タミアのおもしろ日記

食文化・食育のお役立ちの話題、トンデモ食育、都市伝説、フードファディズムなどを分析して解説します!(^.^)

江戸っ子がんばれ!

2015年11月29日 | Weblog
日経新聞の11月17日火曜夕刊7面「食ナビ欄」でこんな和食の紹介記事が掲載されました。和食の代表格は京料理であり、和食のルーツは平安貴族料理である、と。

東京の人はどう思ったことでしょう。江戸前寿司(発酵させずに酢飯に新鮮なネタを乗せる寿司)は世界中の人気メニューで、これを楽しみに来日する人も大勢居ます。江戸前寿司は日本を代表するグローバル和食で、ルーツは京料理とは無関係の江戸っ子庶民の文化です。ちなみに立ち食い蕎麦も外国人観光客の人気メニューの一つだそうで、これも江戸庶民の文化の誇りです。

そのほかの県にも、京料理とは異なるルーツを持つ、それぞれにユニークな和食があります。京料理をヒエラルキーの頂点に置くというアイデアは、誰が何の権限を持って決めたのでしょうか。和食とは多様で懐の深い文化であり、簡単なピラミッド構造で表すことには疑問が持たれます。

がんばれ江戸っ子、がんばれみんな。

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食べる石・江戸時代の米消費量の珍妙な計算

2015年11月21日 | Weblog
ある大学の、食養を信じている先生から、こんな奇々怪々なお話を聞きました。
「民俗学でよく耳にする『昔の人は麦飯や雑穀飯を食べていた』なんて話はぜーんぶウソ。江戸時代はお米が貨幣の単位で、この単位を『石(こく)』と言いますが、幕府には各藩から資産報告があり、それらを計上すると〇〇〇万石にもなりました。これをお米の量に換算して、当時の人口で割ると、一人あたり数百キログラムにもなります。だから全国の日本人はみーんなお米をたらふく食べていたんですよ。民俗学者は示し合わせてウソを付いていたのですよ。」

タミアは唖然となりました。何しろ宮本常一先生をはじめとした多数の研究者の膨大な量の報告書や文献に、「昔は××地方では麦類や雑穀を食べていた。」と書いてあります。そうした先生方が示し合わせてウソを付いていたなんて、そんなことが可能なのでしょうか。そこで我が家の「歩く百科事典」こと珍獣ダンナー(世間では夫と呼ぶらしいのですが・・・・。)にこの話をしたら、ダンナーは苦笑いして言いました。

「その大学の先生は、すっかり誤解なさってるんだなあ。幕府に報告していた資産とは、米だけでなく、海産物や材木やロウ、うるしなども含めるんだなあ。どの産品を報告上の資産にするかは幕府と藩の間の話し合いで決められてたんだなあ。藩ではそれらの生産量を合算して、お米の価値に換算したらどれくらいになると計算して『石』を算出し、幕府に報告したんだなあ。幕府の方はそれを参考にしながら、幕府への貢献度など様々な政治的力学も考慮した上で、各藩の石高を定めてたんだなあ。だからその先生みたいな計算をしても、生産されたお米の量とはぜんぜん合わないんだなあ。」

タミアも爆笑です。
「あはははは。材木やうるしや、幕府への忠義心などは、食べられないねえ。」

「例えば対馬藩は十万石とされたけど、お米はたった五千石も収穫できなかったんだなあ。盛岡藩は20万石だったけど、蝦夷地を警備した褒美に与えられた石高なので、実際にはお米はあんまり取れなかったんだなあ。」

「なるほど・・・あれ、でも、たしか江戸中期から後期にかけて各藩で新田開発を盛んに行ったので、公式発表された表向きの石高よりもお米の生産量が多かった地域も多かった、と高校の歴史で習ったんだけど・・・?」

「あはは、肝心なことに気がついて無いんだなあ。お米はただの換金作物ではないんだなあ。当時は米本位制だから、お米はそのまんまイコールお金、だったんだなあ。つまり、水田は食糧生産の場ではなかったんだなあ。」

