PSW研究室

専門職大学院の教員をしてる精神保健福祉士のブログ

幼い日の写真

2010年10月04日 14時22分42秒 | ブログのこと
「PSW研究室」、訪問者6万ヒットを超えました。
ここには、1日250人くらいの方が覗きに来てくれています。
1年半前の始めた頃は、ほんの十数人だったんですが。

顔も名前も知らない人が、記事に目を通してくれているということ。
それが、どんなに忙しくても、僕がブログを続ける原動力になっています。
本当に、ありがとうございます。

さて、6万ヒット記念の、想い出写真館です。
母と一緒に撮った、3~4歳頃の写真です。
先日アップした「三輪車の想い出」の続き写真だと思います。

まだ若い、30歳くらいの、母が写っています。
写真を撮った父も、母と同年齢です。
休日、近所の路地で撮ったものでしょうか。

当時、親子3人で、新所沢という街に住んでいました。
今から考えると、本当に小さな家でした。
でも、家族がようやく安住して、新しい一歩を踏み出した土地でした。

それまで、色々あって、僕はよその家に預けられていました。
まだ、保育所も満足に整備されていない時代です。
父も母も、貧しい中で、新しい仕事を軌道に乗せるのに必死に働いていました。

僕を預かってくれていたのは、母の親友の玉田さんというお家でした。
玉田さん夫婦には、子どもがいなかったため、僕を大層可愛がってくれました。
玉田のおじさんはとても穏やかな人で、おばさんはとても明るい人でした。

おばさんは自分のことを、僕に「ママ」と呼ばせようとしていました。
「ママと言ったら、これあげる♪」と、お菓子など、ちらつかせていたようです。
でも、僕が口をへの字にして、言おうとしないので、いじらしかったといいます。

時々、母は、玉田さんの家まで、僕に会いに来ていました。
玄関の戸が開く音がすると、僕は「ママだ!」と叫んで走っていったそうです。
それまで膝の上に僕を乗せてあやしていたおばさんは、とても切なかったと言います。

母が家に帰らなければいけない時間には、僕は母にしがみついていました。
いつも「ママ…」と泣き叫ぶ僕を、おばさんが抱えている間に、母は玄関を出たそうです。
母は涙を浮かべて帰り、泣いている僕を抱えながら、おばさんも泣いていたそうです。

父母にも、玉田さんにも、僕はとても愛されていました。
それでも、親と離ればなれになる心細さは、どうしようもなかったのでしょう。
置いて行かれる、捨てられる、親を失う恐怖を、感じていたのではないでしょうか…。

そんな2年間を経て、親子3人で暮らし始めたのが、この写真の頃です。
貧しくても、親子で一緒に暮らせる幸せを、子ども心に実感していたと思います。
穏やかな笑顔の、古びた一枚の写真に、その時の家族の歴史が刻み込まれています。