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20代で母が認知症と診断された女性の壮絶人生

2021-12-19 15:30:00 | 日記

下記の記事は東洋経済様のホームページからお借りして紹介します。(コピー)です。

 

子育てと介護が同時期に発生する状態を「ダブルケア」という。ダブルケアについて調べていると、子育てと介護の負担が、親族の中の1人に集中しているケースが散見される。

なぜそのような偏りが起きるのだろう。

連載第5回は、自身が20代のときに母が若年性アルツハイマー型認知症と診断され、仕事と介護を両立しながら妊娠や出産を経てきた女性の事例から、ダブルケアを乗り越えるヒントを探ってみたい。

 

父の退職金が消えた?

静岡県在住の藤本弘美さん(仮名、40歳)は、短大進学をきっかけに大阪でひとり暮らしを始めたが、2002年、23歳のときに静岡の実家に戻った。その頃父は62歳、母は58歳。60歳で定年を迎え、再雇用を経て、家にいることが多くなっていた父は、母の異変に気づく。

退職金が振り込まれているはずの「通帳を見せろ」と言ったところ、「お金なんてないよ」と母。父は自分で通帳を探し始めるが、いつもあるはずの場所にない。カードや印鑑も見つからない。家中探して、やっと通帳は見つかったが、退職金はほとんど残っていない。父が「どこへやった?」「何に使った?」と聞いても、母は言い訳をするか、つじつまを合わせようと必死で取り繕うだけ。

部屋からは、怪しい機械のパンフレットや申込書、保険の契約書などが見つかり、どうやら必要のない機械や保険を複数契約してしまったらしい。父は、母が契約してしまった保険を解約しようと思ったが、肝心の保険証書がない。契約書から保険会社を割り出し、何とかいらない保険を解約。見つからない銀行の通帳やカード類は、再発行の手続きをした。

藤本さんが大阪にいる間も、父から何度か「母さんがおかしいから帰ってこい」と言われていたが、年に数回帰省するときには、とくにおかしいとは思わなかった。実家に戻った頃は、母はまだ料理ができていて、母が漬け、母の字で「平成14年6月」と書かれた梅酒が残っている。

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しかし、藤本さんが近所の会社に勤め始めると、母が作るお弁当の内容がだんだんおかしくなっていった。2段になった弁当箱のうち、ご飯が詰められた段はいいが、おかずが詰められるはずの段には、唐揚げが2個入っているだけでスカスカ。しかも唐揚げはレンジで温めすぎたのか、固くカリカリになってしまっていた。藤本さんは異変を感じつつも、「忙しくて温め時間を間違えちゃったのかな」と思った。

ところが、買い物に行くと同じものを何個も買ってきたり、通い慣れた道なのに、迷って家に帰ってこないことなどが頻繁になる。

7歳年上の兄が関東から帰省したとき、すぐに認知症を疑った。家族全員で病院へ連れて行った結果、母は若年性アルツハイマー型認知症と診断される。2006年のことだった。

母が認知症と診断されてからは、食事の支度は父の担当に。以前は自分で使った食器も片付けない人だったが、NHKの「今日の料理」を欠かさず見、本も定期購読。どんどん料理を覚えていった。ところが、なぜか母はそれが気に入らない。「夫婦なんてしょせん他人よ。お父さんが作ったものなんて食べない」と言って外へ飛び出していってしまう。

「ヘルパーさんや私にはいいのに、父に対してはいつも不機嫌で、カレーを食べるスプーンとお皿のぶつかる音が嫌だとか、いろいろ文句をつけて外に飛び出しては、コンビニでおにぎりを買って食べていました。もしかしたら、子育てで忙しかったときに父が手伝ってくれなかったとか、若い頃から積もり積もった嫌な記憶や恨みつらみが、認知症になったことで抑えられなくなったのかもしれません」

基本的に、日中は父。夜、仕事から帰宅した後は、藤本さんが母の世話をした。

「『いきなり変なこと聞くようだけど、あんたの親って誰だっけ?』と言われたときはショックでした。ずっと名前は呼んでくれていましたが、だんだん言葉が出てこなくなり、2008年頃にはトイレができなくなりました」

食事はできるが、三角食べはできない。2~3歳の子どもに食べさせるように、「次はこれを食べようね」と声をかけながら、おかずを御飯の上にのせてあげた。汁物はこぼしてしまうので、お椀を手で支えて、口に運んであげなければならない。毎晩帰宅してから、2時間ほどかけて食べさせていた。

娘の誕生日もわからなかった

「29歳の私の誕生日に、ふと『今日何の日か知ってる?』って聞いたんです。でも母は、『知らない、わかんない』。『お母さんが私を産んだ日だよ』と言ってもわからないようで……。忘れちゃったんだって思うと寂しいですが、『受け入れるしかない、自分が覚えていればいい』って思うようにしました」

