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1941年アメリカ合衆国のクラシック作曲家で教師のKatherine Kennicott Davisキャサリン・ケニコット・デーヴィスが作曲・発表したThe Little Drummer Boyリトル・ドラマ―・ボーイは、多くの人にとって、そして私にとっても大好きなクリスマス・ソングである。
Come they told me, おいでなさい、と彼らは言う
A new born king to see. お生まれになったばかりの新しい王様を見に
Our finest gifts we bring, 最高の贈り物を持っていこう
to lay before the king, 王様のために
So to honor him 王様を讃えるために
when we come. 王様にお会いしたら
Little baby, 幼子よ、
I am a poor boy too. 僕は貧しい子供で
I have no gift to bring 僕には持っていく贈り物がない
that's fit to give the king. 王様にふさわしい贈り物が
Shall I play for you 僕はあなたのために
on my drum? ドラムを演奏しましょうか
Mary nodded. メリー(マリア)はうなづいた
The ox and lamb kept time. 牡牛と子羊も聴いている
I played my drum for him. 僕は太鼓を御子のために叩いた
I played my best for him. 僕は御子のために一所懸命叩いた
Then He smiled at me, すると御子は微笑まれた
me and my drum. 僕と僕の太鼓に
この歌詞は要約すると、小さな男の子が生まれたばかりの王(イエス・キリスト)に会いに行くように東方の三賢者に誘われ、御子の誕生を称えるために贈り物を持っていくと言われる。少年は自分が貧しく、与えるものが何もないと告白したが、その代わりドラムを演奏することを申し出た。彼の申し出は御子の母親(メリーあるいはマリア)に受け入れられた。少年は最善を尽くして演奏し、幼き御子は彼に微笑みかける、ということだ。
明白なメッセージは、クリスマスはあなたができることを与えることである。すでに多くの人々が幼い頃より教えられてきた、与えることは受け取ることよりも良いということである。この歌は、捧げ物が謙虚であっても、できることを救い主に捧げるべきだということを思い出させてくれる。小さなドラマー・ボーイは自分があまり持っていないが、できることは与えたのである。少年がイエスに太鼓を与えたのではなく、いわば、彼の才能を与えたわけである。必ずしも物質的な贈り物をする必要はなく、自分の才能、時間、または愛を共有することによって、自分自身を与えることができる。
クリスマスシーズンは、私たちが得ようとしているものに焦点を当てるのではなく、他者に与えることができるものに焦点を合わせる時期と言える。
これは特に現在フロリダ州マイアミの小児病院でレジデント(研修医)を務める長男に捧げたい
12月5日のメッセージ:イエス・キリストと彼の愛に ついて知り、考え、そして感謝の祈りをする。
動画観ました
命大切にされているな~~
善意があふれている!!
観ながら思い出しました。
中村医師が殺されたことを
こんなちっぽけな地球にいて
なんで、殺し合うの
いつまで続けるの
肌の色や・住んでる地域が
違っても大切にしあおうよ
他者の為に生き、これからもそうありたいと願っていらしたであろう彼の命が奪われ、私のようなちっぽけな命が生かされていることに、感謝よりも申し訳なさの方が先立ってしまいます。
生かされている以上、そこに何らかの意義を感じ取るべきなのでしょうか?
人の為に生きるって、エゴイストの私にはとても難しいです。
中村哲氏については訃報で初めて耳にしましたが、バプテスト教会所属のクリスチャンでいらしたから、アフガニスタンでの奉仕活動をお始めになった時から、ある覚悟は持っていらしたと思います。クリスチャンならば、この世で終わるのではないことをご存知だったと思うからです。確かに人間同士国境や人種の違いやそうしたことを越えて助け合い互いに敬い、愛し合っていく”べき”ですが、この世はすべてにおいて私たちひとりひとりの試しの世です。混沌とした中、私たちひとりひとりが正しい選択をしていかなければなりません。ユートピアではないし、最初からユートピアであったら、私たちは自由意志のない存在になってしまっていたでしょう。もっと簡単に言えば、親切は自分から始める、ということでしょうか。他の人を変えようとはなかなかできませんが、自分を変えていく方がずっとたやすいし、そのために損得勘定を忘れることが大切なのかもしれません。夏目漱石も書いたように、とかくこの世は生きにくい、ということですね。
中村氏の死でルル様ご自身が「ちっぽけな命…申し訳なさの方が先立って…」とお思いになられるのは、中村氏がそれこそ最も悲しまれることだと思います。クリスチャンでいらした中村氏は現世だけに生きていらしたのではありません。
どなたかを正当に賞賛することは可能です。何故ならばそれが、私たち自身を改善する動機を与えるからです。けれどもどなたかの強さを羨んだり、自分の弱さを恥じたり、他の方が持っていると思える(見える)「完璧な人生」を羨むことは、純粋に否定的な負の考え方ではないでしょうか。
他人と自分との不健康な比較は、うつ病、自信と自尊心の欠如、感謝のない状態に人を持って行き、やがて、他人の不幸を楽しんだり、必要のない怒りを生み、そしてその時間と労力が浪費され、個人的な目標を達成する動機を損ない、つまり精神的な脱線につながってしまいます。
あなたの人生は決して無駄ではありませんし、生きているのが申し訳ない、などとお思いにならないでください。あなたも大事な神の子です。
そうした負の感情は、もしあなたがクリスチャンならば、主に祈ることで、心の内をさらけ出し、弱さを強さに代えられるように懇願なさることではないでしょうか。クリスチャンでいらっしゃらなくとも、祈りはどなたでもできるのです。
次に他人が自分をどう思っているか、という心配は、おとといすればよろしいのです。そのために「感謝することを書く日記」をお始めになり、ソーシャルミディアの使用を極力少なくすることも大切だと思います。そして御自分が完璧にならなければ、という御心配はお忘れになることです。他の人が偉大で自分は、と思いがちなられるならば、それは他人の見かけだけかもしれないと思うことも大切かと。
貴女には貴女らしい価値が必ずあります。貴女ご自身がお気づきにならないだけかもしれません。私には貴女はとても大切な方ですよ。