アセモグルさんとジョンソンさんは、受賞の対象となった3つの著作(「国家はなぜ衰退するのか?(Why nations fail?)」;「自由の命運:国家・社会そして狭い回廊(The Narrow Corridor; States, Societies, and the Fate of Liberty)」;「技術革新と不平等の1000年史(Power and Progress)」)を私たちに提供してくれた。
それら著書の中で、二人は学者ならではの類まれな情報収集力と分析力を駆使して、私たちの社会が有史以来抱えて来ている課題・難題を考えていく際に役立つ「言葉・キーワード」や「考え方・思想」について数多くの説明と情報を提供してくれています。
2024年最後の投稿で、今回はこの二人が提示してくれている彼らが到達した地点からの眺めを共に見ることの楽しみを、そしてその眺めが、私たちが「社会」を考えていく際の「優れたモノサシ・羅針盤」になっているのでは、との思いを紹介出来ればと考えています。
彼らの提供する情報には、欧米の学者ならではの視野の広さと奥行きがあります。とにかく膨大な情報量と言えます。従って、全体像を俯瞰した形で紹介できる力は持ち合わせておりませんので、今後紹介するものは、かなり断片化した視野の狭さが否めないものになります。
一つ一つ気になった「言葉・キーワード」や「考え方・思想」に出会ったと感じた事柄をトピック的に紹介する体裁を先ずは取っていきたいと思います。
彼らの提供してくれる眺めを鳥瞰図的ならぬ虫瞰図的に見ていくのも楽しいことであり、また辿っていく先に、二人が提示するモノサシを使えば世の中の仕組みの「あや」が見えてくるといった思わぬ眺めがあることを期待しての歩みも意義あるものと思っております。
では東洋経済ONLINE に収載の河野龍太郎氏の記事の紹介から始めます。
河野氏も、二人のモノサシを基に両氏の提供する眺めを見ているのではないかと思います。
河野氏の情報は有料記事であり、無料で読める部分だけを紹介したものになります。更に氏の主旨は尊重しつつ、ある程度の編集を加えての紹介になっております。
「日本は既に収奪的な社会になっているhttps://tのではないか」という設問を河野氏は立てて、ノーベル経済学賞受賞者らが提示するモノサシからその点を考えることを行っています。
https://toyokeizai.net/articles/-/844203
「日本は包摂的な社会か、収奪的な社会か?」と聞かれたら、多くの人は「包摂的な社会だ」と答えるだろう。だが本当にそうだろうか。
ダロン・アセモグルさんとサイモン・ジョンソンさんは「包摂的な社会でなければ技術革新は成長につながらない」と説いている。彼らの論考を読み解くと、実は日本は気がつかないうちに「収奪的な社会」になってしまっていたことに気づかされる。
「技術革新と不平等の1000年史、2023年」でアセモグルさんとジョンソンさんが論じたのは、次の点だ。
1. 歴史的に見ると、包摂的(多くの人が参加し、そして多くの人に恩恵が広く行きわたる)ではない、収奪的な技術革新というものは、一部の人に富が独占されることが推し進められることになり、必ずしも市民が構成する社会の成長には繋がらない。
2. 収奪的な技術革新になるか、包摂的な技術革新になるかは事前に決まっている訳ではなく、その社会が収奪的なものか、あるいは包摂的なものか、によって決まる。
さらに、アセモグルさんとジョンソンさんは別の本「国家はなぜ衰退するのか(2013年)」で指摘したのは、自由競争社会であるはずのアメリカで、実は金権政治がものを言うようになり、青天井の企業献金が許され、技術革新の果実もトップの富裕層に集中するという実態が発生している。
そして二人は、衰退した国家はいずれもリーダ―や権力者といったエリート層が民衆や弱者から搾取する収奪的政治制度の下で国家・社会を統治していたという事実を例示し、実はアメリカも収奪的な社会になっているのではないか、と警鐘を鳴らしているのである。
アセモグルさんらの一連の論考が、「今の日本にも大いに当てはまっているのではないか」と河野氏は以前から感じていた、という。私たちの知らないうちに、日本はかなり収奪的社会に移行しており、そのことが長期停滞から抜け出せない我が国の原因ではないか、と10年ほど前から河野氏は主張していたという。
