「黒い五月」の活動日誌

ティーカップから引っ越してきました。

何故、交流戦だとパ・リーグが強いのか?(22)

2017-05-29 20:06:00 | NPB
 とうとう2017年の日本生命セ・パ交流戦の開幕前夜になってしまいました。

 過去21回にも亘り(苦笑)、ここ30年ほどの動きを振り返りながら、何故に交流戦において、パ・リーグのチームがセ・リーグのチームを、ほぼ毎年のようにボッコボコにしてしまうのか、ということについて、色々と書き殴りながら、その原因を探ってきた当シリーズですが、ここいらで一旦まとめに入ろうと思います。
 
◎モチベーションの差
 これはもう、散々云われてきたことですね。
 初期の頃は、確かにこれが大きかったと思います。
 実際に戦力面で見れば、セの方がかなり上でしたでしょうし、リーグ間の成績を見ても極端な差は出てませんでいたよね。ただ、特に最初の2年くらいは、創設したばかりの楽天が居たという「ハンデ」は考慮に入れるべきかも知れません。
 ただ、交流戦が始まって今回で13シーズン目、少なくとも選手に関しては、世代交代も進みましたし、極端なコンプレックスは無くなっているのではないでしょうか?
 とはいえ、一部、パ・リーグ歴が長いというか、パ・リーグ色が強い監督・コーチ・スタッフ、さらに云えば、90年代を知るフロントスタッフ、ファンのモチベーションは未だに高いのではないでしょうか?

 ここで勝たないと、世間に振り向いてもらえなくなる――

 という恐怖心に近いものが残っているのも確かでしょう。
 金村、パンチ佐藤、ピッカリ佐野、岩本の各氏といったOBから現・塚原夫人に至るまで、口々に「(世間に)振り向いて欲しかった」的な発言をしているところからも、そのあたりはうかがえるのではないでしょうか?


◎DH制の有無
 これは、ここ3年くらい特に強調されていますね。
 DH制があるパ・リーグの方が、打者も投手も育ちやすい、と。
 特に90年代後半からゼロ年代前半の日本シリーズで、パのチームがコテンパンにされることが多かったことから、初期の頃は、パはDHの無い試合では攻撃力が落ちる+小技を絡めた緻密な野球を普段からしていないので、セが有利だろう――という説の方が根強かったんですけどね。
 特に日経新聞あたりは、この辺に絡めて、よく「パはレベルが低い」なんて書いていた記憶があるんですけどね。
 確かに、海の向こうのMLBのインターリーグでは、DHのあるアメリカンリーグが、ほぼ常に勝ち越している状況が続いていることもあって、かなり説得力があります。
 そうなると、セとしては、DH制を導入するか、各チームで交流戦用にDHの選手を用意しておくか、という話になってくるのですが、18試合(実質的には9試合)のために、そういう選手を雇うというのは、コストパフォーマンスの面でどうなのか、という話にはなりますわね。
 これが最初2年のように36試合制、少なくとも24試合制の時代なら、考えたかも知れませんが。
 でも、これが一番の要因かと云われると、ちょっと首をかしげたくなるの確か。


◎球場の広さ
 これは確かに、かなりの比重を占めると思います。
 ホームランテラスが出来ちゃったヤフオクドームを基準にすれば、基本的にパの方が広い球場でゲームをすることが多いですしね。
 つまり、長距離打者はスタンドまで飛ばすために大きく鋭く振り切ることが要求され、ゆえに投手は相手をねじ伏せる直球や鋭い変化球を要求され、もっと突っ込むと外野手は広い守備範囲をカバーする走力と肩が要求され、それにつられるようにキャッチャーやショートストップもそんな俊足選手をアウトにする肩を要求される――それにより選手個々のレベルが上がるというサイクルが出来上がっているんですね。
 セでもナゴド、マツダ、あと甲子園があるので、それを考慮に入れた育成はしているハズなんで、特にマツダスタジアム完成後は、差は縮まっているハズ……(ですよね?)。


