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「先生も103歳まで生きそう、と…」66歳年下秘書が語った寂聴さん最後の日々

2021-12-09 15:30:00 | 日記

下記の記事を女性自身様のホームページからお借りして紹介します。(コピー)です。

 

100歳の夢も語っていた瀬戸内寂聴さんの逝去は多くの人を驚かせた。寂聴さんの身に何が起こったのか。秘書・瀬尾まなほさんによれば、始まりは9月の肺炎による入院だったという。

 

「何か腹が立つことがあって、『絶対に先生に言おう!』と思ったとき、書斎を整理していて、原稿やゲラに書いてある先生の字を見たとき……、『ああ、もう先生はいないんだな』と、思い出してしまって、無性に悲しくなります。車を運転しているとき、夜中に目が覚めたとき……、『先生に会いたい』と、思わずつぶやき、涙があふれます。

 

いまも先生が遠くに行ってしまったという実感が湧きません。心をどこか遠くに置いてきたような、体だけ機械的に動いているような、そんな感覚で日々を生きています。

 

なぜか私は瀬戸内先生が103歳ぐらいまで生きると勝手に信じ込んでいて、先生も『103までは生きそうだね』と、そんなことを言っていました。だから私もこんなに突然お別れがやってくるとは考えていなかったのです」

 

11月9日に瀬戸内寂聴さん(享年99)が逝去してから10日ほどたったころ、“66歳年下の秘書”として知られる瀬尾まなほさん(33)が本誌の取材に初めて応じてくれた。

 

寂聴さんの大往生は多くの人々に衝撃を与えたが、いちばん喪失感にさいなまれているのは瀬尾さんだろう。瀬尾さんが大学を卒業してすぐに寂聴さんの秘書となってから10年。2人は、小説家と秘書という言葉だけでは言い表すことができない強い信頼関係を築きあげてきたからだ。

 

 

瀬尾さんの長男を嬉しそうに抱く寂聴さん(瀬尾さん提供)

 

■9月に風邪をこじらせて肺炎で入院

 

今年5月に掲載された本誌のインタビューでも、新しい長編小説の構想を温めていることなど、100歳への意気込みを語っていた寂聴さん。だが体調に異変が生じ始めたのはこの9月だったという。

 

「風邪をこじらせた肺炎で入院したのです。以前の元気な先生であれば風邪をひいても、風邪のままで治っていたものが、入院という事態になったことに少し不安を感じたことは確かです。『これからは熱が出たり、ちょっとした体調不良があったりしたら、いままで以上に注意しなければいけないな。先生もそういった年齢になったのだな』と、さらに気を引き締めました。

 

それでも9月の入院は、これまで経験してきた入院と同じような感じで、特に緊迫感はありませんでした。先生は大のコーヒー党で、『飲みたい、飲みたい』と言いますから、病院に行くと必ずコーヒーを入れていました。それにシュークリームを添えて出すと、喜んでくれたのです」

 

人に会うのが大好きだった寂聴さんだが、コロナ禍のなかで、人と会うことも2年間控えていた。そんな寂聴さんを楽しませていたのが、瀬尾さんの長男の成長だったという。

 

「今年12月に2歳になるのですが、息子はしっかり意思表示をするタイプのようです。最近の先生はリハビリで廊下を歩くのも面倒くさがるほどでした。でも息子は寂庵に遊びに行くと、そんな先生を小さな手で引いて連れ回していました。

 

台所にある椅子に座っていた先生を、応接の和室に連れていったり、先生の寝室に連れていったり……。いつもだったら『もうしんどいよ~』と言って嫌がったでしょう。でも先生は息子といっしょだと、お互いを支えるようにしながらうれしそうによく歩いていましたね。

 

先生は『この子、私に命令してくるんだよね』と、言いながらも、『すごく意思がはっきりしている』『この子は生きぬく力を持っている』と、いっぱい褒めてくれたのです。だから9月に入院したときも、よく息子のことが話題になっていました。毎日話すのは、息子がいつしゃべり始めるかということ。先生は息子とおしゃべりすることも楽しみにしてくれていたと思います。

 

これは先生が一度退院したときの話なのですが、息子にこんなふうに話しかけていました。『ママが早く2人目の赤ちゃんを産んでくれて、あなたがお兄ちゃんになるといいね』と――」

 

 

 

昨年12月、クリスマスのご馳走を前に笑顔の寂聴さん(瀬尾さん提供)

 

■「病院で死ぬのは嫌だ。寂庵で死にたい」

 

9月末に退院した寂聴さん。しかし5日後には再入院することになった。

 

「10月に5日間だけ寂庵に帰ってきたとき、いつもの台所の椅子から庭を眺めながら、『やっぱり病院で死ぬのは嫌だ。寂庵で死にたいね』などと言っていましたが、本人もそれほど真剣に考えていたわけではなかったと思います。

 

確かに先生はこれまで何度も入院していますが、そのたびに不死鳥のように回復し、仕事を続けてきました。ですから再入院でも私たちスタッフは、『今回は、いつごろ退院できるかな』ぐらいに考えていたのです。先生も退院に向けての歩行のリハビリを続けながら、

 

『早く、寂庵に帰りたいねぇ』と、繰り返し話していました。あまり帰りたいと言い続けるものですから、お医者さんも『じゃあ、もう退院しましょうか』と、おっしゃっていたほどです。

 

いまも不思議に鮮明に覚えている会話があります。『マスクの上の、目からおでこがすごくきれいだね』、そう先生が何度も言ってくださったのです。それで私も『先生、マスクで見えないですけれど、口角の上がっている唇もいいんですよ(笑)』、そうお返事しました」

 

退院を希望し続けていた寂聴さんの体調が急激に悪化したのは10月末だった。

 

「急変する前日まではふつうにお話ししていたのです。夜になって私が病院を出るとき、『明日また来ますね』とご挨拶して、先生が『ありがとう』と……。先生と私は2人ともおしゃべりですから、この10年間ですごい数の会話をしてきたと思います。ですが、このやりとりが私と先生の“最後の会話”となってしまいました。

 

翌日からは、しゃべるのもしんどそうで、意思表示も私が話しかけたことに、うなずいたり首を振ったりということになりました。入院中はひまなので、ご友人たちとは病室でスマホでおしゃべりしていたのです。それもできなくなり、『寂聴さんの携帯電話が通じないのですが……』と、心配したご友人たちから、寂庵に問い合わせのお電話がかかってくるようになりました。電話の呼出し音が聞こえなかったのか、私がかけてもそうでした。

