【交流関係】
このニート時代で、多くの交流関係を断った。理由は簡単。経済的に交際ができないため。相手が誰であれ交流を持つと金がかかる。ニートが深まれば深まるほど経済的に追い込まれるので、より人との交流はなくなっていく。辛うじてインターネットを通じての交流だけは生き残る。それを是としない人は多いだろう。けれども、俺はそのネットでの交流に救われてきた。自分が、それでもまだ外と繋がることができているという感覚を与えてくれた。勿論、それだけで完結するとそれもまたいびつなのだけど。生活が困窮してきた時、、まずネットを断ってみた。余りの窒息感に精神の危険を感じ、必死で繋ぎ直した。ネット中毒というほどのものではない。実際、ネットを繋いでいる時間は一日に三~四時間。ネットで外と繋がっているという感覚が重要だった。
脱ニート直前は、とにかく交流関係を復活しようと考えていた。高校時代の友人に会いたいと思った。けれども脱ニート後、そんな余裕はないと知った。日々の食費に困っている。母子そろって財布に100円未満という日もある。たとえば四十を越える大人二人がハンバーガー屋で100円のバーガーをひとつ喰いながら話すだけで終わるだろうか。ドリンクの一つもつけるだろうし、興が乗れば夕食を食おうともなる。「金がないから」と言うことはできる。そこに羞恥はない。ところが、だ。そもそもその「100円」が貴重。「103円」出せば八枚切り食パンの半額ものが二斤買える。うちの、二日もしくは三日分の食糧だ。それを一瞬で使うことは、辛い。会いにいく電車賃も必要となる。そういう諸々で、脱ニート後の方が人との交わりを遠ざけてしまう傾向にある。ニート時は、少々の貯金があったり両親の収入にすがったりで多少なら融通がきいた。両親にすがるのはなんとも無様なので基本的には貯金を引き出して回していた。貯金がなくなってくるに従い交流関係は狭まり、やがて途絶えた。
今、現状を相談できる相手はいない。見栄を張る気はない。無様な姿を晒すことは仕方ないと思っている。問題はそこではない。こういう遠巻きな関係を続けてしまい、その上関係が途絶えてしまった状況で、深刻な話ができるほどの友人そのものがいなくなってしまったことが最大の問題。「いやぁニートでしんどくてさぁ」と笑う相手ならいる。「ニートなんかになってしまったので、もう死ぬしかないかもしれない。どうすればいいんだろうか」と告げる相手はいない。
半生でそれなりに築いていた人間関係・交流関係はこの十数年で希薄化し、遂には蒸発してしまった。
これもまた、「後遺症」の一つ。
人間関係の蒸発は、あらゆる意味ですがるものがないということ。それはたとえば「借金」ができるできないという話だけではなく、精神的にも、そう。結婚等考えられない状態となれば、いつかは俺は一人残される。その恐怖に気付き、それならばいっそ早いうちに最終回を迎えよう、つまり自殺をしてしまおうかという考えに至ってしまう。
色々な話を聞いてくれる人はいるだろう。心療科の先生なり行政の相談員なり。けれど思う。その人たちは元ニートの人生に責任はない。お金儲けのために話を聞いてくれているのだと。そう思うこともまた悪い症状なのか。
人との繋がりがなくなることがこれほど恐ろしいことだとは思わなかった。
この人間関係蒸発という症状を改善するにはどうすればいいのか。
繰り返すけれど、結局はある程度の生活の安定しかない。
そんなことをグチグチ言わずに昔の友人に電話でもして、色々と語ってしまえよ、意外とちゃんと受け止めてくれるかもよ!と言ってくれる人もいるかもしれない。それも分かる。分からなくもない。とはいえ現実は厳しい。なだらかに蒸発してしまった関係では、電話そのもののハードルが高い。実際、どういう話をすればいいのか。「久しぶり」の次は?いきなり「俺、ダメだ」と切りだす?世間話?何もないのに?…と考える精神状態がまた、ダメなのだろうか。
【要するに】
「ニート後遺症」とは、流れ始めた時間の奔流に押し潰されそうになること。
ある程度自分が納得する形で社会復帰すれば軽減されていく。それでも全ては解消されない。
俺にとって、自分が納得する形とは何なのだろうか。
