NHKの朝の連続ドラマ「まんぷく」は、インスタントラーメンの生みの親、安藤百福さんとその妻仁子(まさこ)さんをモデルにした物語です。放送開始から涙あり笑いありのドキドキハラハラ展開とそれぞれの役者さんの見事な演技に、タミアもすっかり釘付けです。そして、さすがNHKならではリアルなセットや小道具、精密な時代考証など、丁寧な心配りだと感動しています。インスタントラーメンが好きな人にはもちろん、そうでない人にも目が離せない番組だと思います。(2019年1月7日に、「精密な時代考証」の文字に消し線を書き加えました。最近、時代考証的に疑問なシーンが増えたので、残念ですが消し線を入れます。あの時代の社会的状況でこのストーリー展開はありません。)
さて、このドラマはあくまでもフィクションなので、安藤さん夫妻の人生をそのまま描いた話ではないのですが、タミアが今からとても気になってるのが、我が国の栄養学に大きな足跡を残した故有本邦太郎氏が、番組ではどのような形で登場するか、です。
実は、有本さんがいなければ、インスタントラーメンは生まれなかったかもしれないのです!!故安藤百福さんは、唯一の自伝「魔法のラーメン発明物語 私の履歴書(日本経済新聞社)」のp72で、「戦後すぐ、即席めんの研究を勧めてくれた」人こそが高名な栄養学者の有本邦太郎さんだったと明記しています。
この本のp16~p17にも、百福さんがインスタントラーメンを発明しようと決心したきっかけは二つあったことが記されています。
一つは戦後すぐ、1店のラーメン店に長い行列が出来ているのを見た思い出、二つ目は有本さんの教えてくれた「ある情報」でした。ついでに言うと、p72~p73には、百福さんがチキンラーメンの発明後に有本さんを訪れて、栄養分析を依頼したら、当時日本人に不足していた栄養素が材料の鶏ガラから含まれていると分かり、厚生省がチキンラーメンに「妊産婦の健康食品」とお墨付きを出したという意外なエピソードも載っています。安藤百福さんと有本さんにはそんな交流もあったのですね。
有本さんは大変人なつっこくて多くの人に慕われて、多数の栄養学者を育てことでも知られており、有名な菜食主義者の故川島四郎先生にも大親友と慕われたのです。と書くと一部の菜食主義の方々は「嘘でしょう?」と悲鳴を上げるかもしれませんが、川島先生本人がその暖かい友情の思い出を記録に残していますので、ブログの後半で紹介します。
今日のブログの前半では、有本さんがいなかったら、世紀の大発明「インスタントラーメン」が無かったかもしれない、その驚きの物語を記します。
まず、最初に簡単に有本さんの経歴を書きます。
明治31年和歌山市生まれの有本さんの、社会人としてのスタートは、星製薬の研究員でした(創業者である当時の社長の星一さんは、星薬科大学の創立者であり、ショートショートの第一人者星新一さんのお父様です)。その後、東京市衛生試験所に勤めた後、あのあまりに有名な「わかもと」にスカウトされて、子会社の「わかもと健康菓子(株)」の取締役になります。
その後、昭和15年に財団法人日本労働科学研究所に請われて部長として就任しますが、「ある理由」から召集されずに敗戦を迎えます(召集を免れた理由は、川島四郎先生と関係があるので、後半までお待ちくださいね)。
敗戦後、GHQは厚生省の三木局長に栄養課を作るようにと指導し、三木局長は、役人経験のないフレッシュな人材の有本さんに課長になって欲しいと懇願し、こうして昭和21年12月に、有本さんは全く思いがけず役人となったのでした。
そのころ、安藤百福さんは栄養食品の開発に取り組んだ関係で、厚生省や農林省に行く機会が多くありました。昭和23年に、安藤さんは、学校給食はなぜパンなのだろうと疑問をもち、厚生省の有本さんに出会って、「日本人が好むめん類をなぜ、粉食推奨に加えないのですか」と話します。
