8月4日の日経春秋欄は、大きな間違いが混じっていてがっかりな内容でした。メディアを非難する目的はありません。新聞が間違いを報じたことで人々が既存メディアを見捨ててはいけないからです。世間では新聞の記事に間違いがあったからと言って、より信憑性の低いSNSに飛びつく人が多いので、私も嘆いています。SNSより新聞の方がずっと信憑性が高いです。新聞に一層良質なメディアになってもらい、読者を増やしてほしいと願っているからこそ、あえて投稿します。
春秋欄によれば、米国の資金援助でキッチンカーと呼ばれる料理講習車が各地を走り、小麦中心の食事を広めたため、主食の座がお米からパンや麺になったそうですが、それは故鈴木猛夫氏が広めた有名なデマなんです。デマを記事にしてはいけません。
1.キッチンカーの目的はタンパク質や脂質を取るため。
昔から日本人は糖質に偏った食事をしていたため、昭和30年の厚生省(今の厚労省)の研究者たちは健康状態の悪さを危惧し、どうしたらタンパク質や脂質を適正な量取るように指導できるかと苦心していました。
厚生省がいくら説明しても、当時の国民感情は「混ぜ物のない白米を漬物で腹一杯食べるなんて夢のような食事♡」でした。どうやったらコメだけで腹を満たすのではなく、副食(おかず)を食べるようにおすすめできないかと厚生省は苦心しました。
そんな折、オレゴン小麦農家連盟から厚生省に、日本にて小麦を宣伝したいし、そのために必要なお金を出すとの打診があり、厚生省担当官は名案を思いついたのです。交渉してなんと次の合意を取ったのです。
・パン食の宣伝は目的としない
・小麦粉を使った料理が1品さえあれば、あとは日本側がメニューを勝手に決めて良い。
その結果、キッチンカーを購入して、日本全国で紹介した料理はさあなんでしょう。ふふふ。「キッチンカーはパンを宣伝して日本人の食事を破壊した~」と熱弁する鈴木猛夫先生がやっと探し出して示した「ある日のキッチンカーテキスト」がこれなんで、思いっきり笑ってやってください。出典は鈴木さんの『「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活』61頁です。
まず、広告欄にはしっかりと、ヤマサ醤油の広告が…。
テキストに書いてあったのは8種類のメニュー。和洋中で並べて記します。
和食;小アジの唐揚げ、ジャガイモとピーマンの酢味噌
和食;そうめんのごま味噌がけ
和食;いかのハヤシソース(イカはアメリカ人やイギリス人が嫌って絶対食べない食品でした。また、ハヤシソースは諸説ありますが、洋食をヒントに日本で発明されました。以上を考えると、これは和食です。)
和風中華;四宝涼拌(サイコロ状に切って醤油で煮詰めた牛肉に、こんにゃく、ジャガイモ、キャベツ、キュウリなどを混ぜたもの。醤油やこんにゃくを使っているなど、中華というより和食に近いメニューです。)
中華;涼拌麺(冷やし中華を当時はこう呼びました)
洋風中華;トーストパンと中華サラダ(鯨の大和煮に、キュウリや大根にんじんなどを短冊に切って味付けして載せたもの)
洋食;フィッシュサルシャード(あじの唐揚げにタマネギとトマトのソース)
洋食;なすのフリッター(なすの洋風天ぷらにトマトケチャップ)
お気づきですね。上記8品のうち、洋風中華と和風そうめんと冷やし中華を除けば、残り5つはごはんのおかずなんですよ!!
鈴木さんはあれほどキッチンカーが原因でパンが広まったと言いながら、自説を証明できる資料をとうとう見つけることが出来なかったんですよ!