「どういうこと?」

「水田は、現代の感覚で言えば造幣局に相当したんだなあ。」

「!!つまり、為政者から見ればお米農家さんは、お金を作っているように見えたということね?」

「そうなんだなあ。だから、中には心優しい藩主もいたようだけど、多くの藩では取り立てを厳しくしてたんだなあ。よく『1石で一人が1年食べられる量だった』とされるけど、例えば、百万石の藩=藩で100万人養える、という意味ではなかったんだなあ。時代によって徴税率は異なるけど仮に5公5民(注:藩が収穫量の半分を徴税すること。)だったとしたら、農民の手元に残るのは50万石、そこから小作農家は地主に小作料や水を使う権利の水利費などをお米で支払ったから、小作農家の手元に残ったのは少しだったんだなあ。

そこから商人に、すきやくわなどの農具、衣類や日用品などの代金をお米で支払ったので、残ったお米はわずかだったと言われるんだなあ。だから多くの農家は雑穀や裏作の麦などを主食としていたんだなあ。」

「大量に徴税した藩は、そのお米をどうしたの?」

「職員には給与をお米で支払い、残りのお米は札差に売って現金化したんだなあ。江戸幕府からは、やれ五街道の整備だ、やれ名古屋城の建築整備だ、やれ権現様の廟の修理だ、やれ参勤交代だ、と理由をつけては沢山のお金や労力を提供するように言われて、赤字に困っている藩が多かったんだな。そうしてお米は江戸や大坂などの大都会に運ばれたんだなあ。」

「そうすると、逆に都会ではべらぼうな量のお米が集中することにならない?」

「だから、江戸では白米ばっかり食べておかずが少ない食事形式が広まって脚気が多発したんだなあ。それに、かなりの量のお米が輸送や保管の途中でコクゾウムシという害虫に食べられて目減りしていったんだなあ。江戸時代にはコクゾウムシを防ぐ技術はなかったんだなあ。」

「それ本で読んだことがある。都会の貧困層は普通のお米を買えなくて、コクゾウムシのわいた『ふけ米』を買って食べていたと・・・。それでも何も食べないよりはましだったという話だった。」

「なるほどなんだな。食糧は権力や政治力のある所に集まるというのが、古代から現代までの歴史が物語っているなあ。現代も、穀物が世界中に均一に行き渡っているかというと、そうでなく、お金のある地域に集まっているなあ。人間の悲しい性なんだなあ。それと似たようなことが江戸時代にも生じていたんだなあ。お米の収穫出来ない藩は、お米の取れる藩からお米を買って人民に分け与えるなんてことはできなかったんだなあ。そんなことしたら財政が傾くからなんだなあ。だから、日本にはお米が食べられる地域と食べられない地域があったんだなあ。」

「例の先生は、江戸時代の政治経済の仕組みや、現代にも通じる人間心理などを全く踏まえずに、机上の空論を述べて居たのね。」

 食養の信奉者の間では、さっきの大学の先生のような奇妙な説があるということで、心を痛めてます。民俗学者を嘘つきと呼ぶ前に、まずは大学の先生だからこそ、しっかり研究して話をしてほしいのです。これからの時代を背負う若い世代が誤った道を歩まないように、きちんと歴史を教えて欲しいと思います。

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変な食育続編・宮本常一先生の本に学ぶ。

2015年11月14日 | Weblog
前回書いた通り、日本各地には麦食や雑穀食を伝統食としていた地域が多いのです。にもかかわらず、現在では大勢の人達が「日本人の主食はお米ばっかりだった」と信じているのはなぜでしょうか。

このような誤解は、実は古くからのものだったようです。民俗学の第一人者、故宮本常一先生は、潮田鉄雄先生との共著「食生活の構造」(柴田書店)の中でこう指摘しています。城下町や商人町や宿場町などに住む人々は、日本中の者が米食をしてきたように考えていた、と。農村で生産された米は年貢米や商米(年貢を取られた後に残ったお米の一部を、農民が現金にするために商人に売ったもの。)として農家の手を離れたため、手元に残ったお米は少量だった。しかしそのことは、都会の人々には理解できなかったのです。そもそも米を生産できない土地の農民は、買いでもしない限りお米を口にすることが出来なかったことなども、都会の人々には全く想像できなかったでしょう。