・・・と書くと一部の読者さんは「ああ、『小麦戦略』で学校にパンが導入されたというアレね」と早合点するかもしれませんが、実は学校給食と小麦戦略は全く関係がありませんでした。有本さんが話したのはもっと意外な事実でした。
今日私たちが耳にする小麦戦略説には様々なパターンがありますが、そのどれもが当時の時代背景と照合すると話が食い違うという論文(養賢堂「農業および園芸」掲載「生活改良普及員の昭和20~30年代の栄養指導の意義と功績」第88巻12号)がありました。気になる方は読んでください。
第二次世界大戦に学校給食が導入されたのは、飢えた大勢の日本の子供を救おうと、GHQのサムズ大使が日本政府に「米飯と味噌汁を基調にしよう」と学校給食開始を働きかけたのがきっかけです。ところが日本政府は、大人に配布する食糧すら入手できなかった。凶作などで「米なし、味噌なし」の時代だったからです。そこで当時厚生省の職員だった大磯敏雄氏らが、アメリカの宗教・社会事業団体「LARA(ララ)」に働きかけて、ララから送られた食糧を学校給食にしたのです。日経記事によるとララは日系1世の浅野七之助さんらが大きな役割を果たした団体です。
日本全国の約1400万人がララからの贈り物「ララ物資」の恩恵を受けました、受領総量1万6千トンのうち2割はアメリカや中南米の日本人と日系人が祖国の窮状を見かねてプレゼントしたもので、この脱脂粉乳と小麦で作ったパンが子供たちを救ったのです(「混迷のなかの飽食」大磯敏雄 p167,170 昭和55年刊行 および2014年8月16日日本経済新聞朝刊39面)
「いやいや、学校給食のパンが日系人の贈り物だったとしても、その背後には、日本を米国産小麦の市場としたいGHQの陰謀があったんでしょう?」というのはピント外れです。先の論文によると、米国が小麦過剰に陥ったのは昭和28年のこと。それまで米国が小麦の販売先として当てにしていたヨーロッパは急に豊作になったし、米国内も豊作で、朝鮮戦争も終結し、思いがけず急に小麦が余ってしまったのです。
一方それまで世界の最貧国の1つだった日本は、朝鮮戦争特需がきっかけで急に経済回復しました。ですが国民を養うほど大量のお米はまだ収穫出来なくて、でも外国産米を購入するお金もないので昭和29年に米国とMSA協定を結んだ、だから昭和27年4月に解散したGHQは関係ないとのこと。
その後に生じたキッチンカー事業は米国政府ではなく米国の民間団体との提携による「おかずの作り方教室」で、配布されたテキストには有名醤油メーカーも広告を出していますので、和食否定運動ではありません。洋食だけではなくてんぷらやそうめんなど和風のおいしいお料理も色々と指導していました。
また、「陰謀論大好きさん」の文章の中では頻繁に小麦戦略とペアを組んでいる「白米を食べると頭が悪くなる」説は、昭和31年に脳生理学者の林髞慶応大学教授が唱えた説ですが、原文を読むとパンを食えとは一言も言っていないのでむしろ玄米をおすすめしているようにも読めるのがミソです(笑)。栄養学者ではなくて脳生理学者というのも必見ポイントでして、今も昔も脳生理学者の中には疑似科学すれすれの人が混ざっていますね(ピンとくる人も多いと思う)。
くだんの林教授が「パンを食べると頭が良くなる」という方向にシフトしたのがやっと昭和33年、しかもこの説が流行したのはなんとも遅いことに昭和36年。炭水化物の取り過ぎは良くないので野菜や動物性タンパク質も取って栄養バランスを取りましょうと指導していた厚生省は、パンか米かと論争しても意味がないと批判していました。
さてさて、長くかかってすみませんでしたが、「学校給食のパンは米国の陰謀である説」を取っ払わないと話が先に進まないので、陰謀論をどける作業をしました。
やっとここから、安藤百福先生と有本邦太郎課長の友情の話に戻ります。
