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ワクチン3回目接種は「副反応」が強い? TBS調査では6割が体感、専門家の見解は

2021-12-23 16:02:36 | 日記

下記の記事は日刊ゲンダイデジタル様のホームページからお借りして紹介します。(コピー)です。

 

オミクロン株の蔓延が懸念され、岸田政権も“前倒し”を決めた新型コロナワクチンの「3回目接種」。すでに医療従事者や高齢者施設入居者への接種がはじまっている。しかし、その一方で不安視されているのが副反応だ。3回目接種の副反応は、1.2回目よりも強いという声もあがっているからだ。

 

 TBSの調査は衝撃だ。3回目接種を終えた13人中8人が、1.2回目よりも副反応が強かったと回答している。同等が3人、弱かったと答えたのは2人だった。サンプル数が13人と少ないが、6割以上の人が副反応が強かったというから驚きだ。関心が高いのだろう、<ワクチン3回目副反応>がツイッターのトレンドワードに入った。

 

雨宮塔子は4日間ダウン

 

 フランスで3回目接種をしたフリーキャスターの雨宮塔子も、インスタグラムに<ワクチン3回目の接種後、想像以上の副反応にベッドの中で唸っていたのですが、4日後ようやく回復(遅っ)!>と、副反応の強さを書いている。

 また、3回目接種をした島根県の松江生協病院の医師や看護師75人の副反応は、「前回2回目接種と比べ、前回と同様が7割、前回よりひどいが2割、前回より症状が軽いが1割」だったという。「前回よりひどい」と回答した人の症状は、高い発熱があった、もしくは熱が長びいたというものだった。山陰中央テレビが詳細に報じている。接種は、すべてファイザー製のワクチンだった。

 

 ただ、ファイザー社の調査によると、接種部位の痛みや倦怠感は2回目より3回目の方がやや高かったが、頭痛や筋肉痛は3回目接種の方がやや低かったという。リンパ節の腫れは3回目接種の方が5%ほど高かったという。

 

 3回目接種の副反応は強いと考えた方がいいのか。医療ガバナンス研究所理事長の上昌広氏(内科医)はこう言う。

 

「海外では3回目接種が進んでいます。2回目と3回目の副反応は変わらない、というのが世界のコンセンサスです。日本人も大きな差はないと思います。私も3回目を打ちましたが、副反応は2回目と同じでした。2回目に強い副反応があった人は、3回目も強い傾向があるようです。自分は3回目接種の後、3回、鎮痛剤を服用しました」

 

 3回目接種を急がないと、あっという間にオミクロン株が大流行しておかしくない。


森山良子「わが子の愛する人を私も愛したい。小木一家、直太朗一家と食卓を囲む日々」

2021-12-23 15:30:00 | 日記

下記の記事は婦人公論.jp様のホームページからお借りして紹介します。(コピー)です。

 

「歌うことが当たり前の人生を歩んできましたが、今はっきりと《お客様の力が私を歌わせてくれている》《歌によって生かされている》と実感します。」

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現在発売中の『婦人公論』4月13日号の表紙は歌手の森山良子さんです。長く歌手として活躍してきた森山良子さんは、家を留守にしがちだったと言います。子どもと過ごす時間が限られていたとしても、いくつになっても良好な関係でいられる理由とは──。発売中の『婦人公論』からインタビューを掲載します。(構成=丸山あかね)

息の長いシンガーになるためには基礎が大切だ

歌手生活55年目に突入しましたが、「この広い野原いっぱい」でデビューした19歳のときから何も変わってないような気がします。歌うことをコツコツ続けていたら、あっという間に時間が流れたという感じでしょうか。

父がジャズのトランぺッター、母は無類の歌好きという環境に育ったので、小さな頃から常に、ビッグバンドのジャズや洋楽といった音楽が流れていました。小学校5年生の頃、両親に「歌い手になるから中学には行かない」と言って慌てられたのを覚えています(笑)。

「まずは高校を卒業すること!」「そして発声の勉強をすること!」。この2つの約束をし、今も師事する声楽家・坂上昌子先生の門を叩いたのが14歳のときでした。

 

わが家では「歌手になりたい!」はフワフワとした夢物語ではなかったのです。「音楽の世界は良子が考えているような甘い世界じゃないよ、息の長いシンガーになるためには基礎が大切だ」と厳しく言われました。この両親の助言がなければ今の自分はなかったと感謝しています。