 

容体がよくならないため、先生の娘さんも駆けつけてきて、いつも誰かが、ベッドのそばに付き添うようになったのです。11月8日の夕方、先生と私が病室で2人きりになったことがあります。そのときはベッドで横になっている先生にいろいろなご報告をしました。先生がお留守の寂庵で起こったできごと、先生がかわいがってくれた私の息子のその日の様子……」

 

寂聴さんが旅立ったのは、それからおよそ半日後の、11月9日6時3分だった。

 

「連絡があって、いま寂庵に勤めているスタッフ全員が病院に駆けつけ、娘さんとともに看取らせていただきました。苦しまなかったので、まるで眠っているような、いまにも起きてきてくれそうな、本当にいいお顔でした。いま考えても、あの日の夕方に先生と2人だけの時間が持てたことは本当によかったと思います」

 

 

寂聴さんの頭を剃る瀬尾さん(瀬尾さん提供)

 

■最後まで遺言を書かなかった寂聴さん

 

寂聴さんが名誉住職を務めていた岩手県・天台寺には記帳のために大勢の人が訪れた。また12月9日(木)13~16時、京都の曼陀羅山 寂庵では「偲ぶ会」が開催される。式典はなく、寂聴さんを慕う人たちが焼香をするための会だという。

 

寂聴さんと瀬尾さんの対談集『命の限り、笑って生きたい』(光文社)のあとがきには、寂聴さんのこんな言葉も掲載されている。

 

《「周りが迷惑するから、早く遺言を書いてください」、会計士の先生と顔を合わせるたびに、そうせっつかれているんですけれど、いざ遺言を書こうとすると次々と事件が起こるから、全然書く暇がない。結局、書けないんじゃないかしら》

 

「法話の会でも遺言についてお話ししていましたが、先生は正式な遺言も覚書も残してくれなかったので、今後のことを決めるのは大変です。密葬は身内だけで寂庵で済ませました。お骨は、お墓を作った天台寺には納めると思いますし、故郷の徳島にも分骨することになると思います。

 

決まっていないのは私自身の今後も同じです。先生が、『まなほには才能があるのだから、(文章を)書いていく覚悟を決めなさい』と、真剣な表情でおっしゃってくださったことを昨日のことのように覚えています。しかし、ものを書いて生きていくことの厳しさは、先生のそばにいたからこそ、身に染みてわかっています。それに私を励まし続けてくれた先生はいなくなってしまいました……。

 

笑わせたい、喜んでもらいたい相手を失って、何もやる気が起きません。私の人生は瀬戸内寂聴という人に出会って大きく変わりました。先生はたくさんのことを教えてくれましたし、私にチャンスをくれました。

 

いっしょに過ごしたこの10年間がどれほど尊く、どれだけ先生が私に与え続けてくれたことかもわかっています。先生がいたからこそ私は前へ進んでこられました。後ろを向くと、そこには必ず先生がいて、『あなたなら大丈夫』と言ってくださったから、何でも挑戦できたのです。最後までそんな先生のおそばにいられたことも感謝しています。

 

……それでもやっぱり、もっと一日でも長く、先生といっしょに過ごしたかったという気持ちを消すことはできません。心をどこか遠くに置いてきてしまったような感覚のまま、それでも私が秘書として業務をこなしているのは、“先生に褒めてほしい”という思いがあるからです。

 

先生の秘書として役目を全うしたいと強く思います。先生の納骨、たくさんの方が集まることになる『お別れ会』、お寺関係のことなど、落ち着くまでは膨大な仕事があると思います。正直、すでにキャパオーバーで、10年間のなかで、いちばんきつい日々です。

 

でも私がそれらをがんばれば、『ああ、まなほはよくがんばったね、よく働いたね、お疲れさま』と、先生があの笑顔でねぎらってくれるのではないかと……。いまはそんな思いが私の支えになっているのです――」

 

 

寂聴さんの知人のなかには、「90歳を超えた寂聴さんがあれだけ元気に活動しているのは、若い秘書さんといつも笑いあっているからだ」と、語る者もいた。そんな瀬尾さんが“先生との最後の日々”を初めて語る――。

 

「99年の生涯で、いろいろなことに挑戦してきた先生ですが、いま振り返ると、最後の最後、ぎりぎりまで作家として生きたのだな、と思います。朝日新聞のエッセイの連載や、『週刊朝日』の横尾忠則さんとの往復書簡の連載も楽しんで書いていました。でも特に、文芸誌の2本の連載について語るときは目が輝いていました。『群像』(講談社)の『その日まで』と『新潮』(新潮社)の『あこがれ』です。99歳でも文芸誌2誌に連載を持っているということは先生にとって誇りだったのでしょう。

 

“その日まで”とは、文字どおり先生の“最後の日まで”という意味で、1月には単行本が発売されることになっています。そんな先生が楽しみにしていたのは、ご自身の文学全集の刊行でした。20年ほど前に新潮社から『瀬戸内寂聴全集』として20巻が刊行されたのですが、来年からその続きが出ることが決まっていたのです。

 

実は7月ごろに私が聞き手になって、先生に質問をした内容をまとめた『今を生きるあなたへ』(SBクリエイティブ)が12月中旬ごろに出版される予定です。それに私が共同通信で連載しているエッセイ(※「まなほの寂庵日記」)も『寂聴先生に教わったこと』(講談社)として一冊にまとまることになっています。

 

『来年は先生も私も忙しくなりますよ! なにせ先生が(5月に)100歳になる年ですから。コロナ禍がおさまっていたら、盛大に100歳のお祝いもしましょうね。新潮社から全集も出ますし、(宣伝も)がんばりましょうね。あっ、私の本もいっしょに宣伝してくださいね(笑)』

 

そうお願いしたら、先生が『あとがきでも何でも書いてあげるよ!』と、言ってくださったことも、思い出になってしまいました。増補された立派な文学全集が、書店の棚に並んでいる光景を先生には見てもらいたかったです」


生後5日目の赤ちゃんと初対面 親子の日々が始まった

2021-12-09 13:30:00 | 日記

下記の記事を日経ウーマン様のホームページからお借りして紹介します。(コピー)です。

 

「普通の家族」って何だろう? 特別養子縁組で子どもを迎えた池田麻里奈さん(46歳)。30歳で不妊治療を始め、2度の流産と死産を経験。子宮全摘の手術を受けた後、養子を迎えることを決意しました。里親研修を受け、民間団体に登録した池田さん夫婦の元に、委託の電話がかかってきました。最終回は赤ちゃんとの初対面、そこから始まった家族としての歩みをつづります。

 

生まれたのは男の子という追加情報が入った

「ご紹介したいお子さんがいます」という運命の電話から6日後、私たち夫婦は赤ちゃんと対面するため病院に向かっていました。

今日から3人暮らしがスタートです!