安藤さんが、有本さんから聞いた「学校給食では麺類がなかなか使用できない驚きの理由」、それは物流でした!なぜなら「当時、小麦粉で作るうどんやラーメンのめんは零細企業の仕事で、量産技術も流通ルートもなかった」(前出の安藤さんの自伝、p17より。)のです。めんは量産できない、流通もできない、それじゃ学校に届けることもできないわけです。パンは戦前から大きな工場や流通ルートもあったので、だからほぼ自動的に、学校給食はパン給食になってしまったという訳です。有本さんは、わかもとの子会社でお菓子の製造販売を指揮し、衛生管理や流通ルートで苦労したことを記録に残しているほどの人ですから、有本さんの解説は安藤さんにもとても説得力があったことでしょう。
有本さんから聞いた話が心に残った安藤さんは、いったん、様々な運命から食品開発から手を引くことになるのですが、昭和32年に、保存ができて簡単に食べられる便利なめんの研究に取りかかり、1年かかってチキンラーメンの開発に成功しました。
その後のチキンラーメンの偉大な即席(じゃなくて)足跡は、大勢の人がご存じなので、このブログでは特に記しませんが、安藤さんの発明は、日本を超えて世界中の人々に恩恵を与えたのです。そして、我が家も時々その恩恵に預かっています。
ここから後半の話、川島四郎さんと有本さんの意外な関係についてです。
実は、有本さんが戦時中に召集されなかったのは、川島さんの計らいでした。当時日本軍で食糧問題を担当する重責にあった川島さんは、有本さんに会って「日本でも屈指の」栄養学者と見抜きました。そこで絶対彼を死なせてはならないと、必死で徴兵係に奔走連絡し、有本さんを陸軍の研究科所属にしたのです。(川島四郎さんが有本さんへの追悼で書いた文、「兄弟のようにしていたのに」より。「有本邦太郎:回想」収録)。そしてその後長きにわたって非常に仲良い関係を保っていたのでした。
今日では菜食主義者と多くの方に記憶されている川島四郎さんですが、実は鳥肉や兎肉なども勧めていた人なので、今日の言葉で言えば決して菜食主義者ではないのです。
「毎日ライフ」昭和58年10月号には、川島四郎さんと有本邦太郎さんの「栄養学者一七四歳の「長生き対談」」という記事が掲載されましたが、思わず微笑んでしまう内容です。まず、対談の冒頭には、企画の経緯が、記者の言葉で収録されています。記者は昭和45年ごろの「毎日ライフ」創刊時に色々お手伝いをしていた。その折に「生き方も食い物も対照的な二人の栄養学者がいる」と聞いたので、有本さんと川島さんに取材して、「肉食対菜食」というタイトルで記事が載った。それから13年半経ち、今またこうしてお二人にお会いできた、という紹介です。
ところが昭和45年時の記事でも川島さんは鶏卵を食べてますし、この昭和58年の記事でも、高齢者は肉より魚、鶏、うさぎ、卵、植物性タンパク質を取った方が良いと川島さんは主張するのです。
平成の現代で菜食主義といえば、動物性タンパク質は卵・牛乳・乳製品まで。ゆるい菜食主義の「ペスカトリアン」でも魚まで。なのに川島さんは、菜食派と名乗りながら平然と鶏肉やうさぎ肉を勧めるのですから口元がゆるんでしまいます。一方の有本さんも笑いながら「マスコミは何々派と名付けたがる」と茶化しちゃうし。楽しく和やかな会話からかいま見えるのは、雑誌のコンセプトに応じてお茶目な「敵対関係」を演じる様子です。
その翌年、急性肺炎により有本さんは急逝されます。昭和61年9月に発行された追悼集「有本邦太郎:回想」は、大勢の人に慕われた有本さんの人柄がありありと伝わる、心を打つ本です。そこに収められた、川島さんの書いた弔辞には「肉食を重んずる君、草食を主とする僕、主食ではライバルだったが。それでいて、兄弟以上の仲よしだった。」とあります。意味を説明すると、昭和の日本人は、現在の私たちよりもお米をたくさん食べて牛や豚は少量だけ食べていたので、当時のマスコミは、お米を食べつつもおかずに牛肉や豚肉を多く食べる有本さんを肉食派と呼び、鳥肉や魚肉を少量食べる方が良いと考える川島さんを草食派と呼んでいたのです。
