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A Hopeless Dawn by Frank Bramley 1888
フランク・ブラムリーという画家の1888年に描いた上記の、題してA Hopeless Dawn「絶望の夜明け」という絵画は、コンスタブル、レインズビル、レンブラントなどの数々の巨匠の絵画を蔵する英国ロンドンのテイト美術館の片隅に、ひっそりと展示されている。
この一点の絵画、瞳がその光景を捉えるのと同時に、心を強く惹きつける。若い漁師の夫が嵐の海に出て夜になっても帰らず、妻は夫の老いた母親と二人でまんじりともしない夜を過ごし、二人の目はずっと窓越しの海原にやられ、そしてとうとう夜が明けるが、それは絶望の夜明けであったのが手に取るようにわかる。若い妻が年老いた義母の膝に顔を埋めて泣いている。この絵には不安、失望(絶望)、悲しみがはっきりと浮かんでいる。窓辺の燃え尽きた蝋燭が一晩中の募る不安と絶望をよく表し、観賞する者の心を抉るような悲しみを与える。そしてこの絵を見て、すぐに頭に浮かぶ言葉がある。
旧約聖書ヨブ記にある言葉:人がもし死ねば、また生きるでしょうか。(ヨブ記第14章14節)この質問は何千年もの間おそらくこの地上に生まれた全ての人が問うだろう質問である。
そして次に脳裏に浮かぶ言葉は:わたし(イエス・キリスト)は平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。(新約聖書のヨハネによる福音書第14章27節)
過越(すぎこし)の祭の前に、キリストは御自らこの世を去り、天の父の元へ時が来たと知り、また弟子たちの一人が裏切ることを知っていたのでそう仰ったのだった。キリストは続けて仰った。『わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る』...もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きいかたであるからである。」(ヨハネによる福音書第14章28節)
イエス・キリストが神の属性を持っておられることで、苦しみと死をその身に受け、復活を遂げることにより、霊と肉体の死に打ち勝たれ、だからこそ無限にして永遠の贖罪を全人類のために行うことが可能だった。彼が救い主と呼ばれる由縁がここにあり、救い主は全てのことを正しくされる。死すべきこの世の不公平や死でさえも永久のものではない。何故ならば彼は生命を再び回復し、主の絶対的な正義と憐れみがあるので,屈辱,障害,裏切り,虐待が最終的に償われるのである。
同時に,人は皆,その人生,選択,行い,思いさえも主に対して責任を負っており、人々を堕落から贖われたので,人の生命は現実に主のものである。そして全ての人には復活と最後の裁きとがある訳である。
キリストの恵みは実在し,悔い改めた罪人に対して赦しと清めの両方をもたらす。キリストへの信仰は実に想像や人が心の中で創り上げたものを超えるものであり、絶対的で普遍的な真理があり,普遍的で変わることのない道徳的な標準がある。
100年ほど前、ロバート・ブラッチフォードは、その著書『神とわたしの隣人』(God and My Neighbor)の中で,神,キリスト,祈り,不死不滅といった,キリスト教徒が信仰する事柄を激しく攻撃した。大胆にもこのように主張もした:「わたしは自分が証明を試みた事柄は全て完全に,はっきりと証明し尽くしてきた。たとえどんなに偉大で能力のあるキリスト教徒であっても,わたしの主張に対抗し,論拠を覆すことはできない。」
彼はいわば,懐疑論という壁で完全防備していたが、ある日そんな彼の妻が亡くなった。打ちひしがれて,妻の亡骸が安置された部屋で彼は,心から愛した彼女の死に顔を見詰めた。その部屋から出て来た彼は,友人にこう語った。「あれは彼女だが,彼女ではない。何もかも変わってしまった。以前にはそこにあった何かが取り去られ,今は前と同じ彼女ではない。その取り去られた何かが魂というものでなかったとしたら,いったい何だろうか。」
主は本当に亡くなられて,再び生きられたのだろうか。そのとおりである。世界的なキリスト教リーダーの一人トーマス・モンソンは言った:「キリスト教の基本原則は,使徒と預言者たちがイエス・キリストに立てた証です。すなわち主が亡くなり,葬られ,3日目に再びよみがえって,天に昇られたことです。わたしたちの宗教に関する他の全ての事柄は,それに付随するものにすぎません。」(トーマス・S・モンソン「主は生けりと知る」『リアホナ』2007年5月号,23)
故に多くのキリスト教徒と同じく、わたしは,新約聖書の中にある救い主の復活に関する多くの証人,すなわち,ペテロと十二人の使徒たち,清いマグダラのメリー(マリヤ)とその他の人々の経験や証を信じるのである。
フランク・ブラムリーという画家の1888年に描いたA Hopeless Dawn「絶望の夜明け」という絵画の海に失われた漁師の妻とその母親の嘆きが実はこの世限りのもので、やがてこの二人がいなくなったと思った愛する人に再びまみえることを、その希望をも、わたしは、その暗い部屋に見るのである。ちょうど復活祭の日曜日の今日、燦々と降り注ぐ陽光に、木々に色とりどりの花々が、また草花が輝くように。
もう【主は】ここ【墓】にはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。
さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい
マタイ伝第28章6節