夜中にトイレで起こされるのは日常茶飯事。藤本さんは仕事との両立でクタクタだった。

「20代後半って、周囲は結婚・出産ラッシュ。私がちょっと介護がつらいと言えば、『子育てだって大変だよ』と返されて、やるせない気持ちになりました。父には夜は休んでほしくて、私が頑張らなきゃと思ってたんですが、睡眠不足と理解者がいない寂しさから、母につい当たってしまったこともありましたし、思い詰めて、精神的に病んでしまったこともありました」

母の介護があるため、会社の飲み会は断ることが多かったが、数回参加したことがある。深夜に藤本さんが帰宅すると、父が母に怒鳴る声が家の外まで響いていて、一気に酔いが覚めた。父に怒られて家を飛び出した母が帰ってこないので探しに行ったところ、数駅先にある自分の実家へ帰ろうとして迷子になっていたこともあり、「父1人に抱えさせてはダメだ。私はなるべく家にいなくちゃ」と思った。

やがて藤本さんは、インターネット上に同じような経験をしている人を見つけ、悩みを相談し合うように。その頃始めたブログは、大切な心の拠り所となった。

2013年。父が脳出血で倒れた。73歳だった。父が倒れた段階で、母は特別養護老人ホームに入所。仕事と両親の介護の両立は、1人では不可能だと考えたからだ。以前から申し込んでいた施設に事情を話したところ、運よく空きがあり、快く受け入れてもらえた。

「2つの特養に申し込んでいて、1つのところは2回ほど空きが出たのですが、職員さんの対応が気になっていたことと、私が母ともう少し一緒にいたいと思ったことから断ってしまいました。父は『それならもう少し家で見ようか』と言ってくれましたが、その頃よく、『体がしんどい』『このままだと俺に何かあったらいけない』とこぼしていて、今思うと限界だったのかもしれません」

父は一命をとりとめたが、右半身に麻痺が残った。

34歳のとき、妊娠が発覚

妊娠が発覚したのは、藤本さんが34歳のときのこと。藤本さんは同じ会社の同僚と交際していた。

「両親のことを背負って生きる覚悟みたいなものを決めていたので、『結婚なんてしていいのかな』『私が家を出たら、父は大丈夫かな』と悩みました。でも、『父にウェディングドレス姿を見せたい』という思いもあって……。結局、あの時結婚して娘を産んで、よかったと思っています」

2014年に娘を出産し、父の希望により、実家から車ですぐの場所に新居を構える。

父は退院して家に戻ったが、右半身の麻痺で料理ができない。そこで、父が『きょうの料理』を見て食べたいものを決めると、藤本さんが土曜日に必要な材料を買いそろえ、その材料でヘルパーさんに作り置きをしておいてもらうことに。

そして藤本さんは、産休・育休を経て、娘が1歳になる年に仕事に復帰。

「復帰したばかりの頃は、新しい仕事を任されたこともあり、正直きつかったです。父はメモができないからと言って、早朝だろうが勤務中だろうがお構いなしに電話してきましたし、娘はすぐに熱を出すし……。この頃は毎日が忙しすぎて、自分の記憶はほとんどありません」

夫は料理以外の家事・育児はやってくれる。産後間もない頃、母の通院に付き添いが必要なときも、仕事を休んで娘を預かってくれた。

「夫は子育てには協力的だし、両親の介護にも理解があると思います。出産前、『祖父母が近くにいて、子育てのサポートが受けられる家が多いけど、うちはないからね。私は両親に何かあったら行かなきゃならないから、この子のことよろしくね』ってよく話したんです」

そして2015年、母が水頭症で入院。水頭症は脳に水がたまって脳を圧迫するため、認知症の原因かもしれないと言われたが、手術をしても認知症の症状はよくならなかった。

一方父は、自宅で転んで起き上がれないことや、体調が悪い日が増えていく。藤本さんは、仕事が終わって娘を迎えに行った後や、娘を寝かしつけた後に実家に行き、父の世話をすることが多くなっていった。

2016年秋、父が腸閉塞で入院。

ほぼ同じタイミングで娘が胃腸炎になる。娘の看病は夫の協力を得た。

父はしばらく絶食し、症状が改善したので退院。自宅で様子を見ていたが、約2週間後に再発。運の悪いことに、吐いたものが肺に入り、誤嚥性肺炎を併発してしまう。前回の入院で絶食し、抵抗力が弱まっていた父は、すぐに危篤状態に陥った。

ちょうどその頃、夫は体調を崩して寝込んでいたため、娘を預けられない。仕方がないので、父の主治医の話を子連れで聞いた。夜9時を過ぎていて、娘は背中で眠っていた。

「会わせたい人がいたら呼んでください」と言われたが、母はもう父のことがわからない。母を呼びに行っているうちに父に何かあったら……と思うと、父のそばを離れられなかった。