現代の私たちが肉食・草食と聞くと、極端な「炭水化物を避ける」派と「完全菜食主義」派の対決だと勘違いしてしまうし、当時のマスコミ紙面では両者対決と書かれたので、一部の方は川島さんと有本さんは仲が悪かったと誤解していますが、実は、川島さんは有本さんを非常に慕って「兄弟以上の仲よしだった」と回顧していたのです。量や具体的種類はともかく動物性タンパク質が健康に役立つという点について二人は一致していたし、栄養学について科学的に研究するのが大事だという姿勢も共通していたから、尊敬していたのです。
有本さんは、厚生省課長の後、国立栄養研究所長などの要職を経て、我が国の栄養学に多大な貢献をし、多くの人材を育て、昭和59年に永眠しました。このとき川島さんは、研究先でマラリアに感染してナイロビ病院の病床にいましたが、親友の急逝を知り急いで弔辞を送りました。その後、追悼集に「兄弟のようにしていたのに」という文章を寄せました。そこには、ある新聞記事に二人の激論の記事が載ったものの、実はその後で「二人は肩を叩いて一つお互い長生きをしよう、それで勝敗の決としようと笑って別れたものである。」と、裏側の事実を明かしていました。まぶたをつぶると、愉快な二人の友情が目に浮かびます。
川島さんの文章はこう締めくくられています。「私も九十二歳、間もなくあの世に逝く。待っていてくれ。君の近くに席をとって待ってくれ給え。」この文に、川島さんの有本さんへの深い友愛を感じて、私はしばし涙が止まりませんでした。
川島さんはこの追悼集の発行の3ヶ月後に永眠しました。
天国というのが本当にあるのかどうか分かりません。しかし、もしもあったとすれば、今も二人で、楽しく言い合っているかもしれません。
「有本君、この勝負はやっぱり私の勝ちだったね。」
「川島さん、昭和59年に86歳といえば十分に長寿だよ。引き分けじゃないかな。」
そこへ安藤百福さんが来て「毎日インスタントラーメンを食べていたぼくは96歳まで長生きしたよ。」と言っていたりして。そんなことを考えながらふと空を見上げました。秋の空は遠く高く澄み渡っていました。
さて、このドラマはあくまでもフィクションなので、安藤さん夫妻の人生をそのまま描いた話ではないのですが、タミアが今からとても気になってるのが、我が国の栄養学に大きな足跡を残した故有本邦太郎氏が、番組ではどのような形で登場するか、です。
実は、有本さんがいなければ、インスタントラーメンは生まれなかったかもしれないのです!!故安藤百福さんは、唯一の自伝「魔法のラーメン発明物語 私の履歴書(日本経済新聞社)」のp72で、「戦後すぐ、即席めんの研究を勧めてくれた」人こそが高名な栄養学者の有本邦太郎さんだったと明記しています。
この本のp16~p17にも、百福さんがインスタントラーメンを発明しようと決心したきっかけは二つあったことが記されています。
一つは戦後すぐ、1店のラーメン店に長い行列が出来ているのを見た思い出、二つ目は有本さんの教えてくれた「ある情報」でした。ついでに言うと、p72~p73には、百福さんがチキンラーメンの発明後に有本さんを訪れて、栄養分析を依頼したら、当時日本人に不足していた栄養素が材料の鶏ガラから含まれていると分かり、厚生省がチキンラーメンに「妊産婦の健康食品」とお墨付きを出したという意外なエピソードも載っています。安藤百福さんと有本さんにはそんな交流もあったのですね。
有本さんは大変人なつっこくて多くの人に慕われて、多数の栄養学者を育てことでも知られており、有名な菜食主義者の故川島四郎先生にも大親友と慕われたのです。と書くと一部の菜食主義の方々は「嘘でしょう?」と悲鳴を上げるかもしれませんが、川島先生本人がその暖かい友情の思い出を記録に残していますので、ブログの後半で紹介します。