周囲の人は、長期停滞から抜け出すには「成長戦略が必要」とか「生産性の向上が必要」と指摘する中、河野氏は「生産性の向上が問題ではなく、分配の仕方が問題ではないか」と主張してきた。
生産性は向上しているのに実質賃金が上がっていない、ことが一つの日本が収奪的社会になっている証拠であり、格差の存在及び格差の放置ということも、また別の証拠だろうと河野氏は指摘している。
以上になります。
河野氏の論考には、「日本は既に収奪的な社会になっているのではないか」という設問や「日本は包摂的な社会か、収奪的な社会か?」や「包摂的な社会でなければ技術革新は成長につながらない」といった興味深い設問が登場しており、私たちが、社会が抱える課題や難題に直面した際に、考察が必要な「言葉」や「考え方」がちりばめられております。
そして河野氏は、現在の日本が「気がつかないうちに、既に収奪的社会に陥ってしまっている」という結論を導き出すのに、アセモグルさんとジョンソンさんの著書にあるモノサシを用いております。
当面はこのやり方を参考にして、アセモグルさんとジョンソンさんの著作の中で気になった「言葉・キーワード」や「考え方・思想」に出会うごとに、一つ一つ取り上げトピック的に紹介する方法をもって二人のたどった道と、そして辿りついた頂上の一つ一つからの眺望を眺めるという楽しみを行っていきたいと思っております。
第一回目は、アセモグルさんとジョンソンさんが、「自由の命運:国家、社会、そして狭い回廊」の序章において重視すると指摘しており、そして社会を構成する私たち市民が最も目標としたい「自由」について考えてみます。
両氏はこの言葉が意味するある部分を、「ギルガメッシュの寓話」を引用して説明しています。今回はこの寓話にスポットライトを当てて見ます。
ギルガメッシュは、紀元前2200年頃の現在のイラク南部にあった世界最古と謳われる古代都市ウルクの王であったとされ、現存する最古の文書に数えられるシュメールの石板に書かれた「ギルガメッシュ叙事詩」の中で、彼は統治していたウルクを、交易の振興で繁栄させ、住民には公共サービスを提供し、目覚ましい都市を形作っていったことが謳われている。
こういった偉大な面がある半面、ギルガメッシュにはもう一方の面として、住民すべてを自分の持ち物とし、住民に対してやりたい放題な振る舞いをするという専横的な面があった。即ち、ウルクの民には真の意味での「自由」がなかった、としている。
「自由」の無さに嘆いた住民らは、シュメールの主神である天の神「アヌ」に助けを求めた。
「アヌ」が取った方策は、女神「アルル」に対し、ギルガメッシュに匹敵する分身「エンキドゥ」を作ることを命じたのである。即ち、力には力でギルガメッシュの力を削ぎ、それによりウルクの民の「自由」を達成しようとしたのである。
当初、ギルガメッシュはエンキドゥに手を焼き、「アヌ」の方策が効を奏したに見られたが、やがてギルガメッシュとエンキドゥとは和解し、二人して専横の限りを尽くすようになってしまった、というのが「ギルガメッシュの寓話」のあらすじです。
この寓話を下敷きに、アセモグルさんとジョンソンさんは、ギルガメッシュ王が専横的にふるまう国家の中で、市民が獲得を願う自由という課題に関して次の説明をしている。
1.「アヌ」の採用した方策は、今日でいう「チェック&バランス〈抑制と均衡〉」だった。この方策は、アメリカの政治制度の生みの親の一人、ジェイムス・マディソンの主張(「野望には野望をもって対抗させる」との考えを合衆国憲法に導入すべき)にも現れている。だが、寓話にあったように、この方策では、ウルクの住民には真の自由は訪れなかった。即ち、上からパラシュートで降ってくるような「抑制と均衡」では、市民は真の自由の獲得はできない、ということになる。人任せでは、目標の達成は出来ないということ。
2.自由というものは、歴史上まれなものであり、今日においてもまれなことだ、とアセモグルさんとジョンソンさんは指摘し、ではどうやったら市民は真の自由を獲得できるのだろうか?と問うている。そして自由の獲得には、国家の存在が必要だとした上で、但し強い国家が存在しさえすれば市民に自由は提供されるというものではないこと、また国家を差配し指導するエリート層が好意を持って、市民に自由を提供するというものでもないとし、結論として自由というものは社会を構成する普通の人々によって獲得されるもの、即ち、国家に劣らない、そして国家と競合する強い社会の存在によって初めて獲得されるものだとしている。