◎ドラフト戦略・育成
 これも2010年代に入って、指摘されることが増えているような気がしますね。
 特に21世紀以降に入って感じるのは、パのほぼ全球団が、個性重視で選手を獲得する傾向にあります。
 だいたい、1位2位が「一番必要としてる中で一番レベルが高い選手」あるいは「一番欲しい選手」(別名:特攻枠)、3位4位が「上手く育てば大物に化けそう」な素質や将来性重視(同:逸材枠)、5位以下で「一軍で少しでも活躍してくれれば儲けもの」という感じ(同:色物枠=お笑い枠、インテリ枠とも)――で、ブレてないですよね(笑)。
 何せ過去には、大工、東大生、警備員、ガソリンスタンドの従業員、元力士、京大生、自動車教習所の教官、陸上選手、居酒屋の調理担当、多田野、1位だけどもはや人類と思えない大谷を指名したという前科がありますからねえ(爆)。
 その意味では、読売のルーキー・池田なんて、今でも「何でこっちに来なかった?!」と思ってます(笑)。
 これはね、やはり昔は、「欲しい選手よりも来てくれる選手」だった時代が長かった影響もあるんじゃないかな、と。
 そりゃどの球団だって、投手ならエースになれそうな本格派、野手なら高いレベルのオールラウンダーを取りたいですよ。特に逆指名・自由枠の時代なんて、そういう選手はなかなか来てもらえなかったですからねえ。で、ならば将来性や一芸に重点を置いた(欠点に目をつぶるともいえる)指名をして、せめてコーチに有名どころを何とか頭を下げて来てもらって、選手を育てながら、さらに指導者も育てる、という方針を取らざるを得なかったのが、むしろ正しい理解なのかも知れません。


◎野球の質
 これは以前から、パとセで野球の質が違うとは云われてましたけどね、昨今では「パが個の力で、セの組織的な野球を上回る」という表現がされることが多いと思います。
 一面的には、正しいと思います。
 ただ、私なんかは、むしろ逆の一面の方が強いんじゃないかな、と思います。
 個の力という意味では、山田、小川、筒香、山崎、田中、菊地、丸、鈴木、野村、菅野、阿部、村田、山口鉄、鳥谷、能見、岩瀬、外国人ならばバレンティン、エルドレッドetcと、むしろセのトップクラスの方が抜けているような気がします。
 バレンティンは打力偏重気味、阿部、鳥谷、岩瀬は年齢的にアレな感じですが(苦笑)。
 パの場合は、「個の力」というよりは「強い個性」という表現の方が近いかも知れません。
 まあ、そもそも個性が強くなきゃトッププロでやっていけないハズなんですけど。
 パの弱点も多いけど、ある分野では常軌を逸した変態レベルの凄さを見せる選手が、まず居て、それをまたレベルは少し落ちるけど得意分野を持つ一流半~三流くらいの選手が居て、そんなメンバーが束になって、セの一流どころに必死に食らいついて立ち向かう、という構図になんですよね、私の視点でいくと。
 昨年の、vs.菅野あるいはvs.岩貞なんてそんな感じ。
 公、鷹、鴎と、どのチームも、とにかく球数を投げさせよう、何とか塁に出て主軸に繋ごうという感じ。ナバーロまでカットしまくってましたよね。


◎審判
 昨年あたりは、パ審判部出身者のレベルが――という話はちょいちょい出てましたよね。
 実際のところ、どうなんでしょうか? 
 審判部がセパ統一された際に、ストライクゾーンの差が取り沙汰されたりしてましたが、そんなにレベル云々の話は出ていなかったような記憶なのですが……。
 確かに90年代、頻繁に球場に行っていたころは、差は感じましたけど。
 圧倒的にセの方が、地上波の中継が多かったですからね、その影響なのかセの方が全体的に狭めでしたが、ただし右打者のアウトコースは広く取っていたと思います。
 もっとも最近は、入れ替わりも多く世代交代も進んでいるので、レベル差があったとしてどんどん解消されていくのではないかと思われます。

 ――と、いう感じで、1回締めて、また新しいデータなどが出てきたら、交流戦終了後に触れてみようかと思ってます。

 (第一部・完)

何故、交流戦だとパ・リーグが強いのか?(21)

