今日の空。7時16分。
今日は昨日とは変わって、雲ひとつない空。真っ青。
まぶしい朝日が桜島の肩越しに登場しました。
遠くには下の方に雲がありそうですが、上の方には全く雲がない。
そして、日中の桜島。山肌までくっきりと見えるほどの快晴。
かすかに、ひかえめに雲。
「将来は何になりたいか」を考えたとき、小学校2年生で考えたのは、
「作家になりたい」でした。おそらくそれは父の影響です。
私の父は在野の教育研究者として活動を続けていたので、子供たちにも、なかなか
ユニークな教育を「お試し」していました。
覚えているのは、ことばをしゃべるようになったころから、何かをしてもらったら
「ありがとう」をすぐに言うこと。これは日本人があまり、「ありがとう」を
言わないことが気になった父が、欧米のように「thank you」を必ず口にできるように
という考えがあったのだと思います。70年近く前のことですね。
まだ、自分では水を入れることができない小さいころ、水が飲みたいときには、
ただ、「お水」と言うだけでは水をもらえません。
「お水ください」と言わないとだめ。
そして、お水の入ったコップをもらったら、「ありがとう」と言わないと、コップは
取り上げられて、飲むことができない。
まあ、私は単に「おみじゅ、くだしゃい」でよかったのですが、兄ははた迷惑なことに、
単語を英語で教えられていたために、母方の祖母のところに預けられたときに、
「ウオーターくだしゃい」と言ったのですが、祖母はまさか孫が英語で頼んでいるとは
全く思わず。幼児の舌足らずなことばだから、さらに聞き取りにくく、何度、聴いても。
兄は「お水」という日本語は教えられていないため、「ウオーターくだしゃい」としか
言いようがない。祖母は困り果ててしまいましたが、兄はお水が飲みたくて泣いたという
エピソードが残っています(笑)
父の目的としては、「赤ちゃんことばを使わせない試み」を行ったのですが、
はた迷惑なことになったので、私には英語ではなく、日本語で教えたそうです。
いろんなテストをされた私たち兄妹ですが、私に対してやったのが、
絵本を与えないこと。最初から文字の書かれた本ばかり与えられて
いたので、かなり早くから文字を読むことができていたようです。
覚えているのは、小学校2年生のときに、友達と図書室に行って、本を借りようとして、
本を選んでいたら、友達がひらがなだらけの文字の大きな本を読もうとしていたので、
びっくり。「えー? こんな本を読むの?」と、「ずいぶん、こどもっぽいんだなあ」と
思ったのを覚えています。「あなたもこどもでしょ」と言いたい気がしますが(笑)
もちろん、そういったことを口にするような子供ではなかったし、そういうことを
考えるのは失礼だという認識はありました。
おそらく、小学校2年生で小学校5、6年生くらいの本は読めていたと思います。
父が世界の名作全集を買ってくれ、その配本が毎月あるのですが、届いたら、
すぐに読み始め、5~6㎝厚さのその本を全部読まないと気がすまないほどの本好きに。
読んでいると、当然、相当な量なので、すぐに読み終わることができず、
次第に夕暮れになって暗くなってしまうのですが、立って電気を点けるのも
惜しくて立ち上がれない。文字が読める限界まで読んでいるので、「また、そんな
暗いところで読んでっ。目が悪くなるでしょ」と毎度、母に叱られていました。
その名作全集はもちろん、子供向けに再構成されているのですが、挿絵等は
原作の初版本の絵が使われていて、変に子供向けの甘さがないところが
気に入っていました。世界各国の名作は多くの国があり、そこに暮らす
ひとたちにはそれぞれの価値観があるのだと知った日々でした。
おそらく、私にはあまり偏見というものがなくて、人さまのことをどうこうと
思うことが少ないのは、この本たちで知り得た世界のおかげだったと思います。
配本された日にすべてを読んでしまうので、あとの日はどうするのかと言えば、
好きな物語が入っている本を何回も何回も何十回も読む。そのため、厚手の
豪華な装丁本なのですが、ハードカバーがはずれて、ぼろぼろになってしまうほど
読み込んでいました。
何十冊も配本がありましたから、飽きずに読むことができたのは父に感謝しています。
高額で当時の父のお給料では痛い出費だったことも理解していました。
母が「こんな高いものを買っても無意味だ」と激しく怒っていたことを
よく覚えていて、申し訳なく思いながらも、本は私の宝物でした。
低学年では物語の展開が理解できなくて悩んだのが「あしながおじさん」
だったこともよく覚えています。