歌を辞めようとしたことも

改めて歌手人生を振り返ってみると、いろいろなことがありました。23歳で結婚を機に歌を辞めようと、引退したことも。同じ時期に、健康そのものだった兄が突然心不全で亡くなり、私の人生はぐるぐる音を立てて私の知らないどこかに向かって走っているようでした。

その後、周囲の方からの強い勧めで、1週間だけ日生劇場で歌うことになりました。最終日の幕が下りた瞬間、「私はもうどんなことがあっても歌を辞めるなどと言わない」と固く心に誓ったことを覚えています。

日本全国で年に70〜80回くらいコンサートを行ってきましたが、新型コロナウイルスの影響で2020年は2月以降の活動が中止になってしまい、再開できたのは9月のことでした。嬉しくて、嬉しくて。

 

ところが嬉しさが沸点に達して不覚にも1曲目から涙が溢れ、思うように歌えず反省しきり。その顛末を自粛中に始めたインスタグラムに綴ったら、「良子さん、それがライブなんですよ」とコメントしてくださる方がいて、ものすごく救われました。

歌うことが当たり前の人生を歩んできましたが、今はっきりと「お客様の力が私を歌わせてくれている」「歌によって生かされている」と実感します。自粛中に家族と過ごす時間も嬉しいことですし、私にとっては、長いステイホーム期間も悪いことばかりではなかったと思いたいのです。

「ママに育てられた覚えはない!」

私は23歳で最初の結婚をして長女を出産しましたが、長く続かず離婚。その後再婚し、28歳のときに生まれたのが長男の直太朗です。残念ながらこちらもうまくいかず(笑)、シングルマザーとして子育てをしました……と言いたいところなのですが、二人からは異口同音に、「ママに育てられた覚えはない!」と言われています。皆思ったことをハッキリと言うから凹むこともしばしばです。(笑)

仕事で留守ばかりの私に代わって子どもたちの面倒を見てくれたのは、私の父と母。トランぺッターだった父は穏やかで、優しく楽しい人でした。母はとても働き者で、いつも台所に立っていました。お味噌汁は鰹節を削るところから始めるといった具合でしたね。おかげで子どもたちは健康に育ちました。

当時の私は両親に「子どもたちを甘やかしすぎ」などと文句を言いましたが、世界で一番信頼できる存在の両親が子育ての半分以上を担ってくれたことは、本当に恵まれていました。

 

一緒に過ごす時間が少なかったからとは思いませんが、子どもたちとは難しい時期もあって。でも二人ともおしゃべり好きで、私が家にいるときはよくおしゃべりしました。学校でこんなことがあったとか、そんな話からどんどん発展し、話をしているうちに、「あら、夜が明けてきちゃった、寝ようか」なんてこともありました。

どんどん家に友達を連れていらっしゃい

子どもへの接し方について、私の場合は知らずしらずのうちに自分と親の関係性をお手本にしていたように思います。私の目標は歌手になることでした。それを両親は理解し、協力してくれた。

自分たちと同じ音楽の道を歩んでほしかったからではなく、仮に私がほかのことをしたいと考えていたとしても、その意志を尊重してくれたでしょう。どういう道を歩むにせよ、人生における可能性の幅を広げるよう間口を開いてくれていました。

私も、子どもたちの未来は彼ら自身のものだと思っていますし、将来に口出しするという発想自体がありませんでした。ただ、常に強く関心を寄せていたこともあって、それは娘や息子がどんな友達とつきあっているのかということ。それだけはきちんと知っておきたいと考えていました。

 

どんどん家に友達を連れていらっしゃいと伝えていたので、我が家はいつも賑やかでした。娘が連れてくる友達は、髪の毛がブルーだったり、ピンクだったり。個性的でパンクでした!

直太朗の友達もユニークでした。高校生になると、現在は詩人で作詞家としても活躍している御徒町凧くんや、有名になる前の翔やん(綾小路翔さん)やイノッチ(井ノ原快彦さん)が毎日遊びに来るようになって。

夜通しみんなでワイワイガヤガヤやっていましたね。私が朝になってリビングへ行くと、テーブルの上に辞書が積み重ねてあったりして。当時は何をしているのかなと思っていたけれど、彼らは言葉を探し、歌を作っていたのです。

直太朗がミュージシャンを目指すなんて

そんなある日のこと。私がキッチンに立っていると直太朗がギターを持って現れ、「ねぇねぇちょっと聴いて」と弾き語りを始めました。息子が真剣に歌うのを聞いたのは初めてだったのですが、上手だなと思ったし、いい曲だなと思いました。歌い終わると彼は「この曲、歌わない?」って。つまり自分の作った歌のプロモーションをしていたのです。