この短い間に、哺乳瓶、ガーゼ、肌着、オムツ、ベビーベッド、チャイルドシートを購入し、赤ちゃん用品でリビングが埋め尽くされていきましたが、赤ちゃんがここにやってくる実感は湧きません。生まれたのは男の子という追加情報が入ったので、『しあわせ名付けの本』を読み、2人で夜遅くまで名前を考えました。家族運が大吉になる画数にこだわったのは、不安の表れかもしれません。

その間、家に遊びに来た同級生に、養子を迎えることを打ち明けました。他人に話したのは初めてです。長年の不妊治療を知っているせいか、「本当に、本当によかったね」とご縁を大喜びしてくれました。「40歳を超えた私が今から0歳の子育てをするなんて驚くでしょ」と私が続けると、「年齢を重ねているからこそ良いこともある!」と言い切ってくれました。ずっと願い続けたことがかなうというのに、そのころ私は弱気になることが多く、そのたびに周囲からの温かい言葉に前向きになっていました。

生後5日で初対面、抱っこして感じた生きる力

病院へ出発する朝、冬のカラッとした快晴に富士山がくっきり見えました。まるでこの日を祝福してくれているかのようです。不思議なことですが、委託の電話がかかってきた時から、妊娠が判明した時のような幸せな気持ちに包まれていました。まだ何も始まっていないのに、赤ちゃんと暮らす明るい未来があるだけで、世の中のすべてが許せてしまうような気持ちです。

あっせん団体のスタッフさんと病室で待っていると、看護師長さんが赤ちゃんを連れてきてくれました。赤ちゃんは生後5日目のホヤホヤ。私たちがのぞき込むと口をむにゃむにゃさせていました。

ほぎゃーと泣いている。緊張のあまり、夫婦ともども手が出ません。まずは夫がおそるおそる抱っこして、続いて私の順番に。

生きている……。

そんなことは当然かもしれませんが、私の第一印象はそんな当たり前のことでした。

死産した赤ちゃんを抱いたあの日

数年前、死産した赤ちゃんを抱いた時のことが心に刻まれていました。あの時、いとおしい気持ちや元気に産んであげられなくてごめんねという苦しい気持ちがありました。でも、やっぱり1番違うのは、あの子の時間が止まっていたことです。

今、目の前の赤ちゃんは未来に向かっている。1秒1秒成長している。たとえ周りが困難な状況でも、こんなに元気に生まれてくれるなんて、すごいと思いました。

 

初めて会ったとき、1秒1秒成長する赤ちゃんを見て、「大切にしなくちゃ」と感じました

SNSに「養子を迎えました!」と投稿

その夜、夫婦それぞれがSNSで「養子を迎えました!」と投稿しました。親権はまだ生みの親にあるので後ろ姿の写真を添えました。

突然の報告にもかかわらず、友人のみならず見ず知らずの方々からも「おめでとう!」「よかったね!」「素晴らしい」という祝福のメッセージが届きました。

新たに飛び込む養子縁組の世界。分からないことだらけの私たちに、なんて世間の反応は温かいのだろう。お祝いの言葉が私の心をどれだけ安心させてくれたことか。こんなに応援してくれる人がいるなら、この子がこれから生きていく未来はきっと明るいはず。そんなふうに思えました。

「少しずつ家族になっていく」という想像は違っていた

週末には友人やご近所さんが駆けつけ、大量のオムツのプレゼントとおすすめベビーグッズ、離乳食セット……外に出掛けることもままならないだろうとケーキまで! まるで結婚16年分の「おめでとう」を一気にもらったようでした。

夫の親戚からは、お宮参りの男児用着物が届きました。親戚中の子どもたちが順番に袖を通して元気に育っている縁起物。風呂敷をほどき立派な着物の柄が見えた時、涙があふれました。こんな日が来るなんて、本当に信じられない。親族の一員として受け入れてもらったような気持ちでいっぱいでした。私の親戚も根掘り葉掘り事情を聞くこともなく、赤ちゃんを代わる代わる抱っこして歓迎してくれました。

それからの子育ては、きっと世間の新米ママパパのドタバタ具合と同様だと思います。スースー眠っている赤ちゃんを見ているとあっという間に1日が過ぎていました。なんて小さい指、それより小さい爪、こちらをうかがっている黒い澄んだ瞳、ミルクを飲んで寝落ちする瞬間の顔、すぐに私の心は奪われました。

「血縁のない子を愛せるか……」という不安は養親にとって大きな課題です。前回の記事(血縁のない子を愛せるか 夫婦の運命を変えた電話)でも、これについて私の考え方は書きましたが、血縁のない分、愛する努力が必要で、少しずつ家族になっていくのだろうと想像していました。

でも気づけば、努力をする間もなく、赤ちゃんへの愛はあふれていました。自分の命に代えてでも守りたい……親たちがわが子を思うその感情を私も抱いていたのです。この子とは血がつながっていないと一瞬でも思う日はありませんでした。目の前の育児に必死だったともいえますが、一緒に過ごしている時間が私を親にしてくれたのだと思います。

9カ月後、裁判所から届いた通知

生後9カ月を過ぎたある日、裁判が結審され、赤ちゃんは私たちの実子となりました。永遠に家族でいられることがこんなにうれしいなんて!