「夫婦のあり方を考えさせられました。定年してせっかく夫婦で過ごす時間ができたと思ったら、妻が認知症……。夫婦で老後を元気に過ごさせてあげたかったと思いました」

多忙と心労が重なり、藤本さんも体調を崩していた。何度か吐いたし、意識も朦朧としていたが、「親戚も来る。対応しなきゃ」と気が張っていたのか、何とか葬儀までやり遂げた。

「結婚後も同居していれば、父はもっと長生きできたかもしれないと後悔しています。でも、少しでも離れることで、私は自分の生活とのメリハリがつけられた。どちらがよかったのか、答えは出ません」

肺炎になった父は、酸素不足のためチアノーゼに。苦しさのあまり激しく悶えてベッドから降りようとするところを、看護師や兄たちみんなで押さえた。心拍や脈拍を計測する機器の電子音が耳に残り、以降、銀行やコンビニのATMの音を聞くと、つらくなって耳を覆った。

「私はお酒が好きだったのですが、両親に何かあるといけないからと思ってずっと飲めずにいました。その反動なのか、父が亡くなった後、眠れなくてお酒を飲むように……。気がついたら明け方で、仮眠をとってまた仕事に行く、という毎日を過ごしていました」

39歳で不妊治療を開始

父の一周忌が終わった2018年、藤本さんは2人目を考え始めた。

「父が亡くなって半年ほど過ぎた頃、少しずつ周囲に目を向けられるようになって、気づいたら39歳。保育園のママ友はいつの間にか下の子を産んでいて、よく考えたら娘の卒乳もトイレトレーニングもできていなくて、何やってたんだろう私……と思いました」

藤本さんは不妊治療を開始。1回目の体外受精は失敗に終わった。

「親の介護をしてみて、つくづく両親の老後を1人で背負うのはきついなと……。父が危篤になったとき、病院や葬儀の手続き、親戚への連絡、通夜葬儀の喪主やお金のことなど、やらなきゃならないことがたくさんあって、兄がいてよかったと思ったんです」

治療開始時の妻の年齢が40歳以上43歳未満の場合、通算3回まで助成金が降りるため、3回までは挑戦するつもりだ。

「父が亡くなった年は、1年で60日休みました。居づらくなる雰囲気もなく、理解のある会社で感謝しています」

不妊治療の通院が加わり、相変わらず有給休暇の消費は激しい。母のところへは、イベントや通院付き添いなどで1~2カ月に1回ほど行っている。

「母に会うと、どうしても両親が元気だった頃を思い出してしんみりしてしまうんですが、そんなとき娘に『大人なのに何でいつまでもクヨクヨ言ってるの? もういいでしょ、お母さんなんだからしっかりしてよ!』と言われるんですよ」

娘は生きる希望

介護や仕事でつらいとき、娘が心の支えになった。

「逃げ出したくなったときはいつも、妊娠がわかって悩んだときの決意を思い出しました。娘は生きる希望です。『この子を守らなきゃ』と思うと強くなれました。ずっと両親優先で、自分を二の次に考えていたけれど、妊娠は自分の人生を後悔しないよう、ちゃんと考えるきっかけになりました」

実家はまだ父が暮らしていたときのままになっており、時々様子を見に行く。

「親に子育てを手伝ってもらうことはできなかったけれど、なかなかできない経験が若いうちにできて、親に勉強させてもらったと思っています。いろいろな人に、『親は先に亡くなるものだから、親の介護を優先してたら、亡くなったときの喪失感が大きくなるよ』と言われますが、子育てだって同じ。私の場合は両方あるので、どちらにものめり込みすぎずに済むと思うんです」

そんな藤本さんに、将来の夢を聞いた。

「私の場合、20代で母の介護が始まったので、独身生活を謳歌する暇もありませんでした。だからその分、シニアライフを楽しみたいですね。私も夫も車が好きなので、2人乗りのオープンカーでドライブ旅行とか憧れます」

子どもが手を離れた後のことを考えるなら、2人目を考えるのは矛盾しているかもしれないが、「授からなかったら授からなかったときで、そんな将来もいいなと思います」と笑った。

旦木 瑞穂 : ライター・グラフィックデザイナー


42歳高学歴長男が「生涯無職」で50年先まで生きられるように…70代両親が90歳超まで絶対死ねないワケ

2021-12-19 13:30:00 | 日記

有名私大に合格したが、中退「働く意味わからない」と20年無職
今の日本人の平均寿命は、男性が81.64歳、女性は87.74歳です。ただ、これは数が少ないながらも若くして亡くなった方も含めての平均ですので、実際は半数以上の人がこれより長生きしています。年々少しずつ伸びていることも踏まえ、ひきこもりのお子さんの家計シミュレーションをする際には、念のため90歳ぐらいまで分析するようにします。それまでに貯蓄が底をつかなければ、お子さんの生活設計は成り立ちます。