そのとき私は何の意図もなく、「あなたが歌ったほうが良いんじゃない?」と言ったことを覚えています。それからすぐに、彼はストリートミュージシャンに。私が彼の背中を押したことがあったとしたら、その一度だけです。

それにしても、サッカーに夢中だったはずの直太朗がミュージシャンを目指すなんて、私にしてみたら青天の霹靂でした。同時にシマッタ! と思いました。こんなことならもう少し音楽に向かう状況を作って、学ばせておくのだった、と。

 

でも今や、親子でありながら音楽仲間。直太朗が若かった頃のように「カツゼツ!」などと口うるさいことを言っても、彼はもっと遠くを見ています。それどころか、私のほうが「今日のMCははしゃぎすぎだよ」などと指摘されてしまうことも(笑)。どうも子どもたちは親のはしゃぐ様子を見るのがイヤなようです。

小木一家と一つ屋根の下で暮らす

二人とも性格はそれぞれですが、娘のほうはハッキリと好みがあり、きっぱりとものを決めるタイプ。自立心も早く芽生えました。高校時代に海外留学したいと言い出したときも、私は「早いわよ、行かないでぇ〜」って泣いて引き留めたけど、さっさと自分で手続きをして飛び立ってしまって。私の父がロンドンのホームステイ先まで送り届けましたが、どこでどう乗り物を乗り換えるか全部わかっていた……とビックリしていました。

でも、そういう娘だから、今は頼りになる存在です。私が「どっちを選ぶべきかしら?」と迷っていると、即座に「こっち!」と答えてくれます。常に時代の変化を意識して生きている若い世代の、物の捉え方、考え方に私はとても興味があります。

私は、2017年から娘家族と一つ屋根の下で暮らしています。娘が小木(お笑いコンビ・おぎやはぎの小木博明さん)と結婚したのは06年。3年後には孫娘が生まれました。

 

その頃、同居していた母が他界し、自分も70歳を目前にしていて……。そこである日、娘夫婦に完全分離型の二世帯住宅を建てない? と提案しました。完全分離型なら、一人になりたいときは一人で過ごせるし、会いたいときはいつでも会える。ずっと考えていたことでした。実際、ドアtoドアで2メートルの隣同士に暮らしていながら顔を合わせない日もありました。コロナ感染が広がるまでは。

私は20年の2月初旬に行ったステージを最後に、自粛生活に入りました。それまではコンサートで全国を飛び歩き、移動日を含めると年の3分の2ほど家を空けている状態。残りの3分の1も仕事が山積していて、家族とゆっくり過ごす時間はありませんでした。

ところが何もかもがピタリと停滞してしまった。たっぷり時間ができた私は生まれて初めて主婦業に専念。慣れない料理を日々作り、一人で食べるのはつまらないので、「こっちに来て一緒に食べない?」と娘一家を誘うようになり、今は4人で夕飯の食卓を囲むのが普通になりました。

私が小木と初めて会ったのは2000年だったでしょうか。娘は友人のお笑い芸人・まちゃまちゃちゃんの紹介で小木と知り合い、交際するようになって、彼を家に連れてきた。その後も、私が仕事から帰ると、「あら、また来てる、いらっしゃい」「あら? また来てるの」という感じで、気づいたら小木はわが家に住みついていました。

私が「ただいま」と言ってリビングに入ると、「あー、お帰りなさーい」って(笑)。勝手に私や直太朗のトレーナーを着てソファーに寝転がっているんです。

どういうわけだか私は小木のどんな言動も気になりません。おぎやはぎのラジオにゲスト出演したときに、私が「新曲を出したの、かけてね」って話したら、小木が「それはプロモーションだろ、このクソババア」って。ギリの母にこんなこと言えませんよね、フツーは(笑)。

 

これが彼の芸風だからまったく気にしない……というか、むしろ楽しくて、おかしくって大笑いしました。自宅ではいたって穏やかで優しい人です。……って、「僕を絶対に外で褒めないでください」と言われていますから、これはここだけの内緒の話です。

 

わが子の愛する人を自分も一緒に愛したい

18年には直太朗が結婚して家族が増えました。わが家の近くに住んでいて、「今日は天ぷらをするから食べに来ない?」などと誘うと二人でやってきます。自粛中は玄関先でお惣菜を渡したり、お土産を持ってきてくれたり。

お嫁ちゃんはピアニスト・作曲家です。私は過去に自分の仕事で、一度だけ彼女と一緒だったことがありました。そのときに、ピアノの腕は確かだし、素敵な女性だなと何だか好感を持ったのです。

