賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる

2020-09-08 23:38:40 | デボーション

   いのちの道は誰でも持てるものではなく、また誰にとっても簡単に得られるものではない。いのちは神からしか生じ得ないからである。つまり、神自身のみがいのちの本質を有しており、神自身のみがいのちの道をもっている。ゆえに、神のみがいのちの源であり、永遠に流れつづけるいのちの生ける泉なのである。世界を創造してからずっと、神はいのちの活力に関する多くの働きを行ない、人にいのちをもたらす多くの働きを行ない、人がいのちを得られるよう多大な代価を払ってきた。神自身が永遠のいのちであり、そして神自身が、人が復活する道だからである。神が人の心にいないことは決してなく、常に人の中に生きている。神は人の生活の原動力であり、人の存在の根幹であり、誕生後の人の存在にとっての豊かな鉱床である。神は人を生まれ変わらせ、人が自分のすべての役割をしっかり生きられるようにする。神の力と、消えることのない神のいのちの力のおかげで、人は何世代も生きてきた。その間ずっと、神のいのちの力は人の存在の支えであり、神は普通の人間が誰も払ったことのない代価を払ってきた。神のいのちの力は、いかなる力にも勝る。そのうえ、いかなる力をも超越する。神のいのちは永遠であり、神の力は非凡であり、神のいのちの力はいかなる被造物や敵の力によっても圧倒されない。時や場所に関係なく、神のいのちの力は存在し、明るい輝きを放つ。天地は激変するかもしれないが、神のいのちは永遠に不変である。万物は過ぎ去るかもしれないが、神のいのちは依然として残る。神は万物の存在の源であり、それらの存在の根幹だからである。人のいのちは神に由来し、天の存在は神に拠り、地の存在は神のいのちの力から生じる。活力を有するいかなる物体も神の主権を越えることはできず、生気を有する何物も神の権威の及ぶ範囲から逃れることはできない。このようにして、誰もが神の支配下で服従し、神の命令の下で生きなければならず、誰も神の手から逃れられない。

   おそらく、あなたの今の望みはいのちを得ること、あるいは真理を得ることである。いずれにせよ、あなたは神を見つけたいと願っている。つまり、頼ることができて自分に永遠のいのちを施せる神を見つけたいのである。永遠のいのちを得たいと望むなら、まずは永遠のいのちの源を理解し、神がどこにいるのかを知らねばならない。わたしはすでに、神のみが永久不変のいのちで、神のみがいのちの道をもっていると言った。神のいのちは永久不変なので、それは永遠のいのちである。神のみがいのちの道なので、神自身が永遠のいのちの道である。ゆえに、まずは神がどこにいるのか、そしてその永遠のいのちの道を得るにはどうしたらよいかを理解しなければならない。では、この二つの点について、それぞれ交わりを行なおう。

   あなたが本当に永遠のいのちの道を得たいと望み、飽くことなく探し続けているなら、まずこの質問に答えてほしい。今日、神はどこにいるのか? おそらくあなたは、「当然、神は天に住んでいる。あなたの家には住んでいないはずだ」と答えるだろう。あるいは、神は明らかに万物の間にいると言うかもしれない。もしくは、神は各々の心の中にいると言うかもしれないし、神は霊界にいると言うかもしれない。これらのどれも否定はしないが、問題を明確にしなければならない。神が人の心の中に住んでいるというのはまったく正しいわけではないが、かと言って完全に間違っているわけでもない。と言うのも、神を信じる者の中には、その信仰が本物である者と偽物である者、神が認める者と認めない者、神を喜ばせる者と神が嫌う者、そして神が完全にする者と神が排除する者がいるからである。だからわたしは、神は一握りの人の心にのみ住んでいると言うのであり、この人たちは疑いなく真に神を信じ、神に認められ、神を喜ばせ、神はこの人たちを完全にする。神はこのような人たちを導く。彼らは神に導かれているのだから、神の永遠のいのちの道をすでに見聞きした人である。神への信仰が偽物であり、神に認められず、神に嫌われ、排除される者たちは、必ずや神に拒絶され、いのちの道を得られず、神がどこにいるのかを知らずにいる。対照的に、心に神を住まわせている者は、神がどこにいるかを知っている。彼らは、神が永遠のいのちの道を授ける者たちであり、神に従う者たちである。あなたは今、神がどこにいるかを知っているか。神は、人の心の中と、人の傍らの両方にいる。神は霊界に、そして万物の上にいるだけでなく、それ以上に、人が存在する地上にいる。ゆえに、終わりの日の到来により、神の働きの段階は新たな領域へとすすんだのである。神は宇宙の万物に対する支配権を握っており、人の心の支えであり、さらに神は人の間に存在している。このようにしてのみ、神はいのちの道を人類にもたらし、人をいのちの道へと導くことができる。人がいのちの道を得て生存できるよう、神は地上に来て人の間で生きる。同時に、神は宇宙の万物を指揮し、人の間における自らの経営に協力させる。したがって、神は天と人の心にいるという教義を認めるだけで、人の間における神の存在の真理を認めないなら、あなたがいのちを得ることは決してないし、真理の道を得ることもない。

   神自身がいのちであり、真理であり、神のいのちと真理は共存している。真理を得られない者がいのちを得ることは決してない。真理による導き、支え、施しがなければ、あなたは文字と教義、そして何より死しか得られない。神のいのちは常に存在し、神の真理といのちは共存する。真理の源を見つけられなければ、いのちの糧は得られない。いのちの施しを得られないなら、真理を一切得られないことは間違いなく、ゆえに想像と観念を除けば、あなたの全身はただの肉、臭い肉でしかない。書物の言葉がいのちに数えられることはなく、歴史の記録が真理として敬われることはなく、過去の規則が神によって今語られている言葉の記録になることはないと知りなさい。神が地上に来て、人の間で生きているときに表わすものだけが真理であり、いのちであり、神の旨であり、神が現在働く方法である。神が過去の時代に語った言葉の記録を現代に適用するのなら、あなたは考古学者であり、あなたに最もふさわしい表現は歴史的遺産の専門家ということになる。なぜなら、あなたは常に神が過去の時代に行なった働きの痕跡を信じており、神がかつて人の間で働いた際に残した神の影しか信じておらず、神がかつての信者に与えた道しか信じていないからである。あなたは、神による今日の働きの方向を信じておらず、今ある神の栄光に満ちた顔を信じておらず、現在神が表わしている真理の道を信じていない。ゆえに、あなたが完全に浮世離れした空想家なのは間違いない。今、人にいのちをもたらすことのできない言葉になおも固執するなら、あなたは望みのない一片の枯れ木[a]である。あなたは保守的に過ぎ、あまりに強情で、理知に無頓着だからである。

  受肉した神はキリストと呼ばれるので、人に真理を与えられるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、そのキリストは神の本質を有し、神の性質を有し、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからである。キリストを自称しながら神の働きを行なえない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、人の間で働きを行ない、それを完成させるにあたって神が宿った特有の肉体でもある。この肉体は誰でも取って代われるものではなく、地上における神の働きを適切に引き受け、神の性質を表わし、神を十分に象徴し、人にいのちを与えられる肉体である。遅かれ早かれ、キリストになりすましている者たちはみな倒れる。彼らはキリストを自称しながら、キリストの本質を何ひとつ有していないからである。ゆえにわたしは、キリストの真偽は人が定められるものではなく、神自身が答えて決めるものだと言う。このようにして、あなたが真にいのちの道を求めるなら、神は地上に来ることで人にいのちの道を与えるということをまず認め、そして神が地上に来て人にいのちの道を与えるのは終わりの日であることを認めなくてはならない。それは過去のことではなく、今起きていることなのだ。

   終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。人はこの真理を通していのちを得ることができ、この真理を通してのみ、神を知り、神に良しと認められる。終わりの日のキリストが与えるいのちの道を求めないなら、あなたは決してイエスに良しと認められず、天国の門をくぐる資格も得られない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり、歴史に囚われた人だからである。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることができず、永遠のいのちの道も得られない。と言うのも、彼らがもっているのはどれも、玉座から流れるいのちの水ではなく、何千年も執着してきた汚水だからである。いのちの水を施されない者は永遠に死体であり、サタンの玩具であり、地獄の子である。そのような者がどうして神を目にできようか。ひたすら過去にしがみつき、足踏みしながら現状を維持しようとし、現状を変えて歴史を棄てようとしないなら、あなたは絶えず神に反することになるのではないか。神の働きの歩みは、押し寄せる波や轟く雷鳴のごとく広大で力強い。それでも、あなたは自分の愚かさに固執して何もしないまま、座して滅びを待っている。このままで、あなたは小羊の足跡に従う者だと見なされようか。あなたが神として固執するものが、常にあたらしく古びない神だと正当化できようか。あなたの黄ばんだ本の言葉があなたを新しい時代に運んでくれることがあろうか。神の働きの歩みをたどれるよう導いてくれようか。そして、それらがあなたを天国に引き上げられるだろうか。あなたがその手でつかんでいる物は、つかの間の慰めを与えられる文字でしかなく、いのちを与えられる真理ではない。あなたが読む聖句は、あなたの舌を肥やせるだけで、あなたが人生を知るうえで助けとなる知恵の言葉ではなく、ましてやあなたを完全にするよう導く道などではない。この食い違いを見て、あなたはよく考えてみようとは思わないのか。そこに含まれる奥義をあなたに理解させることはないのか。あなたは、自分で自分を天に引き上げ、神に会わせることができるのか。神が来なくても、あなたは自らを天に引き上げ、神と共に家族の幸福を楽しむことができるのか。あなたはいまだに夢を見ているのか。それなら、わたしは勧める。夢を見るのを止めよ。今働いているのが誰かを見よ。今、終わりの日に人を救う働きをしているのが誰かを見よ。そうしなければ、あなたが真理を得ることは決してなく、いのちを得ることも決してない。

