「黒い五月」の活動日誌

ティーカップから引っ越してきました。

何故、交流戦だとパ・リーグが強いのか?(11)

2017-02-28 22:37:00 | NPB
 なんか、侍ジャパンが台湾リーグ選抜に負けちゃったみたいですけど、それはさておき。

 ちょっと駆け足でいかないと、そもそも今年の交流戦に間に合わないような気がしてきた(おい)。
 基本的に敬称略で、しかも思いっきり主観で書きなぐっております。
 ついでに記憶違いとかもあるかもしれません。

 1997年というと、このシリーズにほとんど登場しておりませんでしたが、日本最速投手として鳴らしていた伊良部が、前年のオフから色々と揉めるだけ揉めて退団してアメリカに行っちゃいます。
 その手法というか行動は決して褒められたもんじゃないですけど、野茂同様、あの陰険なGMをはじめとする球団フロントとの関係がこじれにこじれ切ってましたからねえ……。
 で、この後、ロッテは漆黒の闇の時代を迎えてしまうわけですね。
 川崎時代よりマシとはいえ、千葉マリンはガラガラ。盛り上がるのはライトスタンドだけ、実況アナと解説者をして「毎晩、彼らはどこから集まってくるのでしょうか?」と不気味がられる始末。
 まあ、これは当時のパ・リーグの球場すべてに当てはまってました。
 あの強くて比較的人気のあった西武にしても、黄金時代の後半から、「勝てば勝つほど観客が減っていく」という、経営サイドとすれば「ほなら、どないせいっちゅーんじゃ!?」的な救い様の無い状況に陥りつつありました。
 で、既にアレに手を出していたという話もある清原は96年オフにFAで黄泉の世界読売へと移籍。これは正直、致命傷になりましたねえ。
 この後、もっと致命傷になることが起きるんですけど、それは後日に。

 代わりに落合が、パ・リーグに帰ってきた形になりましたけど、さすがに衰えは隠しきれなかったようで……前年までの活躍も、ゴジラの方の松井が居たからこそ(当然、どちらかとは勝負しなきゃいけない状況もあるわけで――)だったからこそであり、40を過ぎての急激な環境変化、あの当時のファイターズの状況(他に圧倒的な力を持つ打者が居なかった)を考えれば、むしろ良くやっていただいた感もありましたね。負の部分としては、結果的に西浦を潰す形になってしまったことでしょうかね。
 で、まあ、ここから日本ハムも内部的にゴタゴタし出すんですよね。
 元々、あまり話題にならなかっただけで、お家騒動的なものが多い球団ではありましたけど。

 当時、まだまだ会社自体は、それなりに元気だったダイエーはダイエーで、日生球場での生卵事件(96年5月だったっけ?)の余波も冷めやらぬ暗黒状態で、よく考えてみたら、日本一になったオリックス以外は暗黒時代か、その一歩手前まで来ている状況――って、スゲー話だな、おい。

 この頃、陰りはみえていたとはいえ、まだJリーグブームの中ということもあり、世間的には「セ・リーグ>Jリーグ>パ・リーグ」なんて表現をされておりました。いよいよ本格的に普及しつつあったインターネットでは、「え、Vリーグ(当時)より下じゃね?」的な発言もあったとかなかったとか(確かに1日あたりの観客動員数では、負けていた可能性があったわけで――)。

 そのような状況下で、1998年のドラフト会議を迎えます。

何故、交流戦だとパ・リーグが強いのか?(10)

2017-02-26 19:39:00 | NPB
 とうとう10回目に突入してしまいましたよ。

 相変わらず、基本的に敬称略で、しかも思いっきり主観で書きなぐっております。
 ついでに記憶違いとかも、カンベンしてください(苦笑)。

 さて、やっと1995年ですよ。
 この年、イチローは2冠王(+盗塁王、最多安打、最高出塁率、で、決して前年の成績が突然変異的なものでないことを証明しました。
 
 ただ、この年あたりから、ひそかにそして着実に「パ・リーグのレベル低下」を指摘する声が大きくなりはじめます。

 打撃主要3部門と投手主要3部門のタイトルの数字が、いずれもセ・リーグより下回ったこと。
 特に打点80(イチロー、初芝、田中幸雄)は、パ・リーグ歴代最少でしたしね。
 本塁打28(小久保)も、ここ20年くらいに限っても、加藤ボール時代の2012年のおかわり君の27本に次ぐ少なさでした。