時を経て、直太朗の結婚相手として紹介されたとき、彼女から「あの仕事のあと、これからも頑張ってねとお電話をいただいて嬉しかったです」と言われて。実のところ私は忘れていたのですけれど、本心で言ったことでしたし、深いご縁を感じました。

嫁姑問題ですか? 万が一にも私がお嫁さんやお婿さんと揉めるなんてありえません。そんなの本末転倒だと思うのです。私は、わが子の愛する人を自分も一緒に愛したい派。だってそのほうが絶対にみんなが楽しく幸せに過ごせるもの。

ただ、相性が悪くて、というケースがあっても不思議ではないとは思います。先日、私のラジオ番組に寄せられた同世代の女性からの投稿に、「苦労して育てたのに、子どもたちは私の誕生日に花の一つも送ってこない」といった内容のことが綴られていました。私は「よくわかります。でも私だったら電話なりLINEなりで、今日は私のお誕生日だから何かちょうだいってプレゼント要請の電話をしちゃう」と話しました。

 

そもそも「親子なのに」と落胆するのは、「親子なのだから」と期待している証拠ですよね。でもみんなそれぞれに忙しいのだから、互いのことは二の次でいいと私は思っています。普段は私のことなど忘れて、自分の大切なものに心を注いでほしい。それぞれが元気に頑張ることが大切だと思います。

私自身も、コロナ禍の中でいろいろなことを見つめ直しました。来し方を振り返り、本当に自分が歌いたい音楽を歌ってきただろうか、アレもコレもと欲張りになりすぎたのでは、と思ったりしています。今後は、「実は私、こんな歌を歌いたかったの!」と言いながら、好きな音楽をどんどん歌っていきたい。《自分らしさ》をもっと広げていきたいと思っています。

見どころ動画配信中!

 

構成: 丸山あかね

表紙撮影:篠山紀信

 

出典=『婦人公論』2021年4月13日号

森山良子

歌手

1948年東京都出身。67年「この広い野原いっぱい」でデビュー。「禁じられた恋」「涙そうそう」「さとうきび畑」「あなたが好きで」など数々のヒット曲がある。女優、声優としても活躍。


「好きなことを仕事にしたい」そんな学生に、いきものがかり・水野良樹が必ず尋ねる"ある質問"

2021-12-23 13:30:00 | 日記

下記の記事をプレジデントオンライン様のホームページからお借りして紹介します。(コピー)です。

 

人気音楽ユニット「いきものがかり」のリーダー水野良樹さんは、若い人から「好きなことを仕事にしたい」と聞かれたときに、必ず問い返す質問があるという。水野さんのエッセイ集『犬は歌わないけれど』(新潮社)から、一部をお届けする――。

18歳の「青くさい意地」

午前4時すぎ。街はもう、朝が来る予感の中にいた。

夜明け前の黒い空に地平からじんわりと群青色が足されていく。

静かだった。早朝アルバイトをしていた東名高速道路の海老名サービスエリア。実家から自転車で走って、従業員通用口に着くまで10分ほど。一日が始まる前のしんとした静けさの中で、少し急な坂道を上っていく。

吐く息は白かった。朝の起きがけにペダルをこぐのは大変だったが、10代のあの頃は、それに耐えられるだけの若さがあった。

そこまでする動機が何だったのか、今でもうまく説明ができない。

追いかけていた目標がかなう確証などなかった。もしかすると、二度目の大学受験に費やしたこの1年は、丸ごと無駄になってしまうかもしれない。やめておけばいいのにと言われたこともあったし、そもそも相談する相手もいなかったから日々は孤独だった。

青くさい意地のようなものだったのか、18歳の自分はこの手でおのれの人生の扉をこじ開ける生々しい感触を味わってみたかった。

夢中でペダルをこぎ、その勢いで夢ごと若い体を前に進めようとしていた。もう20年近く昔のことだ。時の流れの速さに目眩がする。

仮面浪人の過酷な日々

自分は少し変わった浪人生活を送った。

俗に「仮面浪人」と呼ばれる受験スタイルだ。本命の志望校とは別の大学に通いながら、受験勉強を続ける浪人生のことを言う。志望校に合格すれば、通っている大学を退学することになるので、在学している大学の友人たちにはそのことを話しづらい。

あたかも今の大学に満足している顔をしながら、隠れて勉強をするひとが多いから「仮面」という呼ばれ方をするのだろう。自分は現役で東京都内の私立大に合格したが、一度立てた目標が諦めきれず、もう一度受験をする決意をした。