   キリストが語る真理に頼ることなくいのちを得たいと望む者は、地上で最も愚かな者であり、キリストがもたらすいのちの道を受け入れない者は、幻想の世界で迷子になった者である。ゆえにわたしは、終わりの日のキリストを受け入れない者は神から永遠に嫌われると言う。キリストは、人が終わりの日に神の国へと入る門であり、それを迂回できる者は誰一人いない。キリストを通してでなければ、誰も神によって完全にされることはない。あなたは神を信じているのだから、神の言葉を受け入れ、神の道に従わなければならない。真理を受け取ることも、いのちの施しを受け入れることもできないのに、祝福を得ることだけを考えることはできない。キリストは、自身を真に信じる者にいのちを施せるよう、終わりの日に来る。その働きは、古い時代を終わらせ新しい時代に入るためのもので、新しい時代に入る人が必ず進まなければならない道である。キリストを認められず、非難したり、冒涜したり、さらには迫害したりするなら、あなたは永遠に火で焼かれなければならず、神の国には決して入れない。このキリストこそが聖霊の顕現であり、神の顕現であり、神が地上での働きを託した者だからである。したがって、終わりの日のキリストによってなされる一切のことを受け入れられないなら、あなたは聖霊を冒涜しているとわたしは言う。聖霊を冒涜する者が受ける報いは、誰の目にも自明である。これもあなたに言っておくが、あなたが終わりの日のキリストに抵抗し、終わりの日のキリストを足蹴にするなら、その結末をあなたに代わって引き受ける人は誰もいない。さらに、これから先、あなたが神に認めてもらう機会はない。たとえ自らの罪を贖おうとしても、あなたが神の顔を拝することは二度とない。なぜなら、あなたが抵抗したのは人ではなく、あなたが足蹴にしたのは卑小な存在ではなく、他でもないキリストだからである。あなたはその結末がどのようなものか知っているのか。あなたが犯すのは小さな過ちではなく、重罪である。だから、わたしはすべての人に忠告する。真理の前に牙をむき出したり、軽率に批判したりしてはいけない。あなたにいのちをもたらせるのは真理以外になく、あなたが生まれ変わり、再び神の顔を仰げるようにするものは、真理以外にはないからである。

   脚注

   a.「一片の枯れ木」は「救いようがない」という意味の中国の諺。


新時代の戒め

2020-09-07 23:35:46 | デボーション

   あなたがたは神の言葉をもって自らを装備するよう言われているが、あなたがたのために何が采配されようが、すべては神が自らの手で指揮するものであるから、あなたがたの熱心な祈りや嘆願は必要ではない──それらは役に立たないのである。しかし、現在の状況から見れば、あなたがたの直面する実際の問題は、あなたがたには想像もつかない。あなたが、ただ神の采配を待っているだけなら、あなたの進歩は非常に遅く、どのように経験すればよいのか分からない人は消極的になることが多い。したがって、もしあなたがこれらのことを完全に見透すことができないのであれば、あなたの経験においてあなたは混乱してしまい、愚かなことになる。また、もしあなたがたが言葉だけで、現実を伴っていないのならば、それは間違っているしるしではないのか。あなたがた一団には、多くの間違いが見て取れる。今日、あなたがたは「効力者」といった試練に達することはできないし、神の言葉に関連するその他の試練や精錬を想像することも、達成することもできない。あなたがたは実践すべき多くのことを固く守らなければならない。つまり、人々は自分の為すべき多くの本分を固守しなければならないということである。これが、人々が守りまた実行すべきことである。聖霊によって為されるべきことは、聖霊にまかせなさい。そこには人間の介入する余地はない。人間は人間によって為されるべきことを固守すべきであり、そこに聖霊との関係はない。これが正に人の為すべきことであり、それは旧約の時代に律法を守るのとちょうど同じように、戒めとして守るべきなのである。今は律法の時代ではないが、律法の時代の言葉と同一の多くの言葉がやはり存在し、それらを守らなければならない。そして、それらの言葉は、ただ聖霊によって感動させられることに頼ることで実行されるのではなく、それらは人が守るべき事である。例えば、実際の神の働きを裁いてはならない。神によって証しされている者に反抗してはならない。神の前では、自分の立場をわきまえ、放蕩であってはならない。あなたは口を慎み、自分の言葉と行動が神によって証しされている者の采配に従うものでなければならない。あなたは神の証しを敬い畏れなければならない。神の働きと神の口から出る言葉を無視してはならない。神の言葉の口調と目的を真似てはならない。外から見て、神が証しする者に明らかに逆らうことは一切してはならない。そしてその他のことも。これらは各人が守るべき事である。神は各時代に律法に似ており、人間が守らなければならない多くの規則を定める。これを通して、神は人の性質を拘束し、人の誠実さを見極めるのである。旧約聖書の時代の言葉「あなたの父と母を敬え」を例にしてみなさい。この言葉は今日では適用されない。当時、これらの言葉は、単に人の外面的な性質をいくぶん拘束していただけであり、人間の神への信仰の誠実さを示すために使われ、それは神を信じる者の印であった。今は神の国の時代であるが、人が守らなければならない規則はまだ多くある。過去の規則は適用できないため、現在は人が実行するのにより適切な実践がたくさんあり、それらは不可欠である。それらは聖霊の働きとは関係なく、人によって為されなければならない。

 


   恵みの時代に、律法の時代の実践の多くは、当時の働きにおいて特に効果がなかったため廃止された。それらが廃止された後に、当時に適する多くの実践が定められ、その多くが今日の規則にもなっている。今日の神が到来した時、これらの規則は除去されて、守る必要がなくなり、今日の働きに適する多くの実践が定められた。今日これらの実践は規則ではなく、成果を得るためのものであり、今日に適している。──おそらくそれらは将来、規則になるであろう。要するに、あなたは今日の働きのために実を結ぶものを守るべきなのである。明日の事は気にしなくても良い。今日のことは今日のために為されるのである。もしかしたら将来、あなたが行うのにもっと良い実践があるのかもしれない。──しかし、あまりそれには注意を払わずに、神に背かないよう今日守るべきことを守りなさい。今日人が守るべきことにおいて、次のことよりも重要なことはない。あなたの目の前にいる神を欺いたり、言いくるめたり、神から何か隠したりしようと試みてはならない。あなたの前にいる神の前で、みだらなことや傲慢なことを言ってはならない。神の信頼を得ようとして、あなたの目の前の神を上手い言葉やたくみな話で欺いてはならない。神の前で不遜なふるまいをしてはならない。あなたは神の口から出る全ての言葉に従うべきであり、それに対し抵抗したり、逆らったり、反論してはならない。神の口から出る言葉を自分勝手に解釈してはならない。あなたの舌を戒めなければならない。悪い者の偽りの計略に陥らないよう、あなたは口を慎むべきである。神があなたのために定めた境界線を超えないよう、あなたの歩みに注意しなければならない。そんなことをすればあなたは、神の観点から、自惚れた大げさな言葉を話すことになり、その結果神に忌み嫌われる。神の口から出た言葉をむやみに広めてはならない。でなければ他人があなたをあざけり悪魔が嘲笑するだろう。今日の神の働きの全てに従わなければならない。たとえそれが理解できなくても、それを裁いてはならない。あなたにできることは、ひたすら探求し、交わりを持つことだけである。誰も神の本来の地位を超えてはならない。あなたにできるのは、人間としての立場から、今日の神に奉仕することだけである。人間としての立場から今日の神を教えてはならない──そうすることは道に外れたことである。誰も神によって証しされている者の地位に立ってはならない。あなたがたの言葉、行動、最奥の思いにおいて、人間としての立場に立ちなさい。これは守るべきことであり、人間の責任であり、変更することは誰にも許されず、そうすることは神の行政命令に背くことである。これは全ての人が覚えておくべきことである。

   神が長い間、話し、声を発してきたため、人は神の言葉を読んで暗記することを第一の勤めと見なすようになった。誰も実践することに注意を向けず、また守るべきことさえ実践しないので、あなたがたの奉仕に多くの困難と問題が生じている。もし神の言葉を実践する前に、あなたが守るべきことを守らなければ、あなたは神に忌み嫌われ捨てられる者のひとりである。これらの実践を固守する際、あなたは真剣かつ誠実であるべきだ。それらを束縛と思わず、戒めとして守るべきである。どのような成果を挙げるべきかということは、今は考えずとも良い。要するに、これが聖霊の働く様であり、誰であれそれに背く者は死ななければならない。聖霊に感情はなく、あなたが現在どれほど理解しているかということは考慮しない。もしあなたが今日聖霊に背けば、聖霊はあなたを罰するだろう。もし聖霊の「管轄内」で背けば、聖霊はあなたを容赦しない。聖霊は、あなたがどれほど真剣にイエスの言葉を守っているかに気を留めることはない。もしあなたが神の今日の戒めを破るなら、神はあなたを罰し、死の罪に定めるであろう。あなたがそれらを守らないことなど許されるだろうか。あなたは守らなければならない──たとえそれが多少の痛みを受けることを意味しても。いかなる宗教、各界、国々、あるいは教派であろうと、将来はこれらの実践に皆、従わなければならない。誰もそれを免れることはなく、ひとりとして容赦されない。それは、これらの実践は今日聖霊が為すことで、誰もそれに背いてはならないからである。それらは大きな事ではないが、復活して天に昇ったイエスによって人のために定められた戒めであって、各人がそれを行なわなければならない。「道…(7)」に、イエスの定義によれば、あなたを義とするか罪とするかは、あなたの今日の神に対する態度によると記されていないだろうか。誰もこの点を見逃してはならない。旧約の時代、パリサイ人たちは先祖代々神を信仰してきたが、恵みの時代が到来したとき、イエスを知らず、イエスに反抗した。したがって、彼らが行ったことは全て無駄になり、神はそれを受け入れなかった。もしあなたがこのことを見抜けるなら、あなたは容易に罪を犯さないだろう。おそらく多くの人たちが自分を神と比較してきただろうが、神に逆らうとき、どんな味がするのだろうか。それは苦いのだろうか、甘いのだろうか。あなたは、このことを心得るべきである──知らないふりをしてはならない。おそらく心の中では未だに納得していない人たちもいるだろうが、試してみるようあなたに勧める──どんな味がするのか試してみなさい。そうすることで、多くの人々がいつも疑わないで済むのである。多くの人たちが神の言葉を読みながらも、心の中では神に逆らっている。そのように神に逆らった後、あなたはナイフで胸がえぐられるように感じないだろうか。それが家庭での不和でないとしても、それは身体の不調、または息子や娘たちに関する悩みではないだろうか。たとえあなたの肉体が死を免れたとしても、神の手から逃がれることはできない。あなたはそれをそれほど単純なことだと思っているのか。特にこれは、神に近い多くの者たちが注意すべきことである。あなたは、時が経つにつれてこのことを忘れ、気付かないうちに誘惑に陥り、全てのことに無頓着になり、そしてそれは、あなたが罪を犯すきっかけになるだろう。これは些細なことだと、あなたには思えるだろうか。もしこのことをうまくできれば、あなたは完全にされる機会を得る──神の前で、神の口から助言を受けるために。もしあなたが不注意なら、あなたは問題にぶつかるだろう──あなたは神に対し不遜になり、あなたの言葉と行動がはだらしなくなり、遅かれ早かれ強風と巨大な波にさらわれるであろう。あなたがたは一人ひとり、これらの戒めを心に留めるべきである。もしそれらに違反するならば、神によって証しされている者は、あなたを罪に定めないかもしれないが、神の霊はあなたへの取り扱いを終えていないし、神の霊はあなたを容赦しない。あなたは、自分が神に背いた結果を背負えるのか。そういうわけで、神が何を言おうが、あなたは神の言葉を実践し、あらゆる手段を尽くして忠実にそれらを守らなければならない。これは決して容易なことではない。