 もっというと、この年については、オリックスがリーグ優勝はしたものの、日本シリーズでは、ID野球のヤクルトの前に屈してしまったのも、評価を下げる原因にもなっているような……。

 実際のところ、この後、イチローが首位打者を2000年まで7年連続で獲得したのですが、偉業というよりは、当時の雰囲気としては「7年も独占された」という感じになってました。
 
 渡米する直前の2年くらいになってくると、半ばビーンボールまがいの内角攻めをした挙句、打たれまくる投手、度々レーザービームの餌食になる走者、そして何よりもイチローよりも打てない打者が槍玉に上がるような状況でしたね。

 まあ、翌年の日本シリーズは、世間の期待、希望とは裏腹に、長嶋ジャイアンツをボッコボコにするんですけどね。前年の恨みつらみまで、叩きつけるがごとく――というほど数字的には圧倒してないハズなのですが、ひたすら仰木マジックにカンピューターが翻弄され、勝手に壊れていったというのが正しいのかも知れません。
 高田、四條、勝呂といったあたりを使って、しっかりと傷口に塩を塗り込んだのも印象的。
 あとは直接的じゃないにしても、イチローvs河村コーチ(2軍担当だったけど)の師弟対決というアングルもありましたね。

 当時はですねえ、いくら2年連続でリーグ制覇していたとはいえ、本当にBWに関する情報が不足していたんですよ。
 基本的に、世間の認識は、「イチローと愉快な仲間たち」でしたから。
 あと、知られている選手といえば、前述の元巨人組と元ヤクルトの鈴木平、元阪神の野田、あとは球が遅いという意味で有名だった星野伸之と、そのボールを素手で捕ってしまったスコラ中嶋くらいなもの。

 そもそもテレビに出てくる解説者の多くが、イチローすらまともに見てるかどうか怪しいくらいでしたし(解説者よりもアナウンサーの方が情報が豊富だったり)、それ以前に阪急→オリックス在籍経験のある野球評論家という存在自体が、かなりレアな存在、米田哲也氏は別格(とはいえ少しだけ阪神に在籍)としても、あとは、あの「世界の小さな盗塁王」福本さんと、トリプルスリー達成しても世間に気づいてもらえなかった簑田さん(現役最後は巨人)くらいなものだったか?加藤英司さんはハムで小笠原を育ててましたし、山田さんは、仰木さんと衝突を繰り返しながらコーチしてましたし。
 さらに福本さんはABC&おっサンテレビで、簑田さんは、まだまだネットが発展途上だったテレ東系。地上波の中継は年に数回、ラジオもライオンズびいきのJOQRだのみ。
 一歩間違うと、イチローの存在自体が都市伝説みたいな(苦笑)。
 

 それを思うと、実に絶妙なタイミングで引退に追い込まれたパンチ佐藤。
 なんのかんの言われても、パ・リーグ出身者にメディアでの活躍の道を開いた功労者であること間違いないでしょうね(佐々木信也氏という偉大過ぎる先達はいますが)。
 いや、決して大げさではなく。
 もし、今、あの当時の状況だったとしたら、名球会員なら声はかかるにしても、キー局やスポーツ紙(あるいは夕刊紙)となると西崎、里崎クラスでも厳しい、ましてや岩本勉(言っときますけど、この人、芸人じゃないですよ)、金村さん(漫談師じゃないですよ。そもそもパンチ後援会の会員だった=これ、マジ)クラスだとローカルでも枠があったかどうか。
 実はこのくだりも、後の交流戦で、パ・リーグが無駄に強くなった遠因だったか?

