PSW研究室

専門職大学院の教員をしてる精神保健福祉士のブログ

あの日から5年

2016年03月11日 13時24分04秒 | 日々の雑記

あの日から、5年が経ちました。

 

2011年3月11日、午後2時46分。

大学の研究室で仕事をしていたら、書棚がギシギシと揺れ、本が降ってきました。

かつて体験したことのない揺れに、ただごとではないことは分かりました。

廊下や中庭では、女子学生たちが座り込み、悲鳴を上げていました。

 

少しずつ、各地の映像がネットやテレビで目に飛び込んできました。

不気味に押し寄せる波に、街が呑み込まれていく風景を見ました。

波間に浮かぶ小さな箱が、逃げる人が乗っている車だと理解した時、愕然としました。

すべて現実に起きていることだとは、にわかには信じられませんでした。

 

東京では公共交通機関が止まって、家に帰れなくなったくらいでしたが。

夜中、渋滞が続く国道をとぼとぼ歩きながら、どこまでも続く赤いテールランプにくらくらしました。

翌日の卒業旅行は中止、院生たちと歩いている時に、福島第一原発の第一報が入りました。

とんでもないことが、この国で起きてしまったと実感しました。

 

2011年3月11日。

 

あの日から約1か月後、このブログは炎上しました。

「心理カウンセラーお断り」の記事を掲載したことで、多くの批判を浴びました。

今から考えれば、誰もが言葉を呑み込み、ナーバスになっていたのだと思います。

ディスカッションというよりは、ネガティブでアグレッシブな他罰的な言葉が、ネットを席捲しました。

 

あの日からの2ヵ月で、大きく自分の人生も変わりました。

24年間の結婚生活にピリオドを打ち、離婚をし、家庭を失いました。

住み慣れた土地を離れ、新しい住まいで、時の流れに身を委ねていました。

痩せて表情の乏しくなった自分を、身近な同僚の教員たちが心配してくれました。

 

あの日からの半年は、今から考えれば相当抑うつ的であったのは確かです。

6月の学会や、7月の国際会議開催もありましたから、忙しく立ち働いてはいましたが。

仕事の宿題が溜まっていても、頭がまとまらず、原稿が書けませんでした。

新年度に入ってから教科書が出版されるという、前代未聞の事態も招いてしまいました。

 

あの日から1年半後、自分を奮い立たせ、一念発起して博士論文を書き始めました。

大学院に通っての課程博士ではなく、一発審査の論文博士にチャレンジすることにしました。

何も自分は書き記していない、何も残せていないという感覚が、背中を押しました。

生き残った者として、何か今、書かなければ、死者たちに申し訳ないと思いました。

 

あの日から3年後、何回も書き直した論文を認めて頂き、博士号を取得しました。

その後1年かけて、さらに論文を再構成して、昨年ようやく2冊の本を出すことができました。

とても時間がかかりましたが、自身にとっては死者への贖罪と感謝の日々でありました。

そして今年は、多くの仲間たちと「精神医療国賠訴訟」を提起しようとしています。

 

2011年3月11日。

あの日から、5年が経ちました。

 

宮戸島への訪問を皮切りに、翌年から始まった、専門職大学院のフクシマ・バスツアー。

多くの方のご協力を頂いて、今年も現地の方との交流は続けて行きたいと思います。

もうすぐ卒業の、あるいは入学してくる専門職大学院生とともに、また8月に行きます。

今もフクシマで生活する人々と一緒に、この5年間の意味を考えてみたいと思います。

 

あの日、「最低の政府、最高の国民」と言われた、この国で。

あの日、原発はもうゴメンだと多くの人が思った、この国で。

あの日、国土の半分が人が住めなくなるところだった、この国で。

自分が生きている間に何ができるのか、語られなかった死者の想いに、考えを巡らせてみたいと思います。

 

あの日から、5年が経ちました。

まもなく、午後2時46分ですね。

死者に頭を垂れましょう。

合掌

 

※画像は、未だ帰宅困難地域となっている浪江町の請戸小学校の校舎にて。

他の校舎の時計は、津波到達時刻と思われる15時38分で止まっていました。