フレッチャー校舎から次のクラスのあるリチャーズ校舎までは、電車で一駅間ほどの距離がある。しかも山越え野越えのような地形の広大なキャンパス。フレッチャー校舎でのクラスが終わるや否や、真っ先に教室を飛び出し、小走りで次のクラスへ行かなければ、遅刻する。厳寒の冬はブーツが必須で、それでばたばたとキャンパスを駆け回ったものだ。空気は寒い上に乾燥しているので、唇はすぐ荒れる。そのためリップクリームは必需品。小さな頃血色が悪く、先生からよく、具合が悪いのかと心配されたりしたので、リップクリームはすこし色の入ったものを使用していた。赤い唇をして、黒いブーツであっという間にクラスルームを真っ先に出る女学生。それが第一印象、と三十六年連れ添っている人は言う。
そのクラスには親友がいて、キャンパスのキャンディストアで働いていた彼女は、私によくキャンディをくれて、ふたりでそれを口にしながら授業を受けたものだ。ある日私のすぐ前の席に座った人が、後ろに座っていた親友と私のほうへ、くるりと向き、手を出した。私達は丁度ピーナッツ入りのM&Msを頬張っていたところ。ついうっかりM&Ms をその手のひらに置いてあげてしまった。彼は笑って、ありがとうと言ったが、その笑顔はなにかに似ていた。あ、ミッキーマウス!あの笑顔にそっくり。英語でMickey Mouseというと、取るに足らない、些少な、重要ではない、というような意味もあるが、その時私の脳裏に浮かんだミッキーマウスは元来のこれである。
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学期が始まった日、彼はかなり後ろの隅っこにいたのを覚えている。それが日を重ねる毎に、だんだん私の周りに座り始め、その日は、前の席に座っていた。「君達はいつも楽しそうに話しているし、キャンディもあるしね!」
二、三日して、その親友がブラインドデートを計画し、彼女と私とデート達二組でピアノ専攻のクラスメート、ジェームスの卒業ピアノリサイタルへ行くことになった。そのデートの前日、いつもの如く疾風のように教室を出る私の後を彼がついてきて、次のクラスまで教科書を持ってくれる、と言う。私は一人で大丈夫よ、と断ったが、それでも彼は私から重い教科書をとりあげる。男の子に自分の教科書を持たせる女の子は、ノーマンロックウェルの絵画の世界みたいだな、と思ったことだ。途中何気なく、彼は、「金曜日の夜、何食べたい?」と尋ねた。「ボクが君のブラインドデートだよ。」
父親や弟以外の男の人との食事が、何故か嫌いで、何も口にできなかった私だったので、私はかなり懸念し、わけもなく不安だった。ところがデートの夜、彼と差し向かいで座った町の和食レストランで、初めて食事ができた。このミッキーマウスには、私を安心させる何かがあるのかもしれない、と感じたことだ。肝心のコンサートは、絵画なら超抽象的で、実に散々なピアノ演奏だったので、よくジェームスは卒業できるもんだ、と二人で笑った。ごめんね、ジェームス。
キャンパスからそれほど遠くないところに湖があり、真冬、ベンチやテーブルに陽にも溶けないで雪が積もっていても、私達はよく授業の合間にピクニックをしてキャフェテリアで調達したイタリアンサンドウィッチを分けっこした。その後も、彼は毎回私の教科書類を持ってリチャーズ校舎まで歩き、次の学期も同様で、難しいクラスの時は聴講生のふりをして私の隣に座り、宿題やプロジェクトを助けてくれた。ギリシャ語やヘブライ語に明るい古代宗教のグリッグス教授のクラスでは、この”聴講生”は大変に重宝した。グリッグス教授、ごめんなさい、でもズルはしていません。
それが私たち夫婦の出会いである。ああ、いつこの話をしても、なにかむず痒くなるくらい恥ずかしい。
素敵なお話、、、。