あの日から、5年が経ちました。
2011年3月11日、午後2時46分。
大学の研究室で仕事をしていたら、書棚がギシギシと揺れ、本が降ってきました。
かつて体験したことのない揺れに、ただごとではないことは分かりました。
廊下や中庭では、女子学生たちが座り込み、悲鳴を上げていました。
少しずつ、各地の映像がネットやテレビで目に飛び込んできました。
不気味に押し寄せる波に、街が呑み込まれていく風景を見ました。
波間に浮かぶ小さな箱が、逃げる人が乗っている車だと理解した時、愕然としました。
すべて現実に起きていることだとは、にわかには信じられませんでした。
東京では公共交通機関が止まって、家に帰れなくなったくらいでしたが。
夜中、渋滞が続く国道をとぼとぼ歩きながら、どこまでも続く赤いテールランプにくらくらしました。
翌日の卒業旅行は中止、院生たちと歩いている時に、福島第一原発の第一報が入りました。
とんでもないことが、この国で起きてしまったと実感しました。
2011年3月11日。
あの日から約1か月後、このブログは炎上しました。
「心理カウンセラーお断り」の記事を掲載したことで、多くの批判を浴びました。
今から考えれば、誰もが言葉を呑み込み、ナーバスになっていたのだと思います。
ディスカッションというよりは、ネガティブでアグレッシブな他罰的な言葉が、ネットを席捲しました。
あの日からの2ヵ月で、大きく自分の人生も変わりました。
24年間の結婚生活にピリオドを打ち、離婚をし、家庭を失いました。
住み慣れた土地を離れ、新しい住まいで、時の流れに身を委ねていました。
痩せて表情の乏しくなった自分を、身近な同僚の教員たちが心配してくれました。
あの日からの半年は、今から考えれば相当抑うつ的であったのは確かです。
6月の学会や、7月の国際会議開催もありましたから、忙しく立ち働いてはいましたが。
仕事の宿題が溜まっていても、頭がまとまらず、原稿が書けませんでした。
新年度に入ってから教科書が出版されるという、前代未聞の事態も招いてしまいました。
あの日から1年半後、自分を奮い立たせ、一念発起して博士論文を書き始めました。
大学院に通っての課程博士ではなく、一発審査の論文博士にチャレンジすることにしました。
何も自分は書き記していない、何も残せていないという感覚が、背中を押しました。
生き残った者として、何か今、書かなければ、死者たちに申し訳ないと思いました。
あの日から3年後、何回も書き直した論文を認めて頂き、博士号を取得しました。
その後1年かけて、さらに論文を再構成して、昨年ようやく2冊の本を出すことができました。
とても時間がかかりましたが、自身にとっては死者への贖罪と感謝の日々でありました。
そして今年は、多くの仲間たちと「精神医療国賠訴訟」を提起しようとしています。
2011年3月11日。
あの日から、5年が経ちました。
宮戸島への訪問を皮切りに、翌年から始まった、専門職大学院のフクシマ・バスツアー。
多くの方のご協力を頂いて、今年も現地の方との交流は続けて行きたいと思います。
もうすぐ卒業の、あるいは入学してくる専門職大学院生とともに、また8月に行きます。
今もフクシマで生活する人々と一緒に、この5年間の意味を考えてみたいと思います。
あの日、「最低の政府、最高の国民」と言われた、この国で。
あの日、原発はもうゴメンだと多くの人が思った、この国で。
あの日、国土の半分が人が住めなくなるところだった、この国で。
自分が生きている間に何ができるのか、語られなかった死者の想いに、考えを巡らせてみたいと思います。
あの日から、5年が経ちました。
まもなく、午後2時46分ですね。
死者に頭を垂れましょう。
合掌
※画像は、未だ帰宅困難地域となっている浪江町の請戸小学校の校舎にて。
他の校舎の時計は、津波到達時刻と思われる15時38分で止まっていました。