたがたが非常に誠意のある、イエスに忠実な人であることを知っているが、あなたがたはイエスに会ったことがあるのか。あなたがたはイエスの性質を知っているのか。あなたがたはイエスと共に生活したことがあるのか。あなたがたはどれだけ本当にイエスのことを理解しているのか。このような言葉のせいで気まずい状態になると言う人もあるだろう。彼らはこう言う。「私は聖書を隅から隅まで何回も読んだ。イエスを理解できないことなどあるだろうか。イエスの性質は言うまでもなく、わたしはイエスが何色の服を好むかさえ知っている。あなたは私がイエスを理解しないと言うが、私を見くびっているのではないか」。このような問題については、争わないようあなたに提案する。落ち着いて、次のような問題について話し合う方が良い。一つ目は、何が実際で何が理論かを、あなたは知っているのか、ということ。二つ目は、何が観念で何が真理かを知っているのか、ということ。そして三つ目は、何が想像で、何が現実かを知っているか、ということである。

 


   自分がイエスを理解していないという事実を認めない人たちもいる。それでも尚わたしは、あなたがたがイエスを少しも理解しておらず、イエスの言葉をひとつも理解していないと言う。それは、あなたがたはそれぞれ聖書に書いてあることのために、他の誰かが言ったことのためにイエスに付き従っているからである。あなたがたはイエスに会ったことがないし、ましてや一緒に住んだこともなければ、わずかな時間を共に過ごしたことさえない。そうであれば、イエスに関するあなたの理解は理論だけではないか。現実性が欠けているのではないか。イエスの肖像画を見たことのある人もいるだろうし、イエスが住まった家を訪れたことのある人もいるだろう。イエスの着た服を触ったことがある人もいるかもしれない。たとえあなたがイエスの食したものと同じものを食べたとしても、あなたのイエスに対する理解は実際的なものではなく理論上のものでしかない。いずれにせよ、あなたはイエスに会ったこともなく、肉となったイエスとともに過ごしたことは一度もないのだから、あなたのイエスに関する理解はどこまでも現実味の欠けた空論でしかない。おそらくわたしの言葉はあなたにとってほとんど興味のないものだろう。だがあなたに聞く。例えば、あなたが自分の大好きな作家の作品を何冊も読んだとする。あなたはその作者と一度も一緒に時間を過ごしたことがなくても、その作者を完全に理解できるだろうか。その人の性格がどのようなものか分かるだろうか。その作家がどのような人生を送っているか、あなたに分かるだろうか。その作家の感情が理解できるだろうか。あなたは自分が尊敬する人すら完全に理解することができないのに、どうしてイエス・キリストを理解できるだろうか。イエスに関するあなたの理解は想像と観念に満ちており、真理と現実性の欠片もない。どうしようもなく粗末で、肉的なもので満ちている。そのような理解しかないのに、どうしてイエスの再臨を歓迎するに相応しい者となり得ようか。肉的な空想と観念に満ちた人を、イエスは受け入れない。イエスを理解しない人たちがどうしてイエスを信じる者となり得ようか。

   あなたがたはパリサイ人がイエスに逆らったことの根源を知りたいか。あなたがたはパリサイ人の本質を知りたいか。彼らはメシアに関する空想に満ちていた。さらに、彼らはメシアが来ると信じていただけで、いのちの真理を求めなかった。だから今日になっても未だに彼らはメシアを待ち続けている。いのちの道に関して何の認識もなく、真理の道がどのようなものかも知らないからである。これほど愚かで頑固で無知な人々が、神の祝福を得ることなどあり得ようか。彼らがメシアを見ることなどできるだろうか。彼らは聖霊の働きの方向を知らなかったために、イエスの語った真理の道を知らなかったために、さらにはメシアを理解しなかったためにイエスに敵対した。彼らはメシアに会ったことがなく、メシアとともに過ごしたこともないために、彼らはみなメシアの名前にむなしく固執しながら、できる限りのことをしてメシアの本質に逆らうという過ちを犯した。これらのパリサイ人は本質的に頑固で、傲慢で、真理に従わなかった。彼らの神への信仰の原則は、「どれほど説教が奥深く、どれほど権威が高かろうとも、あなたがメシアと呼ばれない限り、あなたはキリストではない」というものである。これらの見方は不合理でばかばかしくないであろうか。あなたがたにもう一度問う。あなたがたが全くイエスを理解してこなかったことを考えれば、最初のパリサイ人たちと同じ誤りを簡単に起こしてしまうのではないか。あなたは真理の道を識別することはできるのか。あなたがキリストに逆らわないとあなたは本当に請け合えるか。あなたは聖霊の働きに従うことができるのか。自分がキリストに逆らうかどうかがわからないのなら、あなたは既に死ぬぎりぎりのところに生きているとわたしは言う。メシアを理解しなかった人々は皆、イエスに逆らい、イエスを拒絶し、イエスを中傷することができた。イエスを理解しない人々は皆、イエスを否定し、イエスをののしることができる。そればかりか、彼らはイエスの再臨をサタンの惑わしとして見ることができ、さらに多くの人が受肉し再来したイエスを非難するであろう。これらのことのせいで、あなたがたは恐ろしくならないのか。あなたがたが直面することは聖霊に対する冒涜であり、諸教会に向けた聖霊の言葉を台無しにし、イエスが表した全てをはねつけることとなる。それほど混乱しているのなら、イエスから何を得られるというのか。あなたがたが頑なに自分の間違いに気づくのを拒絶しているのならば、イエスが白い雲に乗って肉に戻ってくる時にイエスの働きをどのようにしてあなたがたが理解できるというのか。わたしは言う。真理を受け入れず白い雲に乗ったイエスの再臨を盲目的に待つ人々は、確実に聖霊を冒涜することになり、彼らは滅ぼされる種類である。あなたがたは単にイエスの恵みを望んでおり、この上なく幸せな天国を楽しみたいだけであるが、イエスの語る言葉に従ったことはなく、肉に戻ったイエスが表した真理を受け入れてこなかった。あなたがたはイエスが白い雲に乗って戻るという事実と引き替えに何を差し出すのか。あなたがたが繰り返し罪を犯しては何度もその罪を告白するという誠意か。白い雲に乗って戻ってくるイエスへの捧げ物としてあなたがたは何を差し出すのか。自らを称賛する長年の仕事という資本だろうか。あなたがたは戻ってきたイエスに信用してもらうために何を差し出すのだろうか。それはあなたがたの、いかなる真理にも従わない傲慢な本性だろうか。