神への信仰は平和と祝福を求めるためだけであるべきではない

2020-09-06 23:21:47 | デボーション

   関連する神の言葉

   今日、実際の神を信じるので、正しい軌道に乗らなければならない。神を信じる者としてただ祝福を求めるのではなく、神を愛し、神を知ることを求めるべきである。祝福,神への信仰,悔い改める神の導きや示しと自身の追求を通して、神の言葉を飲食し、神への真の認識において成長し、心からの真の神への愛を持つことができるようになる。すなわち、あなたの神への愛は本物で、誰もあなたの神への愛を壊したり、立ちはだかったりすることはできない。それならあなたは神への信仰の正しい軌道に乗っているということである。それはあなたが神に属していることを証明する。あなたの心は神によって所有され、他の誰にも所有されることはあり得ないからである。あなたの経験、あなたが支払った代価、そして神の働きのおかげで、あなたは神に対する自発的な愛を育むことができる。それからあなたはサタンの支配から解放され、神の言葉の光の中に生きる。あなたが暗闇の影響から自由になったときにのみ、あなたは神を得たと言うことができる。あなたが神を信じるにあたり、これを目標としなければならない。これはあなたがた一人一人に課せられた義務である。

「あなたは神を信じているので真理のために生きるべきである」より

 

 

   神を体験することは、恵みを楽しむというよりも、むしろあなたの神への愛のために苦しむことである。あなたは神の恵みを享受しているのであるから、神の刑罰も享受すべきである――あなたは、これらのこと全てを体験しなければならない。あなたは神があなたの内に与える啓示を体験できることもあれば、あなたへの神の取り扱いと裁きを体験できることもある。そのようにして、あなたは全ての側面を体験する。神は、あなたに裁きの業を行い、また刑罰の業も行った。神の言葉は、あなたを取り扱ったが、それはまた、あなたに啓示と明察も与えた。あなたが逃げたいと思う時、神の手は依然としてあなたを捉えている。こうした業は、全部人間に関する全てのことが神の意のままであることをあなたが知るようになるためである。あなたは神を信じることとは、苦難を受けること、または神のために多くの事を行うこと、あるいは自分の肉の平穏のため、自分にとって全てのことがうまくいき、全てが快適であることのためだと思うかも知れない――しかし、神を信じるためには、こうした目的はいずれも人間が持っていてはならないものである。あなたがそのように信じているのであれば、それは誤った見方であり、あなたは決して完全にされることはない。神の行い、神の義なる性質、神の知恵、神の言葉、そして神の驚異とはかり知れない性質は、全て人々が理解すべきことである。そうした理解により、個人的な要望、及び自分個人の希望、心中の観念を取り除きなさい。これらのことを排除してはじめて、あなたは神の要求する条件を満たすことができる。このことを通してのみ、あなたはいのちを得、神を満足させることができるのである。神を信じることとは、この値なき人々の群れを通して神の行いと栄光が表出されるために、神を満足させ、神が求める性質を実際に生き抜くためのものである。これが、神を信じるための正しい観点であり、あなたが追求すべき目標でもある。あなたは、神を信じるための正しい観点を持ち、神の言葉を得ることを求めなければならない。あなたは、神の言葉を食べ飲みし、真理を実際に生き抜き、とりわけ神の実際の行い、遍く全宇宙において為される神の素晴らしい業、また、神が肉の内に為す実際の業を見る必要がある。実際の体験を通して、人々は神がどのように自分の業を彼らの上に行うのか、また、彼らに対する神の意志は何であるかを理解することができる。これらの全てはあなたの堕落したサタンによる性質を排除するためである。あなたの中にある汚れと不義を払拭し、誤った意図を取り除けば、あなたは神への真の信仰を育むことができる。真の信仰を持つことによってのみ、あなたは神を真に愛することができる。あなたは、神への信仰を基礎としてのみ、ほんとうに神を愛することができる。神を信じずに神を愛することができるだろうか。あなたは神を信じているのだから、それについては考えが混乱することはないはずである。ある人々は、神への信仰が自分に祝福をもたらすことを見るとすぐに活力に満ちる。しかし、精錬で苦しまなければならないと知るとすぐに全ての精力を失う。これが神を信じることだろうか。結局、神への信仰とは神の前での完全無欠の服従である。あなたは神を信じているが、まだ神に要求している。また、捨てきれない多くの宗教的観念がある。諦めきれない個人的な利益がある。そして、依然として肉の祝福を求め、神があなたの肉を助け出し、あなたの魂を救うことをねがう――これらは全て誤った観点を持つ人々が表すことである。宗教的信念を持つ人々は、神を信仰してはいるものの、性質を変えることや、神に関する認識を追い求めず、自分の肉の利益のみを追求している。あなたがたのうち多くの者は、宗教的信念の域に属する信仰を持っている。それは神への真の信仰ではない。神を信じるためには、人々は、神のために苦しむ心と、自分自身を捧げる意志を持っていなければならない。この二つの条件を満たさない限り、それは神への信仰とはみなされず、彼らは性質における変化を達成することはできないであろう。心から真理を求め、神に関する認識を求め、いのちを追い求める人々だけが、神を真に信仰している者である。

「完全にされる者は精錬されることを体験しなければならない」より

   明確にするために言うと以下のように言える。すなわちそれは、あなたが神に従うこと、神を愛すること、さらに、神の被造物によって為されるべき本分を遂行することに資するような神への信仰である。これが、神を信じることの目的である。あなたは、神の美しさ、神がいかに尊敬に値するか、造ったものの中で、神がいかに救いの働きを行いそして彼らを完全にしているかについての認識を達成しなければならない。これが、あなたが神への信仰において所有しなければならない最低限である。神への信仰は主として、肉における生活から神を愛する生活への転換、自然のままの生活から神という存在の内部での生活への転換である。そしてそれは、サタンの領域下から出て神の配慮と保護の下で生きることであり、肉への従順ではなく神への従順を達成できることであり、神があなたの心のすべてを獲得しあなたを完全にすることを可能にすることであり、さらにあなた自身を堕落したサタンのような性質から自由にすることである。神への信仰は主として、神の力と栄光があなたの中で明らかに示されるためである。その結果、あなたは、神の旨を遂行し、神の計画を成し遂げることができ、さらに、サタンの前で神への証しとなることができるようになる。神への信仰は、しるしや不思議を見るためであってはいけないし、あなたの個人的な肉のためであってもいけない。それは、神を知ること、神に従うことができること、そしてペテロのように、死を賭してまで神に従うことを追求する行為でなければならない。これが、信仰を達成するために必要な主なものである。

「すべてが神の言葉によって達成される」より

   神に付き従う者の多くは、ただ、どうして祝福を受けよう、どうして災いを避けようということだけを考えている。神の働きと神の経営と聞くと、彼らは口を閉ざし、興味を失う。彼らはそうした退屈な問題について知っていても、いのちに成長を与えるわけでも、これといった役に立つものでもないと思い込んでいて、そのため、神の経営についての言葉を聞いてはいても、いい加減に扱うのだ。そして、受け入れるべき大切なことだとは思わず、まして、自分たちの命の一部であると理解することもない。そうした人々は、神に付き従うのに、ただ一つの目当て、祝福を受けるということしか考えていない。そこで、その目的に関わりあること以外には関心がない。そうした人たちにとって、神を信じるということは、祝福を受けることが最も正当な目的であって、それが信仰の価値にほかならないのだ。その目的を果たすことに関わりのないことには、全く心を動かされない。今日神を信じている人々のほとんどは、そういう状態である。その人たちの目的や動機は、もっともらしく見える。神を信じると同時に、神のために費やし、神に身を捧げ、本分も果たす。若さを捨て、家族や職を捨て、家から離れて何年も懸命に働く。最終的な目的のために関心のありどころを変え、人生観を変え、求めるものを変えさえする。しかし、神を信仰する目的を変えることはできない。彼らは自分なりの理想を実現するために駆け回る。どんなに道が遠くとも、途中でどんな困難や障害に出遭おうと、死をも恐れず目標達成に努力する。どんな力が、そのような献身を続けさせるのだろう。これは良心だろうか。偉大で高潔な人格なのだろうか。最後の最後まで悪の力と戦おうとする決意なのだろうか。これは報いを求めずに神を証しする信心なのだろうか。神の心を実現させるためにすべてを捨てようとする忠誠心なのだろうか。それとも、個人的で法外な欲求を一貫して放棄する奉仕の精神なのだろうか。神の経営の働きを知らない人がそれほど多くを捧げるというのは、ただ驚くべき不思議に思える。ここでは、そうした人がどれほど多くを捧げているかは語らずにおこう。しかしながら、彼らの行動は分析するだけの価値が十分にある。彼らと密接に関わりのある恩恵とは別に、神を理解したこともない人々が、それほどまでに神に捧げられる理由が他に何かあるだろうか。このことの中に、これまで発見していなかった問題を発見する。それは、人間の神との関係は単にむき出しの利己心によるものだということだ。これは恵みの与え手と受け手との関係だ。簡単に言うと、これは、雇い主と従業員の関係のようなものだ。雇い人は雇い主から報酬をもらうためにだけ働く。こうした関係に愛情はない。ただの取引があるだけである。愛し愛される関係はなく、慈善と慈悲とがあるだけだ。理解はなく、諦めと欺きだけだ。親しみはなく、越えがたい溝があるだけだ。物事がこういう状態に至ったとき、誰がこの傾向を元に戻せるだろう。どれほどの人が、こうした関係がいかに絶望的なものになっているかを、ほんとうに理解できるのだろう。祝福を受ける喜びの中に浸っているとき、神とのそうした関係が、ばつの悪い、見苦しいものであるとは誰も想像できないはずだ。

   人間の神に対する信仰の最も悲しい点は、神が働きをしている最中に自分なりの経営をしていて、神の経営そのものには無関心なことだ。人間の最大の欠点は、神に服従することを求め礼拝していると同時に、自分なりの理想の終着点を建て上げ、どうしたら最大の祝福を得て最高の終着点に行けるかを計算しているところにある。