今日のブログの前半では、有本さんがいなかったら、世紀の大発明「インスタントラーメン」が無かったかもしれない、その驚きの物語を記します。
まず、最初に簡単に有本さんの経歴を書きます。
明治31年和歌山市生まれの有本さんの、社会人としてのスタートは、星製薬の研究員でした(創業者である当時の社長の星一さんは、星薬科大学の創立者であり、ショートショートの第一人者星新一さんのお父様です)。その後、東京市衛生試験所に勤めた後、あのあまりに有名な「わかもと」にスカウトされて、子会社の「わかもと健康菓子(株)」の取締役になります。
その後、昭和15年に財団法人日本労働科学研究所に請われて部長として就任しますが、「ある理由」から召集されずに敗戦を迎えます(召集を免れた理由は、川島四郎先生と関係があるので、後半までお待ちくださいね)。
敗戦後、GHQは厚生省の三木局長に栄養課を作るようにと指導し、三木局長は、役人経験のないフレッシュな人材の有本さんに課長になって欲しいと懇願し、こうして昭和21年12月に、有本さんは全く思いがけず役人となったのでした。
そのころ、安藤百福さんは栄養食品の開発に取り組んだ関係で、厚生省や農林省に行く機会が多くありました。昭和23年に、安藤さんは、学校給食はなぜパンなのだろうと疑問をもち、厚生省の有本さんに出会って、「日本人が好むめん類をなぜ、粉食推奨に加えないのですか」と話します。
・・・と書くと一部の読者さんは「ああ、『小麦戦略』で学校にパンが導入されたというアレね」と早合点するかもしれませんが、実は学校給食と小麦戦略は全く関係がありませんでした。有本さんが話したのはもっと意外な事実でした。
今日私たちが耳にする小麦戦略説には様々なパターンがありますが、そのどれもが当時の時代背景と照合すると話が食い違うという論文(養賢堂「農業および園芸」掲載「生活改良普及員の昭和20~30年代の栄養指導の意義と功績」第88巻12号)がありました。気になる方は読んでください。
第二次世界大戦に学校給食が導入されたのは、飢えた大勢の日本の子供を救おうと、GHQのサムズ大使が日本政府に「米飯と味噌汁を基調にしよう」と学校給食開始を働きかけたのがきっかけです。ところが日本政府は、大人に配布する食糧すら入手できなかった。凶作などで「米なし、味噌なし」の時代だったからです。そこで当時厚生省の職員だった大磯敏雄氏らが、アメリカの宗教・社会事業団体「LARA(ララ)」に働きかけて、ララから送られた食糧を学校給食にしたのです。日経記事によるとララは日系1世の浅野七之助さんらが大きな役割を果たした団体です。
日本全国の約1400万人がララからの贈り物「ララ物資」の恩恵を受けました、受領総量1万6千トンのうち2割はアメリカや中南米の日本人と日系人が祖国の窮状を見かねてプレゼントしたもので、この脱脂粉乳と小麦で作ったパンが子供たちを救ったのです(「混迷のなかの飽食」大磯敏雄 p167,170 昭和55年刊行 および2014年8月16日日本経済新聞朝刊39面)
「いやいや、学校給食のパンが日系人の贈り物だったとしても、その背後には、日本を米国産小麦の市場としたいGHQの陰謀があったんでしょう?」というのはピント外れです。先の論文によると、米国が小麦過剰に陥ったのは昭和28年のこと。それまで米国が小麦の販売先として当てにしていたヨーロッパは急に豊作になったし、米国内も豊作で、朝鮮戦争も終結し、思いがけず急に小麦が余ってしまったのです。
一方それまで世界の最貧国の1つだった日本は、朝鮮戦争特需がきっかけで急に経済回復しました。ですが国民を養うほど大量のお米はまだ収穫出来なくて、でも外国産米を購入するお金もないので昭和29年に米国とMSA協定を結んだ、だから昭和27年4月に解散したGHQは関係ないとのこと。
