人生、失敗しちゃった~ニート後遺症 闘病記~

十数年のニートをやめて一年。ニート後遺症と戦う、ニート研究家。

40代バイト・貧困・孤立死、俺の未来は変えられない。

2016年01月22日 | 今、思う。
孤立死、届かぬSOS 行政相談の姉弟、遺体で発見(京都新聞記事タイトルより)

他人ごとではないという口ぶりすら他人ごとに感じられる。

姉・48歳、弟・46歳が遺体で見つかる。発見したのは滞納された水道料金の徴収に訪れた市職員。当時の2人の収入は弟のアルバイト代+障害者年金で月16万円だったという。餓死であったか事件性があるのかは不明とのこと。

母と二人暮らし、バイト代+年金で月14万計算。それが俺たちの暮らし。
もし経済的な理由でのことなら、俺たちもキレイにその枠に入っている。
働くしかない。働くしかないのに場所がない。場所がなくて日々を過ごせば経済的に先細り余計、苦しくなる。日々が過ぎれば年齢的に体力的に余計、働く場所がなくなっていく。精神状態も暗鬱とする時間ばかりが増え、いつどうにかなってしまうかと不安が募る。

まだネットを繋いでいるから余裕あるじゃねぇかと指摘する人もいるだろう。
逆なんだ。
ネットを繋ぐことでギリギリ、普通の人と同じ感覚を維持している。今、ネットを切ってしまったら外との繋がりが喪失してしまう。無音の部屋でじぃとし、バイトにでかけ、無料求人情報誌をもらって帰り、それを読む。それだけの日々となる。人づきあいなど金のかかることはできない。新聞は契約を打ち切られた。テレビは数年以上前からみなくなったし、そもそも、ない。本や漫画も読む気がおきない。読むと嘔吐してしまう。
娯楽だけではなく、求人の情報収集のツールとして、このように心境を吐露して精神の安定を保つツールとして、今はまだ繋がせてもらいたい。

話がそれた。

ニート化したのは俺が悪い。自業自得。
だから救ってくれと訴えるのは違う。必死に働かなきゃいけない。働く場所がなくても働かなきゃいけない。全部分かっている。分かってはいても、それができない。となればもう、それしかゴールはないということ。
その現実を突きつけるニュースが、目に飛び込んだ瞬間、胃液が逆流し後頭部が重量を増し、ずだんと布団の上に崩れ落ちた。もしそのまま意識を失えば。

この二人のニュースは他人ごとではない。
俺のニュースだ。


精神を病むか死ぬか、生活保護を受けるか死ぬか、事件を起こすか死ぬか、元ニートの【提言】2

2016年01月22日 | 闘病記
【提言】2

けれども、重要な要因が抜けている。
死ぬ気になる前に、死のうと思う人間がいたり。
どんな仕事でも大丈夫ではないメンタルの人間がいたり。
どんな仕事でも死ぬ気でと頑張った結果、体を壊したり精神を壊したりしたらその後はどうなるのかという現実があったり。
する。
特に三つ目は重要。四十六を過ぎた男が二年働いて腰を悪くして退職を余儀なくされたとする。「どんな仕事でもやらせてもらえるのなら」と入ったので労災が下りなかったとする。次の仕事はもう、肉体労働はできない。立ち仕事も厳しい。年齢は四十八。さあどんな仕事がある。やり直しはきかない。それでも「どんな仕事でも」といえるのだろうか。
これも「甘え」といえば「甘え」。「理由」といえば「理由」。
若い時分から連綿と継続してきた四十半ばと、四十半ばからその若い時分の労苦を始めるのとでは、雲泥の違いがある。年下に使われることが云々というレベルの話ではない。如実に体力・身体能力の話だ。
精神面でも、ある。人生に後がない人間は、耐えるしかない。もう逃げることはできない。実際に逃げなくても可能性として「別の仕事に変わろうか」と考えられる余裕があればいい。どれほど職場になじめなくても、職種になじめなくても。

「甘え」なのか「必要」なのか分からない。けれども「救い」が必要だと思う。
「甘え」だとしても自業自得だとしても、精神を病むか死ぬか、生活保護を受けるか死ぬか、事件を起こすか死ぬか、そこまで追い詰められていることに間違いはない。