今回、ひきこもりの40代の長男の相談に来た、都内在住の70代の夫婦の場合も、長男が90歳までのシミュレーションを作成しましたが、途中で貯蓄が枯渇する見通しになってしまいました。このままでは将来が心配です。

◆家族構成
・父親:75歳(年金生活) 年金額285万円
・母親:73歳(年金生活) 年金額95万円
・長男:42歳(無職)
・次男:37歳(会社員) 独立別居し家庭を持っている
◆資産
・預貯金(夫婦):約5000万円
・自宅:戸建て持ち家
今回の相談者(夫75、妻73)には2人の息子がいて、次男(37)は大学卒業後に就職し、現在は結婚もして自立した生活を送っています。それに対して、長男(42)は仕事をせず、親と同居でひきこもり状態です。といっても、まったく自室から出ないわけではなく、日中は一人で外出もします。難しい書籍を買ってきては自室で読みふけっています。

長男は子供の頃から優秀で、有名な私立大学に進学しました。しかし、半年もすると「思っていた学問と違う」と大学を休みがちになりました。結局、大学は退学してしまいましたが、かといって就職するわけでもなく、「働く意味がわからない」と読書に没頭しています。

親としては、できれば大学を卒業してほしかったのですが、それはかなわなくても仕事には就いてほしいと、就労体験や自立支援の講座を勧めましたが、本人にその気はありません。長男は大学中退後、収入を得ないまま20年以上の月日が経過しました。現在、夫婦ともにリタイア生活ですが、世帯で約400万円の年金収入があり当面の生活資金に困っているわけではありませんので、もう最近ではあきらめ気味です。
両親は金融資産5000万円あるが…長男が70代の頃に底をつく
「このままの状態が続くと思うのですが、息子は生活していくことができるのでしょうか?」

長男が40歳になり、自立を目指すことよりも、このままの状態で生きていけるのかを心配するようになり、私の事務所を訪ねてきました。

私は、両親から状況を伺いながら、長男の将来の状況をシミュレーションしていきます。

父親は、現役時代はサラリーマンとしては比較的収入が多く、そのために現在は平均より多い額の年金をもらっています。家族は以前も現在も堅実な生活をしており、支出はそれほど多くはありません。そのために、一戸建ての自宅の他に金融資産は約5000万円があり、長男は比較的恵まれていると言えるでしょう。

それでも、長男が今後もまったく働かないという前提でシミュレーション(父親は87歳で、母親は90歳で他界と想定)をしてみると、長男の老後は安泰とは言えません。現在住んでいる自宅はそのまま長男が相続し、金融資産は兄弟で均等に相続するという仮定で分析しても、三十数年後の70代で長男の貯蓄は底をつきます。もちろんかなり先のことですので、ただちに心配する必要はありませんが、もう少し改善できれば、親亡き後の長男の生活は安心できるようになります。

将来の家計状況シミュレーション
私からは資金計画の改善を提案していきます。

「すぐに心配する状況ではありませんが、できればもう少し改善したいところですね。例えば、普段の支出を見直して、少し節約を心がけてみてはいかがでしょうか。生活費を1割削減できれば、状況はかなり改善します。長男が80代になっても貯蓄はプラスを維持することができます」

「そんなにぜいたくをしているわけではないし、旅行も行っていません。これ以上節約しろと言われても難しいと思います」(母親)
「長男の書籍代がけっこうかかっていますが、それをやめると、本当に自室から出なくなってしまいます。ある程度は認めてあげたいものです」(父親)

そう言われてしまうと、私からはそれ以上には言えません。収入がないからといって、本人にまったく使わせないようにすることがよいとは限りません。むしろ外出の機会を奪ってしまうという見方もあります。
「ワンルーム転居は無理です、息子は蔵書がかなりあります」(父親)
私は次の案を提示します。

「では、ご自宅を有効活用するというのはどうでしょう。このままいくと、ご長男が一人でご自宅に住み続けることになってしまいます。一人暮らしならワンルームでも十分ですので、ご自宅を売却して住み替えるのです。ご両親が亡くなった後にご自宅を売却するとよいのですが、難しそうであれば、早めにご長男だけ一人暮らしを始めるとよいでしょう」

「それも難しいと思います。蔵書がかなりありますし……」(父親)
「私たちがいなくなったら、いずれは一人で生活していかなければなりませんが、無理に一人暮らしをさせるのは……かといって、一人で不動産の売買は難しいのではないかと思います。」(母親)

