里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

平家の女官達の行く末

2010年05月11日 | 歴 史
嘗て、交易や潮待ちの為に多くの船が鞆港に出入りし、大可島の北側の麓には乗組員を
相手にする多くの遊女達が住んでいたのだそうだ。

現在でもそういった元遊郭の建物が何軒か残っており、その内の一つは明治時代末頃に
建てられ、その後旅館(旧対山館)に改造されたが、外観はほぼ当時のまま残っている
そうだ。

新対山館(画像後方が南の大可島)新対山館の西側の露地
露地奥の旧対山館(側面)露地奥の旧対山館(正面)

ところで、瀬戸内海を舞台に源平合戦が繰り広げられていた時代、
 ・1184年2月に“一の谷の合戦”で敗れた平氏は、屋島に逃れたものの、
 ・1185年2月には“屋島の合戦”でも敗れ、
 ・1185年3月に、遂に“壇ノ浦の合戦”で滅亡してしまったのだが、

この最後の、屋島(香川県)から壇の浦(山口県)に逃れる道中は実に悲惨で、足手ま
といになる女官達は鞆の浦で棄てて行かれてしまったという。
生きる手段のない女官達は、最も身分の高い上臈と呼ばれた者すら自ら身体を売って
生きるしかなく、この事から“上臈部屋”が転じて“女郎部屋”という言葉が出来たのだ
そうだ。

嘗て瀬戸内海の各地で栄えた遊郭も、やがて船が強力なエンジンを持つようになると、
潮待ちをする必要が無くなり廃れてしまった。
鞆の“旧対山館”も多分それで旅館業に転進したのであろうが、その後“新対山館”を
建設したものの昨年秋に至って破産してしまい、競売で同じ鞆町のホテル業者に買い
取られてしまう結果となってしまった。

何時の世も、時代に取り残されると悲惨な目に遭わされてしまう。
昨今の日本も、大企業は次々と外国へ進出して国内の産業は空洞化し、それに伴って
政治の世界も混迷を深めている。 時代の波に乗れない我々のような貧乏人は先行き
が心配でならない!