下記の記事は婦人公論.jp様のホームページからお借りして紹介します。(コピー)です。
「歌うことが当たり前の人生を歩んできましたが、今はっきりと《お客様の力が私を歌わせてくれている》《歌によって生かされている》と実感します。」
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現在発売中の『婦人公論』4月13日号の表紙は歌手の森山良子さんです。長く歌手として活躍してきた森山良子さんは、家を留守にしがちだったと言います。子どもと過ごす時間が限られていたとしても、いくつになっても良好な関係でいられる理由とは──。発売中の『婦人公論』からインタビューを掲載します。(構成=丸山あかね)
息の長いシンガーになるためには基礎が大切だ
歌手生活55年目に突入しましたが、「この広い野原いっぱい」でデビューした19歳のときから何も変わってないような気がします。歌うことをコツコツ続けていたら、あっという間に時間が流れたという感じでしょうか。
父がジャズのトランぺッター、母は無類の歌好きという環境に育ったので、小さな頃から常に、ビッグバンドのジャズや洋楽といった音楽が流れていました。小学校5年生の頃、両親に「歌い手になるから中学には行かない」と言って慌てられたのを覚えています(笑)。
「まずは高校を卒業すること!」「そして発声の勉強をすること!」。この2つの約束をし、今も師事する声楽家・坂上昌子先生の門を叩いたのが14歳のときでした。
わが家では「歌手になりたい!」はフワフワとした夢物語ではなかったのです。「音楽の世界は良子が考えているような甘い世界じゃないよ、息の長いシンガーになるためには基礎が大切だ」と厳しく言われました。この両親の助言がなければ今の自分はなかったと感謝しています。
歌を辞めようとしたことも
改めて歌手人生を振り返ってみると、いろいろなことがありました。23歳で結婚を機に歌を辞めようと、引退したことも。同じ時期に、健康そのものだった兄が突然心不全で亡くなり、私の人生はぐるぐる音を立てて私の知らないどこかに向かって走っているようでした。
その後、周囲の方からの強い勧めで、1週間だけ日生劇場で歌うことになりました。最終日の幕が下りた瞬間、「私はもうどんなことがあっても歌を辞めるなどと言わない」と固く心に誓ったことを覚えています。
日本全国で年に70〜80回くらいコンサートを行ってきましたが、新型コロナウイルスの影響で2020年は2月以降の活動が中止になってしまい、再開できたのは9月のことでした。嬉しくて、嬉しくて。
ところが嬉しさが沸点に達して不覚にも1曲目から涙が溢れ、思うように歌えず反省しきり。その顛末を自粛中に始めたインスタグラムに綴ったら、「良子さん、それがライブなんですよ」とコメントしてくださる方がいて、ものすごく救われました。
歌うことが当たり前の人生を歩んできましたが、今はっきりと「お客様の力が私を歌わせてくれている」「歌によって生かされている」と実感します。自粛中に家族と過ごす時間も嬉しいことですし、私にとっては、長いステイホーム期間も悪いことばかりではなかったと思いたいのです。
「ママに育てられた覚えはない!」
私は23歳で最初の結婚をして長女を出産しましたが、長く続かず離婚。その後再婚し、28歳のときに生まれたのが長男の直太朗です。残念ながらこちらもうまくいかず(笑)、シングルマザーとして子育てをしました……と言いたいところなのですが、二人からは異口同音に、「ママに育てられた覚えはない!」と言われています。皆思ったことをハッキリと言うから凹むこともしばしばです。(笑)
仕事で留守ばかりの私に代わって子どもたちの面倒を見てくれたのは、私の父と母。トランぺッターだった父は穏やかで、優しく楽しい人でした。母はとても働き者で、いつも台所に立っていました。お味噌汁は鰹節を削るところから始めるといった具合でしたね。おかげで子どもたちは健康に育ちました。
当時の私は両親に「子どもたちを甘やかしすぎ」などと文句を言いましたが、世界で一番信頼できる存在の両親が子育ての半分以上を担ってくれたことは、本当に恵まれていました。
一緒に過ごす時間が少なかったからとは思いませんが、子どもたちとは難しい時期もあって。でも二人ともおしゃべり好きで、私が家にいるときはよくおしゃべりしました。学校でこんなことがあったとか、そんな話からどんどん発展し、話をしているうちに、「あら、夜が明けてきちゃった、寝ようか」なんてこともありました。
どんどん家に友達を連れていらっしゃい
子どもへの接し方について、私の場合は知らずしらずのうちに自分と親の関係性をお手本にしていたように思います。私の目標は歌手になることでした。それを両親は理解し、協力してくれた。
自分たちと同じ音楽の道を歩んでほしかったからではなく、仮に私がほかのことをしたいと考えていたとしても、その意志を尊重してくれたでしょう。どういう道を歩むにせよ、人生における可能性の幅を広げるよう間口を開いてくれていました。
私も、子どもたちの未来は彼ら自身のものだと思っていますし、将来に口出しするという発想自体がありませんでした。ただ、常に強く関心を寄せていたこともあって、それは娘や息子がどんな友達とつきあっているのかということ。それだけはきちんと知っておきたいと考えていました。
どんどん家に友達を連れていらっしゃいと伝えていたので、我が家はいつも賑やかでした。娘が連れてくる友達は、髪の毛がブルーだったり、ピンクだったり。個性的でパンクでした!