ドイツの本が詰まった本棚写真=iStock.com/clu※写真はイメージです
結局、今の家に住み続けることになると思います、と私の提案は一蹴されてしまいました。

「う~ん。ご相続でご次男に我慢してもらうという方法もあるのですが」

私は遺産分割については、できるだけ均等に分けることをお勧めしています。親亡き後の生活では、働けない子どもの資金状況が心配ですが、生活面での支援などで兄弟姉妹の支援を受けることも多いからです。快く支援をしてもらうためにも、自立できている子供にも配慮が必要です。ただ、どうしても難しい場合は、兄弟姉妹で格差のある遺産分割を検討してもらうこともあります。

「自宅を長男が相続することを考えると、金融資産については2人で均等にわけるようにしたいです」(父親)
「下の子は、親に迷惑をかけないようにと大学も国立に進んでくれました。私たちを安心させてくれていますので、できるだけ不公平にはならないようにしたいです」(母親)

私も両親と同じ意見ですが、こうも次々と提案を否定されると対策が難しくなります。

「そうなると……まあ、とりあえずはご両親が健康で長生きされるのが、ご長男の老後の改善につながりますが」

改善案が尽きた私がふと漏らすと、

「そうですか。長生きするといいんですか」

父親はそう言って顔を上げました。
息子を90歳まで生きさせるため、父親92歳、母親95歳まで死ねない
年金生活の夫婦と無職の息子という家族ですが、父親の年金額が比較的多く、特にぜいたくもしていないため、今でも収支は黒字です。父親が生きている間は一家の貯蓄は増えていきます。父親が亡くなった後でも母親が生きている間は父親の遺族厚生年金が受給でき、二人の生活費を賄えます。

貯蓄を取り崩していくのは、両親が亡くなった後からで、二人が長生きをするほど、長男の老後の資金状況は改善されます。

といっても、寿命ばかりは自分で調整できるものではありません。たとえ長生きしても、介護に費用がかかるようでは貯蓄を取り崩すことになります。「長生きが改善策です」とはファイナンシャル・プランナーの提案としては恥ずかしい限りです。

それでも父親が求めるので、シミュレーションの条件を変更してみました。両親が共に前出のケースよりも5年長生きした仮定(父親92歳、母親95歳で他界)でシミュレーションをすると、長男が今から50年近くたって90歳になっても貯蓄が枯渇しない結果となりました。

将来の家計状況シミュレーション
「てっきり私は長生きすると貯蓄が減っていくものだと思っていました」(母親)

私は説明しました。

「介護費用がかさむようなことがなければ、長生きするほど貯蓄は増えていきます」

実際、年金額が比較的多い高齢者の中には、老後も貯蓄を増やし続けている人も少なくありません。

「長生きするだけでなく、介護が必要にならないように体力づくりをすればよいわけですね」(父親)
「目標ができると、生活にも張りが出ますね」(母親)

ファイナンシャル・プランナーとしてはほめられた提案ではありませんが、両親が前向きになっていただければ、それもまたよしと思うことにしました。

村井 英一(むらい・えいいち)
ファイナンシャルプランナー
「働けない子どものお金を考える会」メンバー。 大手証券会社で個人顧客の投資相談業務を長年行い、ファイナンシャルプランナーとして独立後は、資産運用に限らず、家計の見直し、住宅購入、老後資金など幅広い相談を受ける。


ネオニコ系農薬問題をめぐる矛盾 減農薬の証し「特別栽培米」にも使用

2021-12-19 12:15:00 | 日記

下記の記事は日刊ゲンダイデジタル様のホームページからお借りして紹介します。(コピー)です。

 

11月6日放送のTBS系「報道特集」の番組テーマ「最も使われている殺虫剤 ネオニコ系農薬 人への影響は」は、農業関係者の間でさまざまな議論を起こしています。

 

「ネオニコチノイド系農薬」とは、通常の農薬より少量で大きな殺虫効果が得られるもので、地球温暖化による害虫の増加で、近年主力の農薬として使用されています。しかし、その強毒性は以前から指摘されていました。「報道特集」では、ネオニコ系農薬による生態系への悪影響について次のような問題が挙げられました。

 

①ネオニコ系農薬が使われ始める1993年を境に、島根県宍道湖でワカサギなどの不漁が起こったという東大教授の山室真澄氏による指摘。

 

②金沢大名誉教授の山田敏郎氏による実験「低濃度ネオニコによるハチの大量失踪」について。

 

③神戸大学教授の星信彦氏による「ネオニコの人体に与える危険性」についての指摘。

④絶滅危惧1A類に指定されているトキを守るために、JA佐渡がネオニコ系農薬を使用しない農業に転換。

 

これに反発したのが業界団体「農薬工業会」で、番組放送後、見解を発表。①~③について否定しました。

 