2017-05-28 14:14:00 | NPB
 2017年の日本生命セ・パ交流戦の開幕を明後日に控えております。
 とりあえず、2005年から2016年までのリーグ間の成績を見てみましょうか。

 36試合制時代 (ホーム3ビジター3×6)
 2005 パ105(7)104セ 優勝=鴎
 2006 パ108(1)107セ 優勝=鴎


 24試合制時代(ホーム2ビジター2×6)
 2007 パ74(4)66セ 優勝=公
 2008 パ73(-)71セ 優勝=鷹

 2009 パ67(7)70セ 優勝=鷹
 2010 パ81(4)59セ 優勝=檻
 2011 パ78(9)57セ 優勝=鷹
 2012 パ67(11)66セ
 優勝=虚
 2013 パ80(4)60セ 優勝=鷹
 2014 パ71(3)70セ 優勝=虚

 
 18試合制時代(ホームorビジター3×6) ※ここからリーグ対抗形式に
 2015 パ61(3)44セ (1位鷹)
 2016 パ60(1)47セ (1位鷹)
 
 
 通算成績 パ・リーグ925勝 セ・リーグ821勝 (54引き分け)

 うん、ちょっと差が開き過ぎかなあ?
 日程編成の都合とか何やらでセ・リーグ側から要望が出て、開始3年目で早くも規模を縮小して開催しているのですが、その後もほぼ互角で推移して2009年はセが勝ち越してます。
 やはり、パ・リーグ優位の流れが明確に認識され始めたのは、2010年でしょうか?
 上位6位までをパが占拠します。
 それまでも「人気のセ、実力のパ」というフレーズが流布されていたものの、半信半疑というか、実力面でも何のかんのでセの方が格上という感覚が残っていたと思われます。
 リーグ間の勝敗差もそれまでは誤差の範疇だったかも知れませんが、ここにきて、20以上差が付くとなると、かなりの衝撃をもって見られました。
 その後もセが持ち直したか思ったら、その翌年には、またボコボコにされるという流れが続いて、一昨年から、セ・リーグ側からの要望により、さらに規模縮小して18試合制になりました。
 確か、一昨年、昨年あたりは、先発ローテーションが安定しているチームが多いセの方が有利だとする予想が多かった気がしますが……。
 ふたを開けてみれば、ここ2年、勝率的には、以前よりもエラいことになってますがな。
 一昨年に至っては、交流戦の影響がモロに響いた挙句、セ界恐慌(セ界の終わり)などという前代未聞の事態が発生してしまいました。
 
 2010年以降に限って言えば、モチベーションというか意識の差などという以上に、リーグ間格差というものの存在を、認めざるを得ないのではないでしょうか。

何故、交流戦だとパ・リーグが強いのか?(20)

2017-05-28 12:41:00 | NPB
 はあ、はあ、はあ。
 やっと、ここまで来たぞ。
 
 こっからだよー、本題は!

 ついに迎えた2005年。
 交流戦元年です。

 球界的には、まだ激震が続いてます。
 身売りとは別のところで、不正会計などが発覚していた西武鉄道グループですが、なんと堤オーナー(前年12月から代行を立ててましたが)がお縄を頂戴してしまいます。
 その後、現在に至るまで、球団身売りの話が浮かんでは消え――を繰り返すこととなっております(2009年にコクド→西武鉄道に親会社を変更)。

 さて、新設球団「東北楽天ゴールデンイーグルス」は田尾監督、前年の騒動の間隙をつくように(?)ドラフト会議で一場、偽ナベツネを獲得、一方のオリッ鉄オリックスバファローズは69歳の仰木監督(実は、この時点でもう体調が……)を迎えております。

 シーズン開幕から約1ヶ月の5月6日、「日本生命セ・パ交流戦」が、ついに始まりました。
 ガッツリ36試合制です(笑)。

 今でこそ、DH制がある状態で日常的に試合しているからパ・リーグが有利だと言われている交流戦ですが、当初は「セ・リーグチームのホームゲームでは、パ・リーグチームの攻撃力が落ちるから」というのと、特に90年代後半からの日本シリーズ、オールスターゲームの成績も加味して、セ・リーグのチームが圧倒するのではないか、という予想の方が多かったと記憶しております。