 とりあえず、あの時は「前年、ヤクルトにコテンパンされたチームが、巨人に勝てるわけがない」といった空気でしたからね。
 区営サウナでおっさんたちに「あんちゃん、このイトウタカヒデって知ってるか?」と訊かれて、伊藤隆偉について4解説していたこともありましたなあ(苦笑)

 思えば、この年が20世紀におけるパ・リーグの最後の輝きだったような気がしますね。

何故、交流戦だとパ・リーグが強いのか?(9)

2017-02-21 21:18:00 | NPB
 相変わらず、基本的に敬称略で書きなぐっております。
 ついでに記憶違いとかも、カンベンしてください(苦笑)。

 そうそう、1994年といえば、すっかり忘れておりましたよ、この人の存在を!

 さて、前回より少しさかのぼって4月、BWは2人の選手の登録名を変更します。
 一人は、入団4年目のパンチ(佐藤和弘。後のパンチ佐藤)。
 そしてもう一人は――、はい、もう、お分かりですね。

 まー、すごかったですよ。
 鈴木一朗改めイチローは、入団3年目にして、大ブレイク。
 いや、ブレイクという言葉すら生ぬるいというか。
 もう、ね、目の前で起きていることが信じられないというか。
 足を振り子のように動かす打法からヒットを打ちまくるのは勿論、ちょっとでも対応が遅れれば、たちまち内野安打にしてしまう走力、その走力から長打コースと思われた当たりを涼しい顔で処理してしまう守備力、とんでもない強肩、数は出ないもののいざとなれば広いグリーンスタジアム神戸でもスタンドに叩き込んでしまうパワー――
 
 仰木監督&新井ヘッドの就任があと1年遅れていたらどうなっていたことか。

 イチローは、変人かつ気難しい一方で、人間は出来ているので、前任者をフォローしてますけど、干されていたという表現は正確ではない(少なくとも素質は買われていた)にしても、完全に人間関係が修復不可能なレベルになっていた(自ら一軍に上がるのを拒否していた)みたいですし、少なくとも上田さんと仰木さんの間で何かやってた人が、田口をイップスに追い込むわ、プライベートな部分(しかもゆうてはならん部分まで)にも口を挟むタイプの上司だったようで、考え様によっては阪急時代より待遇が悪化していた選手達に「V9さん」と陰でアダ名され、ほぼ総スカン状態だった事実を鑑みれば、監督としてはアレだったんではなかろうか、と。
 黄泉瓜のコーチで終わっていれば、外国人に「口うるさいのが玉に瑕だけど、ナイスガイ」と評され、某ジュニアに「使えねえ」と思いっきり批判されても「しょうがねえな(子供の頃からの付き合いで性格を熟知していた)」と笑い飛ばしたそこそこに有能なコーチとして名前が残っていたんだろうけどねえ……。
 そもそもあのオーナーの現在に至るまでの発想として「ぼくの巨人軍」を作りたいというのが根底にあるわけで、そこでV9さんに白羽の矢を立てたのでしょうけど、よくまあ、仰木さんたちは、そこから数年で立て直すどころか日本一まで獲ったよな(汗)。
 
 まさにすい星のごとく現れたスターに、日本中の野球ファンが釘付けになります――といいたいところなのですが、まだまだ当時の世間は結構厳しかった(苦笑)。
 この年、特に打たれまくった園川をはじめ、パ・リーグの主だったピッチャー陣は、ボロカスに批判されることに。イチロー自身も賞賛される一方で、批判の対象になっておりました(いわゆる「野球少年の教育によろしくない」ということで)。
 ええ、普段なら、話を盛るところなんでしょうけど、このあたり、かなり表現がマイルドになってます。