2.そもそもお米を主食としていた人は限られていた。
春秋欄の冒頭でも大根飯について触れられている通り、戦後まもなくまでの伝統的な日本では、米飯をたくさん食べられるのは都市住民と、田舎では稲作の盛んな地域の富裕層でした。それ以外の層、つまり国民の大半は、ごく少量のコメに大量の大根や雑穀(麦など)を混ぜて炊いて食べていました。また、江戸時代から盛んだったそばやうどんなども、明治以降一層盛んになり、そばやうどんを主食にしていた地域もたくさんありました。
そんな中人口が増加基調のため、陸軍は資源の限られているコメが将来不足することに気づき、日本人の主食の一部をパンに置き換えようと考えました。政府も小麦増産運動をし実際に昭和初期は海外に輸出するほど大量の小麦粉を日本で生産していたのです。陸軍は農村で小麦栽培が盛んになったのを見て、農家もパンを作って食べようという指導を展開しました。戦前のマスコミも、パンが流行していると書き、パンが日本の食に定着するように働きかけていました。
さて、時は流れ戦争が終わり、戦後の昭和30年から連続してコメの大豊作が訪れました。それ以降、やっと一般の人も純粋な米飯を食べられるようになっていったのです。
それまでは富裕層しか食べられなかったピュア米飯に大人も子どもも大喜びし、莫大な量のコメが消費されるようになったのが昭和30年代という時代です。消費ピークは昭和37年。それ以降お米の一人当たり消費量が減ったのは、そろそろコメの「ドカ食い」に飽きて来た昭和30年代半ばにラーメンブームが発生したからです。
春秋欄によれば、キッチンカーが原因でそれまで主食だったごはんがパンや麺に置き換わったという主張ですが、いや、キッチンカーの指導は、ごはんを主食にする方に寄与したことでしょう。
キッチンカー以前から日本人は軍隊や菓子店でパンを食べ慣れていたし、そうめんを食べていたから、キッチンカーこんなメニューを見せられた程度でパンやそうめんの消費が増えるでしょうか?むしろ「お米のおかずにぴったりだわ」と当時の主婦は考えたことでしょう。
実際、小麦の一人当たり消費増は昭和37年に急に伸びて40年で止まっています。キッチンカーが原因ならこんなのび方をするわけ有りません。だってキッチンカーは昭和31年から35年までの指導でしたから、年代が合いません。
昭和37~昭和40年の小麦の消費増の理由は、4割がラーメンなどが原因で、5割は主食パンではなくおやつ目的であろうと、財団法人食生活研究会「パンの消費動向と企業の対応」という本に書いてあります。
キッチンカーのせいでコメが主食の座を明け渡したという春秋欄の主張はどう考えても無理すぎです。私は新聞の良心を信じています。
春秋欄によれば、米国の資金援助でキッチンカーと呼ばれる料理講習車が各地を走り、小麦中心の食事を広めたため、主食の座がお米からパンや麺になったそうですが、それは故鈴木猛夫氏が広めた有名なデマなんです。デマを記事にしてはいけません。
1.キッチンカーの目的はタンパク質や脂質を取るため。
昔から日本人は糖質に偏った食事をしていたため、昭和30年の厚生省(今の厚労省)の研究者たちは健康状態の悪さを危惧し、どうしたらタンパク質や脂質を適正な量取るように指導できるかと苦心していました。
厚生省がいくら説明しても、当時の国民感情は「混ぜ物のない白米を漬物で腹一杯食べるなんて夢のような食事♡」でした。どうやったらコメだけで腹を満たすのではなく、副食(おかず)を食べるようにおすすめできないかと厚生省は苦心しました。
そんな折、オレゴン小麦農家連盟から厚生省に、日本にて小麦を宣伝したいし、そのために必要なお金を出すとの打診があり、厚生省担当官は名案を思いついたのです。交渉してなんと次の合意を取ったのです。
・パン食の宣伝は目的としない
・小麦粉を使った料理が1品さえあれば、あとは日本側がメニューを勝手に決めて良い。
その結果、キッチンカーを購入して、日本全国で紹介した料理はさあなんでしょう。ふふふ。「キッチンカーはパンを宣伝して日本人の食事を破壊した~」と熱弁する鈴木猛夫先生がやっと探し出して示した「ある日のキッチンカーテキスト」がこれなんで、思いっきり笑ってやってください。出典は鈴木さんの『「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活』61頁です。
まず、広告欄にはしっかりと、ヤマサ醤油の広告が…。
テキストに書いてあったのは8種類のメニュー。和洋中で並べて記します。
和食;小アジの唐揚げ、ジャガイモとピーマンの酢味噌
和食;そうめんのごま味噌がけ
和食;いかのハヤシソース(イカはアメリカ人やイギリス人が嫌って絶対食べない食品でした。また、ハヤシソースは諸説ありますが、洋食をヒントに日本で発明されました。以上を考えると、これは和食です。)
和風中華;四宝涼拌(サイコロ状に切って醤油で煮詰めた牛肉に、こんにゃく、ジャガイモ、キャベツ、キュウリなどを混ぜたもの。醤油やこんにゃくを使っているなど、中華というより和食に近いメニューです。)
中華;涼拌麺(冷やし中華を当時はこう呼びました)
洋風中華;トーストパンと中華サラダ(鯨の大和煮に、キュウリや大根にんじんなどを短冊に切って味付けして載せたもの)
洋食;フィッシュサルシャード(あじの唐揚げにタマネギとトマトのソース)
洋食;なすのフリッター(なすの洋風天ぷらにトマトケチャップ)
お気づきですね。上記8品のうち、洋風中華と和風そうめんと冷やし中華を除けば、残り5つはごはんのおかずなんですよ!!