では、お米が多くの人々に行き渡るようになったのはいつか。同著によると、太平洋戦争中に食糧統制(食糧管理法・略して食管法と呼ばれます。)が行われ、配給米制度が誕生したことが原因だとされています。この法律が成立したのは1942年(昭和17年)ですから、日本人が皆、お米を口にすることができるようになってから70数年しかたってないのですね。

同著によると、宮本先生は日本各地を調査して回って話を伺った時、ほうぼうの山間の村々で、「戦争のおかげで米が食べられるようになった」という声を聞いたそうです。戦争が皮肉にも山村にお米をもたらしたのです。

また、大正7年の「米騒動」(お米の価格が暴騰し、怒った国民が各地で暴動を起こした事件。)によって山間地でお米が食べられた、という、一見すると不可解な記録があります。しかしその理由を知ると「なるほど」です。米騒動で各地で焼き打ち事件が発生したので、政府は社会の安定のために南京米(唐米ともいい、外国産のお米のことです。)を輸入しました。この米は日本人の味覚にはあまり合ってなかったのですが、色が白かったため、白いお米にあこがれていた貧困層が購入したのです。その行動が山村にも広まり、この時初めてお米の味を知り、お米を買って食べるようになった村が少なくなかったと、宮本先生は記しています。

もちろん宮本先生は、米騒動以降も長い間は、お米は広く各地に行き渡ってなかったので、昭和17年にようやく行き渡るようになったのだ、と付け加えています。

また、食管法に基づき配給されるお米の量は少なかったので、お米が貴重だった地域では結局、お米に麦や大根などを混ぜて食べるケースが多く、したがって、銀シャリ(混ぜ物のない白いごはん)を国民が誰でも食べられるようになったのは、お米の国内自給が達成された昭和30年代以降でした。このことはいろいろな研究書で指摘されています。タミアが山間地出身のご年配の方から伺った話でも「昭和30年代まで麦飯だった、そのころ都会に出て初めて白いごはんを食べて驚いた。」と懐かしそうにお話されてました。

・・・・というわけで、ここで前回のブログを振り返ります。石塚左玄氏の唱えた身土不二説は、元々は「風土異則民俗不同」と言って、「人間はその土地その土地に合った作物に順応して暮らしてきたので、先祖代々食べていた伝統食を食べ続けなさい。さもないと病気になるぞ~」という説でした。ちなみにこの説を身土不二(ふじ)説と命名したのは石塚氏の死後に食養会をとりまとめた西端学氏です。京都の光田さんという僧侶から、仏教用語に身土不二(ふに)との用語があり「天上天下唯我独尊」などの意味です、と教えてもらい、意味が違うことは知りつつ石塚氏の説をわかりやすく伝えるためにこの言葉を使用したそうです(出典「有機農業の事典」三省堂)。

 というわけで、身土不二を唱える人々に御願いです。あなたのご先祖様は何を食べていたか、よく調べてから唱えて欲しいのです。お米を収穫出来なかった地域の方が一人でもご先祖に含まれているなら、あなたがお米を食べるのは身土不二に違反しています。ちなみに、タミアは身土不二を全然信じてないので、毎日安心してお米を沢山食べています。身土不二説を唱えながらお米を食べることは、結局、先祖全員が都市出身という、ごく一部の層だけに通じるおとぎ話なのです。


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変な食育・無残な伝統食

2015年11月08日 | Weblog
「日本人なら伝統食の米を食え、麦を食うな、石塚左玄先生の「食養」「身土不二」をモットーとしよう。」と唱えるある団体の広報誌を読みました。身土不二(しんどふじ)とは明治時代に石塚氏が着想した思想で、地元に古くからある食べものを地元で栽培して食べることが健康に良いという考え方です(仏教の身体不二はしんどふにと読み、健康の話とは無関係の人生哲学です)。その広報誌の読者の寄稿にこんな文章がありました。

この投稿者Xさんは、子どもの時におばあちゃんを亡くしたので、家の伝統の「おばあちゃんの味」が分からなかったと。そんなときにこの団体に出会い、感激し、お米中心の一汁一菜の伝統食を守り後世に伝える運動をしています、と。