この物語はアニメ化もされたので、よくご存じの方が多いと思います。
アメリカの女性作家ジーン・ウェブスターが1912年に発表した小説ですね。
今の日本では「あしなが育英会」とか、遺児の奨学金制度で知っている方も
多いかと思います。
孤児院で育った少女ジュディが主人公。彼女の文才が資産家の目にとまり、
毎月その人に手紙を書くことを条件に大学進学のための奨学金を受ける物語です。
匿名での資金援助で、顔も知らない相手に手紙を書くとき、その相手の人影が
だけがちらりと見えた瞬間があり、それがとても長く伸びていたことから、
「あしながおじさん」と呼んで、その人に日々の暮らしを手紙に書きます。
その手紙自体が作品になっていて、ジュディが描いたという設定のイラストも
ウェブスターの手によるものだったそうで、名作全集にもその絵がそのまま
使われていたこともよく覚えています。
私はそのイラストがNHKの2355のオープニングの線描きアニメと重なって
懐かしくなってみたり。
あしながおじさん宛ての手紙の内容で、孤児院で育った女性が援助者を得て
生き生きと暮らしている姿がとても魅力的だったのですが、私が頭を
悩ませたのが、なぜ、ジュディが「あしながおじさん」と恋愛関係に
なっていくのかという点。物語そのものは理解できても、恋愛感情のこころの
動きがさっぱり理解できなかったという。さすがにまだまだ子供の私でした。
成長する上で、「なるほど」とわかるようになったとき、子供のころの私に
何か声をかけてあげたいなと思ったものでした(笑)
小さいころ、友達と遊んだという覚えはあまりなくて、とにかく本を
読むことが好きで、両親も「よくもまあ、あんなに本を読めるな」と
「うちの文学少女」と呼んでいたほどでした。
それくらいの本好きだったので、「作家になりたい」と思ったのは、
必然だったのかなと思います。おそらく、ジュディが作家を目指したことも
私に影響を与えたのでしょう。小学2年生の私は「作家になりたい」が夢でした。
その後、「作家になりたい」はかなえたい夢ではなくなり、とにかく「書くことで
身を立てられれば」という方向に変わったのは中学時代。
そして、自然にライターになっていたという、そんな私の昔々の物語。
今日は昨日とは変わって、雲ひとつない空。真っ青。
まぶしい朝日が桜島の肩越しに登場しました。
遠くには下の方に雲がありそうですが、上の方には全く雲がない。
そして、日中の桜島。山肌までくっきりと見えるほどの快晴。
かすかに、ひかえめに雲。
「将来は何になりたいか」を考えたとき、小学校2年生で考えたのは、
「作家になりたい」でした。おそらくそれは父の影響です。
私の父は在野の教育研究者として活動を続けていたので、子供たちにも、なかなか
ユニークな教育を「お試し」していました。
覚えているのは、ことばをしゃべるようになったころから、何かをしてもらったら
「ありがとう」をすぐに言うこと。これは日本人があまり、「ありがとう」を
言わないことが気になった父が、欧米のように「thank you」を必ず口にできるように
という考えがあったのだと思います。70年近く前のことですね。
まだ、自分では水を入れることができない小さいころ、水が飲みたいときには、
ただ、「お水」と言うだけでは水をもらえません。
「お水ください」と言わないとだめ。
そして、お水の入ったコップをもらったら、「ありがとう」と言わないと、コップは
取り上げられて、飲むことができない。
まあ、私は単に「おみじゅ、くだしゃい」でよかったのですが、兄ははた迷惑なことに、
単語を英語で教えられていたために、母方の祖母のところに預けられたときに、
「ウオーターくだしゃい」と言ったのですが、祖母はまさか孫が英語で頼んでいるとは
全く思わず。幼児の舌足らずなことばだから、さらに聞き取りにくく、何度、聴いても。
兄は「お水」という日本語は教えられていないため、「ウオーターくだしゃい」としか
言いようがない。祖母は困り果ててしまいましたが、兄はお水が飲みたくて泣いたという
エピソードが残っています(笑)
父の目的としては、「赤ちゃんことばを使わせない試み」を行ったのですが、
はた迷惑なことになったので、私には英語ではなく、日本語で教えたそうです。
いろんなテストをされた私たち兄妹ですが、私に対してやったのが、
絵本を与えないこと。最初から文字の書かれた本ばかり与えられて
いたので、かなり早くから文字を読むことができていたようです。
覚えているのは、小学校2年生のときに、友達と図書室に行って、本を借りようとして、