第1志望は国立大で、当時、授業料も入学金も安かった。詳細な説明は省くが、さまざまな金銭的な計算と家庭の事情を鑑みると、通常の予備校生となるよりも大学に通いながら再受験して合格を目指したほうが、もろもろの面で負担が少ないという判断になった。

とはいえ再受験は完全なる自分のわがままだったから、受験に関わる諸費用はすべて自分で働いて払うと、よせばいいのに親にたんかを切った。

時給が良かった海老名サービスエリアの早朝バイトで働き、バイトが終わると大学の授業へ。授業が終わると代々木駅に向かい、バイト代で2コマ分だけ受講料を払うことができた予備校の講座を受ける。

電車で神奈川県の実家に帰り、復習を終えて眠ると2、3時間後には朝が来て、またバイトへ。その繰り返し。

いきものがかり・水野良樹さん

 

「本気になったら俺はできる」という思い込み

大人になった自分からすると、よく頑張ったねと声をかけてやりたい気分だが、当時の自分は真反対のことを考えていた。

なぜ自分はもっと全力を尽くせないのだろうか。

がむしゃらに頑張ってみたら分かってしまったのだ。

「本気になったら俺はできる」と子どもっぽく思っていたことは、とんだ思い違いだった。

本気になっても自分はたいして何もできない。そんな事実が喉もとに突きつけられた。理想の頑張りにはたどり着けない。情けなさにまみれた毎日。

しかし、自分はそのとき、初めて理解することができたかもしれない。

理想の投影ではない等身大の自分自身を。自分の背丈が分かっている人間ほど、背伸びもうまくなる。自分に対して過度な期待も落胆もしなくなる。やるべきことに素直に向き合える。

結果よりも過程が大切だったという言葉はその日々が過去になった人間が吐く、きれいごとだ。だが受験生よ。今君が、君自身を知れる旅の中にいることは確かだと思う。

どうかこの旅から、君の未来のために、君なりのきれいごとを勝ち取ってくれ。それが本当の勝利だと、僕は思う。

好きなことを仕事したい人へ

「好きなこと」を「仕事」にして生きていくためにはどうすればいいですか?

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ラジオ番組などの企画でリスナーからの相談を受け付けると、思春期の学生さんからよくそんな質問をもらう。

おそらく彼らからは、自分は「好きなこと」を「仕事」にできた人間に見えていて、そこに至るまでの道筋を知っていると思われているのだろう。

確かに音楽は好きだし、現在その音楽を生業として生活ができていることは幸運にも事実だから、今までの経験を語ることはできるかもしれない。

だが、それらは彼らの背中を押すような都合の良い“答え”にはならないとも思う。

「好きなこと」を「仕事」にした人たちが向き合う日々は、必ずしもキラキラとしたものではないと思うからだ。

あくまでも「仕事」とするならという前提で話を聞いてほしい。

社会生活を営む糧(=わかりやすく言えば、金銭であったり、立場であったり)を得る手段として、あなたの「好きなこと」を用いたいのなら、という前提だ。

 

 

容赦のない他者の評価に晒される

「仕事」というものはその性質上、外の評価を受けて初めて成立する。

パンが売れるのは、そのパンがお金を支払うに値するほどおいしいだろうと買う人に判断されているからだ。だからシンプルに考えれば、こちらの存在だけで「仕事」は成り立たない。

いつも相手がいる。どんなことでも何かを「仕事」にするためには誰か他者の評価を受けないといけない。

そのルールの上であなたの「好きなこと」を「仕事」にするということは、いったいどういうことなのだろうか。それはつまり、あなたの「好きなこと」を容赦のない他者の評価に晒すということだ。

「それがどうした、望むところだ!」と言う人もいるだろう。

「好きなこと」はそのままその人の「得意なこと」であることも多く、少なからず自信がある場合がほとんどだ。また「好きなこと」には誰だって情熱を注ぐから、その人のアイデンティティーに深く関わっていることが多い。

音楽で言えば「音楽をしているときが一番自分らしくいられる」とか「音楽とは私の人生そのものだ」などというセリフは、音楽を志す人たちからよく聞かれる。

揶揄

やゆ

しているわけじゃない。自分だって同様のことを言ってきたと思う。人生において熱意を持って向き合えるものを見つけられたことは端的に言って幸運だ。

だが、そのことと、評価に晒されることに耐えられるかどうかとは、別の問題だ。

「好きなこと」や「得意なこと」は言い訳がきかない。私はそれが苦手だから、本気ではやっていないから、と逃げることはできない。

自分が最も戦いやすい場所で負けることの敗北感は大きい。

それでもやり続けられるか

自分のアイデンティティーそのものだと思っていたことが厳しい評価を受けたとき、人は全人格を否定されたような感覚に陥りやすい。

水野良樹『犬は歌わないけれど』(新潮社)