ネットで検索したら、確かにXさんは食育講演会を各地で開催しているとのこと。そこに出身地も書いてあったので、その地域の伝統食を調べてみてびっくりしました。なんと、昔からお米が全くとれない土地柄で、農民は9割の麦に、外から買ってきた貴重なお米を1割混ぜて、炊いて食べていたと記録にあったのです。Xさんが本気で身体土不二をモットーとするつもりなら、お米を食べてはいけないのです。

タミアは思うのです。日本中にはこのXさんみたいな人が結構多いのだろうと。昭和30年代から昭和の終わり頃にかけて本物の「おばあちゃんの味」が消えていき、実は麦飯を食べていたり、魚をめったに食べられなかったなどの地方の様々な文化も忘れられてしまった。そこへXさんみたいな人が登場して、「食育」と自称して、「日本人はみんな混じりけなしのお米にお魚や野菜をたっぷり食べてました。」という説で日本中が塗り固められていくのかもしれません。

「ファシズム(全体主義)は善意の顔をして広まっていく。」という警句がありますが、まさにその通りだと思います。

・・・これを読んでいるみなさん。あなたのおばあちゃんや、そのまたおばあちゃんは、「本当は」何を食べてましたか?

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パンは食の乱れ?

2015年11月02日 | Weblog
タミアが尊敬する食品業界の方の一人が齋藤訓之先生です。博学なだけでなく、それぞれの情報の間に一貫した物の見方や哲学があり、お話を読んでいろいろと考えさせられます。最近では著書「有機野菜はウソをつく」が大評判になったので、ご存じの方も多いことでしょう。

その齋藤先生が、最近のあるメルマガの中でこのようなことを指摘されていました。
10年以上前、ある「消費者の食事の実態調査」研究報告本を読んでいたら、「菓子パンを食事代わりに食べる人」を指して「食生活の乱れ」と紹介していましたが、果たしてそういう食事を「乱れている」と決めつけていいのでしょうか・・・・と。

確かに、タミアもこれはおかしな決めつけだと思います。これが食事の乱れというなら、朝食のバゲット(フランスパン)にチョコクリームや蜂蜜などをたっぷりかけて食べるフランス人は「国民全体が乱れている」ということになってしまいます。

「いやいや、フランス人はフランスパンを食べていいんだ。でも、日本人ならお米を食べるべきだ。理屈じゃないんだ。」という方もいると思います。でも、そのパターンの考え方がOKなら、実は大変な結論になるのです。

「日本人だから〇〇するべきだ。」という物の言い方は個人の自由を束縛する表現だからです。特に太平洋戦争の時代にはそういう物の言い方がよく聞かれました。例えば「日本人だから日本語さえできれば良い。英語を勉強してはいけない。」「日本人だから伝統的音楽だけに親しむべきだ。西洋の音楽を歌ったり聴いたりもしてはいけない。」「日本人だから髪の毛はまっすぐであるべきだ。パーマをかけてはならない。」など様々に言われて、「なぜですか?」と疑問を表明した人は村八分にあったり、石を投げられたり、特高に捕まったりしたのです。

現代でも時々「日本人だから〇〇すべきだ。」という言葉を聞くことがあります。それが小学生から発せられたりするのを見ると、背筋が寒くなります。子どもは時代の雰囲気に敏感だからです。現代は、あの、言論の自由がない、暗い恐ろしい時代に近づいて居るのでしょうか。

さて、農文教の「聞き書 東京の食事」の44-45頁によれば、すでに大正時代末から昭和初期の東京人形町の女学生の間では「お昼にあんパン」などが普通の生活になっていたようです。そのほかの本を読んでも、都市部ではパンは大正時代から昭和初期にかけて、生活に欠かせないものになっていたと指摘されています。子ども達は菓子パンをよく食べ、大人は味噌や醤油をつけて焼いて食べたりもしていました。食事代わりに菓子パンを食べるのは本当に「食の乱れ」なのでしょうか。むしろ日本の伝統の一つになっているのではないでしょうか。

タミアはお米も大好きですが、パンも好きです。特にあんパンは和食といっていいと思っています。酒種で発酵させてあんこをつつむなんて大胆な発想はすばらしいと思います。お米とパンがけんかしたり、どっちが上か下かの議論ではなく、米食文化とパン食文化、互いの文化がその良さを見つめ合い、認め合い、時には融合もある、そんな心豊かな社会であって欲しいと願っています。

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