「黒い五月」の活動日誌

ティーカップから引っ越してきました。

(無題)

2016-07-27 22:45:00 | 製作状況


 特に野郎の一人暮らしだと滅多に出番はないけど、これくらいは持ってても良いんじゃね?
 画像は360ml瓶です。
 あんまりくどくないですよ。

何故、交流戦だとパ・リーグが強いのか?(6)

2016-07-24 19:16:00 | NPB
 すっかり、長期シリーズ化しております(笑)。
 相変わらず、基本的に敬称略で書きなぐっております。
 ついでに記憶違いとかは、ちょっとカンベンしてたもれ(おい)。

 さて、迎えた1991年のドラフト会議(11月22日開催)。

 前回書きましたが、やり投げ選手やら大工さんやら元力士やら東大生やら多士済々が指名される中、当時のオリックスブルーウェーブは4位で愛工大名電高校の鈴木一朗を指名します。

 云わずと知れた、あのお方ですね。
 高卒新人4位入団ながら、ルーキーイヤーから一軍に登場して、その大いなる可能性を見せつけて、今にして思えば「なぜ、4位で?!」ということになるのでしょうけど、まあ、この年の新人、特に1位2位がほぼ外れ無し状態というくらいに候補がそろっていたという事情もありました。そもそもオリックスの1位も後のメジャーリーガー(田口壮)ですし(笑)。

 で、まあ、どうしてもイチローに関しては、「若手時代にD監督に干されて云々」というエピソードが語られてしまうのですが、成績を見ているとむしろ使っている方なんじゃないのか、という気はします。
 むしろ、田口を潰しかけたエピソード(送球イップスになった)とかの方が問題だよな、と。
 それ以上に急激にチームカラーを変えようとした、つうか虚塵のコピーを作ろうとして舞い上がったというのが問題だったんじゃないか、と。
 かなり口うるさいタイプだったという話は聞いてますし(それでもスミス、クロマティら外国人選手には、「ウザいけどナイスガイ」と慕われていた模様)、球界の盟主(笑)黄泉瓜虚塵群でヘッドコーチなんかをやっている分には、ここまで貶められなかったのではなかろうかと思うわけです。
 パンチ、ブーマーといった元在籍選手の発言なども見る限り、根が深いというべきか、フロントへの不信感も加わり、チーム内部は相当崩壊していたのではないかと思われます。
 そんな中、近鉄の監督を辞して解説者を務めていた仰木彬氏が後任監督に就任します。
 そこから鈴木一朗はイチローとなり一気に才能を開花、ついで(?)に壊れかけていた田口までが覚醒します。
 そして、オリックスはほんの短い期間ではありますが、黄金時代を迎え(94年リーグV、翌年日本一=よー考えたら、後のメジャーリーガーが4人もいるんだもんなあ……)、「西武が強過ぎてつまらん」という風評、Jリーグ開幕、平成の大相撲ブームが重なって、野球一辺倒ではなくなってきた世間の目をつなぎとめることに成功します。
 

 しかし、暗い影は確実に忍び寄ってきました。
 1993年のドラフト逆指名とフリーエージェント制度の導入です。
 さらに、草魂監督を迎えた近鉄は、これと同時に超絶暗黒時代に突入していきます。
 94年オフの騒動にはじまり、さらに球界を揺るがす大事件に繋がる伏線になっていったと云っても過言ではないでしょう。

何故、交流戦だとパ・リーグが強いのか?(5)

2016-07-09 12:53:00 | NPB
 ◎このシリーズは、あくまでも管理者の主観で書かれています。
 ◎あと、基本、敬称略です。
 ◎記憶違いなどあるかも知れませんが、その辺は優しく見守ってください(おい)。
 ◎完全にリーグの歴史振り返りコーナー化としとるな……。