虫食いなどの発生を確実に防げるため、この農薬は米だけでなく葉物野菜、果物などさまざまな作物に使われていて、高い歩留まりを維持できます。自然環境の共生の大切さは認識しているものの、収入を考えると使用がやめられないというのが、大半の農家の意見ではないでしょうか。

 

■問題解決は消費者次第

 

 

しかし農薬に関しては矛盾も指摘されています。例えば、各県の栽培基準の半分の農薬量で栽培する作物を「特別栽培」といい、一種ブランド化されています。しかし、この特別栽培にもネオニコ系農薬が使用されているのです。これは消費者の誤解を招くといっていいでしょう。

私は2年に1度、全国20カ所の生産地を訪問して、田んぼでカエルとサギの生息数を観察しています。周辺の生態系の様子を把握するためですが、近年、実感しているのが昆虫の数が確実に減っていることです。

 

 今回、番組内容に反論した農薬業界には、ネオニコ系農薬に代わる、環境負荷の少ない農薬の開発を進めてほしいところですが、実用化までに膨大な時間がかかることでしょう。

 

 現状、ご存じのように、虫食いなど少しでも傷みのある農作物は、正規の市場ルートには流れないことになっていますが、こうした流通構造は消費者の要望によって成立しています。見た目のよさ、もしくは安全面や健康面のどちらを重視するか。消費者自身が考えを改める局面に来ているのではないでしょうか。

 

(文=常本泰志/米流通評論家)


「国産=安全」ではない 安心を求めるなら有機の農作物を

2021-12-19 12:00:00 | 日記

下記の記事は日刊ゲンダイデジタル様のホームページからお借りして紹介します。(コピー)です。

 

 農薬の危険性を避けるためには、有機農産物を食べるしかないと分かったが、ではどこで買えばいいのだろう。手っ取り早いのは、この連載の冒頭でも述べたように、ネットを利用することだ。

 

■ネットで探しやすく買いやすくなっている

 

 オンラインショップでも、「オイシックス・ラ・大地」のように農家が作った有機野菜などを宅配する会社や「食べチョク」のように、有機野菜を作る農家と消費者を仲介するサイトもある。

 

 アメリカなどでは、ファーマーズマーケットといって、朝市のようなところで有機野菜を購入しているが、最近は日本でも有機野菜を販売する「マルシェ(市場)」が増えている。また新型コロナウイルスの感染拡大で、オンラインショップに力を入れている農家も増えてきた。例えば、耕さず(不耕起)、鶏糞や牛糞も使わない自然栽培で知られた北海道洞爺湖の佐々木ファームもそうだ。

ただ有機といってもピンキリで、むろん無農薬・無化学肥料で栽培されたことは言うまでもないが、例えば肥料に鶏糞を使うにしても、発酵が不完全のまま畑に入れると、窒素分が多くなって味が落ちるし作物が病気になりやすい。有機栽培は、化学肥料などを使った栽培よりもミネラルが多く、おいしいはずだが、もし有機でおいしくなかったら、栽培法が間違っている可能性もある。

 

 フランスでオーガニックが盛んになったのは、食べたらおいしかったという、人間の本能を刺激したからだそうだ。彼らがもっぱら利用しているのはAMAPという消費者グループである。簡単に言うと、消費者に有機農家を紹介し、農家と協議して購入したい作物を前払いして定期購入する。代金の前払いは、天候などによる不作のリスクを、生産者と消費者が分担することでもある。もともとアメリカにあったCSA(地域支援型農業)というモデルのフランス版である。

CSAは日本にもある。消費者にとってCSAがいいのは、自分が食べるものを、どんな人がどう作っているのか、自分の目で確かめることができる点だ。農家も一定の収入が得られて安定した経営ができる。1996年に初めて北海道で誕生して、首都圏にもできているのに、ほとんど知られていない。1年分の前払いだから高額になるのが馴染めないのか、あるいはリスクを分担するという考え方が受け入れられないのか。その背景に、「国産は安心・安全」という信仰があるからだろう。だが、国内で売られている野菜が決して安全でない事実を知れば、毎日の食べ物を人任せにしようとは思わないはずである。

 

農薬多いのはホウレンソウ、トマト、レタス…子供は有機を

 

残留農薬が少ない野菜があれば、逆に農薬が多い野菜もある。では、どんな農作物に多いのだろうか。

 

アメリカにNPO「環境ワーキンググループ」という著名な非営利の環境保護団体がある。自ら研究所や研究員を抱える巨大な組織である。2020年に最も「汚染された農作物ワースト12」を発表したが、この中から野菜だけをリストアップすると次のようになる。

 

 

①ホウレンソウ、②ケール、③トマト、④セロリ、⑤ジャガイモ

 