 なお、パンチさん、この年限りで仰木さんに引導を渡され、現役引退しております。
 数字的に見れば、同期のドラ1入団11人の中で最低レベルの大外れということになってしまいました(苦笑)。
 当人たちはそれで良かったにしても、編成担当者としては頭を抱えたというか、結構、勇気のある決断だったんじゃないでしょうか?
 イチローがブレイクしたとはいえ、あの時代のパ・リーグで、単独でお客とマスコミを呼べる数少ない存在だったのは事実ですし。
 ついでに、少なくともドラ1(2年連続で社会人ベストナイン、都市対抗でサイクルヒット=今のことろ4人しか達成していないの実績はあった)で獲得、レギュラーは無理で伸びしろは期待できないにしても1軍で年に1度2度はお立ち台に立てるレベルの選手で、一歩間違えていたら社会人野球のお偉いさんから睨まれる事態に発展した可能性もあったわけでして……。
 
 ただ、この人、持ってないように見せかけて、ヘンに持ってるんですよね。
 辞めた翌年、仰木さんの策謀によって芸能界送りにされたタイミングで、オリックスは一瞬とはいえ黄金時代を迎えるのですが――
 
 ○何せテレビやラジオの世界で数少ないオリックス(それもブレーブスではなくブルーウェーブの)OB
 ○引退時点で20代。成績下降していた微妙なポジションとはいえ、前年まで一軍の選手だった。
 ○つまり、限りなくリアルタイムのブルーウェーブ、球界一のスーパースターとなったイチローやアマチュア時代の野茂を知る人物だった。
  ○これにプラスして国際結婚しており、おそらくカタコト程度だったにせよ中国語が話せた(今はどうか知らん)

 ――といった要素が複雑に絡み合って、タレントとして非常に重宝され、現在に至る――と。
 ほんとに色々と批判(業界でもヨミウリ出身の老人を中心に嫌われてそう)されてますけど、プロ選手としての実績はともかくとしても、当時不人気の極みのパ・リーグ出身で、ちょいちょいテレビに出てる時点で奇跡みたいなもんでしたからね。
 それはともかくとして、本人は納得していたみたいな言動をとっておられますが、本心としては、たとえ2軍暮らしでも現役の選手として優勝、日本一の現場に居たかったのではなかろうか、と。

 余談ですが、この年のドラフトでは、阪神が2位で、のちに一夜にして伝説になる男を指名しております(こちらもすっかり忘れ去っておりました)。

何故、交流戦だとパ・リーグが強いのか?(8)

2017-02-12 18:19:00 | NPB
 すっかり、長期シリーズ化して、かつ「本編」が完全にストップしております(笑)。
 相変わらず、基本的に敬称略で書きなぐっております。
 ついでに記憶違いとかも、カンベンしてください(苦笑)。

 さて、1993年のFA制度&逆指名制度の導入まで、話を戻しましょうか?
 さて、この年のドラフト会議から、大学生と社会人に限り逆指名が可能になりました。
 
 現在だったら、いざ知らず、この当時の日本球界ですからね。
 そのことを前提にしておかないと、なかなか理解が進まないと思います。

 これは、もう、かなり前からの傾向で、西武(と身売り後のダイエー)以外のパ各球団は

 欲しい選手よりも来てくれる選手――

 という発想で選手を指名していたのですが、これにより一段と顕著になったと思います。

 何が起きたかっていけば、当たり前のように契約金が高騰しました。
 そのせいか、後年、脱税で摘発される選手がチョロチョロと――そのうち、一人は確か、侍……ゴホゴホ。

 パ・リーグ的には、少数精鋭主義に転換した(というか、予算上、そうせざる得なくなった)のが功を奏したのか、結構「当たり」を引いている感じがします。

 主な入団選手
 猫=石井貴、松井和夫(→稼頭央)
 公=関根、井出、金子誠、大貝
 檻=平井、三輪
 牛=酒井弘、西川慎、大村直、的山
 鴎=立川、大塚明、諸積、小野晋、福浦
 鷹=ヒデカズ、小久保、吉武