 1989年11月26日のドラフト会議。
 この年は、まあ、凄いメンバーが指名されました。
 主だったところ見ただけでも――
 
 ロ 1位小宮山悟、4位南淵時高、5位林博康
 鯨 1位佐々木主浩、2位東瀬耕太郎、3位梅さん平塚克洋、4位今久留主成幸、5位川端一彰
 公 1位酒井光次郎、2位まいど!岩本勉、6位有倉雅史
 虎 1位葛西稔、3位麦倉洋一、4位古里泰隆、5位SHINJO、6位吉田洋
 鷹 3位橋本武広、4位西俊児、5位馬場敏史
 燕 1位西村龍次、2位古田敦也、6位松元繁
 西 1位潮崎哲也、2位鈴木哲、3位大塚孝二、4位宮地克彦
 竜 1位与田剛、2位井上一樹、3位松永幸男、4位キク山田、5位ガニ股の人種田仁
 檻 1位下痢するまで飲みたいパンチ佐藤、3位高橋功一、4位藤本俊彦、5位松山秀彦、6位佐々木明義
 鯉 1位佐々岡真司、2位仁平馨、4位前田智徳、6位浅井樹
 牛 1位NOMO、3位石井浩郎 4位藤立次郎、6位鉄パイプ入来智
 虚 1位大森剛、2位川邉忠義、3位吉岡雄二

 ――とまあ、史上最高の時(1968年)に比べれば多少落ちるのかお知れませんが、まあ、凄いわ、この年は。
 何といっても1位の11人(あれ、1人足りない?!)が、程度の差こそあれ、1軍で活躍実績を作れたあたりが、今以て印象深いですね。むしろ実働期間、成績面においてはパンチさん悪目立ちし過ぎですな(苦笑)。
 とにかく、最大のトピックスは、ドラフト史上最多(当時)の8球団の1位指名の末、近鉄が野茂英雄を引き当てたことですか。
 都合、9回、パンチョ伊東氏は「野茂英雄、19歳、投手、新日鐵堺」と読み上げました。
 もっと余計なことを書くと、この年を限りに「ドラフト外」の入団が無くなるのですが、このオフに鷹は田之上慶三郎、ハムは内山正博、燕は野口寿浩、河野亮、虚塵は柏田貴史と契約に成功しております。
 突っ込みどころとしては、「(転向で)つぶしが利くから」との理由で投手を指名しまくったハム、捕手を3人も入団させた燕、そして指名した選手全員が後年、ハムか近鉄に移籍することになる虚塵(1年ブランクをあるとはいえ、虚塵でほぼ現役生活を全うしたのが柏田だけというのが皮肉)。麦倉、古里、松元あたりは、実働期間が短いので活躍したかどうかは微妙なところ。
 檻4位の藤本の場合、1軍で4試合出場のみだったものの、引退後にバレーボールの人気選手と結婚して名を残した感じ。
 後の名球会員4人が出ただけではなく、野茂、佐々木、小宮山、SHINJO、そして柏田とMLBに入る選手が5人もプロ入りしたのは特筆すべき事項でしょう。
 そして、この頃から、にパ・リーグは、イチかバチか枠というか何というか、現在にも続いているであろう主に下位でネタっぽい指名をする傾向を徐々に見せるようになります。

 翌年には、日本ハムは2位で「正体不明の高校生」を指名して、中継していたテレ朝をはじめマスコミ関係者をパニックに陥れたのをはじめ、翌々年には西武が6位でやり投げの選手を指名。それだけで驚いてはいけない。ダイエーの10位は大工で、ロッテに至っては7位が元お相撲さんで8位が東大生でしたからね。もし、今、ネットがあったらちょっとした祭りになっていた可能性大ですね。

 そして、1990年は、パ・リーグにトルネードが吹き荒れることになります。
 契約金1億2000万、年俸1200万(どっちも推定)の評価にたがわぬ、いや、それ以上の実力を野茂は発揮します。
 終わってみれば、最多勝、最優秀防御率、最高勝率、最多奪三振にベストナイン、新人王、さらには沢村賞まで獲得、1年にしてパ・リーグの顔となります。
 
 このころは、ほんの僅かながら、世間の目がパ・リーグに向くようになり、地上波、BSでもちょいちょい試合中継が流れるようになっていきました。
 そして、これを待っていたかのように、ロッテの若手で地味にそこそこの活躍をしていた伊良部秀輝がその剛球投手としてのポテンシャルを徐々に見せつけることになります。
 