特別養子縁組の最大の特徴は「永続的な養育」です。期限がなく暮らせる「家庭」の存在は子どもにとって安心できる場所ということは理解していましたが、意外にも親である私の心も驚くほど安定しました。これで将来を思い描いていいんだね、これからも抱きしめていていいのね。

特別養子縁組は裁判所に申立てをして審理を受けます。この期間に実親が「やっぱり養子縁組を辞めます」と同意を撤回すれば申立ては却下。生みの親が決心を変える「翻意」は全国で数パーセントあると聞いていましたので、心の奥で最後の最後まで分からない……とハラハラしていました。きっと自分が思っている以上に緊張していたのでしょう。

産んだ親とその子が一緒に暮らせるなら、それは喜ばしいことですが、一方で既に赤ちゃんは私たちの生活の中心で、かけがえのない存在になっていました。ほんの数カ月一緒に暮らしただけと思うかもしれませんが、それだけ赤ちゃんとの暮らしが幸せに満ちあふれていたのです。

 

赤ちゃんとの日々が積み重ねられ、かけがえのないものになっていった

あっせん団体から聞いた出産当時の事情

裁判の結審でホッとした後、あっせん団体から生みの親の相談当時の様子を聞くことができました。私たちも葛藤を繰り返しこの道に進みましたが、生みの親も苦渋の決断をしていました。赤ちゃんの将来を第一に考えて養子に託したことがよく分かり涙がポロっと落ちました。

生みの両親の写真を見せてもらうと、赤ちゃんにそっくりでした。「2人の子だね」と、親子が似ていることを夫も私もほほ笑ましく思えたのは不思議な感覚でした。赤ちゃんの幸せを願っている親は4人いる……私はそう思っています。

不妊を隠していたあの頃が一番生きづらかった

今、息子は2歳半になりました。私たち親子が養子縁組ファミリーということを忘れてしまうくらい日常は平凡です。手をつないで歩く、雨の音を聞く、髪をなでる。そこに息子がいるからできる一つひとつの出来事に幸せを感じています。

 

平凡な日常が何より大事だと分かった

ただ、血のつながりがない養親と養子の関係はこれからも続きます。「かわいいね、ママに似ているね」という言葉は、通りすがりの人であればそのまま受け止めています。必要以上に養子の事実を告げることはしないけれど、普通の家族を装って隠すことはしないと決めています。

不妊を隠して1人で悩んでいた時、相談相手がなく、支援にもつなげられず、自ら孤独をつくっていました。「普通になりたい」と願い、自分の不妊を受け入れられなかったあの時が一番生きづらかった気がします。

息子には、私たち親がいつも味方でいますが、養子特有の悩みも浮上するでしょう。家族の形が多様化して社会に温かく受け入れられたとしても、養子がマイノリティーであることは変わりありません。

そんなとき、ピア(仲間)の存在が支えになるときがあるかもしれません。他の養子縁組ファミリーとの交流や勉強会は続けていきたい。養子はどんなことを課題として抱えやすいのか、予習して心構えをすることが親である私の生涯の役割になると考えています。

車に乗っていて、遠くに富士山がくっきり見えると、息子を迎えに行ったあの日を思い出します。私たち家族はまだ始まったばかり。あの時の気持ちを忘れずに、これからも一緒に遊び、一緒に笑い、一緒に泣いて、一緒に悩みたい、それが私の考える家族です。


「痛いの痛いの飛んでけ~」でホントに和らぐわけ

2021-12-09 12:00:00 | 日記

下記の記事をヨミドクター様のホームページからお借りして紹介します。(コピー)です。

世の中は痛みにあふれている。多くの方々を長期間にわたって悩ませ続けている慢性痛、切り傷、やけど、打撲などの急性痛……と枚挙にいとまがない。痛みを引き起こす危険は、あちこちで息を潜めて待ち構えている。私たちは、物心がついた頃から、ドアで指を挟んだり、転んだりする度に痛みの存在を知り、その危険から身を守るすべを学習してきた。痛みを数え切れないほど経験して大人になったわけだ。

痛みの伝達には“門番”がいる

さて、幼い頃、頭を机の角にぶつけ、母親に「痛いの痛いの飛んでけ~」のおまじないとともに頭をさすってもらっていると、目から火が出るくらいだった痛みが不思議と楽になった――そんな経験をお持ちの方も少なくはないだろう。私は、痛みの診療を専門としているものの、向う 脛

ずね

 を打ちつけた時などには、今でも思わず「痛いの痛いの飛んでけ~」と心につぶやきながら脛をさすってしまう。

この痛い部位をさする、圧迫するといった無意識の動作は、実は理にかなっている。こうした“おまじない”は、痛みの情報が脳へ伝わることを抑えるのだ。

1965年に、メルザックとウォールが発表した学説「ゲートコントロール説」がこの不思議を解き明かした。頭をぶつけた、向う脛を打ちつけたことによる刺激は、侵害受容器( 末梢

まっしょう

 神経の端に露出している痛みの受け皿)を興奮させる。その興奮は末梢神経によって脊髄の入り口(脊髄後角)へと運ばれ、さらには脊髄を通って脳の痛みの中枢である視床、大脳皮質へと伝えられる。しかし、すべての情報が脳に伝わるわけではない。

脊髄後角には門番が待ち構えていて、ゲートの開け閉めをしている。この門番とは、 膠様

こうよう

 質細胞と呼ばれる神経細胞で、痛み情報の脊髄への伝達を調節している。通常は、脊髄後角のT細胞の興奮がある強さに達し、痛み情報の受け渡しが行われるのだが、膠様質細胞がT細胞の興奮を静めると、この受け渡しにストップがかかる(シナプス前抑制と呼ぶ)。門番によってストップをかけられた痛み情報は、脳の痛み中枢には伝わらなくなる。

その仕組みを説明するとこうなる。侵害受容器が受け取った痛み情報は、末梢神経のAデルタ線維、C線維と呼ばれる細い神経線維によって脳へと伝えられる。一方で、「さすられている」「圧迫されている」との感覚は、Aベータ線維と呼ばれる太い線維によって伝えられる。Aベータ線維が刺激されると、門番は、「いっぱい働いたから、もうゲートを閉めちゃおっかな」と、痛みを伝える細い線維からの情報に対して門を閉じてしまうのである。

刺激の強さと痛みは必ずしも相関しない

 

17世紀、フランスの哲学者・デカルトは、刺激の強さと痛みの強さが比例することを唱えた。以降、これは「教会の鐘理論」と呼ばれ、支持されてきた。しかし、このデカルトの理論に反する臨床的、または生理学的事実も多く存在した。その問題を解明したのがゲートコントロール説である。たとえば、神経障害性 疼痛

