久良岐公園。何と懐かしい響きだろう。20年以上も昔、この公園は我が家の庭だった。横浜市港南区と磯子区にまたがる230,762平方メートルもある広大な庭。何と贅沢なことだろう。梅、桜、ツツジなどが季節季節を楽しませてくれ、茶色の山がだんだんと若葉の季節を迎える様子も、深緑の森が少しずつ秋の色に染まっていくのも毎日窓から眺められた。そして、何よりもこの公園は幼かった娘たちの素晴らしい遊び場だった。ザリガニ捕り、木登り、ドングリ拾い。幼稚園や学校から帰宅しても、遊び場には事欠かなかった。オタマジャクシを捕まえてきてマンションの玄関先で育てていたら、ある日、小さなアマガエルになって隣の部屋の前にたくさん行列をつくり、ヒンシュクをかったこともあった。子供たちが自転車に乗れるようになったのもこの公園の広場だった。
先週末、久しぶりに本当に久しぶりに久良岐公園を訪ねてみた。冬枯れのこの季節は木々の葉が落ち、すがすがしいほど見通しがよい。実はこの裸木の季節がとても好きなのだ。夏の鬱蒼とした雑木林と違って、余分なものをそぎ落とした木々の立ち姿はとても美しいと思う。ほとんと芸術的だ。枝の間から遠くの景色が見渡せるのもいい。晴れた日には富士山も見える
大池、梅林、桜の森を抜け、運動公園、芝生の広場をすぎて、ぐるりと反対側に回ると、静かな雑木林になり、街中の公園とは思えないほどの深山幽谷の趣がある。ずんずん進むと公園のはずれ、山を下りたところに能楽堂がある。日本画の大家平福百穂が鏡板に描いた老松が見事な能舞台があり、今でも能や狂言がここで行われている。庭には、軽やかな音を響かせる水琴窟もある。
雑木林の静けさは20年数年前と変わらないが、一つだけ当時とは違うなと感じたことがある。あの頃は、週末ともなると、大池の周りや広場では、家族連れや子供たちの集団がところ狭しと遊んでいたものである。アスレチックやブランコには子供たちが群がり、怪我でもしないかとハラハラしながらみていたものだが、今は違う。大池の周りで釣りを楽しんでいるのは、退職後と思しき髪の白い男性。広場でジョギングしているのは、中年の人々。ご夫婦仲良く散歩しているのは、杖をついたおばあさんとおじいさん。ところどころでバトミントンをしている子供たちの姿を見かけるとホッとする。遊具で遊ぶ子供はほとんど独占状態だ。なるほど、これが高齢化社会なんだと実感した瞬間である。
300本の桜の木が植えてある斜面は、今は立派な桜の森だが、当時は、まだ苗木。広い斜面は小学生がゴロンゴロンと横になって転がり落ちるには格好の坂だった。あの小さな苗木が立派な木々に育ち、我が家の子供たちも独立したのだから、確実に時間は流れたのだが、久良岐公園の落ち着きは当時のままだ。冬の裸木の美しさもそのまま。なんだか不思議な気がする。