このニート時代で、多くの交流関係を断った。理由は簡単。経済的に交際ができないため。相手が誰であれ交流を持つと金がかかる。ニートが深まれば深まるほど経済的に追い込まれるので、より人との交流はなくなっていく。辛うじてインターネットを通じての交流だけは生き残る。それを是としない人は多いだろう。けれども、俺はそのネットでの交流に救われてきた。自分が、それでもまだ外と繋がることができているという感覚を与えてくれた。勿論、それだけで完結するとそれもまたいびつなのだけど。生活が困窮してきた時、、まずネットを断ってみた。余りの窒息感に精神の危険を感じ、必死で繋ぎ直した。ネット中毒というほどのものではない。実際、ネットを繋いでいる時間は一日に三~四時間。ネットで外と繋がっているという感覚が重要だった。
脱ニート直前は、とにかく交流関係を復活しようと考えていた。高校時代の友人に会いたいと思った。けれども脱ニート後、そんな余裕はないと知った。日々の食費に困っている。母子そろって財布に100円未満という日もある。たとえば四十を越える大人二人がハンバーガー屋で100円のバーガーをひとつ喰いながら話すだけで終わるだろうか。ドリンクの一つもつけるだろうし、興が乗れば夕食を食おうともなる。「金がないから」と言うことはできる。そこに羞恥はない。ところが、だ。そもそもその「100円」が貴重。「103円」出せば八枚切り食パンの半額ものが二斤買える。うちの、二日もしくは三日分の食糧だ。それを一瞬で使うことは、辛い。会いにいく電車賃も必要となる。そういう諸々で、脱ニート後の方が人との交わりを遠ざけてしまう傾向にある。ニート時は、少々の貯金があったり両親の収入にすがったりで多少なら融通がきいた。両親にすがるのはなんとも無様なので基本的には貯金を引き出して回していた。貯金がなくなってくるに従い交流関係は狭まり、やがて途絶えた。
今、現状を相談できる相手はいない。見栄を張る気はない。無様な姿を晒すことは仕方ないと思っている。問題はそこではない。こういう遠巻きな関係を続けてしまい、その上関係が途絶えてしまった状況で、深刻な話ができるほどの友人そのものがいなくなってしまったことが最大の問題。「いやぁニートでしんどくてさぁ」と笑う相手ならいる。「ニートなんかになってしまったので、もう死ぬしかないかもしれない。どうすればいいんだろうか」と告げる相手はいない。
半生でそれなりに築いていた人間関係・交流関係はこの十数年で希薄化し、遂には蒸発してしまった。
これもまた、「後遺症」の一つ。
人間関係の蒸発は、あらゆる意味ですがるものがないということ。それはたとえば「借金」ができるできないという話だけではなく、精神的にも、そう。結婚等考えられない状態となれば、いつかは俺は一人残される。その恐怖に気付き、それならばいっそ早いうちに最終回を迎えよう、つまり自殺をしてしまおうかという考えに至ってしまう。
色々な話を聞いてくれる人はいるだろう。心療科の先生なり行政の相談員なり。けれど思う。その人たちは元ニートの人生に責任はない。お金儲けのために話を聞いてくれているのだと。そう思うこともまた悪い症状なのか。
人との繋がりがなくなることがこれほど恐ろしいことだとは思わなかった。
この人間関係蒸発という症状を改善するにはどうすればいいのか。
繰り返すけれど、結局はある程度の生活の安定しかない。
そんなことをグチグチ言わずに昔の友人に電話でもして、色々と語ってしまえよ、意外とちゃんと受け止めてくれるかもよ!と言ってくれる人もいるかもしれない。それも分かる。分からなくもない。とはいえ現実は厳しい。なだらかに蒸発してしまった関係では、電話そのもののハードルが高い。実際、どういう話をすればいいのか。「久しぶり」の次は?いきなり「俺、ダメだ」と切りだす?世間話?何もないのに?…と考える精神状態がまた、ダメなのだろうか。
【要するに】
「ニート後遺症」とは、流れ始めた時間の奔流に押し潰されそうになること。
ある程度自分が納得する形で社会復帰すれば軽減されていく。それでも全ては解消されない。
俺にとって、自分が納得する形とは何なのだろうか。