さて、松坂がやらかしたり、負傷したりしながらも名実ともに日本を代表する選手となっていく、一方、度重なるスター選手の流出で、素人目に見ても……ちょっとレベル的に厳しくなりつつあったパ・リーグ。
実際、ファームに至っては、社会人のトップとやったら、ヤバかったんじゃないか、と思いますよ。ちょうど、金属バット→木製バットへの過渡期だったとはいえ。
迎えた2000年。
日本のプロ野球界は、長嶋茂雄を中心に回っているかのような状況になっていました。
つうか、その前に、工藤が球団上層部と揉めて、ヨミウリにFA移籍。
何せ2月の段階で、いつウィンドブレーカーを脱いで「背番号3」を晒すか、というストリップショー、ただそれだけで異様なフィーバーになっておりました。
そして、迎えた日本シリーズは、ON対決。
ダイエーは、それを前にした10月13日、、前年に篠原と共に「恐怖のセットアッパー」を形成していた藤井将雄が闘病生活の末に逝去。チームからは悲壮な雰囲気が漂っていました。
あ、そうそう、福岡ドームが日本シリーズの予定日に、脳神経科の学会に貸し出しをしていたことが発覚なんてこともありましたね(おかげで変則日程に)。
この年も、二けた勝った投手無しでリーグ優勝とか、わけのわからない強さを発揮してましたし。
で、ナガシマフィーバーの秋となりました。
なお、ダイエーは、このオフに、黒江ヘッドコーチが横浜に引っこ抜かれてます。
もちろん、この年、さらに21世紀に入ってもスター選手の流出が止まりません(苦笑)。
そうそう、このあたりから、選手だけではなく、優秀なコーチやスタッフも露骨に流出してましたね。
元々コーチは年俸がメッチャ安い傾向(森さんが最後の頃は1億前後だったと記憶しておりますが、ヘッドが高くても3000万くらいとして、その他のコーチは900万円がMAXだったと思います)にあって、お値段的に引き抜き易いし補償も要らないし――これが、じわじわと効いてきましたよね……。
確かに、リーグが違うだけで、現場の待遇もかなり違っていたようですし(Lは除く)、2000年代前半の現場の空気というと、スターになってセ・リーグ、さらにMLBに行きたいっていう感じの選手が多かったようにも思えます。実際、あの時代の若手選手は、妙にギラギラしていた印象があります。
NOMOやICHIROは無理でも、SHINJOかKASHIWADAにはなれるかも知れない――みたいな。
一方、フロントサイドとしても、ならば選手も育てるとともに、指導者(あとスタッフも)も育てていこうという発想にもなるわけでして、それが花を開くまでには、だいぶ大きな犠牲も払ってきましたけど。
端的に言うと、ドラフトにしてもトレードや自由契約選手獲得にしても、育てていくしか無かったんですね。
実際、ファームに至っては、社会人のトップとやったら、ヤバかったんじゃないか、と思いますよ。ちょうど、金属バット→木製バットへの過渡期だったとはいえ。
迎えた2000年。
日本のプロ野球界は、長嶋茂雄を中心に回っているかのような状況になっていました。
つうか、その前に、工藤が球団上層部と揉めて、ヨミウリにFA移籍。
何せ2月の段階で、いつウィンドブレーカーを脱いで「背番号3」を晒すか、という
そして、迎えた日本シリーズは、ON対決。
ダイエーは、それを前にした10月13日、、前年に篠原と共に「恐怖のセットアッパー」を形成していた藤井将雄が闘病生活の末に逝去。チームからは悲壮な雰囲気が漂っていました。
あ、そうそう、福岡ドームが日本シリーズの予定日に、脳神経科の学会に貸し出しをしていたことが発覚なんてこともありましたね(おかげで変則日程に)。
この年も、二けた勝った投手無しでリーグ優勝とか、わけのわからない強さを発揮してましたし。
で、ナガシマフィーバーの秋となりました。
なお、ダイエーは、このオフに、黒江ヘッドコーチが横浜に引っこ抜かれてます。
もちろん、この年、さらに21世紀に入ってもスター選手の流出が止まりません(苦笑)。
そうそう、このあたりから、選手だけではなく、優秀なコーチやスタッフも露骨に流出してましたね。
元々コーチは年俸がメッチャ安い傾向(森さんが最後の頃は1億前後だったと記憶しておりますが、ヘッドが高くても3000万くらいとして、その他のコーチは900万円がMAXだったと思います)にあって、お値段的に引き抜き易いし補償も要らないし――これが、じわじわと効いてきましたよね……。
確かに、リーグが違うだけで、現場の待遇もかなり違っていたようですし(Lは除く)、2000年代前半の現場の空気というと、スターになってセ・リーグ、さらにMLBに行きたいっていう感じの選手が多かったようにも思えます。実際、あの時代の若手選手は、妙にギラギラしていた印象があります。
NOMOやICHIROは無理でも、SHINJOかKASHIWADAにはなれるかも知れない――みたいな。
一方、フロントサイドとしても、ならば選手も育てるとともに、指導者(あとスタッフも)も育てていこうという発想にもなるわけでして、それが花を開くまでには、だいぶ大きな犠牲も払ってきましたけど。
端的に言うと、ドラフトにしてもトレードや自由契約選手獲得にしても、育てていくしか無かったんですね。