「神の経営の中でだけ人は救われる」より

   わたしが癒やさずにいられないほどにわたしを信じる人が何人いるだろうか。何人の人たちが、わたしの力で彼らの体から汚れた霊を追い出さずにはいられないほど、わたしを信じるだろうか。そして何人の人たちが、わたしから平安と喜びを受け取るためだけに、わたしを信じるだろうか。何人の人たちが、より多くの物質的富をわたしから要求するために、わたしを信じ、何人の人たちが、無事にこの人生を生き、またこれから来る世で安全で穏やかに過ごすためだけに、わたしを信じるだろうか。何人の人たちが地獄の苦しみを避け、天国の祝福を受け取るためだけにわたしを信じるだろうか。何人の人たちが一時的慰めのためだけにわたしを信じ、来世で何かを得ることなど求めずにいるだろうか。わたしが激しい怒りを人にもたらし、人が本来持っていたすべての喜びと平安を押収したとき、人は疑い深くなった。わたしが人に地獄の苦しみを与え、天国の祝福を取り戻したとき、人の恥辱は怒りに変わった。人はわたしに癒してくれるように頼んだが、わたしは彼を認めることもせず嫌悪を感じたとき、人はわたしから離れ、魔術師や魔術などの方法を求めた。人がわたしに要求したものすべてを取り除いたとき、彼らはすべて形跡も残さず消えた。だから、わたしがあまりにも多くの恵みを与え、わたしから得るものがあまりにも多くあるので、人はわたしに信仰を持っていると言おう。

「あなたは信仰について何を知っているか」より

   あなたが求めていることは、神を信じた後に平和を得ることが出来るようになることである。つまり、自分の子が病気にかからないこと、自分の夫が好ましい職に就くこと、自分の息子が良い妻と出会うこと、自分の娘が人並みの夫を見つけること、自分の牛や馬が十分に土地を耕すこと、一年間、作物に適した気候となることなどである。あなたは、そうした物事を求める。あなたの追求は、単に快適に暮らすためであり、自分の家族に事故が起こらないこと、風が自分に当たらないこと、顔に砂がかからないこと、家族の作物が洪水に遭わないこと、災害を受けないこと、神に抱かれて生きること、快適な住処で生活することを求めている。常に肉の欲を求める、あなたのような臆病者には、心や霊があるだろうか。あなたは獣ではなかろうか。わたしは、何も見返りを求めずに、真の道を与えるが、あなたは求めない。あなたは、神を信じる者のひとりであろうか。わたしは、真の人生をあなたに与えるが、あなたは求めない。あなたは豚や犬とは違わないのではないか。豚は、人生や、清められることを追求せず、人生とは何かを理解しない。毎日、食べたいだけ食べた後、ただ寝るだけである。わたしは、あなたに真の道を与えたが、あなたは未だにそれを得ていない。あなたは、手ぶらである。あなたは、人生において、そうした豚の生活を続けることを望んでいるのであろうか。そうした人々が生きていることの意味は、何であろうか。あなたの生活は、恥辱的であり、下劣であり、あなたは不浄と放蕩の中で暮らし、何も目指す目標が無い。あなたの人生は、最も下劣ではなかろうか。あなたは、厚かましくも神を見上げるであろうか。あなたは、このような経験を続けるならば、得る物は無いのではなかろうか。真の道はあなたに与えられているが、最終的にあなたがそれを得られるかどうかは、あなた自身の追求により決まる。

「ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識」より

   もしあなたが、平和な家庭生活や物質的祝福を伴う神の恵みのみを享受するのであれば、あなたは神を得ていないのであって、神への信心は成り立っていない。神は肉における恵みの働きを既に一段階行っており、人に物質的な恵みを既に与えている──しかし人は、恵みと愛と慈悲だけでは完全になれない。人は経験により神の愛の一部分に出会い、神の愛と慈悲を知るが、ある一定の期間経験すると、人は神の恵みと神の愛や慈悲では完全になれず、人の内にある邪悪さを明らかにすることもできず、またその邪悪な性質を取り除くことも、その愛と信仰を完全にすることもできないことを理解するのである。神の恵みの働きは一時の働きであった。神の恵みの享受に依存することで神を知ることはできないのである。

「辛い試練を経験して初めて、神の素晴らしさを知ることができる」より

   人が初めて神を信じてから、受け取った物は何だろうか。あなたは神について何を知っただろうか。神を信じて、あなたはどれほど変わっただろうか。今、あなたがたは皆、神を信ずることは、ただ単に魂の救いや、肉の幸福のためでもなく、神の愛を通してあなたがたの人生が豊かになることなどでもないと分かっている。そのように、もしあなたが肉の幸福や一時的快楽のために神を愛するなら、たとえ最後にあなたの神に対する愛が頂点に達し、あなたが何も求めないにしても、このあなたが求める「愛」は依然として汚れた愛であり、神には喜ばれない。自分たちのつまらない人生を豊かにするために神を愛したり、心にぽっかりあいた穴を埋めたりするために神を愛する人たちは楽な生き方を求める人たちで、神を本当に愛することを求める人たちではない。このような愛は人の意志に反し、感情的快楽を追求しており、神はこの種の愛を必要とはしない。では、あなたの愛とはどのようなものだろうか。あなたは何のために神を愛するのか。今あなたはどのくらい神に対して真の愛を持っているのか。あなたがたのほとんどが持っている愛については先に述べた通りだ。この種の愛は現状維持のままでしかない。それは永久的不変性を得ることも、人に定着することもあり得ない。この種の愛は花が咲いた後も実がならず、しぼんでしまう花のようである。すなわち、そのように神を一旦愛した後、誰もその道を導いてくれないと、あなたは倒れてしまうだろう。もし神を愛する時代に神を愛するだけで、その後のあなたのいのちの性質に何の変化も起こさないなら、あなたは引き続き暗闇の力に覆われ、逃れることもできず、サタンに操られ騙されることから解放されることはあり得ないだろう。そのような人は完全に神に得られることはできない。最終的には、彼らの霊、魂、体は依然としてサタンに属していることになる。これに議論の余地はない。完全に神に得られることができない人たちはすべて彼らの本来の場所に戻る。つまり、サタンの所に戻り、神からの次の段階の懲罰を受けるため、火と硫黄との燃える池に落ちるだろう。神に得られる人たちとは、サタンに逆らい、サタンの支配下から逃れる人たちのことである。そのような人たちは正式に神の国の民の中に数えられる。神の国の民はこのようになるのである。あなたはこの種の人になりたいだろうか。あなたは神に得られたいだろうか。サタンの支配下から逃れ、神の元に進んで戻りたいだろうか。あなたは今サタンに属しているだろうか、それとも神の国の民の中に数えられているだろうか。そのようなことは全て明白であるべきで、これ以上説明の必要はない。

「信者はどんな見解を持つべきか」より

   もし、あなたが求める全てが、神により完全なものとされ、最終的に祝福されることのみであるならば、あなたの神への信仰に対する見方は純粋ではない。あなたは、どのようにすれば神の業を実生活において見ることができるか、ということを追求しているべきである。神があなたにその意志を明らかにした時、どのように神を満足させるか、神の驚異と知恵をどのように証しするのかを求め、また、自分に対する神の訓練と取り扱いをどのように実際に示すかを追及しているべきである。これらのすべては、今あなたが解明しようとしているべき事である。神があなたを完全にした後、あなたは神の栄光にあずかることができるということだけのために神を愛するのであれば、それはまだ不充分であり、神の要求を満たさない。あなたは、神の行動を証しし、神の要求を満たし、神が人々の上に為した業を実践的に体験することができる必要がある。それが苦痛であれ、涙であれ、あるいは悲しみであれ、あなたはその全てを実践で体験しなければならない。それらは全て、あなたが神の証し人となることが出来るためである。厳密に言うと、あなたは現在、何による支配下において苦難を経験し、完全になることを求めているのであろうか。それは神のために証しするためであろうか。それは、肉の祝福、あるいは自分の将来性のためであろうか。あなたの意図、動機、自分が目指す目標は、全て正される必要がある。それらを自分自身の意志で導くことはできない。もしある人が、祝福を受け、権力を掌握するために、完全にされることを求める一方、別の人が、神を満足させ、真に神の業の証し人となるために完全にされることを求めるのであれば、あなたは、この二つの追求の仕方のどちらを選ぶであろうか。前者を選ぶのであれば、あなたはまだ神の基準から遠くかけ離れている。わたしは以前、わたしの行動を全宇宙に明らかに知らしめ、また、わたしがこの宇宙で王として統治するであろうと語った。その一方、あなたがたに託されているのは、神の業を証ししに行くことであり、あなたがたが王となって全宇宙に君臨することではない。全宇宙は神の業で満たされよ。あらゆる者にその業を見せ、それを認めさせよ。このことは、神自身に関連して語られたことであり、人間がすべき事は、神の証しをすることである。今、あなたは、どれほど神を知っているであろうか。あなたは、神についてどれほど証しできるだろうか。神が人間を完全にする目的は何であろうか。あなたは、神の意志を理解した後、いかにして神の意志への配慮を示すべきであろうか。もしあなたに、完全にされる意欲があり、あなたが実際に生きるものを通して、神の業のために証しする意欲があり、このことがあなたの原動力になるのであれば、難しすぎることは何も無い。今人々が必要としているのは、確信である。あなたにこの原動力があれば、どんな否定的態度でも、消極性でも、怠惰、肉の観念、人生哲学、反抗的性質でも、感情でも、その他なんであれ、捨て去るのは容易である。

「完全にされる者は精錬されることを体験しなければならない」より


刑務所で過ごした青春時代

2020-09-05 23:48:34 | 勝利者の証し

   青春時代は人生の中で最も輝きのある純粋な時期であると人は言います。多くの人にとって、青春は素晴らしい思い出がいっぱい詰まっている時期かも知れません。しかし、私は自分の青春時代を刑務所で過ごすことになるとは想像もしていませんでした。こう言うと私のことを変だと思われるかも知れませんが、私はそれを後悔していません。刑務所内の生活は苦しみと涙でいっぱいでしたが、それは私が人生で受けた最も貴重な贈り物で、それから多くを学んだのです。

 

 

   私は幸せな家庭に生まれ、幼少時代は母と一緒に主イエスを崇拝しました。私が十五歳の時、私と家族は全能神が再臨された主イエスだと確信して、喜んで全能神の終わりの日の働きを受け入れました。