直太朗の友達もユニークでした。高校生になると、現在は詩人で作詞家としても活躍している御徒町凧くんや、有名になる前の翔やん(綾小路翔さん)やイノッチ(井ノ原快彦さん)が毎日遊びに来るようになって。
夜通しみんなでワイワイガヤガヤやっていましたね。私が朝になってリビングへ行くと、テーブルの上に辞書が積み重ねてあったりして。当時は何をしているのかなと思っていたけれど、彼らは言葉を探し、歌を作っていたのです。
直太朗がミュージシャンを目指すなんて
そんなある日のこと。私がキッチンに立っていると直太朗がギターを持って現れ、「ねぇねぇちょっと聴いて」と弾き語りを始めました。息子が真剣に歌うのを聞いたのは初めてだったのですが、上手だなと思ったし、いい曲だなと思いました。歌い終わると彼は「この曲、歌わない?」って。つまり自分の作った歌のプロモーションをしていたのです。
そのとき私は何の意図もなく、「あなたが歌ったほうが良いんじゃない?」と言ったことを覚えています。それからすぐに、彼はストリートミュージシャンに。私が彼の背中を押したことがあったとしたら、その一度だけです。
それにしても、サッカーに夢中だったはずの直太朗がミュージシャンを目指すなんて、私にしてみたら青天の霹靂でした。同時にシマッタ! と思いました。こんなことならもう少し音楽に向かう状況を作って、学ばせておくのだった、と。
でも今や、親子でありながら音楽仲間。直太朗が若かった頃のように「カツゼツ!」などと口うるさいことを言っても、彼はもっと遠くを見ています。それどころか、私のほうが「今日のMCははしゃぎすぎだよ」などと指摘されてしまうことも(笑)。どうも子どもたちは親のはしゃぐ様子を見るのがイヤなようです。
小木一家と一つ屋根の下で暮らす
二人とも性格はそれぞれですが、娘のほうはハッキリと好みがあり、きっぱりとものを決めるタイプ。自立心も早く芽生えました。高校時代に海外留学したいと言い出したときも、私は「早いわよ、行かないでぇ〜」って泣いて引き留めたけど、さっさと自分で手続きをして飛び立ってしまって。私の父がロンドンのホームステイ先まで送り届けましたが、どこでどう乗り物を乗り換えるか全部わかっていた……とビックリしていました。
でも、そういう娘だから、今は頼りになる存在です。私が「どっちを選ぶべきかしら?」と迷っていると、即座に「こっち!」と答えてくれます。常に時代の変化を意識して生きている若い世代の、物の捉え方、考え方に私はとても興味があります。
私は、2017年から娘家族と一つ屋根の下で暮らしています。娘が小木(お笑いコンビ・おぎやはぎの小木博明さん)と結婚したのは06年。3年後には孫娘が生まれました。
その頃、同居していた母が他界し、自分も70歳を目前にしていて……。そこである日、娘夫婦に完全分離型の二世帯住宅を建てない? と提案しました。完全分離型なら、一人になりたいときは一人で過ごせるし、会いたいときはいつでも会える。ずっと考えていたことでした。実際、ドアtoドアで2メートルの隣同士に暮らしていながら顔を合わせない日もありました。コロナ感染が広がるまでは。
私は20年の2月初旬に行ったステージを最後に、自粛生活に入りました。それまではコンサートで全国を飛び歩き、移動日を含めると年の3分の2ほど家を空けている状態。残りの3分の1も仕事が山積していて、家族とゆっくり過ごす時間はありませんでした。
ところが何もかもがピタリと停滞してしまった。たっぷり時間ができた私は生まれて初めて主婦業に専念。慣れない料理を日々作り、一人で食べるのはつまらないので、「こっちに来て一緒に食べない?」と娘一家を誘うようになり、今は4人で夕飯の食卓を囲むのが普通になりました。
