“オグラセンノウの植栽地”の背後にある、石垣で囲まれた場所は、
“古家真(こけま)屋敷跡”だそうだ。 ※古家真は屋号。

![]() | 屋敷跡に向かって左側の石垣には “比和音頭”の歌詞が掲げられている。 どうやら、ここは嘗てたたら製鉄で財をなした家の跡らしい。 |
![]() | 跡地内に入ると、比和町教育委員会の 石碑が建てられていて、 「近世から近代にかけて、この地区で 製鉄業の経営で財を成し権力をふる った古家真名越家の跡地と伝承され 幕末期に築造されたと推定される石 垣は近世城郭の石垣建築技術に極 めて近い造りをしている」 のだそうだ。 |
![]() | 屋敷跡の一画には名越家の末裔が建てた碑もあり、 「古家真名越家は、天文年間毛利・尼 子の合戦で落城した備後森脇郷錦城 主の後裔で、兄豊後守は毛利氏に随 従し、弟市之正は母方の姓(名越氏) を継いで永住した。 爾来、明治初年まで19代300年間 宏大な山林田畑を領有し、特に鉄山 主として歴代家運隆盛を極め、広島 浅野藩の御用鉄山となり浅野家の家 紋を許され、近郷の人々に古家真長 者と崇められたが…、 たたら製鉄の衰退に伴って、今は吾 妻山上の長池・瓢箪池・大池と山麓の 屋敷跡しか残っていない…」 と書かれていた。 |
255号線を北上すると、やがて吾妻山(画像の中央)が見えて来る。

吾妻山の山上からはロッジの裏に幾つもの池が見えるが、これらが嘗て名越家が鉄穴
流しに使っていた池だ(画像は2008.10.15 のもの)。

そう言えば、吾妻山の北側斜面は島根県の絲原家が所有していると聞いた事がある。
絲原家というのは元は備後の百姓の出身で、江戸時代初期に吾妻山北側の出雲国の
大馬木村へ移住した後に山林業も始め、藩政期には他の林業家の田部家・桜井家と共
に“たたら製鉄業”も始めて“鉄師ご三家”と呼ばれ、鉄師頭取を勤めたほどの家柄だっ
たそうだ。
奥出雲の製鉄量は、江戸時代末期に我が国全体の70%にも及んだと言い、明治時代
に新製鉄法が導入されると、隆盛を誇ったさしもの“たたら製鉄”も廃れてしまったそうだ。
広島県側の名越家も同様な運命を辿り、今や屋敷跡と“鉄穴流し”に使った池しか残って
いないという訳だ。 まるで革命的な変化に取り残された象徴を見るようでもの悲しい!