もうすぐお正月。みなさんは、おせち料理のお重を予約されましたか?「お正月は日本人らしくおせちを食べよう」というスローガンがあちこちで聞かれるここ近年ですね。デパートやスーパーで扱っているお重や、市販の「おせち料理の作り方」本に載っているメニューこそが、我々日本人の伝統・・・と思っている方も多いだろうと思います。
今回ご紹介するのは、そのメニューが実は、あなたのご先祖様が食べていたものとは違うかも知れないという話です。
以前このブログに書いた通り、タミアの母は子ども時代、現在のおせち料理とは異なる料理を食べていました。農文教の「聞き書き〇〇県の食事」シリーズで確認したところ、確かに母の出身地では、市販のお重とも違うし、「おせち料理の作り方」本に載っているメニューとも違うものを食べていたことが分かりました。
タミアが、「日本人だから伝統のおせちを食べよう」と言って、スーパーや百貨店からお重を買ってきて、「ああ、美味しい。これぞ日本の伝統!」と舌鼓を打ったりでもしたら、空の上からご先祖様が見て「それ、わしらの食べていたのと違うぞな。」と舌打ちするんでしょうねえ。
昭和30~50年代に地方色豊かな伝統的おせちの多くが忘れられてしまい、そこへ、出版社が東京や京都中心のおせち料理の作り方の指南書を発行し、また、出来合のお重を売りたい業界等が、「これぞ日本の伝統」と売り込んで、こうして今に至っている訳です。
本州の北端と南端を例に、大正時代から昭和初期の実際の正月料理がどうだったのか見てみました(出典は上記の「聞き書き」シリーズです)。
まず、青森県南部地方上北の正月料理は「孤食」だったのです!よく最近の食育指導者は、「家族が別々に食べるのは悪い事です。」と主張するのですが、この地方の正月の伝統は、家族が別々に食べたり、子どもだけ集まって食べるのが慣わしだったのです。これだけみても、今日の食育の中には、伝統や地方の個性を無視した教育が行われていることもあるのが分かりますね。
また、食事はお重ではなくお膳で配膳されました。つまり、個人ごとに料理が配られて、めいめいが食べていたのです。なお、昔は全国各地で、(ちゃぶ台とかではなく)お膳で個人個人に食事をしていましたが、その理由は、他の人と一緒の器や箸で食べるとケガレが伝染すると考えられていたからだそうです。そういう点から言っても、日本の食文化は孤食志向が元々強かったと考えるべきでしょう。
話を元にもどして、この地域の日常食は、アワ飯や蕎麦などであり、白いご飯が食べられる機会はめったにありませんでした.お正月はその米の飯が食べられる貴重な時でした。おせち料理は、「つぼ(じゃがいも、にんじん、しいたけ、こんにゃく、ささぎ豆、油揚げ)」と「ひら(焼き豆腐、にんじん、ごぼう、むきたけ、つくねいも、するめの煮しめ)」と魚とどぶろく、そして豆腐と油揚げのすまし汁が付きました。今日のおせち料理の定番、伊達巻きもエビもかまぼこも昆布巻きも寒天料理もちょろぎもつくばねもありませんが、美味しそうな料理ですよね。
今度は、鹿児島県大隅シラス台地に行ってみましょう。
この地域の日常の伝統食は、アワ飯、サツマイモ、そば、里芋などで、やはり米の飯はめったに食べられる機会がありませんでした。元日の朝とお祝いと葬式の時だけが白米を食べられる日で、しかも陸稲でした。正月料理は、鶏をつぶして、煮物や刺身、吸い物、混ぜご飯などを作っていました。(よく「日本の伝統的料理は肉食をしない」と主張する人が多いのですが、それは誤解で、伝統的に日本各地で鳥料理や鯨肉が食べられていたのです)。
この地方の正月料理として、鶏の様々な料理のほかには、里芋、もやし、豆腐、なます、結び昆布、切り干し大根などが食べられていました。やはり、伊達巻きもエビも寒天もちょろぎも手まり麩もありませんが、美味しそうですよね。食事の出し方はやはりめいめいにお膳が出される方式でした。お重ではありません。
こうしてみると、改めて、日本の食の多様性に驚かされます。そして、今日これらの伝統文化が忘れられていることは残念でなりません。