3.上の結論の根拠の一つをアセモグルさんとジョンソンさんは、イギリスなどでの女性の権利獲得運動に求めている。少々過激な例を両氏は提示しているが、権利の拡大には多大な努力が求められるということを良く示す例であり、紹介したい。
1903年にサフラジェットと呼ばれる女性だけの政治団体が立ちあがった。彼女らは、女性の権利拡大を目指すという市民としての自由の権利拡大を自らの行動で図ろうとし、例えば、後に首相となる政治家の別荘に爆弾を仕掛けたり、国会議事堂の手すりに自らを鎖で繋いだり、納税を拒否したり、投獄されるとハンガーストライキに訴えるという直接行動や市民的不服従の行動を起こした。
そして、活動家の一人エミリー・デイヴィソンさんが、1913年6月4日エプソムダービーが行わる中、出場していた国王の愛馬の直前に飛び出し、自身跳ね飛ばされるとともに馬は転倒するという事件を起こした。4日後デイヴィソンさんは死亡している。
そしてそれから5年後、議会選挙への女性の投票権が達成されたのである。
この事実は、国家を差配する主として男性のエリート層の寛大な思いやりの結果ではなく、女性たちが組織化・団結化し力を高めたことの帰結と、アセモグルさんとジョンソンさんは指摘する。
女性解放の話は特殊な事例でも例外の事例でもなく、自由の実現には、社会は結束することが大切であり、国家とエリート層に対し結束して立ち向かうことが出来るかどうかが帰趨を決すると結論している。
ただでさえ強く私たちを支配しようとする国家の力が、日本には有ると思います。
そして、「自由の度合い」を高めたいという希望を私たちは強く持っていることも明白です。
だが、私たちが普段行う自由の権利の拡大を求める活動の実態は、充分なものだろうか?
結束力高く・組織的に、そして継続的に展開することが求められているのです。
果たして結束力・組織力の点で充分に行われていると言えるでしょうか?
そして継続して行うという点で充分と言えるでしょうか?
この辺りの関係は、アセモグルさんとジョンソンさんの提示する社会の健全度合い・幸福度合い・自由度合いが、「国家」と「社会」の両者が拮抗し合って双方力をつけ、競合し合う関係を構築できるかどうかで決まるという、いわゆる二人の言う「狭い回廊(narrow corridor)」の中に私たちの「国と社会」が入っているかどうか、に関わる事柄になります。
「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
yo-chan
それら著書の中で、二人は学者ならではの類まれな情報収集力と分析力を駆使して、私たちの社会が有史以来抱えて来ている課題・難題を考えていく際に役立つ「言葉・キーワード」や「考え方・思想」について数多くの説明と情報を提供してくれています。
2024年最後の投稿で、今回はこの二人が提示してくれている彼らが到達した地点からの眺めを共に見ることの楽しみを、そしてその眺めが、私たちが「社会」を考えていく際の「優れたモノサシ・羅針盤」になっているのでは、との思いを紹介出来ればと考えています。
彼らの提供する情報には、欧米の学者ならではの視野の広さと奥行きがあります。とにかく膨大な情報量と言えます。従って、全体像を俯瞰した形で紹介できる力は持ち合わせておりませんので、今後紹介するものは、かなり断片化した視野の狭さが否めないものになります。
一つ一つ気になった「言葉・キーワード」や「考え方・思想」に出会ったと感じた事柄をトピック的に紹介する体裁を先ずは取っていきたいと思います。
彼らの提供してくれる眺めを鳥瞰図的ならぬ虫瞰図的に見ていくのも楽しいことであり、また辿っていく先に、二人が提示するモノサシを使えば世の中の仕組みの「あや」が見えてくるといった思わぬ眺めがあることを期待しての歩みも意義あるものと思っております。
では東洋経済ONLINE に収載の河野龍太郎氏の記事の紹介から始めます。
河野氏も、二人のモノサシを基に両氏の提供する眺めを見ているのではないかと思います。
河野氏の情報は有料記事であり、無料で読める部分だけを紹介したものになります。更に氏の主旨は尊重しつつ、ある程度の編集を加えての紹介になっております。
「日本は既に収奪的な社会になっているhttps://tのではないか」という設問を河野氏は立てて、ノーベル経済学賞受賞者らが提示するモノサシからその点を考えることを行っています。
https://toyokeizai.net/articles/-/844203