「好きなこと」を仕事にすることは、それがあなたにとって大切なものであればあるほど、自分の存在自体を評価に晒すことと限りなく近くなっていく。

あなたは、あなたの人生そのものを世間の評価に晒すことになるのだ。

それは思っているよりも過酷だ。しかも、追い打ちをかけるようだが、世の中には「好き」の度合いが尋常ではない傑物がごろごろいる。自分の「好き」は生易しく半端なものであると思い知らされる瞬間が何度も訪れる。

だが、言い逃れはできない。くじけてはならない。あくまで「仕事」にしたいのなら、彼ら天才とも他者の評価を奪い合わなくてはならない。

「やり続けられるか?」と問われて、それでも足を踏み入れてしまう人がたくさんいる。その覚悟は肯定したい。自分もその一人だからだ。

一つだけ良いことを最後に記しておく。悔いは残らない。


甘党の人ほど「イライラしやすい」科学的根拠

2021-12-23 12:00:00 | 日記

東洋経済様のホームページより下記の記事をお借りして紹介します。(コピー)です。

なぜ甘いものを食べると情緒が不安定になってしまうのか? テレビでも活躍する話題の医師・池谷敏郎氏の新刊『健診・人間ドックではわからない!かくれ高血糖が体を壊す』より一部抜粋・再構成してお届けします。
イライラしたときに甘いものを食べると、ほっとしませんか? あるいは、イライラすると甘いものを無性に食べたくなりませんか?

「はい」と答える人は多いと思いますが、「イライラすると甘いものを食べたくなる」のは、脳の研究からも明らかになっているそうです。

「だから甘いものを食べちゃうのは仕方ない」。そんなふうに自分で言い訳をしながら、しょっちゅう甘いものに手を伸ばす人がいますが、甘いものを食べることでストレスを緩和できるかは定かではありません。むしろ、イライラしたときに甘いものを食べると、後にさらなるイライラをつくります。

なぜ甘いものがイライラにつながるのか?
というのは、イライラは、自律神経のうちの交感神経が高まって闘争ホルモンのアドレナリンが出ている状態です。そういうときには血糖値も上がっているので、そこに甘いものを放り込むのは、火に油を注ぐようなもの。血糖値スパイクをつくりだす最悪の行為なのです。

しかも、血糖の変動は心を落ち着かなくさせます。イライラしているところに甘いものを食べて血糖値をさらに上げると、インスリンが大量に分泌されて、しばらくすると急激な血糖値の低下が起こる。その落差が、メンタルを不安定にして、さらなるイライラにつながるのです。

お腹が空くとイライラしたり機嫌が悪くなったりするというのは、誰もが思い当たることでしょう。これは正確に言えば、「お腹が空くから」ではなく「血糖値が急激に下がったから」なのです。

また、血糖値の落差は、イライラだけではなく、空腹感も生みます。食欲を生み出すのは血糖値だけではありませんが、血糖値という観点では、落差が空腹感を生み出すことがわかっています。
一般の人は、血糖値が100または80mg/dℓくらいに下がってきたときにお腹が空くのですが、かくれ高血糖の人は上が高いので、正常値の上限と言われる140mg/dℓよりも高い200mg/dℓでも、お腹が空いて甘いものを欲してしまうのです。空腹ではないのに、落差によって空腹と勘違いしてしまう。おそろしいですね。

そのため、かくれ高血糖の人は、血糖値が常に高い糖尿病の人よりも、食べすぎてしまう傾向があります。だから、イライラしたときに甘いものを食べるのは良い方法ではありません。むしろイライラしているときほど甘いものには手を出さないほうがいい。

イラッとしたら、昔の青春ドラマのようにワーッと叫びながら砂浜を走るのがいちばんです。というのは半分冗談ですが、体を動かしてストレスを発散するのがベストな対処法だと思います。

甘いドリンクも要注意
甘いものといえば、お菓子だけではありません。忘れられがちなのが、飲み物です。「間食はしません」と言いつつ、甘いものをたっぷり飲んでいませんか?