 つうか、鴎に至ってはほとんど神がかりですな。

 あ、それから、この年の日本シリーズ。
 ついに森祇晶氏の日本シリーズ不敗神話が終焉を迎えてます(4-3でヤクルト)。

 そして翌年(1994年)を迎えます。
 この年は、まず、海の向こうのMLBの労使交渉(サラリーキャップ制度を入れるか否か)がドロ沼化し、8月から長期ストライキに突入します(しかも翌年の4月まで)。
 そういう事情もあって、この年、アメリカの野球ヲタクファン向けに日本シリーズが放映される事態になります。
 その日本シリーズ、西武vs読売になるんですけどね、特に第6戦は異様な状況になっておりました。
 何せ、試合前に、「森監督、勇退」の報道が流れましてですね、そりゃあもう、いくら黄金時代のライオンズといえど、試合どころじゃなくなっていたのが、正直なところのような気がします。そもそも森監督と堤オーナーの不仲がずいぶんと長いこと噂されてましたし。

 じゃなきゃ、少なくともリーグ5連覇中の監督がよほどのことが無い限り、辞めないって。

そりゃあ、「おやりになりたければ、どうぞ――」(1989年オフ)とマスコミの目の前で言われたらねえ、このあたり、よく森さんも耐えてたと思いますよ。
 この後もちょいちょいリーグ優勝、日本一になったりしてますけど、一つの時代は確実に終わりましたね。
 その森さん、その後、横浜ベイスターズの監督になるのですが、強いチームを作るどころか、むしろ暗黒時代に突入させてしまうんですよね……古葉さんといい、指導者を負の方向に引っ張っていくチームカラーなんですかねえ>ベイ
 それは、この項とは関係ないので割愛。

 そして、事件はこれだけじゃなかったんですよ。

 野茂英雄、近鉄退団

 今でこそ、日本人選手も次々とアメリカに渡ってますけど、当時は大リーグで日本人が活躍するなんて、まだ夢のまた夢の時代でした(村上さんのケースは、レア中のレア)。
 もっとも、当時、騒ぎが起きた時点では、アメリカに行くとかそういう話はなくて、あくまで近鉄を任意引退で退団、という話でした。ただ、そういう時代背景である以上、退団→現役引退かという話になったのですが、そこからドジャースは衝撃でしたね。
 当時の監督への不満、それ以上に節約体質な球団(たぶん、後日語ります)への不信(今でも金村さんが漫談のネタにするくらい)が一気に爆発した形なんでしょうけど、それを証明するかのように(?)吉井もヤクルトへ移籍、あ、あの金村さんも中日にFAで移籍します。

 金村さんはともかく(中村紀にポジションを奪われつつあった)として、主力投手2人がいきなりいなくなるわ、ついでに前年オフに選手に信頼を寄せられていた立花トレーニングコーチを追放しているものだから、翌年のチームは不協和音、おまけに怪我人続出ということで大不振。草魂も燃え尽きてシーズン途中で監督が辞任します。なお、チームを飛び出した野茂、吉井が大活躍したのも追い討ちになった模様。

 そうそう、この年のドラフト会議。
 日本シリーズの騒動を引きずっていた西武は2位小関、3位西口、4位高木浩を、NOMO騒動を引きずっていた近鉄は、3位南(といっても活躍するのは読売移籍後)、4位川口を指名してます。
 あと相変わらず神がかりなのはCLM。1位サブロー、2位ジョニー、3位橋本将。
 それ以上に神がかりなのは、FDHか。
 1位城島(駒大入学が決まってたのに強行指名してプロアマ確執が悪化)、2位ミツグ、3位本間、4位藤井って、全員主力ですがな(汗)。
 ネタ度では、オリックスが1位で二刀流(その他、3位五島、4位豊田次郎)がトップか。
 そうそうハムは、1位で幼少時からファンだったという風変わりな少年、5位でガソリンスタンドの従業員をテストの上で(あと4位で島田一)指名してます。

 しかし、前置きだけでどんだけ続くんだこれ?