とうつう

 の一つである「複合性局所疼痛症候群」では、末梢神経が障害を受けることにより、Aベータ線維からの情報量が少なくなって膠様質細胞の活動が低下する。その一方で、Aデルタ線維、C線維からの情報がT細胞を盛んに興奮させるため、強い痛みが生じる。つまり、この場合の痛みは、刺激の強さとは相関しないことになる。

いろいろな部位に門番が

なお、慢性痛に悩まされている方は、何か別なことに集中していると痛みが軽くなることを、知らず知らずのうちに体得されているだろう。このことは、脊髄の入り口以外にも、中枢神経系のいろいろな部位に門番が存在することを示唆している。つまり、精神活動や記憶などによって、多くの門番が痛みを変化させているのである。

その他にもさまざまな痛みを和らげるシステム(生体内疼痛制御機構)が存在する。その一つに「下行性抑制系」と呼ばれる脊髄の伝達経路がある。この経路は「痛みを和らげなさい」との命令を、脳の痛み中枢から末梢に向かって逆行性に伝えているのである。また、体内には痛みを軽減する化学物質であるエンドルフィンやエンケファリンといった内因性オピオイド(モルヒネのような物質)が存在している。これらの分泌により“ランナーズハイ”がもたらされることは有名だ。

痛ければ、まずはその部位をさすってみよう。

どうしても治せぬ痛みに矢も尽きて「痛いの痛いの飛んでけ」となる 馬左宏

 

(森本昌宏 麻酔科医)

 

追記:私の孫に人形を買ってやった時にはしゃぎ過ぎてショーケースに頭をぶっつけて「痛いの痛いの飛んでけ~」ををやっったら泣き止みました。その後も転んだ時には「痛いの痛いの飛んでけ~」を要求されました。効果はあると思います。

 

 


眞子さんはNY生活を謳歌中だが…記者会見で「不快感」を隠さなかった秋篠宮さまの胸の内

2021-12-09 11:00:00 | 日記

下記の記事をプレジデントオンライン様のホームページからお借りして紹介します。(コピー)です。

「質問にも答える機会があった方が良かった」
秋篠宮は誕生日会見で小室圭さんと週刊誌報道に対して不信感を露わにした。

56歳の誕生日を前に記者会見される秋篠宮さま=2021年11月25日、東京都港区の赤坂東邸[代表撮影]56歳の誕生日を前に記者会見される秋篠宮さま=2021年11月25日、東京都港区の赤坂東邸[代表撮影](写真=時事通信フォト)
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これまでも秋篠宮は毎年の誕生日会見で、長女・眞子さんの結婚問題について、さまざまな形で語ってきた。

だが、今回のように眞子さんの夫である小室圭さんに、冷徹な言葉を使うことはなかった(出典は朝日新聞デジタル11月30日 5:00)。

10月に小室圭さんとひさしぶりに会った時のことを、「印象ですが面会していた時間が20分位でしたので、何か印象に残ることというのは特に私にはありませんでした。ごく普通の会話をいたしました」とそっけない。

娘の結婚相手と3年以上ぶりに会って、通り一遍の挨拶しかしなかった、それも20分程度というのは、秋篠宮の圭さんに対する“不快感”が滲み出ているように思う。

秋篠宮は以前から、結婚する段階になったら、金銭トラブルの経緯を含めて国民にきちんと話すべきだといってきたが、圭さんが出した長文の文書に対しても、

「この春に娘の夫がかなり長い文書を出したわけですね。(中略)私の個人の考えとして、あれを読んでみんながすぐに状況を整理して納得できるというものではないと私は判断しました。そのことから、三つの(皇室=筆者注)行事を行わないこととしました」

説明が不十分だったといい、さらに、入籍直後に行った2人の記者会見も、

「私としては自分の口からそのことについて話をして、そして質問にも答える、そういう機会があった方が良かったと思っております」

会見のあり方、小室圭さんが金銭トラブルについて口頭で説明しなかったことに対して、強い不満を口にしている。


勝手にやってくれといういい方に聞こえる
2人が日本を離れニューヨークで暮らすことについても、

「本人たちがアメリカで生活すると決めたわけですから、それが本人たちにとって一番良いことなんだろうと思っています」

記者から、父親としてどういう思いで送り出したのかと聞かれても、

「そうですね。どのような気持ち。元気で暮らしてくれればいいなという気持ちでしょうかね」

自分の意に沿わない結婚をしたのだから、勝手にやってくれという突き放したいい方に、私には聞こえる。

2人の結婚直後に出した秋篠宮の「コメント」の中にも、2人の結婚を祝福するという言葉はなかったが、ここでも、祝福、幸せに暮らしてほしいという、普通の親ならあってもいい言葉が出てこなかった。
だが、この会見の白眉は、週刊誌の一連の報道やSNSに書かれている文章の中には、明らかに誹謗ひぼう中傷のものがあり、「つまり深く人を傷つけるような言葉というのは、これは雑誌であれネットであれ、私としてはそういう言葉は許容できるものではありません」と、いい切ったことにある。

眞子さんも会見で、これまでの週刊誌などの報道を誹謗中傷と批判したが、秋篠宮の口から出ると言葉の重みが違う。

報道に「基準作りをしていく必要」と重大発言
娘・眞子の結婚が公になって以来、さまざまな媒体で報じられ、「私たちの家、秋篠宮家以外の皇室にも影響が出た」とはっきりいっている。

「天皇皇后両陛下がどういうふうに感じているとか、細かいことは私も記憶しておりませんけれどもありましたし、それからもっとはっきりしているのは、この娘の結婚に対して、上皇后陛下がいろいろ言われたとか、こういう考えを持っているというのが週刊誌に出たりもしました。(中略)実際に私もそういうことを聞いたことは一度もないわけですが、なかったということを説明しているのですけれども、それでもその後も続いたということがあり、やはり負担になったことは間違いないと考えています」

ネットの書き込みに対しては容赦がない。

「今そのネットによる誹謗中傷で深く傷ついている人もいますし、またそれによって命を落としたという人もいるわけですね。(中略)誹謗中傷、つまり深く人を傷つけるような言葉というのは、これは雑誌であれネットであれ、私としてはそういう言葉は許容できるものではありません」

