ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

犠牲の至福

2020-09-15 | 私の好きなこと

与えることで貧しくなった人はいません。ーアンネ・フランク

 

 

 

ある友人が語ってくれたことは、まるで乾燥しきったスポンジが水を含むように、わたしの心を潤わせた。

「今日私は、自分の住んでいるところから通りを下ったガソリンスタンド脇の日陰に座っているホームレスの男性の何人かにいくつかのホットドッグを持っていました。

ホットドッグ用のパンは5つしかなく、とにかくホットドッグとソーダを5缶しか持って行かなかったのです。

そこに着いて、ホットドッグをいくつか持っていると彼らに言ったとき、彼らの顔のいくつかがパッと輝くのを見ただけで、なんだかとても幸せに感じました。

ホットドッグを4つ配った後、もう1人並んでいたのですが、彼は自分にではなく、最後の1つをある年配の男性に渡すように頼みました。 その人はそこから6メートルほど離れて座っていて、立ち上がりにくいらしく、またあまり口を聞けないと言うことでした。

それをわたしに頼んだ男はあちら側にいるその男と同じくらい痩せていて、彼と同じくらい空腹に違いないと思えましたが、彼は最後のホットドッグを自分にではなく、歩くことができない男に与えました。

このことは、お金がなく、物も少なくとも、人はまだ他の人に与えられ、愛し、無私でいられることを私に教えました。

そして、人はそもそも何も持っていなければ、利己的になることがとても難しいのではないかと思えました。」

 

*******

 

英語でBeautitude(be·at·i·tude  /bēˈadəˌt(y)o͞od/)と言う言葉は、至福と訳され、至福とは、この上もない幸福と言う意味である。そして至福の教えとは、すなわち山上の垂訓、イエスキリストによって語られた幸福とは何かの垂訓である。今はその山上と言われるところ、イスラエルのガリレア北西岸に建てられた至福の教え教会(The Church of The Beautitudes)がある。

高校を卒業したばかりの末娘が隣人のイスラエル人家族とイスラエルを旅した時、一番気に入ったのは、The Garden Tomb(園の墓)で、次に山上の垂訓のあった場所だと言った。結婚後、三男と妻はスエーデンからイスラエルに赴き、気に入った場所はやはり末娘と同じである。教会建物そのものではなく、おそらくその山で垂訓を語ったキリストの足跡を感じたのだろう。

その山上の垂訓の最初は、「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」だ。上記の友人の話を聞いて、わたしは、その聖句を脳裏に浮かべた。自分のひもじさよりも、自分よりもっと不幸な人がいるから、助けたい、と言う気持ちに胸が打たれる。そしてそこに真にへりくだって、祝福されるであろう人を見た。山上の垂訓はいかにして私たちが、豊富な食べ物や物質を得られるかではないところに、大きな価値がある。キリスト教徒であろうがなかろうが、その教えは人間としてわきまえたい原理でもある。

 

誰かのお役に立ちたい時、スーパーマンでなくともいいし、ビル・ゲイツのような資産がなくとも、思いがけず、簡単である。