 実際、楽天野球団なんて、「リアル幕田カイコスターズ」とか、「プロ野球界の大分三好ヴァイセアドラー」とか、散々な云われ様というか、この寄せ集め戦力でどないっせーちゅーんじゃ!?な状況でしたし。他の球団にしても、毎年のように主力選手とコーチが流出している&そうでなくとも予算の関係で選手層薄め――という流れだったので、致し方ないのかも知れませんが、ただ、オーナーサイドの思惑とは別に球団フロント、現場からしてみれば、「ここで勝たないと、お客がいよいよ来なくなる」という恐怖心もあったと思いますよ。

 リーグ間の勝敗で言えば、初年度は105-104でパ・リーグが1勝だけ勝ち越しました。
 これはもう、ね、現場サイドのモチベーションの差としか云い様が無いでしょう。
 
 このあたりから、セ・リーグしか知らなかった各方面に、パ・リーグの少々バイオレンスな世界観が徐々に認知されていったのでは(笑)?
 その中でも、CLMはちょっとどころからかなり狂気じみてましたよね、特にファン同士でも過去に色々あった読売戦。

 それでも、日本シリーズでは、セ・リーグの優勝チームが勝つだろうと言われていたんですよね……。

 33-4

(まだ、少しだけ続くのじゃ)

何故、交流戦だとパ・リーグが強いのか?(19)

2017-05-28 10:08:00 | NPB
 さて、2004年を振り返るといっても、「SHINJO、日本ハム入団」だけで、前項が終わってしまったので、改めて、先日購入したパ・リーグBLUEBOOKを参考にながら、改めて時系列を追っていくとしましょう。

 まず、1月1日、日本ハムが社名を「日本ハム球団(株)」→「(株)北海道日本ハムファイターズ」に改めるとともに、チーム名に「北海道」が冠されます。

 同31日、近鉄球団が、チームの命名権(ネーミングライツ)を売却する意向を示します(が、後日、撤回に追い込まれます)。うーん、不穏。
 
 さらに開幕後、近鉄にはさらなる悲劇が襲います。
 5月17日、鈴木貴久2軍打撃コーチが急逝。まだ、40歳の若さでした。

 その悲劇も冷めやらぬ中、6月13日、まさに「その時、歴史が動いた」一日を迎えます。
 そこからはもう、怒涛のような事態は推移していきます。
 一週間経った頃には、出資比率、フランチャイズ、保有人数、さらに1リーグ10球団制への再編に向けた動きが、まるで決定事項のように報道されるようになります。
 この間、西武の堤オーナー(後のヨミウリの人は、当然別人)が、「西武、ハム、ロッテ、ダイエーの4球団で合併の話が進んでいる」と発言して、当該2球団のファンだけでなく、パ・りーグ全球団のファンに動揺が広がりまくります。
 以前の項でも、触れましたが、そりゃ自分の応援していた球団が消えるだけでなく、その所属リーグ自体が消えていくなんてことになったら、いよいよ以て、その記録をも歴史の影へと追いやられていく、そりゃただ見てるだけのファンにとってもたまったもんじゃないでしょう。
 現に7月時点での管理者はというと、「ああ、もう、(この形の)オールスターゲームは最後なんだなー」という感慨に浸っておりました。

 そのオールスターゲーム。ちょっと最近のとは違う、かといって90年代までのそれとも違う、なんとも微妙というべきか、異様な空気の中での開催となったのですが、長野オリンピックスタジアムでの第2戦の3回裏、それもまた、あまりにも突然のことでした。

 SHINJO、球宴史上初単独ホームスチール!!!