レタスやキュウリなども要注意作物としてリストアップする団体もある。

 

果物については改めて述べるが、気になるのはケールである。健康食品として私たちもよく口にするが、アメリカから粉末で輸入されているものもあるから要注意だ。

 

このリスト、実は日本の実情とよく似ているのである。日本が、残留基準値をアメリカに合わせたせいかもしれない。

農水省の「定量限界0・01㎎/㎏」を超える農作物では、

 

 ナス、ネギ、ホウレンソウ、ミズナ(17年度)、コマツナ、ピーマン、シュンギク、ニラ(18年度)

 

 などがある。東京都の調査では、

 

 キュウリ、トマト、ホウレンソウ、ニラ、レタス

 

 などから農薬が検出されている。これを、前回のように、自治体が認めた農薬の使用回数や、国が定めた残留基準値を比較するとわかりやすいかもしれない。

 

 例えばある自治体で、年間農薬使用回数が50回を超える野菜は、キュウリ、トマト、ナスなどがある。また、30回を超える野菜はニラ、シソ、パセリ、パプリカだ。農水省や東京都の調査と重なっている野菜が少なくない。

 

■迷ったら、子供には有機を

また、ネオニコの一種であるジノテフランの残留基準値を比較すると、レタス、シュンギク、ホウレンソウ、ネギなどが異常に高い。比較的多い0・5ppmのアスパラガスを1とすれば、レタスから順に50倍、40倍、30倍、30倍も高い。20倍だとニラ、チンゲンサイ、コマツナなどがある。

 

 もっともこれらの数値は、内閣府の食品安全委員会が、食べても安全だと定めた基準値である。しかし、だからといって「安全」とはいえないのだ。すでに述べたように、残留基準値は急性毒性や発がん性を避けることはできても、発達神経毒性などは安全とされている残留基準値以下でも影響が出ることが分かってきたからだ。最近は野菜たっぷりの鍋料理がはやっているそうだが、子供と一緒なら、できるだけ、残留農薬の多い野菜を別の野菜に替えるか、有機野菜にするのが無難だろう。

 

 

それならば農薬を使わない植物工場の野菜は健康的なのか?

 

農薬の危険性を指摘したところ、「じゃ、植物工場の野菜のように、農薬さえ使わなければ問題ないのでは?」と言われたことがある。確かにそうだが、前回でも書いたように、私たちがなぜ野菜を食べるかを考えると、それほど単純ではないだろう。

 

ずいぶん前だが、ある研究者から「これからは植物工場の時代です」と言われたことがある。太陽光の代わりに光源をLEDに、土の代わりに培養液を循環させ、温度や湿度をすべて管理した中で野菜を育てる。つまり車を造るように、野菜を水耕栽培で大量生産すれば農薬の心配がなくなるというわけだ。

香りも味も人工的

 

 

なぜ野菜を工場で生産するかというと、天候に左右されずに、青臭いにおいのない野菜も作れるそうだ。それを聞いて、思わず叫びそうになった。

 野菜からにおいがなくなったら、野菜じゃないだろう? それにレタスをLEDで育てて本当においしいのだろうか。

 

 すると彼は笑いながらこう言った。「においも味も人工的に作ればいいんです」と。慣行栽培の野菜は工業製品のようなものだと書いたが、これでは本当の工業製品だ。そんな野菜を誰が欲しがるのだろう。

 

 ところが、ニーズはあるのだという。例えば、ハンバーガーやサンドイッチを全国展開している企業があるとする。東京で買っても埼玉で買っても同じブランドだ。同じブランドなら、全国どこで買っても同じ味がいい。そんなニーズを満たすには、味もにおいも淡泊にし、あとは合成した味や香りを加えればいい。作れない味はないのだそうだ。

 

 当時はそんな野菜が売れるはずがないと思ったのに、今では大企業が競って植物工場に参入し始めた。食べても、それが植物工場で作られたなんて誰も疑わない。すごい技術だ。人間の味覚はかなりいい加減で、食生活など外的要因に左右されることが多いので、おいしく味付けするのは難しくないそうだ。子供の頃から人工的な味覚に慣れたら、おいしいはずの有機野菜を食べても、逆に苦くてまずいと感じるそうである。有機野菜が広がらないのは、もしかすると日本人の味覚が変わってしまったのかもしれない。

ちなみに、半世紀前の野菜と現在の野菜の成分を比較すると、微量栄養素が激減している。例えば、ビタミンCやβカロテンなどはほぼ3分の1だ。太陽をLEDにし、気温も湿度も一定のぬるま湯で育てた工場野菜が、果たして露地で育った野菜よりも健康的だろうか。

これでは食べ物ではなく、ただ腹を満たすためのエサに過ぎない。

 