イライラしたら砂糖多めのコーヒーを飲むとか、疲れたときには清涼飲料水をがぶ飲みするという人も、「イライラすると甘いもの」とまったく同じです。

たとえば、甘い炭酸飲料やスポーツドリンクの成分表を見てください。だいたい容量の10%強の糖質が入っています。500mℓのペットボトル1本を飲み干しただけで、角砂糖にして10個ほど(!)、50gもの糖質をとったことになります。

しかも、甘い飲料によく使われているのが、「異性化液糖(果糖ブドウ糖液糖、ブドウ糖液糖果糖、高果糖液糖)」。これは液状の糖で、砂糖以上に吸収が早く、血糖値が急激に上がりやすいことを覚えておいてください。

スーパーやコンビニで飲料を買うときには、必ず裏側の原材料名を確認してほしいのですが、かなりの割合で使われています。アメリカでは、清涼飲料水を飲む本数が多いと犯罪者になりやすい、甘い炭酸飲料を飲む本数が多い子どもほど暴力的になるといった研究結果まで報告されています。血糖の大幅な変動がメンタルを不安定にして平常心を奪い、感情のままに動きやすくするのでしょう。
「果汁100%の果物ジュースならヘルシーに違いない」と思うかもしれませんが、ここにも落とし穴があります。果汁100%で、原材料名を見ても砂糖も異性化液糖も使われていないとしても、そもそも甘い果物は糖質でしたよね。その果物を使ったジュースなので、当然、糖質量は多いのです。

リンゴジュースもオレンジジュースもグレープフルーツジュースも、ヘルシーなイメージはありますが、コップ1杯(200mℓ)に20g前後の糖質が入っています。しかもジュースにすることで食物繊維がほとんど失われてしまうので、果物をそのまま食べるよりも、血糖値を上げやすいのです。

ヘルシーなジュースを飲みたいなら、果汁の入っていない野菜ジュースを選びましょう。たとえばトマトジュースは、トマトに含まれているリコピンが血糖値を下げる働きがあると言われています。

また、身近な飲み物でおすすめなのが、コーヒーです。コーヒーに含まれている「クロロゲン酸」には、血糖値の上昇を抑えたり、脂肪の燃焼を促したりという、うれしい作用があるのです。ミルクや砂糖を加えず、ブラックで飲めば、食後高血糖予防になります(ただし、飲みすぎには注意してください)。

糖の依存度は麻薬よりも強い
よく「甘いものは別腹」と言われますが、甘いお菓子、甘い飲み物ならいくらでも入ってしまう人はいませんか?


『健診・人間ドックではわからない! かくれ高血糖が体を壊す』(青春出版社)書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします。
糖には依存性もあります。依存度は麻薬よりも強いという研究結果さえあります。糖は脳の報酬系をダイレクトに刺激するため、甘いものを食べると幸せな気分になるのですが、その反動で「もっと」と欲してしまい、止まらなくなるのです。

食後や間食に甘いものを食べるのが習慣になって、食べないと気がすまない、食べずにはいられない状態になっていませんか? そういう人はすでに糖依存ができつつあるのかもしれません。血糖の変動があまりない人、糖依存のない人は、イライラしてもそんなに糖分を欲しません。

イライラすると甘いものがほしくなる、何かと理屈をつけてお菓子を食べてしまう、ちょっと口寂しくなると甘いものに手が伸びる人は、口にする量にかかわらず、「かくれ高血糖」が潜んでいると考えたほうがいいでしょう。
池谷 敏郎 : 医学博士/池谷医院院長


秋篠宮さま「学習院以外の高校へ」悠仁さまの進学先で起こり得る“第2の小室圭さん問題”

2021-12-23 11:00:00 | 日記

下記の記事は週間女性プライム様のホームページからお借りして紹介します。(コピー)です。

 

 

『早稲田大学』の系列高校も候補の1つとして検討されていると聞きました。というのも、実は姉の佳子さまが大学に進学される際、『国際基督教大学(ICU)』以外に『早稲田』も視野に入れていらっしゃったそうなのです。

当時は『早稲田』の資料なども取り寄せていたでしょうし、ご両親とも相談されていたはず。その過程で秋篠宮ご夫妻もご興味を持ち、悠仁さまの進学先候補の1つになったのかもしれません」