 あまりにも突然のことで、テレ朝のカメラ(というか、Dのスイッチング)が追いかけ切れてません(笑)。

 「MVPはボクのモノです」との事前の宣言通りにMVP獲得したSHINJOは、「これからはパ・リーグです!」と高らかにアピールします。こっから何年か経って、「これからはパ・リーグだ!」が東京ローカルの局で制作放映されるのは、また別のお話。

 当初は、セ・リーグは一連の騒動には、ほぼ関係なく、そのオーナー企業・株主(読売グループ、毎日グループ、中日グループとフジサンケイグループ)は、あくまで外野の立場で事態の推移を見守る感じ、そのオールスター後、あのナベツネが、2リーグ制維持を支持する立場から「なんならパ・リーグに移りましょうか」なんて口走るから、とうとうセ・リーグ各球団も巻き込まれることに(その意味では、ある意味でパ・リーグ存続を後押ししてしまった人物と言えなくもない)。
 
 8月には、アテネオリンピックにNPBからも選手が派遣され、銅メダルだったわけですが、たぶん、忘れている人多数(おい)。
 
 そして、とうとう9月8日、オーナー会議の場において、オリックス、近鉄の統合を正式に承認。資本比率はオリックス8の近鉄2という形の「新設球団」の形となったことで、近鉄球団の消滅が確定となります。

 選手、スタッフサイドに立てば、仮にこのまま球団数12→10となれば、自分たちの食い扶持にも影響するわけですから、そりゃ反対しますよね、普通。
 選手会は「合併差し止め」の裁判を起こし、敗訴(9月3日)したものの、8月にはスト権を確立しており、さらに司法の「日本プロ野球選手会には団体交渉権がある」とのお墨付き的なもの(?)まで得たこともあり、9月18、19日には、ストライキを史上初の敢行します。
 日本の歴史から見ても、これほどまで広範に支持を集めたストライキ、労働運動は、おそらく初めてだったのでは、ないでしょうか。なんたって、外野席には「スト熱烈支持」やら「闘争勝利」やら「要求貫徹」なんていう横断幕が出ていたくらいですから。

 それで、「もう一つの合併話」というのも水面下で進んでいて、その最有力候補になっていたダイエーですが、もうこの時点で親会社はボロボロだったんですね。近鉄はもっとボロボロでsたけど。ところが、再建策について銀行サイドと話し合いを進めていく過程で、あくまでダイエーの本社としては自主再建を強硬に主張し続けていたことで、なかなかまとまらず(仮に産業債権機構が介入してくれば、球団保持がほぼ不可能になるから)、要は合併交渉どころじゃない状況に陥っていたことから、なんと「時間切れ」という思わぬ形で、第2の合併と1リーグ制移行は回避されます。
 
 そして、減ってしまった1球団を穴埋めすべく、様々なすったもんだが展開されます。

 この間、9月20日はSHINJOの「サヨナラ柵超え単打」(パ・リーグ略史にも掲載)、同29日には翌シーズンからの交流戦開始が発表されます。
 長いこと経営に苦しんできた、パ・リーグサイドから悲願ともいえる交流戦でしたが、リーグ消滅の危機に際して実現の運びとなったというのは、なんと皮肉なものか(苦笑)。
 確かに、セ・リーグ側からの一種の「救済処置」として、始まったというのは、否定しづらい話であり、「役目を果たした」から廃止したいという考え方も少なからずあるというのも認識しているんですけどね(それは、また後項に譲るとして)。
 さらに30日には、もはや幻とされていた「白いボールのファンタジー」のCDが、前月にビクターの倉庫からマスターテープが発見されたこともあり、市販されプチヒットします。

 なお、この年から「秋の風物詩」が始まり、この年は西武が優勝(当時はプレーオフ勝者が優勝球団)し、日本一にもなります。前回の日本一から12年振りでした。

 そして、そのすったもんだの末、11月2日、楽天の新規参入が承認されます。
 12月6日には、新生「オリックス野球クラブ(株)」が設立され、球団名も「オリックスバファローズ」となり、ついに近鉄球団は一度も日本一を経験することなく消滅します。

 その後、分配ドラフトがあって、その前後も様々な修羅場が発生しております。

 ついでに、前後して一場事件が発覚し、気が付くとナベツネ、クマを含め3球団のオーナーが引責辞任に追い込まれ、さらに別件でツツミオーナーも失脚(12月1日から星野好男代行)、楽天創設(12月1日付でミキティ就任)、ダイエー身売り(正式には、翌1月に禿就任)で1年のうちに6人のオーナーが交代するという前代未聞の事態も発生しております。
 