奥野修司ノンフィクション作家

▽おくの・しゅうじ 1948年、大阪府生まれ。「ナツコ 沖縄密貿易の女王」で講談社ノンフィクション賞(05年)、大宅壮一ノンフィクション賞(06年)を受賞。食べ物と健康に関しても精力的に取材を続け、近著に「本当は危ない国産食品 」(新潮新書)がある。

 

追記:私はやや広めの農地を借りて家庭菜園を10年以上やりましたがほとんどの野菜は昆虫の被害を受けます。見た目の良い野菜を作るには農薬なくしてはできません。スーパーで売っている国産野菜は農薬が使われていると考える方が常識です。少しでも農薬の少ないものと考えるなら寒冷地のものを選んだらどうでしょうか。また除草剤の問題があります。


雅子さま「周りの人に相談を…」誕生日のご感想で“女性の自殺増”に触れたワケ

2021-12-19 11:00:00 | 日記

下記の記事は女性自身様のホームページからお借りして紹介します。(コピー)です。

 

 

《今月初めには娘の愛子が成年を迎え、多くの方々から温かい祝福を頂きましたことに心から御礼を申し上げます》

 

12月9日に58歳の誕生日を迎えられた雅子さま。ご感想のなかでは、ご成年を迎えた愛子さまのご成長についても感慨深げに綴られていた。

 

愛子さまの誕生日の前日となる11月30日、政府は皇位継承問題に関する有識者会議を4カ月ぶりに再開させた。年内にも報告書を取りまとめて政府に提出するというが、軸となるのは女性皇族が結婚後も皇室にとどまれるようにすることと、旧宮家の男系男子を皇室の養子にできるようにすることだという。一方で、女性天皇や女系天皇に関する議論は先送りとなった。

 

近現代の皇室に詳しい静岡福祉大学名誉教授の小田部雄次さんは「これでは皇位継承者の確保につながらない」と警鐘を鳴らす。

 

「結局、皇位継承者の確保については、悠仁親王のお妃が男子のお子さまを産むことが、唯一の希望という状況は変わりません。悠仁さまの次の代に男子が期待できない場合、旧宮家の男子の皇位継承が取り沙汰されることになります。しかし戦後の象徴天皇制は、皇室と国民の相互の信頼と結びつきによって成り立ってきました。愛子さまよりずっと血縁の遠い旧宮家の男子にそれが期待できるでしょうか。象徴天皇制の根幹が揺らぐ事態です」

 

さらに、愛子さまの人生設計がたてづらくなるという点にも、小田部さんは懸念を表明する。

 

「眞子さんの結婚は国民の賛否を呼びました。愛子さまにも少なからず影響があるでしょう。しかも皇室に残られるとなると、結婚のハードルはさらに高くなります。そのうえ天皇になる可能性が閉ざされているのに、一市民になることも難しいとなれば、眞子さんが感じていた以上の“不自由感”や、将来への閉塞感を抱き続けることになりかねません」

 

実は、雅子さまは誕生日の直前、体調不良に見舞われていた。

 

「12月1日の愛子さまご成年の祝賀行事を、雅子さまは欠席されています。また、誕生日写真の撮影も、2回にわたって延期されていたのです」(皇室担当記者)

 

そんな体調不良のなか、長文のご感想をしたためられた雅子さまだが《働く女性の自殺が約3割増加し、小中高生の自殺も過去最多となり、昨年の自殺者数は11年ぶりに増加に転じたとも報じられています》と、自殺者数の増加について詳しく述べられている。

 

そして、コロナ禍で《人と人とが触れ合うことが難しく、孤独を感じやすい今だからこその問題》とし、次のように切実なメッセージを記されている。

 

《人が自らの命を絶つといった悲しく痛ましい出来事ができる限り起こらないよう、周りの人に相談したり、身近な支援窓口に足を運ぶことが容易にできるよう、これまで以上に皆でお互いを気遣い、支え合っていける社会となっていくことを願っています》

 

この言葉について宮内庁関係者は、雅子さまのご胸中をおもんぱかる。

 

「愛子さまも、学校に行けない時期が何度かあり、つらい思いをされてきました。眞子さんは皇族としての不自由さを感じていたといいますが、愛子さまもご自身のお立場に戸惑い、悩まれてきました。立派に成長されたといっても、皇位継承問題などで今後も困難が待ち受けていることに変わりはありません。

 

雅子さまも、このままでは“愛子さまの未来が閉ざされてしまう”という思いも抱かれていることでしょう。愛子さまが“天皇の娘”であることに苦しまず、自信を持って生きられるように――。雅子さまは母親として、皇后として、愛子さまの心を守るという決意を込められたのかもしれません」

 

華やかな祝賀行事の陰で雅子さまが母として抱えられる苦悩に、国民も目をそらしてはならないだろう。