ではどうするのか。

「何かやはり一定のきちんとした基準を設けてその基準は考えなければいけないわけですけれども、それを超えたときにはたとえば反論をする、出すとかですね。何かそういう基準作りをしていく必要があると思います」

皇位継承1位の秋篠宮が、メディアの報道に「基準を作れ」と重大発言をしたのである。

「開かれた皇室」というあり方に逆行する
朝日新聞デジタル(11月30日 5:00)によれば、「この方針は宮内庁も同調しているという」。秋篠宮の真意はどこにあるのだろう。

たしかに、眞子さんと小室圭さんの婚約内定延期の理由になった、母親と元婚約者との金銭トラブル報道の中には、眉を顰ひそめ首を傾げたくなるものが多かったことは事実だ。しかし、極端な例を取り上げて、宮内庁が「基準作り」に乗り出すというのはやめたほうがいい。

美智子上皇后が努力して築き上げてきた「開かれた皇室」というあり方に逆行することになるし、宮内庁や政府がメディアに対して言論統制を強めることにつながる危うさを感じる。

秋篠宮や宮内庁には悠仁さんの今後のことが念頭にあるのだろうが、彼を菊のカーテンの奥に隠してはいけない。
メディアの間違った報道はその都度指摘し、訂正させればいい。その役割は、宮内庁の中にそうしたことに詳しい人間を置いてやらせればいい。

その際、新聞記者、それも宮内記者会経験者ではなく、週刊誌やSNSに詳しい人間にすべきだ。

それよりも宮内庁がやるべきは、皇室の人たちの情報をもっと頻繁に流し、国民と皇室との距離を近くする、国民に親近感を持ってもらう努力をするべきである。

眞子さんを「盗撮」したのは日本メディアではなく…
さて、秋篠宮会見の話から、親の意見に背いてニューヨークへ逃避行した小室眞子夫妻の話に移ろう。

小室眞子さんが「盗撮」された。それも動画で。

撮ったのは日本と同じような王室制度があり、エリザベス女王が多くの国民から敬愛されているイギリスのメディアであった。

その予兆はあった。

日本のNEWSポストセブン(2021年11月19日 16:30)が、2人が渡米した翌日の11月15日、小室圭さんが1人で外出するところを追いかけ、パブで友人たちと談笑しているシーンまで隠し撮りして、77枚もの写真を公開したのである。

パブのテーブルに複数種のビール写真=iStock.com/Instants※写真はイメージです
「ダークスーツにブルーのシャツを合わせたメガネ姿の小室さんは、夜8時過ぎに職場から歩いて1ブロックの場所にあるパブに入った。店では先に到着していた同僚らが、小室さんを笑顔と歓声で迎えた。

乾杯を終えると、周囲からはやし立てられた小室さんがスピーチに立った。『メンバーにいろいろと質問されていたよ。彼(小室さん)が何か答えるたびに、周りから「イエス!」といった声が飛んでね、彼も応えるように「イエーイ!」と返していたね』」(居合わせた客=女性セブン12月9日号)

週末には、ノーマスク(ニューヨークではそれが許されている)で自宅の近辺をそぞろ歩く2人の姿を女性セブン(同)がカメラに収めている。圭さんがカメラの存在を認めたのだろうか、目つき鋭く目線をカメラに向けている。

英デーリー・メールは眞子さんの買い物姿を…
そして、11月22日(現地時間)にイギリスのデーリー・メール紙電子版が、小室眞子さんが1人マンションを出て、近所のスーパーへ「はじめてのおつかい」に行く一部始終を動画で撮影して公開したのである。

きらびやかなニューヨークの街で迷子になる小室真子さん
撮られたのは19日のようだ。眞子さんはヘルズキッチン(彼らが暮らしている地名)にある新しい家の必需品を買うために、「ベッド・バス・アンド・ビヨンド」を訪れた。

日本では見られなかったカジュアルな服装で、約1時間半にわたってバスタオル、ハンガー、収納用のバスケット、ペーパータオルなどを購入する様子を撮っている。

大きな紙袋を下げて戻る途中で迷子になり、通りがかりの人に道を尋ねているほほえましい姿も写っている。
私はこの動画を見ながら「ダイアナ元妃」のことを思い出していた。

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ダイアナと結婚したチャールズ皇太子はカミラという年上の人妻と親密な関係にあった(後に2人は結婚)。多くのノンフィクションで描かれているように、ダイアナは表面だけの妃という立場に悩み、彼女自身も不倫に走り、離婚に至ってしまった。

離婚後一般人になったダイアナは多くの男性と付き合っていたが、1997年8月31日深夜、昼夜を分かたずダイアナを追い回していたパパラッチといわれるフリーのカメラマンたちが、ダイアナと男性たちが乗った車を追いかけ、それを振り切ろうとしてトンネルの柱に衝突し、ダイアナたちは亡くなってしまったのである。

パパラッチに四六時中追いかけられた末の悲劇
事件当時私は、週刊現代の編集長だった。

凄惨な事故現場を撮影したパパラッチが、世界中のメディアに写真を売り込むのではないかといわれた。

朝日新聞をはじめとする大新聞は、そのような写真を週刊誌は買って載せるべきではないという論調を張ったが、私は、載せるか載せないかは個々のメディアの責任者が決めるべきだと反論した。

だが、私が知る限り、当時、パパラッチから写真の売り込みもなかったし、日本の雑誌で事故の現場写真を載せたところは一誌もなかった。

後年、事故は運転手のスピードの出し過ぎによるものだったといわれているが、四六時中パパラッチされていることで、ダイアナも周囲の人間も神経が過敏になっていたために起きた悲劇だったのだろう。


住居の前にはすでに複数の車と大型カメラが
週刊新潮(12月3日号)は、彼の地は在ニューヨーク日本総領事館のホームページによれば、昨年6月以降、凶悪犯罪が急増していて、2020年に起きた市内の殺人事件は前年比で44.8%増、拳銃事件はほぼ倍増していると報じている。