 あまりにも他の騒動が大きすぎたが為に、すっかり影に隠れてしまいましたが、ダイエーがついに球団経営をギブアップし、ソフトバンクに身売り、クリスマスイブに承認されます。
 ダイエーに関して言えば、球団というよりも親会社に関しては色々と思うところが……結局ね、中内●(●は工ヘンに刀)会長が、ある時期から消費者のマインドを見失ってしまったんでしょうねえ、ということに尽きると思います。PB(プライベードブランド)大魔王と自ら名乗り(たぶん、●ッコロ大魔王になぞられたんでしょうが)、一代で巨大グループを作り上げたのですが、「安ければ売れる」という考えから脱し切れなかったのが、悲劇の元だったと思います。ま、この辺の話は、長くなりそうなので、ここで打ち止めておきますが。

 ああ、やっと次項で交流戦に突入できる(おい)。

 (だから、つづく)

何故、交流戦だとパ・リーグが強いのか?(18)

2017-05-28 07:44:00 | NPB
 さて、ここで改めて2004年開幕前の動きを振り返っておきましょうか。

 この年、ついに日本ハムが東京ドームから札幌ドームに本拠地を移転します。
 考え様によっては、東京ドームサイドから、半ばネグレクトに近い扱い(※)を受けていて、いくら親会社が巨大であったとはいえ、経営的にも限界に近かったということを考えれば、新天地を求めていくのは、仕方のないことだったのかも知れませんな。
 ついでに、2002年ごろの親会社がやらかし(牛肉偽装事件)→大社の爺様失脚のイメージを払拭したいという思惑もあったような。

 (※註)使用料を上乗せして払っていた。8月に「死のロード」以上に死のロードを強いられていたetc

 しかし、本来は大阪の会社(創業地は徳島)なんですけどね(苦笑)>日本ハム

 で、それの際して、前年1月に渡邊孝男(元西武→サンワード貿易)と契約するなど、少しずつ北海道にゆかりのある選手、スタッフなどをチームに迎えていたのですが、その一方で、スター不在に悩んでいたのもまた事実でした。
 そこで、移転準備も佳境の入っていた球団は、オフに大勝負に出たのでした。

 SHINJO獲得

 思わず、フォントをデカくしちゃいましたけど、2003年11月時点では、球団史上最大級の事件だったのではないか、と。落合獲得で自信を持っていたから、清水の舞台から飛び降りることが出来たというか、それにしても、まさか本当に来てもらえると思ってなかったというか、球団も契約前後は振り回されていた感じもしてました。

 11月19日、映画の試写会にゲストで呼ばれていたSHINJO氏、何を思ったか、いきなり勝手に入団発表しちゃいます。しかも、背番号1(当時、阿久根が付けていた)とか決めちゃうし。
 球団幹部、そして阿久根が仰天したどころの騒ぎじゃなかったでしょーねー。

 普通だったら、フライングによる「騒ぎ」で終わるところなんですが、何せ移籍先がおそらく当時12球団一ファンが少ないと言われていた日本ハムでしたから、余計に「大騒ぎ」になりましたよね。
 事実上、獲得競争はCLMと一騎打ちになっていた、と云われていますが、その時点(つまり、パ・リーグの球団からしか正式にオファーが無かった)で「新庄も、もう終わりなのかなー」「あっという間に落ちぶれたなあ」的な空気は流れてましたね。
 かくして宇宙人2人の獲得に成功した球団関係者にとっては、おそらく嵐のような半月が経過し、12月3日、正式契約→入団発表の運びになるのですが、札幌ドームに現地の人々が2000人押し寄せ、急きょ公開発表会になり、

「札幌ドームを満員にする」
「チームを日本一にする」
「これからはパ・リーグです!」

 ――と、高らかに宣言。
 
 とはいえ、札幌はともかくとして、東京あたりでは、比較的冷ややかな反応でしたね。
 いくら何でも言い過ぎだろ、と。

 ところが、一年後、新庄改めSHINJOは、「スーパースター」といった表現するのも陳腐、パ・リーグさらに日本プロ野球界の救世主に思われるほどに、突き抜けた存在となっていたのでした。

 実際、ホントにこっから、始まっちゃったんでしょうね、パ・リーグの現在の隆盛は。

(交流戦に触れぬまま、つづく)