私が小木と初めて会ったのは2000年だったでしょうか。娘は友人のお笑い芸人・まちゃまちゃちゃんの紹介で小木と知り合い、交際するようになって、彼を家に連れてきた。その後も、私が仕事から帰ると、「あら、また来てる、いらっしゃい」「あら? また来てるの」という感じで、気づいたら小木はわが家に住みついていました。
私が「ただいま」と言ってリビングに入ると、「あー、お帰りなさーい」って(笑)。勝手に私や直太朗のトレーナーを着てソファーに寝転がっているんです。
どういうわけだか私は小木のどんな言動も気になりません。おぎやはぎのラジオにゲスト出演したときに、私が「新曲を出したの、かけてね」って話したら、小木が「それはプロモーションだろ、このクソババア」って。ギリの母にこんなこと言えませんよね、フツーは(笑)。
これが彼の芸風だからまったく気にしない……というか、むしろ楽しくて、おかしくって大笑いしました。自宅ではいたって穏やかで優しい人です。……って、「僕を絶対に外で褒めないでください」と言われていますから、これはここだけの内緒の話です。
わが子の愛する人を自分も一緒に愛したい
18年には直太朗が結婚して家族が増えました。わが家の近くに住んでいて、「今日は天ぷらをするから食べに来ない?」などと誘うと二人でやってきます。自粛中は玄関先でお惣菜を渡したり、お土産を持ってきてくれたり。
お嫁ちゃんはピアニスト・作曲家です。私は過去に自分の仕事で、一度だけ彼女と一緒だったことがありました。そのときに、ピアノの腕は確かだし、素敵な女性だなと何だか好感を持ったのです。
時を経て、直太朗の結婚相手として紹介されたとき、彼女から「あの仕事のあと、これからも頑張ってねとお電話をいただいて嬉しかったです」と言われて。実のところ私は忘れていたのですけれど、本心で言ったことでしたし、深いご縁を感じました。
嫁姑問題ですか? 万が一にも私がお嫁さんやお婿さんと揉めるなんてありえません。そんなの本末転倒だと思うのです。私は、わが子の愛する人を自分も一緒に愛したい派。だってそのほうが絶対にみんなが楽しく幸せに過ごせるもの。
ただ、相性が悪くて、というケースがあっても不思議ではないとは思います。先日、私のラジオ番組に寄せられた同世代の女性からの投稿に、「苦労して育てたのに、子どもたちは私の誕生日に花の一つも送ってこない」といった内容のことが綴られていました。私は「よくわかります。でも私だったら電話なりLINEなりで、今日は私のお誕生日だから何かちょうだいってプレゼント要請の電話をしちゃう」と話しました。
そもそも「親子なのに」と落胆するのは、「親子なのだから」と期待している証拠ですよね。でもみんなそれぞれに忙しいのだから、互いのことは二の次でいいと私は思っています。普段は私のことなど忘れて、自分の大切なものに心を注いでほしい。それぞれが元気に頑張ることが大切だと思います。
私自身も、コロナ禍の中でいろいろなことを見つめ直しました。来し方を振り返り、本当に自分が歌いたい音楽を歌ってきただろうか、アレもコレもと欲張りになりすぎたのでは、と思ったりしています。今後は、「実は私、こんな歌を歌いたかったの!」と言いながら、好きな音楽をどんどん歌っていきたい。《自分らしさ》をもっと広げていきたいと思っています。
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構成: 丸山あかね
表紙撮影:篠山紀信
出典=『婦人公論』2021年4月13日号
森山良子
歌手
1948年東京都出身。67年「この広い野原いっぱい」でデビュー。「禁じられた恋」「涙そうそう」「さとうきび畑」「あなたが好きで」など数々のヒット曲がある。女優、声優としても活躍。