   2002年4月のある日、十七歳の時、私はある姉妹と本分を尽くしていました。午前一時、私たちがホストファミリー宅でぐっすりと眠っていると、突然ドアをしきりに叩く大きな音がして目が覚めました。「ドアを開けろ! ドアを開けろ!」と誰かが外で叫んでいるのが聞こえました。私たちを接待してくれていた姉妹がドアを開けたとたん、警察官数人が突然ドアを押し開け中に入ってきて、「私たちは公安局の者だ」と攻撃的に言ったのです。「公安局」という言葉を聞いて、私は直ぐに緊張しました。

   「私たちが神を信仰しているから逮捕しに来たの? 兄弟姉妹が神への信仰を理由に逮捕され、迫害されてたことを耳にしたことがある。今私にも同じことが起こっているっていうの?」

   その時、私の心臓は激しく鼓動し始め、パニックに陥った私はどうしていいのか分かりませんでした。そのため私は急いで神に祈りました。

   「神様、どうか私とともにいてください。どうか私に信仰と勇気をお与え下さい。何が起ろうと、私はいつも神様への証を立てる覚悟です。それから、神様の知恵と私が言うべき言葉を与え、私が神様を裏切ったり、兄弟姉妹たちを売り渡すようなことをしないようにして下さい」

   祈った後、私の心は次第に落ち着いていきました。私は邪悪警官四、五人が強盗のように寝具、各戸棚、箱、ベッドの下にあった物まで調べ、部屋中を引っかき回すのを見ました。彼らはついに神の御言葉を記した書籍と讃美歌のCDを幾つか発見しました。リーダーが無表情に言いました。

   「このような物を持っているということは、お前たちが神を信仰している証拠だ。俺たちと一緒に来て、陳述するんだ」

   ショックを受けて私は言いました。

   「言うべきことがあるなら、ここで言えます。一緒に行きたくありません」

   彼は直ぐに笑顔を見せて言いました。

   「怖がらなくてもいい。陳述をしにちょっと行くだけだ。すぐここに連れ戻してやる」

   彼の言葉を信じて、私は警官と一緒にパトカーに乗りました。

   このちょっと行くだけというのが、私の刑務所生活の始まりになるとは夢にも思いませんでした。

   私達が警察署の中庭に入ったとたん、この邪悪な警官たちが私にパトカーから降りるようにと怒鳴り始めました。彼らの表情は素早く一変して、急に先ほどまでとは別人になったようでした。私たちが事務所に着くと、体のがっしりした警官が数名私たちの後から入って来て私の両側に立ちました。今や私に対する警官側の優勢が確定すると、邪悪警官集団の長が私に怒鳴りました。

   「お前の名前は何だ? どこの出身だ? お前たちは全員で何人いる?」

   私が答えようと口を開き、まだ話し終えていないうちに彼は飛び付いてきて私をバシッ、バシッと二回引っ叩きました。私はこれに動揺して沈黙してしまいました。私は心の中で思いました。

   「なんで叩くの? まだ答え終わってないのに。どうしてこんなに荒々しくて野蛮で、私が想像していた人民警察のイメージと全然違うの?」

   次に、私の年齢を聞いてきたので、正直に十七歳だと答えると、又しても顔面を二回引っ叩いて、嘘をついていると言って私を叱りつけました。その後、私が何を言おうと関係なしに幾度となく私の顔面を殴りつけ、私は目から火が出て、頭はぐるぐると回り、耳鳴りが聞こえ、顔は痛みで熱くなりました。この時、私はこの邪悪な警官たちは私に質問をするためにここ連れて来たのではなく、単に暴力で私に屈服させたかっただけなのだとやっと理解したのです。私はこの悪質な警官たちと理性的に話そうとしても効果がなく、逆に問題を引き起こすだけだと兄弟姉妹が言っていたのを思い出しました。今やこれを自ら体験した私はそれ以上何を聞かれても一言も喋りませんでした。私が喋ろうとしないことを見て、彼らは叫びました。

   「この馬鹿女が! よく考えろ! でないと正直に話さないだろうからな!」

   こう言いながら警官の一人が私の胸を二回強打したので、私はよろめいて、床に強く倒れ込みました。次に警官は私を二回強く蹴り、私を床から引き上げ、私に跪くようにと怒鳴りました。私は言う通りにしなかったので、膝を数回蹴られました。激痛の波に圧倒された私はドスンと音を立てて倒れ、跪く恰好になりました。警官は私の髪を掴んで無理やり下に引き付けた後、急に頭を後ろに強く引っ張って私に無理やり上を向かせました。警官はさらに私の顔面を二回殴りながら罵り、私には部屋全体が回転しているような感覚しかありませんでした。間もなく、私は床に倒れました。その時、突然、邪悪な警官長は私が手首にしていた時計に気付き、それを物欲しそうに見詰めながら、「それ何だ?」と叫びました。すぐさま、警官の一人が私の手首を掴んで時計を無理やり取り外し、「親方」に手渡しました。このような卑劣な行動を目にして、私は彼らへの憎しみでいっぱいになりました。その後、彼らは更に尋問してきましたが、私はただ黙って彼らを睨み付け、それが彼らの怒りを更に煽りました。悪質な警官の一人がまるで小ぶりの鶏をつまみ上げるかのように私の襟を掴み、床から引き上げて怒鳴りました。

   「おお、お前は大きくて強いんだな。黙ったままの褒美を食らえ!」

   警官はこう言いながら私をさらに二回強打し、私は再び床に殴り落とされました。その時には私は既に体中が耐えられないほど痛く、戦う力はもはらありませんでした。私はただ動かずに目を閉じたまま床の上に横たわっていました。私は心の中で切羽詰まって神に嘆願しました。

「あぁ神様、この邪悪な警官集団がこの先私にどのような残虐行為を働いてくるか分かりません。神様は私の霊的背丈が低く、肉体的にも弱いことをご存じであられます。どうか私をお守り下さい。私はユダのようになって神様を裏切るくらいなら死を選びます」

   祈りを終えたとき、神が私に信仰と力を授けてくださいました。ユダになって神を裏切り兄弟姉妹を売り渡すよりは私は死ぬほうがよいのです。神への証しをしっかりと立てたいのです。ちょうどその時、私の隣にいた誰かが「なんでこの女はもう動かないんだ? 死んだのか?」と言うのが聞こえました。その後、誰かがわざと私の手に足を乗せて強く踏み付けながら、どう猛な声で怒鳴りました。

   「立て! これからお前を別の場所に連れていくからな。そこでも喋らなかったら当然の報いを受けることになるぞ!」

   神が私に信仰と力を下さったので、私は彼らの脅しには怯えませんでした。心の中でサタンと戦う準備が出来ていたのです。

   後に、私は県の公安局に護送されました。取調室に到着すると、邪悪警官の長と他に二名が私を取り囲み、幾度となく尋問し、私の前を行ったり来たりしながら私に無理やり教会指導者と兄弟姉妹を裏切らせようとしました。私が依然として期待通りの返答をしないのを見ると、警官が三人交代で私の顔を何度も繰り返し引っ叩きました。私は何度殴られたか分かりません。私に聞こえたのは殴られる度に真夜中の静けさの中に響き渡るバシッバシッという音だけでした。手が痛くなってきた邪悪な警官は本を使って私を殴り始めました。警官らは私がついに痛みを感じられなくなるまで殴り続けました。私の顔はひどく腫れて麻痺しました。私からは貴重な情報が得られないと分かった邪悪な警官たちは、最後には電話帳を取出して、満足げに言いました。

   「これはお前のバッグから見つけたんだ。お前が何も教えなくても、俺たちはまだ他の方法を隠してるんだ!」

   急に私は心配になりました。

   「もし兄弟姉妹の誰かが電話に出てしまったら、彼らも逮捕されるかもしれない。それから警官が教会を突き止めるかも。そうなったら一大事だわ」

   ちょうどその時、私は神の御言葉の一節を思い出しました。

   「宇宙で起こるすべてのことの中で、わたしが最終的な決定権を持たないものはない。わたしの手の中にない存在などあるだろうか」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第一章」より)

   私は思いました。

   「その通り。すべての物事は神様の御手に調整され取り決められる。電話が通じるか通じないかさえも、完全に神様がお決めになること。私は神様を仰ぎ見て頼りにし、神様の采配にお任せすることをいとわない」

   そこで私は神に繰り返し祈り、兄弟姉妹をお守り下さるよう嘆願しました。その結果、警官らが記載されていた電話番号に一通り電話をかけたものの、呼び出し音が鳴っても誰も出なかったり、電話が全くつながらなかったりしました。ついには、邪悪な警官たちはイライラして口汚い言葉を吐きながら電話帳をテーブルに投げて電話をかけるのを止めました。これは正に神の全能さと統治、そして神の驚くべき御業の実例だったのです。私は神に感謝の意と賛美を示さずにはいられませんでした。

   それでもなお、彼らは諦めず、教会の働きについて私に尋問し続けましたが、私は答えませんでした。これに動揺し憤慨した彼らは私を苦しませるために更に卑劣な方法を思いつきました。邪悪な警官の一人は私に無理やり半分しゃがんだ姿勢を取らせ、私は両腕を肩の高さで伸ばした状態のまま動くことを全く許されなかったのです。直ぐに、私は脚が震えだし、腕を真っすぐに伸ばしていることが出来なくなり、体が無意識のうちに立ち上がってしまいました。警官は鉄の棒を手にして獲物を見つめる虎のように私を睨めつけました。私が立ち上がったとたんに彼は容赦なく私の脚を殴り、あまりの痛さに私は膝をつきそうになりました。次の三十分近くの間、私の脚か腕が少しでも動くと、彼は即座に鉄の棒で私を殴りつけました。私は何度殴られたか分かりません。かなりの時間半分しゃがんだ姿勢を取っていたため、私の両脚はひどく腫れ上がり、まるで骨折したかのように耐え難いほどに痛みました。時間が経つにつれて、私の両脚はさらに激しく震えるようになり、私の歯はガタガタと音を立て続けました。ちょうどその時、私の力が尽きて気絶しそうに感じました。しかし、邪悪な警官たちは、残酷にも猿に芸をさせようとする人のように一方から私を馬鹿にしてあざ笑い、絶え間なく意地悪く嘲笑し、笑い者にしました。彼らの醜く卑しい顔を見れば見るほど、この邪悪な警官たちへの憎しみが強くなっていきました。私は突然立ち上がって大声で言いました。