その後に生じたキッチンカー事業は米国政府ではなく米国の民間団体との提携による「おかずの作り方教室」で、配布されたテキストには有名醤油メーカーも広告を出していますので、和食否定運動ではありません。洋食だけではなくてんぷらやそうめんなど和風のおいしいお料理も色々と指導していました。
また、「陰謀論大好きさん」の文章の中では頻繁に小麦戦略とペアを組んでいる「白米を食べると頭が悪くなる」説は、昭和31年に脳生理学者の林髞慶応大学教授が唱えた説ですが、原文を読むとパンを食えとは一言も言っていないのでむしろ玄米をおすすめしているようにも読めるのがミソです(笑)。栄養学者ではなくて脳生理学者というのも必見ポイントでして、今も昔も脳生理学者の中には疑似科学すれすれの人が混ざっていますね(ピンとくる人も多いと思う)。
くだんの林教授が「パンを食べると頭が良くなる」という方向にシフトしたのがやっと昭和33年、しかもこの説が流行したのはなんとも遅いことに昭和36年。炭水化物の取り過ぎは良くないので野菜や動物性タンパク質も取って栄養バランスを取りましょうと指導していた厚生省は、パンか米かと論争しても意味がないと批判していました。
さてさて、長くかかってすみませんでしたが、「学校給食のパンは米国の陰謀である説」を取っ払わないと話が先に進まないので、陰謀論をどける作業をしました。
やっとここから、安藤百福先生と有本邦太郎課長の友情の話に戻ります。
安藤さんが、有本さんから聞いた「学校給食では麺類がなかなか使用できない驚きの理由」、それは物流でした!なぜなら「当時、小麦粉で作るうどんやラーメンのめんは零細企業の仕事で、量産技術も流通ルートもなかった」(前出の安藤さんの自伝、p17より。)のです。めんは量産できない、流通もできない、それじゃ学校に届けることもできないわけです。パンは戦前から大きな工場や流通ルートもあったので、だからほぼ自動的に、学校給食はパン給食になってしまったという訳です。有本さんは、わかもとの子会社でお菓子の製造販売を指揮し、衛生管理や流通ルートで苦労したことを記録に残しているほどの人ですから、有本さんの解説は安藤さんにもとても説得力があったことでしょう。
有本さんから聞いた話が心に残った安藤さんは、いったん、様々な運命から食品開発から手を引くことになるのですが、昭和32年に、保存ができて簡単に食べられる便利なめんの研究に取りかかり、1年かかってチキンラーメンの開発に成功しました。
その後のチキンラーメンの偉大な即席(じゃなくて)足跡は、大勢の人がご存じなので、このブログでは特に記しませんが、安藤さんの発明は、日本を超えて世界中の人々に恩恵を与えたのです。そして、我が家も時々その恩恵に預かっています。
ここから後半の話、川島四郎さんと有本さんの意外な関係についてです。
実は、有本さんが戦時中に召集されなかったのは、川島さんの計らいでした。当時日本軍で食糧問題を担当する重責にあった川島さんは、有本さんに会って「日本でも屈指の」栄養学者と見抜きました。そこで絶対彼を死なせてはならないと、必死で徴兵係に奔走連絡し、有本さんを陸軍の研究科所属にしたのです。(川島四郎さんが有本さんへの追悼で書いた文、「兄弟のようにしていたのに」より。「有本邦太郎:回想」収録)。そしてその後長きにわたって非常に仲良い関係を保っていたのでした。
今日では菜食主義者と多くの方に記憶されている川島四郎さんですが、実は鳥肉や兎肉なども勧めていた人なので、今日の言葉で言えば決して菜食主義者ではないのです。
