こもれび

悩み多き毎日。ストレス多き人生。でも、前向きに生きていきたい。だから、自然体で・・・

女性数学者

2008年07月13日 | Weblog

女性数学者は素敵だ。まるで、雪の中からすっくと頭をもたげて、その赤い実を輝かせている南天のようだ。真っ白な銀世界にあって、その赤は、燦然と光を放っている。

数学者に興味を抱き始めたのは、小川洋子著「博士の愛した数式」を読んでからである。その後、藤原正彦著「天才の栄光と挫折」、サイモン・シン著「フェルマーの最終定理」などを読み漁り、最近読んだものでは、東野圭吾著「容疑者Xの献身」も興味深いストーリーであった。数学者は映画でも取り上げられてきた。「グットウィルハンティング」「ビューティフルマインド」「プルーフオブマイライフ」など、どれも一風変わっていて、それでいて魅力的な数学者が描かれている。実在、非実在を含め、これらの作品から得られた情報を総合した私の数学者像は「純粋」で「あきらめない」人々。汚職にまみれた一部の政治家たちとは正反対のところにすっくと立っている「高貴」な人々というイメージである。高校2年の時に文系コースを選んで以来、数学の「す」の字もわからなくなった私にとって、eπi+1=0 などという奇妙に美しい数式を扱う数学者は、別世界に住んでいる尊敬すべき人々である。

ところがある時、ひとつの事実に気がついた。様々なストーリーの中に登場する数学者は、ほとんどが男性である。女性の数学者は本当に少ない。そこで、アマゾンで一冊の本を手に入れた。リン・M.オーセン著「数学史のなかの女性たち」である。この中には、紀元4世紀末に大輪の花を咲かせたヒュパチアから始まり、マリア・アグネシ、エミリ・ド・ブルテーユ、キャロライン・ハーシェル、ソフィー・ジェルマン、メアリ・サマーヴィル、ソーニャ・コワレフスカヤ、そして20世紀初頭に活躍したエミー・ネターまで、8人の錚錚たる女性数学者が登場する。読み終えて痛感したのは、女性に対する社会の偏見がなければ、この本に取り上げられる数学者の数はもっともっと多かったはずであろうということである。彼女たちが生きた時代は、世間の習慣や偏見が壁となり、数学という難しい学問に習熟するためには男性よりもはるかに多くの困難に直面しなければならなかった。そのため、彼女たちが学問以外に費やしたエネルギーは多大で、これだけでも賞賛に値するが、その上ですばらしい学問的な業績を残しているのだから、これは賞賛を超えて驚嘆である。数学に対する情熱だけでは成しえないことであり、そこには、凡人には考えも及ばない並々ならぬ忍耐力と精神力のみならず、社会的プレッシャーに立ち向かう勇気と実行力が必要だったはずである。

フランス革命の嵐が吹き荒れる中、13歳になったソフィー・ジェルマンは、父の書斎でアルキメデスの物語を読んでいた。その中で、「幾何の問題に夢中になっていたアルキメデスは、その時攻め入ってきた無慈悲なカルタゴの兵に殺された。」という一文に出会い、「幾何」とはそれほど面白いものなのかと、幾何の本を読み始めた。それを知った両親は、若い娘が数学などを勉強すると「狂気」に侵されると心配し、ソフィーの寝室からローソクと暖房をとりあげ、その上、寝室に引き上げた後は衣服まで取り上げた。何が何でも寝かせてしまえということだったらしい。が、ソフィーは予備のローソクを取り出し、羽根布団に包まって勉強した。そして、パリに新設された高等理工科学校にル・ブランという男性の名を借りて潜り込み、たいへんな苦労をして教授たちの講義ノートを集めた。論文を提出する時も、ル・ブランの名を借りた。当時、ここに女子学生は入学できなかったからである。後にガウスに手紙を出す時も、「偉大なガウスは女など相手にしてくれないのではないか」と心配し、再び、ル・ブランの名を借りている。

ソフィーに4年遅れて生を受けたメアリ・サマーヴィルも、数学を学ぶなどという「狂気じみたこと」を止めさせようとする両親にロウソクを取り上げられ、夜勉強することができなかった。メアリはある時偶然にユークリッドの『幾何学原本』という本の名を耳にし、ユークリッドの重要性を知るきっかけを得たのだが、どうやってその本を手に入れたらよいのかわからなかった。というのも、本屋に若い娘が入っていって、ユークリッドの本をくださいというのは、許されない時代だったのである。

「女性は学問に向かない」という神話が幅を利かせていた。女性は、実用的、家庭的なことだけをしていればいいのであって、抽象的、思索的な真理や原理は女性の能力以上のことであると一般的に信じられていた。貴族の娘たちを教育することにさえ反対の声が大きく、ましてや貧しい家庭の娘の教育など論外であった時代である。

ソーニャ・コワレフスカヤにいたっては、死後4年たっても、詮索好きな人々の餌食にされた。彼らはアルコール漬けにしてあったソーニャの脳の重さを量ったのである。ドイツの生理・物理学者、ヘルマン・ヘルムホルツの脳の重さと比較するためである。その結果、この二人の体重を考慮に入れると、脳細胞の量はヘルマンよりもソーニャのほうが多いということになった。そして、男性の脳は女性の脳より優れていることを示そうとした試みが失敗に終わったのである。1895年のことであった。

現代の私達には、馬鹿げているとしか思えないが、こういう時代にあって、数学への情熱を捨てなかった彼女たちは本当に特別な存在である。女性が高等教育を受けるのを良しとしなかった時代に、社会の偏見という壁を乗り越えてなお数学史にその名を刻んだ女性数学者たちは、環境の整った中で学んできた男性よりも輝いて見えるのは当然のことだろう。

ここにひとつのクイズがある。公園のベンチに数学者が腰をかけている。子どもたちがローラースケートをしているのを眺めながら、「あそこで滑っている赤い帽子の子は、私の息子だ。」というので、その赤い帽子の少年のところへ行って、「向こうのベンチに座っている人は、君のお父さんかい?」と尋ねた。ところが「ううん。違うよ。」という答えが返ってきた。さあ、この二人の関係は? このクイズに、「え?」と思う人は、知らず知らずのうちに綿々と続いてきた社会の偏見を受け継いでしまっている可能性がある。世に蔓延る偏見、女性に対する無言の圧力をいつの間にか自分の考えの中に取り込んでしまっているのかもしれない。冷静に考えれば、女性よりも男性のほうが数学的な頭をしているなどということはあり得ない。優秀な人は、性別にかかわらず優秀である。女性の数学者が少ないのはひとえにこれまでの社会的環境のせいである。

社会的なプレッシャーを撥ね返すどころかすぐに安易な道を選び、そのうえ数式など理解できない私にとって、女性数学者は心底眩しく輝いている。でも、これからはいつまでも雪原の中の数本の南天であっては困る。雪の原の半分をその赤い実でうめてほしい。「数学者 = 男性」という偏見を払拭し、実力だけでなく数においても男性数学者と五角に渡り合って活躍をしてほしい。そして、その時に改めてもう一度言いたい。「女性数学者は素敵だ」と。

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