   「もうこれ以上しゃがみません。どうぞ私を死刑にしてください! 今日私には失うものなんて何もないの! 死ぬことだって怖くないのに、あなたたちが怖いわけないでしょう? そんな大きな体してても私みたいな小さな女の子を虐めることしか出来ないんじゃない!」

   驚いたことに、私がこう言うと、邪悪な警官集団は口汚い言葉をいくつか発して私の尋問を取りやめたのです。その時、私は興奮し、全ての事柄は確かに神の御手に操られているのだと理解しました。私が心の中から恐怖を取り除くと、私の状況もそれに従い変化したのです。私は心の奥底で神の御言葉の意義を心から認識しました。

   「『王の心は、ヤーウェの手のうちにあって、水の流れのようだ、ヤーウェはみこころのままにこれを導かれる』と言われているまさにその通りであって、普通の人間が自分の方向を定められないのは尚更である」(『キリストの言葉の記録』の「神の全能性を知ることでのみ、真の信仰を持つことができる」より)

   今日、神はサタンが私を迫害することをお許しになられましたが、それは私を意図的に苦しめるためではなく、むしろそれを利用して私が神の御言葉の力に気が付き、サタンの暗黒の影響による支配から自由になるように私を導き出し、さらにはこの危険な状況において私が神を頼り、神を仰ぎ見るようにして下さるためであったのだと私は理解しました。

   この邪悪な警官集団は私をほぼ一晩中拷問し続け、彼らが手を休めた時には夜明けになっていました。彼らは私に署名させてから、私を拘束すると言いました。その後、優しいふりをした年配の警官が私に言いました。

   「お嬢さん、あなたは本当にお若い。若い盛りの真っただ中だ。だからすぐに知ってることを全部私たちに言うのが一番です。あなたが釈放してもらえるようにすることを保証します。困ったことがあったら、遠慮なく私に言いなさい。ほら、顔がまるでパンみたいに腫れ上がっていますよ。もう十分苦しんだでしょう?」

   警官がこのように話すのを聞いて、警官が私に何らかの自白させようとしているのだと分かりました。私はまた集会中に兄弟姉妹が言っていたことを思い出しました。邪悪な警察は人を騙すために、あめとむちを使ったり、ありとあらゆる罠をしかけてくることです。これを思った私は年配の警官に言いました。

   「いい人ぶらないでください。あなたも同じ集団の一員じゃないですか。私に何を白状しろって言うんですか? 警察がやっているのは自白の強要って言って、違法の刑罰です!」

   これを聞いた警官は何食わぬ顔で言い返しました。

   「でも私はあなたを一度も叩いてませんよ。叩いたのは他の警官だ」

   私は神の御導きと御加護のおかげで再度サタンの誘惑に打ち勝てたことを感謝しました。

   県の公安局を出た後、私はそのまま直ぐ拘置所に閉じ込められました。正門に足を踏み入れると、そこは電気の流れた蛇腹型鉄条網が上部に施された高い壁に囲まれていて、四方にはそれぞれ監視塔のような物があり、その中には武装警官が見張りをしているのが見えました。全てがとても不吉で恐ろしく感じました。鉄格子を幾つも通り過ぎた後、私は監房に着きました。凍りつくほど冷たい煉瓦のベッドの上には麻のカバーが付いたぼろぼろの布団が置かれ、黒く汚れて刺激の強い悪臭を放っていました。それを見た私は体中に嫌気の波がうねるのを感じずにはいられませんでした。その後直ぐに悲しみの波が続きました。 私は心の中で思いました。

   「どうやったらここで人が暮らせるというの? ただの豚小屋じゃない」

   食事の際、囚人はそれぞれ酸っぱくて半生の小さな蒸しパンしか与えられませんでした。私は一日中何も食べていなかったのですが、これを見て本当に食欲を失いました。それに加え、私は警官たちに殴られたおかげで顔が腫れ上がっていたので、まるでテープで巻き付けられたように張り詰めた感じがしました。食べるのは言うまでもなく、喋ろうとして口を開けるだけでも痛みが走りました。このような環境に置かれ、私はとても憂鬱になり、物凄く不当な扱いを受けていると感じました。実際にこんな所にいて、非人道的な生活に耐えなくてはならないかと思うと、私はとても感情的になり無意識のうちに涙を流していました。ちょうどその時、私は神の御言葉を思い出しました。

   「あなたが、自分の観念に合わないことや自分自身を脇に置かなければならないことに遭遇する時はいつでも、あなたの試練であると言える。神の意志が現される前には、各人に対する厳しい試しの時とはかり知れない試練がある。あなたは、このことをはっきり見ることができるであろうか」(『言葉は肉において現れる』の「真理を実行に移すことだけが現実性を得ることである」より)

   御言葉を熟考していると、神の御旨がわかりました。神はこの状況が私に起こるのをお許しになったのであり、それは神が私に試練を与え、試すことで、私が神への証しを立てられるかをご覧になろうとしていたのです。この邪悪で暗い時代において、運よく神に御引き上げいただいたおかげで神に従うことが出来るようになっていなければ、私はどのような状況に陥っていたか、まだ生きていたかどうかすら分かりません。不当な扱いを受けたと感じ、少し苦しんだことで悲しくなり、それを受け入れることを拒んでいたということは、私が良心と理知を欠いていることを示していました。これに気付くと、私は不当な扱いを受けたと感じるのを止め、苦難に耐えると心の中で決意するようになりました。

   二週間経ち、あの邪悪な警官の長が又しても私を尋問しにやってきました。私が冷静さと落ち着きを保ったままで、何も恐れていない様子を見た警官は私の名前を叫んで怒鳴りました。

   「正直に言え。ここ以外のどこでこれまでに逮捕された? 拘置所はこれが初めてじゃないだろ。でなければ全く怖がらずそんなに冷静で慣れた振る舞いをしていられないだろ?」

   私はこれを聞いて、心の中で神に感謝して、神を讃えずにはいられませんでした。神は私をお守り下さり、私に勇気を下さることで、私が全く恐れずにこの邪悪な警官たちに立向えるようにして下さったのです。その時、心の中から怒りが込み上がってきました。

   「あなたがたは権力を濫用して宗教的信仰を理由に人々を迫害して、理由も無しに神の信仰者たちを逮捕したり、脅したり、傷つけたりしている。あなたがたはこの世の法律も天の掟も守らない。私は神を信仰して、正しい道を歩んでいる。私は法律違反などしていない。あなたがたを恐れる理由もない。私はあなたたちの邪悪な力には屈しない!」

   そして私は反論しました。

   「他の場所は退屈だから私がここに来たがったとでも思ってるの? あなたがたは私を不当に扱って乱暴なことをしたんじゃない! これ以上私に自白を強要したり、私を陥れようとしても無駄よ!」

   これを聞いた邪悪な警官の頭はとても憤慨し、耳から煙が吹き出てきそうな様子でした。警官は叫びました。

   「お前は頑固すぎて喋れないのか。喋る気がないんだろ? お前には三年の刑期をくれてやる。それでお前がいい子になるかどうか見てやる。頑固でい続けられるものならやってみろ!」

   この時までには私の感情は憤慨を超えていました。私は大声で言い返しました。

   「私はまだ若いのよ。三年なんて大したことないでしょ? あっという間に釈放されるわよ」

   邪悪な警官は怒って急に立ち上がり、声を上げて部下に言いました。

   「もう止めた。お前らが代わりにこいつを尋問しろ」

   そして警官はドアを乱暴に閉めて去って行きました。これを見た警官二人はこれ以上私を尋問しませんでした。彼らは私が署名する陳述書を書き終えると部屋から出て行きました。邪悪な警官たちの挫折ぶりを見て、私はとても嬉しくなり、心の中で神のサタンに対する勝利を讃えました。

   二回目の尋問の最中、彼らは作戦を変更しました。彼らは入ってくるとすぐ、私のことを心配しているふりをしたのです。

   「お前がここに来てからもうしばらく経つが、どうしてお前の家族は一人も面会に来ないんだ? お前のことを諦めたに違いない。自分で家族に電話をして、会いに来てくれと頼んでみたらどうだ?」

   私はこれを聞いて、気分が悪くなり、動揺し、思いました。

   「お母さんとお父さんは本当に私のことをもう心配してないのかな? もう二週間になるから、私が逮捕されたことは知ってるはず。私に会いにすらこないで私をこんな所で苦しんだままにしてどうして平気なの?」

   こう考えれば考えるほど、私の孤独感と無力感はどんどん増していきました。私はホームシックで両親が恋しくなり、自由になりたいという渇望は強まりました。無意識のうちに、私の目に涙があふれましたが、この邪悪な警官集団の前では泣きたくありませんでした。私は静かに神に祈りました。

   「あぁ神様、私は今とても惨めで苦しく、とても心細いです。どうか私の涙が流れ落ちるのをお止め下さい。サタンに弱さを見せたくないからです。今、私には神様の御意向が分かりません。どうか私を啓き、導いて下さい」

   祈りを捧げた後、突然ある考えが頭にひらめきました。つまり、これはサタンのずるい計略で、警察は私に両親のことを誤解させ嫌いにさせようとして意見の衝突の種を播いたのです。私がこのショックに耐えられなくなり、神を裏切ることを狙ってのことです。さらに、私に家族と連絡を取らせようとしたのは家族に身代金を持参させ、お金を稼ぐという目的を達成するための罠だったのかもしれません。もしくは、警察は私の家族も全員が神の信仰者であることを知っていて、この機会を利用して私の家族も逮捕したかったのかもしれません。邪悪な警官たちは本当に策略だらけでした。神の啓きを受けていなかったら、実家に電話していたかも知れません。そうしていたら私は間接的にユダになっていたのではないでしょうか? それで私は秘かにサタンに宣言しました。

   「卑劣な悪魔め。私はお前の策略は絶対に成功させないから。これからは、祝福であろうと災難であろうと、私は一人で受けてみせる。家族を巻き込むことは拒否し、両親の信仰や両親が本分を尽くすことをじゃますることも絶対にしない」

   同時に、両親がこの邪悪な警官たちの仕掛けた罠にはまらないように、私に面会しに来ないようにして下さい、と静かに神に嘆願しました。そして私は平然と言いました。

   「どうして家族が会いに来てくれていないのかは分かりません。あなたがたに何をされようと私にはどうでもいいです!」

   邪悪な警官たちは策が尽きて、それ以降はもう私を尋問しませんでした。

   一か月が経ったある日、私のおじが突然面会に来て、私をここから出られるようにしようとしていて、数日後には釈放されるだろうと言いました。面会室から出た時、もの凄く嬉しくなりました。やっともう一度日の明かりを見られ、兄弟姉妹や大切な人たちにも会えると思いました。それで、私は空想しながらおじが私をここから連れ出しに来てくれることを楽しみにするようになりました。毎日、刑務官が釈放時間が来たことを告げる声が聞けるよう耳を澄ましました。期待通り、一週間後に刑務官が私を呼びに来たのです。大喜びで心臓が激しく鼓動し過ぎて胸郭から飛び出しそうになりながら、面会室に到着しました。しかし、私がおじを見ると、おじは顔を伏せてしまったのです。随分してからおじは落胆した声で言いました。

