今日は5月1日。労働者の祭典と呼ばれ呼び、更なる明日への希望を再確認する節目の日として、「祝日」にならないのがおかしいぐらいの日でもあった。
「協調」は、歓迎こそされ排斥する何のいわれもないことながら、「労使協調」の「オブラート」に包みこまれて以来、すっかり「労」は物分かりがよくなったような。そのせいか、ニュースバリューもなくなって、テレビのトップに出ることもない。
だが、国民の大多数は「労」に属す。ということは「主権者様」の大きな「塊」として存在しているはず。その塊、「数」が、今の政治情勢を傍観者然として眺めやって、何の意思表示もしないでいる不思議。自分達の「希望」を託すに足る政治集団は、既存の政党の中にしかないとするかの風情。これでよいのか。
何がなんだか分からないままの「秘密」を「保護」する法制がつくられた。敵対する側に渡ったら、銃口が180°ひん曲がって引き金を引いた方向に銃弾が飛び出す世にも稀なる兵器の開発に成功したらしく、お友達にはどんどん武器を供給できるようにと「三原則」にも手を付けた。お友達が攻撃されたのを助けるのも「自衛」だという珍解釈を、臆面もなく口にして恥じぬ。「派遣労働の一般化」以来、弱まる一方の働く者の「人権」。更に止めを刺すかのような「緩和」を容認せよと画策する。
このような「ならず者」を、諭し押し止めることも出来ない「主権者」でいいのか。
70億が今世紀末には100億に達すると予測されている世界人口。それに反比例して「減少」街道まっしぐらのこの国。限りある資源とどう向き合うか。地球環境の変化にどう対応していくのか。国内と全地球。これを見つめる眼力は備わっているのか。
今世紀末までは85年。「そんなの俺の責任の外」で、いいのか。「平和」は誰のために希求しようというのか。「積極的希求」のための処方箋を任せるには、あまりにも狭い視野の持ち主をそこに立たせているとしか言いようもない。
新しい「政治の担い手」をこんなにも必要とする時は、そんなにもあるものではないの思いから、解き放たれずにいる。
「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
百山
「協調」は、歓迎こそされ排斥する何のいわれもないことながら、「労使協調」の「オブラート」に包みこまれて以来、すっかり「労」は物分かりがよくなったような。そのせいか、ニュースバリューもなくなって、テレビのトップに出ることもない。
だが、国民の大多数は「労」に属す。ということは「主権者様」の大きな「塊」として存在しているはず。その塊、「数」が、今の政治情勢を傍観者然として眺めやって、何の意思表示もしないでいる不思議。自分達の「希望」を託すに足る政治集団は、既存の政党の中にしかないとするかの風情。これでよいのか。
何がなんだか分からないままの「秘密」を「保護」する法制がつくられた。敵対する側に渡ったら、銃口が180°ひん曲がって引き金を引いた方向に銃弾が飛び出す世にも稀なる兵器の開発に成功したらしく、お友達にはどんどん武器を供給できるようにと「三原則」にも手を付けた。お友達が攻撃されたのを助けるのも「自衛」だという珍解釈を、臆面もなく口にして恥じぬ。「派遣労働の一般化」以来、弱まる一方の働く者の「人権」。更に止めを刺すかのような「緩和」を容認せよと画策する。
このような「ならず者」を、諭し押し止めることも出来ない「主権者」でいいのか。
70億が今世紀末には100億に達すると予測されている世界人口。それに反比例して「減少」街道まっしぐらのこの国。限りある資源とどう向き合うか。地球環境の変化にどう対応していくのか。国内と全地球。これを見つめる眼力は備わっているのか。
今世紀末までは85年。「そんなの俺の責任の外」で、いいのか。「平和」は誰のために希求しようというのか。「積極的希求」のための処方箋を任せるには、あまりにも狭い視野の持ち主をそこに立たせているとしか言いようもない。
新しい「政治の担い手」をこんなにも必要とする時は、そんなにもあるものではないの思いから、解き放たれずにいる。
「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
百山