「毎日ライフ」昭和58年10月号には、川島四郎さんと有本邦太郎さんの「栄養学者一七四歳の「長生き対談」」という記事が掲載されましたが、思わず微笑んでしまう内容です。まず、対談の冒頭には、企画の経緯が、記者の言葉で収録されています。記者は昭和45年ごろの「毎日ライフ」創刊時に色々お手伝いをしていた。その折に「生き方も食い物も対照的な二人の栄養学者がいる」と聞いたので、有本さんと川島さんに取材して、「肉食対菜食」というタイトルで記事が載った。それから13年半経ち、今またこうしてお二人にお会いできた、という紹介です。
ところが昭和45年時の記事でも川島さんは鶏卵を食べてますし、この昭和58年の記事でも、高齢者は肉より魚、鶏、うさぎ、卵、植物性タンパク質を取った方が良いと川島さんは主張するのです。
平成の現代で菜食主義といえば、動物性タンパク質は卵・牛乳・乳製品まで。ゆるい菜食主義の「ペスカトリアン」でも魚まで。なのに川島さんは、菜食派と名乗りながら平然と鶏肉やうさぎ肉を勧めるのですから口元がゆるんでしまいます。一方の有本さんも笑いながら「マスコミは何々派と名付けたがる」と茶化しちゃうし。楽しく和やかな会話からかいま見えるのは、雑誌のコンセプトに応じてお茶目な「敵対関係」を演じる様子です。
その翌年、急性肺炎により有本さんは急逝されます。昭和61年9月に発行された追悼集「有本邦太郎:回想」は、大勢の人に慕われた有本さんの人柄がありありと伝わる、心を打つ本です。そこに収められた、川島さんの書いた弔辞には「肉食を重んずる君、草食を主とする僕、主食ではライバルだったが。それでいて、兄弟以上の仲よしだった。」とあります。意味を説明すると、昭和の日本人は、現在の私たちよりもお米をたくさん食べて牛や豚は少量だけ食べていたので、当時のマスコミは、お米を食べつつもおかずに牛肉や豚肉を多く食べる有本さんを肉食派と呼び、鳥肉や魚肉を少量食べる方が良いと考える川島さんを草食派と呼んでいたのです。
現代の私たちが肉食・草食と聞くと、極端な「炭水化物を避ける」派と「完全菜食主義」派の対決だと勘違いしてしまうし、当時のマスコミ紙面では両者対決と書かれたので、一部の方は川島さんと有本さんは仲が悪かったと誤解していますが、実は、川島さんは有本さんを非常に慕って「兄弟以上の仲よしだった」と回顧していたのです。量や具体的種類はともかく動物性タンパク質が健康に役立つという点について二人は一致していたし、栄養学について科学的に研究するのが大事だという姿勢も共通していたから、尊敬していたのです。
有本さんは、厚生省課長の後、国立栄養研究所長などの要職を経て、我が国の栄養学に多大な貢献をし、多くの人材を育て、昭和59年に永眠しました。このとき川島さんは、研究先でマラリアに感染してナイロビ病院の病床にいましたが、親友の急逝を知り急いで弔辞を送りました。その後、追悼集に「兄弟のようにしていたのに」という文章を寄せました。そこには、ある新聞記事に二人の激論の記事が載ったものの、実はその後で「二人は肩を叩いて一つお互い長生きをしよう、それで勝敗の決としようと笑って別れたものである。」と、裏側の事実を明かしていました。まぶたをつぶると、愉快な二人の友情が目に浮かびます。
川島さんの文章はこう締めくくられています。「私も九十二歳、間もなくあの世に逝く。待っていてくれ。君の近くに席をとって待ってくれ給え。」この文に、川島さんの有本さんへの深い友愛を感じて、私はしばし涙が止まりませんでした。
川島さんはこの追悼集の発行の3ヶ月後に永眠しました。
天国というのが本当にあるのかどうか分かりません。しかし、もしもあったとすれば、今も二人で、楽しく言い合っているかもしれません。
「有本君、この勝負はやっぱり私の勝ちだったね。」
「川島さん、昭和59年に86歳といえば十分に長寿だよ。引き分けじゃないかな。」
そこへ安藤百福さんが来て「毎日インスタントラーメンを食べていたぼくは96歳まで長生きしたよ。」と言っていたりして。そんなことを考えながらふと空を見上げました。秋の空は遠く高く澄み渡っていました。