さらにコロナ禍でアジア人を標的にしたヘイトクライム(憎悪犯罪)も多発している。セキュリティはどうするのか。

小室圭さんが来年2月の司法試験に失敗すれば、小室夫妻の行く手に黄色信号が点滅しかねない。元皇族として相応ふさわしい生活など夢のまた夢になる。

元秋篠宮眞子さまが小室眞子さんになって、ニューヨークという国際都市で暮らし始めたら、日本のメディアばかりではなく、欧米のメディアも2人を追いかけ始めた。

あっという間に住んでいるマンションは特定され、住居の前には、「すでに複数の車が道端に停まり、望遠レンズのついた大型カメラを抱えて待機している。こうしたパパラッチのほか、ニュースを見てやって来たと見られる日本人らしき通行人が、1時間に2~3人ほど、スマホで玄関を撮影して去っていく」(週刊新潮)そうだ。
政府は当面なんらかの手を打つべきではないか
日本ではSNS上で眞子&圭バッシングが今も続いている。アメリカ在住の不心得者がそれを真に受けて、眞子さん夫婦をストーカーする者が出てくるかもしれない。犯罪に巻き込まれる可能性もなしとはいえない。大都会は危険と隣り合わせである。

当人たちは、日本を離れ自由の天地に来たと羽を伸ばしているのかもしれないが、写真や動画、さまざまに報じられていることが事実だとすれば、彼らはあまりにも危険に対して無防備である。

パパラッチ写真=iStock.com/D-Keine※写真はイメージです
渡米直後から巻き起こっているパパラッチ騒動は、はからずも眞子さんに対する欧米メディアの関心の高さを浮き彫りにした。

政府は不慮の事件や事故から眞子さんを守るために、当面なんらかの手を打つべきではないか。

生活費の面倒を見ることはない。メディアやパパラッチから2人を遠ざける必要もない。だが、税金のムダ遣いといわれるだろうが、眞子さんの安全はできる限り守るべきだと思う。


“生活の様子などの映像は撮らない”とテレビに要請
女性セブン(同)によると、ニューヨークの日本総領事館は2人の動向に無関心ではないという。

「日本総領事館に小室夫妻の担当者が置かれ、“日本人要人”として重要視しています。

最近、総領事館と、ニューヨークに拠点のある日本のテレビメディアとの間で、協定が結ばれました。その内容は、“小室夫妻の生活の様子などの映像は撮らない”こと。海外メディアや週刊誌、個人のSNSなどの映像を使用することも同様です。

その代わり、総領事館の仕切りで、代表のメディアに帰国する小室さんや眞子さんの空港での撮影が許可されるなど、定期的に代表取材の場が設けられるといいます」(宮内庁関係者)

日本の新聞やテレビは総領事館のいいつけを守るかもしれないが、週刊誌や海外メディアがそんな交換条件で納得するはずはない。かえってパパラッチ魂を燃え上がらせるのではないか。

何度も繰り返して恐縮だが、生きていくためには愛と勇気といくらかのおカネが必要だ。 眞子さんと圭さんには愛と勇気はふんだんにある。だが、彼らが異国の地で安全に暮らすためには、セキュリティに要するおカネも必要になることは、渡米直後の“騒動”を見ても分かる。

そのためには最低限、圭さんが司法試験に合格しなければならないこというまでもない。
元婚約者を前に圭さんは「悲しい。ショックです」
ところで話は遡る。小室圭さんが渡米直前、母親の元婚約者との話し合いに臨み、解決金について合意した際のやりとりを週刊現代(11月27日号)が報じていることに触れたい。

11月12日夜8時。東京・港区にある小室家代理人弁護士の事務所の一室で、圭さんと母親・佳代さんの元婚約者A氏(72歳)が対面した。

だが、対話はほとんどなく、ほとんど圭さんがA氏に向けて、「悲しい。ショックです」という言葉を漏らすだけだったようだ。

「俯くA氏に向けて、圭さんは『ハアー』と深くため息をついて続ける。『私たちとの関係をマスコミでお話しされたことがショックで、ショックで……。この件についても、直接ご連絡をいただけると信じていたんですが、なぜかメディアで話が出てきて、悲しかったです。ただただ悲しかったです』」(週刊現代)

気持ちは分かる。話し合ってから3年以上もたって、眞子さんとの婚約が内定すると、週刊女性に金銭トラブルを垂れ込んだのだから、A氏の行動は「カネ目当て」といわれも致し方あるまい。

圭さんと母親が「悲しい」という気持ちは本音であろう。


「貶めようと思ったことはない」とはどの口でいうのか
それに対して元婚約者のA氏はこんなことを圭さんにいったそうである。

「僕は自分の話をメディアに売り込もうとしたことはありません。まさか、話したことがみんな記事になるなんて知らなくて……僕自身も恐ろしかったけれど、そのことで圭くんと眞子さんとの結婚にも影を落としてしまって、申し訳ない。ただ、僕は圭くんを貶めようと思ったことは一度もない。そのことはわかってほしい」

売り込まないで、週刊誌が勝手に書いたというのか? 週刊女性にはA氏が話したと、はっきり書いてあるではないか。こういうデタラメなことを平気でいうから、小室母子は会いたくなかったのだろう。あまりにも身勝手過ぎるいい分である。

週刊誌に金銭トラブルを話しただけでなく、佳代さんとの私信メールを多くのメディアに見せびらかし、おまけに小室家のプライバシーまで明かしたのは彼ではないか。

A氏がやるべきは、まず、小室母子に対して自分がしたことを深く詫びることであったはずである。「僕は圭くんを貶めようと思ったことは一度もない」とはどの口でいうのか。

文春は「お金の出所は眞子さんからではないか」
どのように見積もられたのか、解決金は約409万円だったそうだ。

「報じられている通り、圭さんとA氏はこの場で、

・小室佳代さんとA氏の間の金銭トラブルが最終解決したことを確認する。
・A氏は解決金409万3000円を受け取る。

この2点が記された確認書にサインした」(同)

平成・令和と続いた世紀の金銭トラブル問題は、ひとまず落着したが、大きな疑惑が残ったと週刊誌が報じている。
そのカネの出所はどこか、眞子さんのポケットマネーからではないかというである。週刊文春(12月2日号)で皇室ジャーナリストの神田秀一氏がこういっている。

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「じつは皇族の金銭のやりとりは『皇室経済法』で制限されています。そのため、眞子さんが皇族でいる間は、解決金支払いへの援助は難しかった可能性が高いのです」