   「やつらは既にお前の件を確定してしまった。禁錮三年だ」

   私はこれを聞いて唖然としてしまい、頭の中は完全に真っ白になりました。私は涙をこらえて、なんとか泣かずにいられました。その後におじが言ったことは何も耳に入ってきませんでした。私は放心状態でおぼつかない足取りのまま面会室を後にしました。両足は鉛がいっぱい詰め込まれたようで、一歩進む度に足が重くなっていく感じがしました。どうやって監房に戻ったか全く覚えていません。監房に着くと、床に倒れ込みました。私は思いました。

   「この一ヶ月以上の非人道的な生活は、その毎日が一年くらいの長さに感じたのに、どうやったらこれを三年間も耐え抜くことが出来るの?」

   これをくよくよと考えれば考えるほど、私の苦しみは増していき、私の将来は増々ぼやけて、果てしなく見えました。これ以上涙をこらえられず、泣き出してしまいました。しかし、私は心の中で誰ももはや私を救い出すことは出来ないと疑いなく分かっていました。私は神を頼りにすることしか出来なかったのです。私は悲しみの中、再び神の前へ行き、神に心の内を明かして言いました。

   「あぁ神様、私は全ての物事は神様の御手の中にあると分かってはいますが、現在は私の心は完全に空っぽになったようです。私は今にも崩れ落ちそうです。刑務所で三年間苦しむのはとても困難になると思います。あぁ神様、どうか御意向を私にお示し下さい、そして私が神様に完全に服従し、勇気を持って降りかかってきたことを受け入れられるよう私に信仰と力を下さるようお願いします」

   ちょうどその時、私は神の御言葉を思いました。

   「すべての人々にとって精錬は耐えがたく、受け入れ難いものであるが、神が義なる性質を人に明らかにし、人に対する要求を公にし、より多くの啓きとより現実的な刈り込みと取り扱いを与えるのは精錬の間である。事実と真理の比較により、神は人自らについてのより大きな認識と真理を人に与え、神の心をより深く理解させ、そうしてより真理に近く純粋な神への愛を人に得させる。それらは精錬を実行する神の諸目的である」(『言葉は肉において現れる』の「精錬を経ることによってのみ、人は真に神を愛することができる」より)

   「終わりの日に、あなたは神に対して証しとならなければならない。あなたの苦しみがいかに大きくても、最後まで経験しなければならず、あなたの呼吸が止まるまで神に対して忠実であり続け、神に身を委ねていなければならない。これのみが真に神を愛するという事であり、これのみが強く確固とした証しとなるのである」(『言葉は肉において現れる』の「辛い試練を経験することでのみ、神の素晴らしさを知ることができる」より)

   神の御啓示と御導きのおかげで、私は自省し始め、徐々に自分の欠陥を発見しました。私は自分の神への愛は不純であり、私は依然として完全には神に服従できていないと気づいたのです。逮捕されて以降、そして邪悪警察との闘いの間、私は勇敢かつ大胆不敵で、拷問を受けている間も涙一滴もこぼさずにいました。けれど、それは私の実際の霊的背丈ではなかったのです。幾度となく私がサタンからの誘惑と攻撃に打ち勝つことが出来たのは、全て神の御言葉がお与え下さった信仰と勇気のおかげだったのです。私はまた邪悪な警察の本質を余すところなく見抜けていなかったことにも気が付きました。私は中国共産党警察は法を順守しており、未成年である私が罪を宣告されることなど絶対になく、重くても数ヶ月間拘置される程度だと思っていたのです。痛みと苦しみにもう少し耐えて、我慢してさえいればこれは終わるだろうと思っていました。自分がここで実際に非人道的な生活を三年も送ることになるかもしれないとは夢にも思っていませんでした。その時、私は苦しみ続けることも神の御計画と御采配に服従することも望んでいませんでした。この結果は私が想像していたこととは違い、それがまさしく私の真の霊的背丈を明らかにしたのです。その時、神は本当に人々の心を奥深くまでお覗きになられ、神の御知恵はサタンの策略に基づいて行使されているのだと初めて気が付いたのです。サタンはこの刑務所生活によって私を痛めつけ完全に弱らせたかったのですが、神はこの機会をお遣いになられて私が自分の欠陥を発見し、自分の不十分な点を認識するようにすることで、私が神に真に服従し、私のいのちがもっと速く前進出来るようにして下さったのです。神の御啓示は窮地から私を導き出して下さり、私に無限の力をお与え下さっていました。私は突然心が明るく満たされ、神の善良な御意図を理解し、もはや惨めに感じなくなりました。私はペテロの例に従って不満を一切言わずに全てを神に御計画いただき、この日以降は何が降りかかってこようとも落ち着いて立向って行く決意をしました。

   この二か月後、私は労働収容所に護送されました。私は評決書を受け取ってそれに署名した時、刑期が三年から一年に減刑されていたことを知りました。私は心の中から何度も何度も神に感謝して、神を讃えました。神はこれら全てのことを御計画なさっており、私はその中に神から私への大いなる愛と御加護を見たのです。

   労働収容所では、私は邪悪警察の更に卑劣で残忍な一面を目の当たりにしました。私たちはとても朝早くに起床して仕事に向かい、毎日作業を情け容赦なく過大に負わされていました。私たちは毎日長時間働き、時には数日間連続で一昼夜ぶっ通しでも働きました。囚人の中には病気になり点滴を必要とした人もいて、点滴が終了したら直ちに作業場に戻って仕事を再開出来るようにと滴下速度を最速設定されていることもありました。これが原因で受刑者の多くは後に治療困難な病気を患いました。仕事の遅い囚人たちは看守から頻繁に言葉の虐待を受けていました。看守の汚い言葉遣いは全く聞くに堪えませんでした。囚人たちの中には労働中に規則を違反して罰を受ける人もいました。例えば、「縄引き」という罰は、地面に跪かされ、両手を背中の後ろで縛られ、両腕を無理やり首の高さまで引き上げて痛め付けるというものです。他には、まるで犬のように鉄鎖で木につながれて、むちで容赦なく打たれる囚人もいました。この非人道的責め苦に耐えられなかった人はわざと餓死しようと試みるのですが、邪悪な看守はそんな囚人の両足首と両手首に手錠を掛け、体を強く抑え付けながら栄養チューブと水分を強引に体内に押し入れていました。看守は囚人たちが死んでしまうことを恐れていましたが、それはいのちを大切にしていたからではなく、囚人の安価な労働力を失うことを懸念していたからです。看守の犯した邪悪な行いは、恐ろしく凶暴でむごたらしい事件同様、本当にあり過ぎて数えきれませんでした。この全てにより、私は中国共産党政府は霊的世界に存在するサタンの地上のおける化身であるのだとはっきり分かりました。それは全悪魔の中で最も邪悪であり、その支配体制下にある刑務所は、名目上だけでなく実質においてもこの世の地獄です。私は尋問を受けた事務所の壁に書いてあった言葉を覚えています。それは、「任意に人を殴ること、または不法な罰に処することは禁じられており、拷問によって自白させることは更に強く禁じられている」です。それにもかかわらず、実際、彼らの行動はそのような規則に公然と反していました。彼らは成人ですらない女の子の私を無慈悲に殴り、不法な罰を加えました。さらに、彼らは私が神を信仰していたというだけで私に刑を宣告したのです。こういったこと全てによって、私は中国共産党政府が平和と繁栄のみせかけを提示する一方で、人々を欺くために用いる策略を明確に理解することが出来たのです。それは正に神の御言葉通りでした。

   「その悪魔は人の身体全体をがんじがらめにして両眼を見えなくし、両唇を堅く封じる。魔王は数千年にわたって現在まで猛威を振るい、幽霊の街を堅固に警備しており、それはあたかも難攻不落の悪魔の城のようである。……遠い昔の祖先はどうだろうか。愛された指導者はどうだろうか。そうした者は皆、神に反抗している。そうした者の干渉により、地にある者すべてが闇と混沌に陥れられたのだ。宗教の自由というが、どうだろうか。市民の正当な権利と利益というが、どうだろうか。そうした物事はすべて、罪を隠蔽する手口である」(『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(8)」より)

   邪悪な警官たちの迫害を経験した後、私は神の仰るこの御言葉の内容を完全に確信し、その時にはこのことに関する実際の認識と体験を自分のものにしていました。中国共産党政府は本当に悪魔的な集団であり、神を憎み神に反抗し、悪と暴力を擁護します。このサタン的体制の下で生きるのは、人間が作った地獄で生きることと何ら変わりません。同時に、私は労働収容所では、人々のあらゆる醜さをこの目で見ていました。口先が上手く看守長の機嫌をとっていた日和見主義で陰険な人の吐き気のするような顔、どう猛に暴力的で猛威を振るいながら弱い人を脅していた人の悪魔のような顔等です。まだ成人としての生活を始めていなかった私は、刑務所で暮らしたこの一年間に人類の堕落をはっきりと目の当たりにしたました。人々の心に存在する欺瞞を目撃し、人間世界がどれだけ邪悪なものになり得るかということに気が付きました。また私は、肯定的なものと否定的なもの、白と黒、是非、善悪、そして偉大なことと卑劣なことを区別することも学びました。サタンは醜く、邪悪で残忍であり、神のみが聖さと義の象徴であられることをはっきりと認識しました。神のみが美と善を象徴され、神のみが愛であり救いであられるのです。神に御見守られ御加護を受け、あの忘れ難き年は私にとってとても素早く過ぎていきました。

   今振り返ってみると、刑務所で過ごしたあの年、私は肉体的苦痛を経験しましたが、神が御言葉で私を導いて下さり、私のいのちを成長させて下さいました。私は神が予めお定め下さった宿命に感謝しています。私が人生の正しい道に足を踏み入れられたことは、神が私にお与え下さった最高の御恵みであり祝福です。私は残りの人生を通して神に従い、神を崇拝して行きます!