皆さんのご先祖様は本当はどんなおせち料理を食べていたのでしょうか。
調べてみると、きっと面白い発見があると思いますよ。
今回ご紹介するのは、そのメニューが実は、あなたのご先祖様が食べていたものとは違うかも知れないという話です。
以前このブログに書いた通り、タミアの母は子ども時代、現在のおせち料理とは異なる料理を食べていました。農文教の「聞き書き〇〇県の食事」シリーズで確認したところ、確かに母の出身地では、市販のお重とも違うし、「おせち料理の作り方」本に載っているメニューとも違うものを食べていたことが分かりました。
タミアが、「日本人だから伝統のおせちを食べよう」と言って、スーパーや百貨店からお重を買ってきて、「ああ、美味しい。これぞ日本の伝統!」と舌鼓を打ったりでもしたら、空の上からご先祖様が見て「それ、わしらの食べていたのと違うぞな。」と舌打ちするんでしょうねえ。
昭和30~50年代に地方色豊かな伝統的おせちの多くが忘れられてしまい、そこへ、出版社が東京や京都中心のおせち料理の作り方の指南書を発行し、また、出来合のお重を売りたい業界等が、「これぞ日本の伝統」と売り込んで、こうして今に至っている訳です。
本州の北端と南端を例に、大正時代から昭和初期の実際の正月料理がどうだったのか見てみました(出典は上記の「聞き書き」シリーズです)。
まず、青森県南部地方上北の正月料理は「孤食」だったのです!よく最近の食育指導者は、「家族が別々に食べるのは悪い事です。」と主張するのですが、この地方の正月の伝統は、家族が別々に食べたり、子どもだけ集まって食べるのが慣わしだったのです。これだけみても、今日の食育の中には、伝統や地方の個性を無視した教育が行われていることもあるのが分かりますね。
また、食事はお重ではなくお膳で配膳されました。つまり、個人ごとに料理が配られて、めいめいが食べていたのです。なお、昔は全国各地で、(ちゃぶ台とかではなく)お膳で個人個人に食事をしていましたが、その理由は、他の人と一緒の器や箸で食べるとケガレが伝染すると考えられていたからだそうです。そういう点から言っても、日本の食文化は孤食志向が元々強かったと考えるべきでしょう。
話を元にもどして、この地域の日常食は、アワ飯や蕎麦などであり、白いご飯が食べられる機会はめったにありませんでした.お正月はその米の飯が食べられる貴重な時でした。おせち料理は、「つぼ(じゃがいも、にんじん、しいたけ、こんにゃく、ささぎ豆、油揚げ)」と「ひら(焼き豆腐、にんじん、ごぼう、むきたけ、つくねいも、するめの煮しめ)」と魚とどぶろく、そして豆腐と油揚げのすまし汁が付きました。今日のおせち料理の定番、伊達巻きもエビもかまぼこも昆布巻きも寒天料理もちょろぎもつくばねもありませんが、美味しそうな料理ですよね。
今度は、鹿児島県大隅シラス台地に行ってみましょう。
この地域の日常の伝統食は、アワ飯、サツマイモ、そば、里芋などで、やはり米の飯はめったに食べられる機会がありませんでした。元日の朝とお祝いと葬式の時だけが白米を食べられる日で、しかも陸稲でした。正月料理は、鶏をつぶして、煮物や刺身、吸い物、混ぜご飯などを作っていました。(よく「日本の伝統的料理は肉食をしない」と主張する人が多いのですが、それは誤解で、伝統的に日本各地で鳥料理や鯨肉が食べられていたのです)。
この地方の正月料理として、鶏の様々な料理のほかには、里芋、もやし、豆腐、なます、結び昆布、切り干し大根などが食べられていました。やはり、伊達巻きもエビも寒天もちょろぎも手まり麩もありませんが、美味しそうですよね。食事の出し方はやはりめいめいにお膳が出される方式でした。お重ではありません。
こうしてみると、改めて、日本の食の多様性に驚かされます。そして、今日これらの伝統文化が忘れられていることは残念でなりません。
皆さんのご先祖様は本当はどんなおせち料理を食べていたのでしょうか。
調べてみると、きっと面白い発見があると思いますよ。