   あなたがたの忠誠心は言葉の中のみにあり、あなたがたの認識は単に知的で観念的であり、あなたがたの労働は天国の祝福を受けるためのものであるが、それではあなたがたの信仰はどのようなものでなければならないのか。今日なお、あなたがたは真理の言葉の一つ一つに対し、耳を貸そうとしない。あなたがたは神が何かを知らない。キリストが何かを知らない。あなたがたはヤーウェを畏れる方法を知らない。どのように聖霊の働きに入っていくのかを知らない。あなたがたは神自身の働きと人の惑わしの区別の仕方を知らない。ただ、自分の考えに沿わない、神が表した真理の言葉を非難することだけを知っている。あなたの謙虚さはどこにあるのか。あなたの従順はどこにあるのか。あなたの忠誠心はどこにあるのか。真理を求める気持ちはどこにあるのか。あなたの神への畏敬はどこにあるのか。わたしはあなたがたに言う。しるし故に神を信じる者は、滅ぼされる部類であることは確かである。肉に戻ったイエスの言葉を受け入れることができない者は、地獄の子孫であり、天使長の末裔であり、永遠の破滅を逃れることのできない部類である。多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。おそらく、その時あなたにとって大いなる興奮の時となるであろう。だが、あなたがイエスが天から降臨するのを見る時は、あなたが地獄へ落ち、懲罰を受ける時でもあることを知るべきである。それは神の経営(救いの)計画の終わりの時であり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人間がしるしを見る前に、真理の現れだけがある時には終わっている。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主の胸に抱かれる。「白い雲に乗らないイエスは偽キリストだ」という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し真のいのちの道を解き放つイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に取り扱うしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、傲慢である。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか。イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大いなる救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。あなたがたは自分自身の道を選ぶべきで、聖霊を冒涜したり真理を拒んだりするべきではない。あなたがたは無知で傲慢な者でなく、聖霊の導きに従い真理を慕い求める者にならなければならない。そうすることでのみ、あなたがたの益となる。わたしは、注意深く神への信仰の道を歩むようにあなたがたに助言する。結論を急いではならない。さらに、あなたがたは神への信仰において、無頓着であったり、軽率であってはならない。少なくとも、神を信じる者は謙虚で畏敬の念に満ちているべきだということを知らなければならない。真理を聞いたことがありながら鼻であしらうものは愚かで無知である。真理を聞いたことがありながら不注意に結論を急いだり非難したりする者は、おごりで包まれている。イエスを信じる者は誰も、他人をののしったり非難したりする権利はない。あなたがたは皆、理知があり、真理を受け入れる者でなければならない。真理の道を聞き、いのちの言葉を読んだのち、自分の信念と聖書に沿っている言葉は一万語にひとつだと信じているかもしれない。そうであれば、その一万分の一の言葉の中で求め続けなければならない。それでもわたしはあなたに謙虚であり、自信過剰にならず、思い上がらないようにと助言する。あなたの心が抱いている神へのわずかな畏敬の念から、より大きな光を得ることになる。もしあなたがこれらの言葉をよく吟味し、繰り返し思い巡らすならば、それらが真理かどうか、それらがいのちかどうかが分かるであろう。ほんの数行読んだだけで、「これは聖霊によるちょっとした照らしでしかない」とか、「これは人々を惑わすために来た偽キリストだ」と盲目的に非難する人たちもいるであろう。そのようなことを言う人たちは、無知ゆえに目が見えなくなっている。あなたは神の働きや知恵をほとんど理解していない。わたしはあなたに助言する。最初からやり直しなさい。終わりの日における偽キリストの出現のせいで、神の言葉を盲目的に非難してはならない。惑わされることを恐れる為に、聖霊を冒涜する者となってはならない。それはとても残念なことではないであろうか。もし良く調べた後で、これらの言葉が真理ではない、道ではない、神が表したことではないと未だに信じるならば、あなたは最後に懲罰を受けなければならず、祝福されない。もしこれほどわかりやすく明確に話された真理を受け入れられないなら、あなたは神の救いにそぐわないのではないのか。あなたは神の玉座の前に戻るほど幸運ではない人ではないのか。このことを考えなさい。軽はずみで衝動的になってはいけない。神への信仰をまるでゲームのように考えてはいけない。あなたの終着点のために、前途のために、そしてあなたのいのちのために、考えなさい。自らをいい加減に扱ってはならない。あなたはこれらの言葉を受け入れることができるであろうか。