鈴木さんはあれほどキッチンカーが原因でパンが広まったと言いながら、自説を証明できる資料をとうとう見つけることが出来なかったんですよ!
2.そもそもお米を主食としていた人は限られていた。
春秋欄の冒頭でも大根飯について触れられている通り、戦後まもなくまでの伝統的な日本では、米飯をたくさん食べられるのは都市住民と、田舎では稲作の盛んな地域の富裕層でした。それ以外の層、つまり国民の大半は、ごく少量のコメに大量の大根や雑穀(麦など)を混ぜて炊いて食べていました。また、江戸時代から盛んだったそばやうどんなども、明治以降一層盛んになり、そばやうどんを主食にしていた地域もたくさんありました。
そんな中人口が増加基調のため、陸軍は資源の限られているコメが将来不足することに気づき、日本人の主食の一部をパンに置き換えようと考えました。政府も小麦増産運動をし実際に昭和初期は海外に輸出するほど大量の小麦粉を日本で生産していたのです。陸軍は農村で小麦栽培が盛んになったのを見て、農家もパンを作って食べようという指導を展開しました。戦前のマスコミも、パンが流行していると書き、パンが日本の食に定着するように働きかけていました。
さて、時は流れ戦争が終わり、戦後の昭和30年から連続してコメの大豊作が訪れました。それ以降、やっと一般の人も純粋な米飯を食べられるようになっていったのです。
それまでは富裕層しか食べられなかったピュア米飯に大人も子どもも大喜びし、莫大な量のコメが消費されるようになったのが昭和30年代という時代です。消費ピークは昭和37年。それ以降お米の一人当たり消費量が減ったのは、そろそろコメの「ドカ食い」に飽きて来た昭和30年代半ばにラーメンブームが発生したからです。
春秋欄によれば、キッチンカーが原因でそれまで主食だったごはんがパンや麺に置き換わったという主張ですが、いや、キッチンカーの指導は、ごはんを主食にする方に寄与したことでしょう。
キッチンカー以前から日本人は軍隊や菓子店でパンを食べ慣れていたし、そうめんを食べていたから、キッチンカーこんなメニューを見せられた程度でパンやそうめんの消費が増えるでしょうか?むしろ「お米のおかずにぴったりだわ」と当時の主婦は考えたことでしょう。
実際、小麦の一人当たり消費増は昭和37年に急に伸びて40年で止まっています。キッチンカーが原因ならこんなのび方をするわけ有りません。だってキッチンカーは昭和31年から35年までの指導でしたから、年代が合いません。
昭和37~昭和40年の小麦の消費増の理由は、4割がラーメンなどが原因で、5割は主食パンではなくおやつ目的であろうと、財団法人食生活研究会「パンの消費動向と企業の対応」という本に書いてあります。
キッチンカーのせいでコメが主食の座を明け渡したという春秋欄の主張はどう考えても無理すぎです。私は新聞の良心を信じています。