本を選んでいたら、友達がひらがなだらけの文字の大きな本を読もうとしていたので、
びっくり。「えー? こんな本を読むの?」と、「ずいぶん、こどもっぽいんだなあ」と
思ったのを覚えています。「あなたもこどもでしょ」と言いたい気がしますが(笑)
もちろん、そういったことを口にするような子供ではなかったし、そういうことを
考えるのは失礼だという認識はありました。
おそらく、小学校2年生で小学校5、6年生くらいの本は読めていたと思います。
父が世界の名作全集を買ってくれ、その配本が毎月あるのですが、届いたら、
すぐに読み始め、5~6㎝厚さのその本を全部読まないと気がすまないほどの本好きに。
読んでいると、当然、相当な量なので、すぐに読み終わることができず、
次第に夕暮れになって暗くなってしまうのですが、立って電気を点けるのも
惜しくて立ち上がれない。文字が読める限界まで読んでいるので、「また、そんな
暗いところで読んでっ。目が悪くなるでしょ」と毎度、母に叱られていました。
その名作全集はもちろん、子供向けに再構成されているのですが、挿絵等は
原作の初版本の絵が使われていて、変に子供向けの甘さがないところが
気に入っていました。世界各国の名作は多くの国があり、そこに暮らす
ひとたちにはそれぞれの価値観があるのだと知った日々でした。
おそらく、私にはあまり偏見というものがなくて、人さまのことをどうこうと
思うことが少ないのは、この本たちで知り得た世界のおかげだったと思います。
配本された日にすべてを読んでしまうので、あとの日はどうするのかと言えば、
好きな物語が入っている本を何回も何回も何十回も読む。そのため、厚手の
豪華な装丁本なのですが、ハードカバーがはずれて、ぼろぼろになってしまうほど
読み込んでいました。
何十冊も配本がありましたから、飽きずに読むことができたのは父に感謝しています。
高額で当時の父のお給料では痛い出費だったことも理解していました。
母が「こんな高いものを買っても無意味だ」と激しく怒っていたことを
よく覚えていて、申し訳なく思いながらも、本は私の宝物でした。
低学年では物語の展開が理解できなくて悩んだのが「あしながおじさん」
だったこともよく覚えています。
この物語はアニメ化もされたので、よくご存じの方が多いと思います。
アメリカの女性作家ジーン・ウェブスターが1912年に発表した小説ですね。
今の日本では「あしなが育英会」とか、遺児の奨学金制度で知っている方も
多いかと思います。
孤児院で育った少女ジュディが主人公。彼女の文才が資産家の目にとまり、
毎月その人に手紙を書くことを条件に大学進学のための奨学金を受ける物語です。
匿名での資金援助で、顔も知らない相手に手紙を書くとき、その相手の人影が
だけがちらりと見えた瞬間があり、それがとても長く伸びていたことから、
「あしながおじさん」と呼んで、その人に日々の暮らしを手紙に書きます。
その手紙自体が作品になっていて、ジュディが描いたという設定のイラストも
ウェブスターの手によるものだったそうで、名作全集にもその絵がそのまま
使われていたこともよく覚えています。
私はそのイラストがNHKの2355のオープニングの線描きアニメと重なって
懐かしくなってみたり。
あしながおじさん宛ての手紙の内容で、孤児院で育った女性が援助者を得て
生き生きと暮らしている姿がとても魅力的だったのですが、私が頭を
悩ませたのが、なぜ、ジュディが「あしながおじさん」と恋愛関係に
なっていくのかという点。物語そのものは理解できても、恋愛感情のこころの
動きがさっぱり理解できなかったという。さすがにまだまだ子供の私でした。
成長する上で、「なるほど」とわかるようになったとき、子供のころの私に
何か声をかけてあげたいなと思ったものでした(笑)
小さいころ、友達と遊んだという覚えはあまりなくて、とにかく本を
読むことが好きで、両親も「よくもまあ、あんなに本を読めるな」と
「うちの文学少女」と呼んでいたほどでした。
それくらいの本好きだったので、「作家になりたい」と思ったのは、
必然だったのかなと思います。おそらく、ジュディが作家を目指したことも
私に影響を与えたのでしょう。小学2年生の私は「作家になりたい」が夢でした。
その後、「作家になりたい」はかなえたい夢ではなくなり、とにかく「書くことで
身を立てられれば」という方向に変わったのは中学時代。
そして、自然にライターになっていたという、そんな私の昔々の物語。
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