里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

朝鮮通信士が絶賛した “対潮楼”

2010年05月09日 | 歴 史
昨日は、福山市教委主催の地学講座に参加した。 場所は、福山市鞆町の仙酔島だ。

先ずは、講座が始まる前の僅かな時間を利用して、駆け足で対潮楼の見学だ。
対潮楼というのは福禅寺の客殿で、江戸時代に朝鮮通信士の幹部達の宿所として利用さ
れたが、通信士達は「江戸より凄い、日本で最高!」と喜び、嘗て足元まで潮が押し寄せ
ていた事から“対潮楼”と命名して書を残したのが、名前の由来らしい。

南側の県道から見上げた対潮楼対潮楼

さて、その風景だが江戸時代から今も変わっていないそうで、東側には弁天島とその先に
仙酔島が見え、仙酔島へ渡る渡船“いろは丸”も見える。
写真はヘタクソだが、日本一かどうかは別にして、美しい事は間違いない!

対潮楼の南には、大可島(たいがしま)と呼ばれる離れ島に嘗て大可島城が建てられて
いたそうだが、地続きとなった今ではその跡地の北半分に尖った屋根の円福寺が見える
だけで、対潮楼との間には建物が並びお世辞にも“景色が美しい”とは言えない。
しかし、通信士達が見た当時はもっと美しい景色だったに違いない!

〔以下、福山市観光キャンペーン実行委員会作成資料より引用〕
朝鮮通信使
通信士の船は5艘、500人ほどの船団で、迎える我が国では対馬藩が500人ほどで先導
役を務め、福山藩は料理人や給仕人などを1,000人も動員して出迎えたので、狭い鞆の津
に2,000人がひしめき賑わったと言われています。

通信士の宿舎は数多くの寺院ですが、三役などの上官は対潮楼が常宿でした。
鞆港の船着場からの道筋には毛氈やむしろを敷き、5歩毎に竿に大提灯をかけて出迎え
たそうです。

対潮楼
海岸山千手院福禅寺〔平安時代の天暦年間(950年頃)創建〕の本堂に隣接する、江戸
時代の元禄年間(1690年頃)に創建された客殿で書院つくりとなっていて、
「朝鮮通信士遺跡鞆福禅寺境内」として、国の史跡に指定されています。

座敷からの海の眺めは素晴しく、特に1711年の朝鮮通信士・李邦彦は「日東第一形勝
の書を残し、1748年の通信士・洪啓禧は「対潮楼」と名づけました。