 それでも、野球の神様は、よほどパ・リーグを憐れんでいたのか、まだ足りないとばかりに、愛知からちょっと風変わりな高校生を呼び寄せるのです。

 (まだまだしつこく続く)

 

何故、交流戦だとパ・リーグが強いのか?(4)

2016-07-07 22:51:00 | NPB
 前段の話が恐ろしく長くなってますけど、これくらいやっておかないと本質には迫れないと思うので、もう少しお付き合いください。
 例によって、主観入りまくり、あと記憶違いがあるかも知れません。
 あと、基本、当時の選手は敬称略になりますので、ご容赦ください。

 とりあえず、西武の黄金時代突入、阿波野、西崎の活躍もあって、世間の目が僅かながらもパ・リーグに向いてきた80年代後半。

 1988年、日本のプロ野球界は大きな転換期を迎えます。
 そう、東京ドームの開業です。
 
 今でこそ、からくり屋敷と呼ばれ、ホームランが出やすい球場の代名詞となっておりますが、当時としては革命的なサイズを誇る、夢の全天候型スポーツ施設とでした。
 ノリとしては殆ど、観光スポット扱いでした。
 後年(日本ハムが居た頃)まで、修学旅行のコースに組み込まれていたりしました(当時のハム的には、修学旅行の団体はドル箱だった)。
 ガキの自分の私にとっては、入場料は高くなるし(後楽園なら確か指定Sが2700円だったのが、ドームだと指定Cが2900円という)、食い物も高い上にマズくなったし、あまり良いことは無かった気はしますけど。
 そして、讀賣とハムで同じ球場を使っていながら、待遇差があったのは、近年、どっかのテレビ番組で岩本勉氏が散々語っているので、割愛。
 選手云々も問題でしたが、球団に対する扱いの極端な差も後の移転に繋がってきます。
 後楽園時代も云われてましたが、8月の死のロードを強いられる日程ですね。
 当時、都市対抗野球が8月実施だったのと、ドームの管理会社による讀賣優先日程により、その死のロードっぷりは、阪神よりと互角以上のレベルになっとりました。(そりゃあまあ、大家さん的に稼げる方が優先になるのはわからんでもないですが、だからといって「お前がおるからもっと稼げるイベントが来ないんじゃあ」的に余分に金を請求してたのはどうだったのか?)

 この年、あの10.19、一部では「パ・リーグの一番長い日」を迎えます。
 この日は、まず阪急ブレーブスが、オリエントリース(現オリックス)に身売りするというニュースが出て、大騒ぎに。
 夏ぐらいから南海ホークスのダイエーへの身売り話が紙面を賑わせたりしていたのですが、あまりにも唐突だったので、ただただビックリするしかなかったのが正直なところ。
 つうか、そもそもオリエントリースって何ぞや?って状態でした(まあ、リースっつうくらいだから金なり何なりを貸す会社なのは想像できましたが)。
 そして、その騒ぎが一息ついたころ、多くの人が思い出すのです。

 「あ、そういや、今日、川崎でダブルヘッダーやってて、近鉄が2つとも勝つと逆転優勝するんだよね」

 果たして、第1試合近鉄勝利で、第2試合に突入していたのでした。
 確か、このとき、たまたまABCが放映権を持っていて、それを知ったテレ朝のお偉いさんが何を思ったのか、通常の番組を無視して、半ば「報道特別番組」状態で、全国ネットで生中継を始めてしまうんですね(※1)。
 で、結果、関西地区では瞬間最高視聴率40%超えた(関東でも30%)という「事件」にまで発展しました。
 パ・リーグの、それも近鉄で、相手がロッテで、この数字を叩きだしたのは、当時としてはテレビ業界に衝撃を与えたようでした。

 翌年の10.12とか、その後の舌禍事件(?)やら、翌々年の西武つおい!な話は割愛して、話は89年のドラフト会議に飛びます。

 そう、後にパ・リーグ、そして日本プロ野球界を揺るがしたあの男と、パ・リーグの救世主となったあの男の登場です。

 (まだまだ続きます)

(※1)2016.07.09追記。この辺りの裏事情的なものは、「熱闘!プロ野球三十番勝負」(文春文庫ビジュアル版)を参照にしていただければ、分かると思われます。