今年11月に行われたお誕生日会見で秋篠宮さまは、

《1年前と比べると机に向かっている時間が格段に長くなっているんですね》

と、悠仁さまが受験勉強に精を出されている様子を明かされた。

「結婚相手は学生時代に見つけるべき」

「悠仁さまは理系分野に関心がお強いそうです。コロナ禍になる前まで、毎年夏になるとご両親と一緒に、皇居の吹上御苑で昆虫採集をよく楽しまれていました。

なんでも、皇居の庭に生えている木の名前や飛んでいるトンボは、ほぼすべてご存じなんだとか。山歩きや天気予報もお好きで、単に昆虫好きというよりは取り巻く環境も含めて興味がおありなんですよ。お父さまと一緒で研究者気質なのでしょう」(秋篠宮家関係者)

そもそも、なぜ悠仁さまの進学先の本命が『学習院』だと言われていたのだろうか。

殿下のお誕生日に際して公表されたお写真。お父さまが亡くなり、服喪期間のため紀子さまはご不在(11月12日・赤坂)

【写真多数】悠仁さまが制作された実物大の信号機、三輪車をこがれる幼少時、運動会で綱を引かれて、ほか

やはり、眞子さんの結婚問題が影響しています。秋篠宮家は“皇族は学習院”という固定観念はなく“個人の意思を尊重する”という家風。実際、眞子さんと佳子さまは高校まで『学習院』に通われていましたが、大学はご本人たちの意思で『国際基督教大学(ICU)』に進まれました。

秋篠宮さまは、紀子さまと『学習院大学』で出会われたように“結婚相手は学生時代に見つけるべき”とのお考えです。ただ、眞子さんが『ICU』で出会われた小室圭さんのように、婚約が内定した後に問題が起こりうる女性が悠仁さまに近づくことは十分に考えられます。『学習院』であれば、そのリスクが軽減されると言われているんですよ」(同・前)

いったい、どういうことなのか。この関係者が続ける。

姉2人のように本人の意思を尊重

「『学習院』は元々、華族のために作られた学校です。戦後に廃止されるまでは『皇族就学令』で皇族は『学習院』で学ぶことが義務づけられていたことから、これまでの慣習で皇族は基本的に『学習院』に入学されてきたのです。

これまでのそういった経験から、『学習院』側の皇族が通われるにあたっての警備体制は整っており、同級生や保護者からの理解も得られやすい環境です。

 

さらに『学習院』であれば、学校職員にも殿下の知り合いや同級生などが多くいらっしゃるそうで、ある意味、悠仁さまご本人や周囲の学生を“監視”できるという安心感があります。万が一、交際相手に何かしらの問題が起こっても、事前に対処できる環境が整っているのです。

 現在では一般的な家庭の子どもも通う学校になりましたが、『学習院』を卒業した親の子どももいまだに多いため、家柄という意味でも安心材料のひとつなのかもしれません」

いずれ即位される悠仁さまの結婚相手は、のちの皇后になられる方であり、結婚後に何か問題が起こってしまうと皇室全体の危機につながる可能性すらある。

結婚記者会見での小室眞子さんと小室圭さん(2021年10月26日)

【写真多数】悠仁さまが制作された実物大の信号機、三輪車をこがれる幼少時、運動会で綱を引かれて、ほか

そのため、お相手選びには用心深くならざるを得ず、悠仁さまの進学先も慎重になられるべきなのだがーー。

「眞子さんと小室圭さんの結婚は秋篠宮家だけではなく、“皇室の危機を招いた”との見方があります。それは、お子さま方の意思を尊重する秋篠宮家の教育方針が影響したということだと言えるでしょう。

眞子さんは女性皇族だったため、結婚して皇室を離れるお立場でしたが、結婚相手が皇室入りするお立場の悠仁さまにいたっては、ご両親が高校選びを主導されると思ったのですが……。『学習院』以外で、目の届きづらい学校に進学され、そこで結婚相手を見つけられることも大いにあり得ます。

 

 しかし、そのお相手が小室圭さんのように、婚約が内定したり、結婚した後に家族や親戚などが金銭問題や何らかのトラブルを抱えているといった、ネガティブな事実が発覚する危険性もあるのです。できるだけ、そういったリスクを回避できる学校を選んでいただきたいとは思います。

 ただ、やはり殿下としては、眞子さんと佳子さまと同じように、悠仁さまの意思を尊重した高校に進学させると聞きました。眞子さんと佳子さまがご自分で進学先を選べたのに、悠仁さまだけが選べないというのは理不尽だと思われたのかもしれません。しかし、そもそも女性皇族と男性皇族では、結婚も含めていろいろとお立場が違うのに……」(前出・宮内庁関係者)

未来の天皇陛下である悠仁さまの進学先、その行く末に国民は固唾を飲んで注視し続けている。