「日本は包摂的な社会か、収奪的な社会か?」と聞かれたら、多くの人は「包摂的な社会だ」と答えるだろう。だが本当にそうだろうか。
ダロン・アセモグルさんとサイモン・ジョンソンさんは「包摂的な社会でなければ技術革新は成長につながらない」と説いている。彼らの論考を読み解くと、実は日本は気がつかないうちに「収奪的な社会」になってしまっていたことに気づかされる。
「技術革新と不平等の1000年史、2023年」でアセモグルさんとジョンソンさんが論じたのは、次の点だ。
1. 歴史的に見ると、包摂的(多くの人が参加し、そして多くの人に恩恵が広く行きわたる)ではない、収奪的な技術革新というものは、一部の人に富が独占されることが推し進められることになり、必ずしも市民が構成する社会の成長には繋がらない。
2. 収奪的な技術革新になるか、包摂的な技術革新になるかは事前に決まっている訳ではなく、その社会が収奪的なものか、あるいは包摂的なものか、によって決まる。
さらに、アセモグルさんとジョンソンさんは別の本「国家はなぜ衰退するのか(2013年)」で指摘したのは、自由競争社会であるはずのアメリカで、実は金権政治がものを言うようになり、青天井の企業献金が許され、技術革新の果実もトップの富裕層に集中するという実態が発生している。
そして二人は、衰退した国家はいずれもリーダ―や権力者といったエリート層が民衆や弱者から搾取する収奪的政治制度の下で国家・社会を統治していたという事実を例示し、実はアメリカも収奪的な社会になっているのではないか、と警鐘を鳴らしているのである。
アセモグルさんらの一連の論考が、「今の日本にも大いに当てはまっているのではないか」と河野氏は以前から感じていた、という。私たちの知らないうちに、日本はかなり収奪的社会に移行しており、そのことが長期停滞から抜け出せない我が国の原因ではないか、と10年ほど前から河野氏は主張していたという。
周囲の人は、長期停滞から抜け出すには「成長戦略が必要」とか「生産性の向上が必要」と指摘する中、河野氏は「生産性の向上が問題ではなく、分配の仕方が問題ではないか」と主張してきた。
生産性は向上しているのに実質賃金が上がっていない、ことが一つの日本が収奪的社会になっている証拠であり、格差の存在及び格差の放置ということも、また別の証拠だろうと河野氏は指摘している。
以上になります。
河野氏の論考には、「日本は既に収奪的な社会になっているのではないか」という設問や「日本は包摂的な社会か、収奪的な社会か?」や「包摂的な社会でなければ技術革新は成長につながらない」といった興味深い設問が登場しており、私たちが、社会が抱える課題や難題に直面した際に、考察が必要な「言葉」や「考え方」がちりばめられております。
そして河野氏は、現在の日本が「気がつかないうちに、既に収奪的社会に陥ってしまっている」という結論を導き出すのに、アセモグルさんとジョンソンさんの著書にあるモノサシを用いております。
当面はこのやり方を参考にして、アセモグルさんとジョンソンさんの著作の中で気になった「言葉・キーワード」や「考え方・思想」に出会うごとに、一つ一つ取り上げトピック的に紹介する方法をもって二人のたどった道と、そして辿りついた頂上の一つ一つからの眺望を眺めるという楽しみを行っていきたいと思っております。
第一回目は、アセモグルさんとジョンソンさんが、「自由の命運:国家、社会、そして狭い回廊」の序章において重視すると指摘しており、そして社会を構成する私たち市民が最も目標としたい「自由」について考えてみます。
両氏はこの言葉が意味するある部分を、「ギルガメッシュの寓話」を引用して説明しています。今回はこの寓話にスポットライトを当てて見ます。
ギルガメッシュは、紀元前2200年頃の現在のイラク南部にあった世界最古と謳われる古代都市ウルクの王であったとされ、現存する最古の文書に数えられるシュメールの石板に書かれた「ギルガメッシュ叙事詩」の中で、彼は統治していたウルクを、交易の振興で繁栄させ、住民には公共サービスを提供し、目覚ましい都市を形作っていったことが謳われている。
こういった偉大な面がある半面、ギルガメッシュにはもう一方の面として、住民すべてを自分の持ち物とし、住民に対してやりたい放題な振る舞いをするという専横的な面があった。即ち、ウルクの民には真の意味での「自由」がなかった、としている。
「自由」の無さに嘆いた住民らは、シュメールの主神である天の神「アヌ」に助けを求めた。
