ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

世界一の幸運な男

2019-05-15 | アメリカ事情

写真:ジェフリー・サックス 

サンフォード・グリーンバーグ (左) と アート・ガーファンクル、2016年コロンビア大学構内にて。

 

 

 

 


アート・ガーファンクルは、言うまでもなく世界中に名の知れたあのサイモンとガーファンクルの一人。あの”Bridge Over Troubled Water”(邦題:明日に架ける橋)のヒットからすでに四十年以上経っているとは信じがたい。その彼もこの秋78歳になるが、今年に入っても一月から十一月までびっしりと予定されている多くのコンサートをヨーロッパとアメリカで精力的にこなしている。音楽活動だけではなく、詩作や演劇にもその才能をあますことなく披露し続け、昨年八月のCBS局の”Sunday Morning"ショウでは、その健在ぶりと才能を見せてくれた。アート・ガーファンクルは、祖父がルーマニアからのユダヤ人移民で、彼自身はニューヨーク州ニューヨーク市クイーンズで誕生した。六年生の時にポール・サイモンに出会い、意気投合した話は有名である。


もともと美しい歌声を持つアートは、1954年の自身のバーミツバבר מצוה, Bar Mitzvah)で先詠者として四時間以上歌ったそうであるが、彼の音楽の才能は小学一年生頃からすでに花を咲かせ始めている。そんなアートは、コロンビア大学では美術史を専攻して学士号を取り、その後同大学院で数学の修士号を取得した。文系にも理数系にも秀でる頭脳の持ち主であるが、彼の大学時代の話を、コロンビア大学の機関紙(私には多種多読の傾向がある)で先日読んだ。その記事をかいつまみ、ご紹介したい。少々長いが、あなたにとって今日一日よい日になるかもしれない。


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この男性は世界で一番幸運な者であると考えているーたとえ彼は大学時代に視力を失っても


コロンビア・マガジン:ポール・ホンド


ある男は失明するが、その友は彼の背後を守る

 

 

1962年卒業クラスのサンフォード・”サンディ”・グリーンバーグがコロンビア大学でまだ新入生だったある日、同級生のアーサー・ガーファンケルとキャンパスの芝生の青い区画の近くに立っていた。「サンフォード、あの芝生がちょこっと生えた所を見てごらんよ。君はその色が見える?形は?草葉の曲がり方は?」とガーファンクルは、尋ねた。


グリーンバーグは意外に感じた。他の男たちは女の子やスポーツについて話していたのに、ガーファンケルは何の話かと思ったら、緑の芝生についてなんて!


キャンパスにはグリーンバーグよりももっと幸運な男がいただろうか?ニューヨーク州バッファローからの貧しい出の彼は、完全給付奨学金を受けて、人類学者のマーガレット・ミード、物理学者のレオン・レダーマン、歴史家のジェームズ・シェントン、そして詩人のマーク・ヴァン・ドレンなどの(学問の)スーパースター達からクラスを取っているのだ。そして彼には、純粋なテナーの声を持ったニューヨークから来た聡明な青年の新しい友人がいる。


しかし、1960年の夏、大学三年になる直前に、グリーンバーグの幸運は変わった。彼の視力が「曇って」しまったとき、彼はバッファローに居て、野球をしていた。彼は雲りが消えるまで草の上に横たわっていなければならなかった。医者はそれがアレルギー性結膜炎だと言った。


その秋学校に戻って、グリーンバーグはそんな体験話をもっと持っていたが、誰にもそのことは言わなかった。それがそれほど深刻なことだとは思わなかった。それでも、彼のルームメートであるガーファンケルとジェリー・スぺイヤーは、彼が何か問題を抱えていることを知っていた。


期末試験の初日の朝、ガーファンケルはグリーンバーグを試験が行われる大学のジムに連れて行った。グリーンバーグは午前9時から作文を始めた。10:30までには、彼はもう物を見ることができなかった。彼はジムの前列に飛び出して試験官に自分のブルーブック(作文ノート)を渡した。


「見えないんです、先生」と彼は言った。


試験官は笑った。 「いくつかの素晴らしい言い訳を聞いたが、」と、彼は言った、「君の言い訳が一番いい。」


グリーンバーグはバッファローに戻り、そこで緑内障と診断された。 その冬、医者はグリーンバーグの目を手術したが、うまくいかなかった。 グリーンバーグは盲目になっていった。非常に失望した彼は、大学の誰にも会うことを拒んだ。


しかしガーファンケルは、とにかくバッファローへ行った。


「話したくないんだ」とグリーンバーグは言った。


「サンフォード、」とガーファンケルは言った。「話さなきゃ。」


ガーファンケルはグリーンバーグにコロンビアに戻るよう説得し、彼の読み手になることを申し出た。


1961年9月、グリーンバーグはキャンパスに戻った。ガーファンケル、スぺイヤー、そしてもう一人の友人三人が、それぞれ自分の勉強や研究から時間を取り、彼に教科書を読み、グリーンバーグはストレイトA(オールA)の成績を取った。 それでも、彼は一人で歩き回ることについてためらいがちで、彼の友人たちに頼っていた。



 
 
 Courtesy Art Garfunkel and Sanford Greenberg
60年代初期の大学生活で、友人同士の二人
 

 

 

その後のある午後、グリーンバーグとガーファンクルはミッドタウンマンハッタンに行った。グリーンバーグがキャンパスに戻る時が来たとき、ガーファンケルは彼に、これから約束があり、彼に同伴できない、と言った。グリーンバーグは慌てた。彼らは口論し、そしてガーファンケルは、グリーンバーグをただ一人グランドセントラル駅のターミナルに残して、歩き去った。当惑したグリーンバーグは、ラッシュアワーの群衆にぶつかったり、よろめきながらも、駅から西のタイムズスクエアに行く電車に乗った。その後、上り電車に乗り換えた。 4マイル後、彼はコロンビア大学の駅で降りた。大学の門で、誰かが彼にぶつかった。


「おっと、すみません。」


グリーンバーグはその声を知っていた。それはガーファンケルだった。グリーンバーグの最初の反応は激怒だったが、すぐに彼は自分がたった今達成したことに気づいたー そしてそれを可能にしたのが誰であるかにも気づいたのだった。


「これは最も素晴らしい作戦の1つでした」とグリーンバーグ氏は言う。 「アーサーは、もちろん、私と一緒にその間ずっといたんですよ。」


グリーンバーグはコロンビ大学からMBA(経営学修士)を得て、ハーバード大学からは博士号を取得した。彼はガールフレンドのスーと結婚し、ジョンソン大統領政権のホワイトハウスで政府高官のアシスタントになった。そして彼は成功した発明家であり、ビジネスマンでもある。


アーサー・ガーファンケルはアート・ガーファンケルになった。


グリーンバーグは、「生活のための手引き」と彼が言うところの脚本Our Home Town (我が町)について語る。この人生の美しく貴重なところを人々は大部分見失っているというものである。劇中のすでに死したエミリー・ウェッブ・ギブスが生きる人々を眺めて、その人々の愚痴に驚き、「みな盲目の人たちばかり!」と言うのだが、グリーンバーグは「それはすべての人間に言えます!」と語る。


グリーンバーグはそうではない。彼は、家族や友人の愛から草の葉に宿る露まで、すべてを見て、小さくても、大きくてもすべての祝福を歌うのだ。


「あなたがお話になっています相手というのは、」と今彼は言う、「世界で最も幸運な人なのですよ。」と。







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