週刊文春によれば、皇室経済法では、買い物などの私的な経済行為や礼儀上の贈答などを除き、宮家の成年皇族が金銭を賜与できるのは1年度につき160万円までと定められているそうだ。

従って、眞子さんが圭さんに400万円を援助できるのは皇籍を離脱した後ということになるため、解決金の支払いが渡米ギリギリになったのではないかというのだ。

預金通帳と一万円札写真=iStock.com/SB※写真はイメージです
蓄えはそう多くは残っていないのではないか
週刊文春は、小室圭さんへの金銭援助はこれだけにとどまらず、圭さんの帰国の飛行機代、2人揃そろって渡米した飛行機代、結婚会見の場となったホテル代、弁護士費用、さらには授業料や寮費、司法試験の予備校費、ニューヨークでの生活費を援助してくれた、圭さんが勤めていた奧野総合法律事務所への借金などを含めると、約2700万円になるのではないかと試算している。

その上、眞子さんは毎年受け取る皇族費を貯めていて、1億円近くになるという報道があるが、宮内庁関係者は現実的ではないといっている。

「これは眞子さんの個人財産ではなく秋篠宮家の営みに使われるもの」だそうで、毎月10万円ほどといわれているインターメディアテクからの給料と、秋篠宮家や祖父母から一定の持参金をもらっていると考えられるから、「それなりの蓄え」(同)はあると考えられるというのである。

したがって常識的に考えれば、彼女の蓄えは億というにはほど遠いと思わざるを得ない。家賃が報じられている通りだとすれば月50万円。光熱費や食費などを入れると月に70万円から80万円は必要になると推測される。

一般人になって渡米したのだから、2人を放っておいてやれよという気持ちは、私にもある。だが、私のように眞子さんの父親(祖父か?)のような気持ちで、危なっかしい2人の愛の逃避行をハラハラしながら見ている者にとっては、誰もいわないのなら私が代わりにいってやらねばという気持ちがある。

2人が平穏に暮らせるのは、まだ先になりそうだ。

元木 昌彦(もとき・まさひこ)
ジャーナリスト
1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任する。上智大学、明治学院大学などでマスコミ論を講義。

 


愛子さま 成年行事でフラッシュ撮影解禁「国民の前に出る」という強いご自覚

2021-12-09 08:55:21 | 日記

下記の記事をNEWSポストセブン様のホームページからお借りして紹介します。(コピー)です。

 

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愛子さまは「国民の前に出る」というご自覚を示された(撮影/JMPA)

12月5日、20才の誕生日を迎えられたばかりの愛子さまが、成年行事に臨まれた。当日の都心の朝は、師走らしい寒さが肌をついた。それでも空は澄み渡り、皇室に訪れた晴れの日を祝福しているようだった。

長い1日は、歴代天皇など皇族の祖先や八百万の神などを祀る皇居・宮中三殿への参拝から始まった。その後、ローブ・モンタントに身を包み、皇居・宮殿で天皇陛下から「宝冠大綬章」を授けられた。正装であるローブ・デコルテに着替え、報道陣の前に立たれたのは午後になってから。仙洞仮御所での上皇ご夫妻への挨拶のため、車寄に姿を見せられた。

裾の長いオフホワイトのドレスと、同じ生地で仕立てられた上着。結い上げられた頭上には、叔母の黒田清子さん(紀宮さま)から借り受けられたティアラを戴き、すっと長い首を際立たせるネックレスとともに光を放つ。ただ、そうした宝飾品がかすんでしまうほどに、愛子さまの笑顔は明るい輝きに満ちていた。

凜と、堂々と、カメラの前に立たれた愛子さまからは、かつての控えめな表情は見受けられない。無数のストロボがたかれた。それに驚きを隠せないのが、長く皇室を取材するジャーナリストだ。

「これまで、高校や大学の入学や卒業などの節目で愛子さまに取材する機会が公式に設けられてきましたが、フラッシュをたいての撮影は禁止でした。これほどまでのストロボの光は、初めての経験だったと思います」

その背景には、成人前まで、愛子さまのお隣につねに皇后雅子さまが並び立たれていたことにある。

雅子さまは、長い療養の途上だ。皇室独特のしきたり、お世継ぎへのプレッシャー、産後のうつ状態──雅子さまが体調を崩された要因はさまざま言われているが、その1つに、多くの人から向けられる視線と、一挙手一投足をつぶさにとらえようとするカメラの存在があったとされる。

「療養に入られて以降、報道陣にはフラッシュ撮影が禁じられました。皇后となられても変わっていません。愛子さまがお出ましになるときも、雅子さまがいらっしゃるのでフラッシュ禁止は同様でした。それだけに、カメラの前でにこやかに記者の呼びかけに応じられた愛子さまのお姿には、成年皇族として国民の前に出るというご自覚が強く感じられました。

宮内庁の幹部には、雅子さまとともにフラッシュを避けられてきた愛子さまに少なからぬ不安もあったでしょう。取材にあたり、雅子さまにも、もちろん愛子さまにも、フラッシュを伴う取材が可能かどうか尋ねたはずです。それでも、おふたりとも許可を出されたわけです。雅子さまが病気とともに抱えられた挫折を、愛子さまが見事に乗り越えられた瞬間でした」(前出・ジャーナリスト)

上皇ご夫妻との対面時間は40分ほどだった。

「お戻りの際の愛子さまは、感無量といった表情でした。止まりそうなほど速度を落とした車の窓から、行きのときよりも自然な笑顔で手を振り、目に涙を浮かべているようにも見えました」(前出・皇室ジャーナリスト)

再び宮殿に移動されると、天皇皇后両陛下とともに、他の皇族方や三権の長、元皇族や親族の代表から祝賀を受けられた。愛子さまは背筋を伸ばし挨拶に笑顔で応えられた。

「祝賀の挨拶に宮殿を使うのは天皇家の内親王ならではです。お祝いには、三笠宮百合子さまもいらっしゃいました。98才の百合子さまが足を運ばれたことに、愛子さまの成人という節目が、皇室にとって大きな意味をもつことが推し量られます」(皇室記者)

祝賀の場には、清子さん夫妻も駆けつけた。

「その日、最後まで皇居に残っていたのが清子さん夫妻でした。滞在時間は2時間近く。清子さんは、かつての自身と同じ立場にある愛子さまに、温かい言葉をかけたことでしょう」(前出・皇室記者)