「アヌ」が取った方策は、女神「アルル」に対し、ギルガメッシュに匹敵する分身「エンキドゥ」を作ることを命じたのである。即ち、力には力でギルガメッシュの力を削ぎ、それによりウルクの民の「自由」を達成しようとしたのである。
当初、ギルガメッシュはエンキドゥに手を焼き、「アヌ」の方策が効を奏したに見られたが、やがてギルガメッシュとエンキドゥとは和解し、二人して専横の限りを尽くすようになってしまった、というのが「ギルガメッシュの寓話」のあらすじです。
この寓話を下敷きに、アセモグルさんとジョンソンさんは、ギルガメッシュ王が専横的にふるまう国家の中で、市民が獲得を願う自由という課題に関して次の説明をしている。
1.「アヌ」の採用した方策は、今日でいう「チェック&バランス〈抑制と均衡〉」だった。この方策は、アメリカの政治制度の生みの親の一人、ジェイムス・マディソンの主張(「野望には野望をもって対抗させる」との考えを合衆国憲法に導入すべき)にも現れている。だが、寓話にあったように、この方策では、ウルクの住民には真の自由は訪れなかった。即ち、上からパラシュートで降ってくるような「抑制と均衡」では、市民は真の自由の獲得はできない、ということになる。人任せでは、目標の達成は出来ないということ。
2.自由というものは、歴史上まれなものであり、今日においてもまれなことだ、とアセモグルさんとジョンソンさんは指摘し、ではどうやったら市民は真の自由を獲得できるのだろうか?と問うている。そして自由の獲得には、国家の存在が必要だとした上で、但し強い国家が存在しさえすれば市民に自由は提供されるというものではないこと、また国家を差配し指導するエリート層が好意を持って、市民に自由を提供するというものでもないとし、結論として自由というものは社会を構成する普通の人々によって獲得されるもの、即ち、国家に劣らない、そして国家と競合する強い社会の存在によって初めて獲得されるものだとしている。
3.上の結論の根拠の一つをアセモグルさんとジョンソンさんは、イギリスなどでの女性の権利獲得運動に求めている。少々過激な例を両氏は提示しているが、権利の拡大には多大な努力が求められるということを良く示す例であり、紹介したい。
1903年にサフラジェットと呼ばれる女性だけの政治団体が立ちあがった。彼女らは、女性の権利拡大を目指すという市民としての自由の権利拡大を自らの行動で図ろうとし、例えば、後に首相となる政治家の別荘に爆弾を仕掛けたり、国会議事堂の手すりに自らを鎖で繋いだり、納税を拒否したり、投獄されるとハンガーストライキに訴えるという直接行動や市民的不服従の行動を起こした。
そして、活動家の一人エミリー・デイヴィソンさんが、1913年6月4日エプソムダービーが行わる中、出場していた国王の愛馬の直前に飛び出し、自身跳ね飛ばされるとともに馬は転倒するという事件を起こした。4日後デイヴィソンさんは死亡している。
そしてそれから5年後、議会選挙への女性の投票権が達成されたのである。
この事実は、国家を差配する主として男性のエリート層の寛大な思いやりの結果ではなく、女性たちが組織化・団結化し力を高めたことの帰結と、アセモグルさんとジョンソンさんは指摘する。
女性解放の話は特殊な事例でも例外の事例でもなく、自由の実現には、社会は結束することが大切であり、国家とエリート層に対し結束して立ち向かうことが出来るかどうかが帰趨を決すると結論している。
ただでさえ強く私たちを支配しようとする国家の力が、日本には有ると思います。
そして、「自由の度合い」を高めたいという希望を私たちは強く持っていることも明白です。
だが、私たちが普段行う自由の権利の拡大を求める活動の実態は、充分なものだろうか?
結束力高く・組織的に、そして継続的に展開することが求められているのです。
果たして結束力・組織力の点で充分に行われていると言えるでしょうか?
そして継続して行うという点で充分と言えるでしょうか?
この辺りの関係は、アセモグルさんとジョンソンさんの提示する社会の健全度合い・幸福度合い・自由度合いが、「国家」と「社会」の両者が拮抗し合って双方力をつけ、競合し合う関係を構築できるかどうかで決まるという、いわゆる二人の言う「狭い回廊(narrow corridor)」の中に私たちの「国と社会」が入っているかどうか、に関わる事柄になります。
「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
yo-chan