終着点のために、善行を十分積まなければならない

2020-09-04 23:04:38 | デボーション

   わたしはあなたがたの間で多くの仕事を成し遂げ、もちろん、何度も言葉を発して来た。しかし、わたしの言葉やわたしの働きは、終わりの日のわたしの働きの目的を完全に達成していないと感じる。終わりの日には、わたしの働きは特定の人や人々のためではなく、わたしの本来の性質を現わすためにある。しかし、無数の理由から―おそらく、時間が足りず、多忙を極めた仕事のスケジュールなどの理由で―わたしの性質により人がわたしのことを少しでも知るようにさせるには至らなかった。ゆえに、わたしの新しい計画、わたしの最後の働きへと前進してわたしの働きの新しいページを開き、その結果、わたしを見る者たちはみな、わたしの存在ゆえに胸をたたいて、とめどなく泣くだろう。それは、わたしはこの世に人類の最後をもたらし、その後、わたしの性質をすべて人類の前に公布するからだ。そうして、わたしを知っている人たちもわたしを知らない人たちもすべて「喜んで見つめる」。そして、確かに、わたしが人間の世界に現れ、全てのものが増える地上に来たことを知るのである。これはわたしの計画であり、わたしの人類の創造以来、たったひとつの「告白」である。あなたがたにわたしの一挙一動だけを見つめて欲しいと願う。わたしの杖はもう一度、人類に、わたしに敵対する者たちすべての近くに押しつけられているからだ。

 


   天と共に、わたしは自分がしなければならない仕事を始める。そのため、わたしは人々の流れの中を曲がりくねって進み、天と地の間を動いて行く。だれもわたしの動きに注目する者はおらず、わたしの言葉に気づく者はいない。ゆえに、わたしの計画は依然として順調に進んでいる。あなたがたの感覚があまりにも麻痺してしまったため、わたしの仕事の段取りがあなたがたには少しも分からないだけである。しかし、いつの日か必ず、あなたがたはわたしの意図を理解するだろう。今日、わたしはあなたがたと共に生き、共に苦しんでいる。わたしは人間のわたしに対する態度を長い間理解して来た。これ以上明瞭にすることは望まず、ましてやあなたがたを辱しめるために、さらに事例を挙げてあえて痛みを感じるようなことはしたくない。わたしの唯一の願いは、あなたがたが行ったことすべてを心の内に留め、再会した日にはそのひとつひとつをわたしの前で数え上げることができるようにすることである。わたしはあなたがたの誰にも濡れ衣を着せたくない。わたしは常に正しく、公正に、また責められるところがなく行動して来たからである。勿論、わたしはあなたがたも心を開いた度量の大きい者であり、天と地、またあなたがたの良心に逆らうようなことを何一つしないようにと願っている。これが唯一、わたしがあなたがたに願うことである。多くの人たちは自分たちが犯した甚だしい過ち故に、心が落ち着くことはなく、穏やかでない。また多くの人たちはたった一つの良い行いすらしてこなかったことを恥じている。しかし、自分たちの罪を恥ずかしいとは全く思わず、ますます悪くなる者たちも多く、まだ完全に暴露されていない自分たちの醜い顔の覆いを完全に引き剥がし、わたしの性質を試そうとする。わたしは、誰かの行動を気にすることも注意深く見ることもない。むしろ、情報収集であれ、地上を歩き回ることであれ、興味のあることであれ、わたしはわたしがしなければならないことをする。大切な時には、一秒も遅れることも、早まることもなく、計画通りに人々の中でわたしの働きを進め、それは楽々とまた素早く行われる。しかし、わたしの働きの各段階で、捨て去られる人たちもいる。わたしは彼らが見かけばかりであることや、彼らの見せかけのへつらいを軽蔑するからである。わたしが忌み嫌う者たちは意図的であろうがなかろうが確実に捨てられる。つまり、わたしはわたしが軽蔑する全ての者が離れていくことを望んでいる。言うまでもなく、わたしの家に留まっている悪い者たちを見逃すことはしない。人を懲罰する日が近づいているため、あのような卑劣な魂を全て急いで投げ捨てようとは思わない。なぜなら、わたし自身の計画があるからだ。

   今こそ、わたしは一人一人のために終わりを決めるときであり、人に働きかける段階ではない。わたしの手帳にひとりひとりの言葉や行動、わたしに従った道、本来の属性や最後の行いなどを書き留める。こうすることで、どのような人であってもわたしの手から逃れることはなく、あらゆる人たちはわたしが定めるように同類の人たちと共にいることになるだろう。わたしは、一人一人の終着点を、年齢や年功序列、苦しみの量、とりわけ憐れみを誘う度合いではなく、彼らが真理を持っているかどうかに基づいて決める。これ以外の選択肢はない。神の心に従わない人たちはすべて懲罰されることをあなたがたは悟らなければならない。これは不変の事実である。よって、懲罰される者たちすべては神の義ゆえに懲罰されるのであって、彼らの数々の邪悪な行為への報いである。わたしは初めから、わたしの計画を全く変更していない。人間に関する限り、わたしが話す対象も、わたしが本当に認めている人たちも減ってきているように感じるだけである。しかし、わたしの計画が決して変わらないようにしている。むしろ、常に変わったり、弱くなったりするのは人の信仰と愛である。人はわたしにへつらうことから、わたしに対して冷たくなったり、あるいはわたしを捨てたりすることさえ可能になるほどである。あなたがたに対するわたしの態度は、初めは熱くも冷たくもなく、それからうんざりして嫌悪感を抱くようになり、最終的に懲罰を与える。しかし、懲罰の日、わたしは依然としてあなたがたを見るが、あなたがたはもはやわたしを見ることはできない。あなたがたの中での生活はわたしにとって退屈でつまらないものとなってしまっているため、言うまでもなく、違った生活の環境を選んだ。それはよりあなたがたの悪意に満ちた言葉による痛みを避け、あなたがたの耐え難く卑劣な行為を避け、あなたがたがわたしを騙したりいい加減に扱ったりすることがないようにするためだ。あなたがたから去る前に、わたしは真理に沿わないことをしないようにと依然として熱心に勧めなければならない。むしろ、あなたがたはすべての人が喜ぶようなこと、すべての人に益をもたらすこと、あなたがた自身の終着点に益をもたらすことをするべきである。さもなければ、災いの中で苦しむ者は、他ならぬあなたとなるだろう。

   わたしの憐れみは、わたしを愛し、自分たちを否定する者たちに現わされている。そして、悪い者たちにもたらされる懲罰はわたしの義なる性質の証明そのものであり、それ以上にわたしの怒りの証である。災いがやって来ると、わたしに反抗する者たちすべてに飢饉や疫病が降りかかり、彼らは涙を流す。あらゆる種類の悪事を犯してきたが、長年わたしに従って来た者たちは罪を免れることはできない。彼らも時代を超えて、ほとんど目にしたことのない災いのただ中で、絶えず恐怖と不安を抱き生きるだろう。そして、わたしだけに忠誠を示して従って来た人たちは喜び、わたしの力に拍手喝采する。彼らは言葉に表せないほどの満足感を体験し、わたしが人類にいまだかつて与えたことのない喜びの中で生活する。わたしは人の善行を宝とし、悪行を忌み嫌うからだ。わたしが初めて人類を導き始めたときから、わたしと同じ心を持った人たちの集まりを獲得することを熱望してきた。そして、わたしはわたしと同じ心を持っていない人たちを決して忘れることはなく、彼らに相応しい報いを与えて楽しむ機会を待ち望みながら、彼らを憎しみと共に心の中に持ち続けてきた。今日、遂にその日を迎え、もはや待つ必要はなくなった。

   わたしの最後の仕事は人を懲罰するためだけのものではなく、人の終着点を決めるためのものでもある。さらに、わたしが行ってきたすべてのことに対して、あらゆる人たちから承認を受けるためである。わたしはすべての人にわたしが行ってきたことは正しく、わたしの行ったことは全てわたしの性質の表現であることを知って欲しいと思っている。人類を生み出したのは人の行いではなく、とりわけ大自然の行いではない。それどころか、創造されたすべてのものの中で、あらゆる生けるものを育むのはわたしである。わたしの存在なしには、人類は滅びる他なく、酷い災難を経験するだけであろう。だれも麗しい太陽や月、緑にあふれる世界を再び見ることはできないだろう。人類は極寒の夜や、避けられない死の影の谷に遭遇するだけだろう。わたしは人類の唯一の救いである。わたしは人類の唯一の望みであり、さらに、わたしは全人類がその存在を託すその者である。わたしがいなくては、人類はすぐに停滞してしまう。わたしがいなくては、たとえだれもわたしに注意していなくても、人類は壊滅的被害を受け、あらゆる種類の霊に踏みつけられるだろう。わたしは、誰もできない働きをしてきた。わたしの唯一の望みは、人が何らかの善行によりわたしに報いることだ。わたしに報いることができる人は僅かだが、それでもわたしはこの世での旅を終え、わたしの働きを現わす次の段階を始める。なぜなら、わたしが長年人々の間で行き来してきたことは実を結び、わたしはそれを非常に喜ばしく思っているからだ。わたしが気にするのは人の数ではなく、むしろ彼らの善行である。いずれにしても、わたしはあなたがたが自分たちの終着点に備えて、十分な善行を積むよう望んでいる。そうすれば、わたしは満足する。さもなければ、あなたがたの誰も自分に降りかかる災いを免れないだろう。災いはわたしによりもたらされ、もちろんわたしが采配を振るものである。もしあなたがたがわたしの目に良いと映らなければ、災いの苦しみから免れることはないだろう。患難の中にあっては、あなたがたの行動と行いは全て適切とはされなかった。あなたがたの信仰と愛は、うわべだけのもので、あなたがたは自分たちの臆病さか屈強さしか示さなかったからだ。これに関しては、わたしは良いものと悪しきものとの評価のみをする。わたしの関心は引き続きあなたがたひとりひとりがどう行動しどう自分を表現するかであり、それに基づいてわたしはあなたがたの終着点を決定する。しかし、わたしは次のことを明白にしなければならない。患難の時に、わたしに全く忠誠を示さなかった者たちにはもはや憐れみは与えない。わたしの憐れみが与えられるのはここまでだからだ。さらに、わたしは、かつてわたしを裏切った者は誰も好まず、ましてや友の利害を裏切る者たちと係ることを望まない。その人が誰であっても、これがわたしの性質である。あなたがたに伝えなければならない。わたしを悲しませる者は誰であっても、再びわたしから慈悲を受けることはなく、これまでわたしに忠実であった者はとこしえにわたしの心に留まるだろうことを。