黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

SNSのない生活

2024-10-20 07:28:09 | 生活

SNSはソーシャル・ネットワーキング・サービスの略であり、ソーシャルとは社会であり、社会とは大辞林によると「生活空間を共有したり、相互に結びついていたり、影響をあたえあったりしている人々のまとまり」である。すなわち、双方向の交流がある場である。すると、ブログは、基本的には発信のみだからSNSには入らない。私は、某SNSのアカウントを廃止し、固定電話はもとよりかかってこないところにもってきてベルが鳴らないようにし、スマホの電源は外出時以外オフにしてあるから、外部とのネットワークは電子メールだけだが、もともと友達がほとんどいないうえに(友達の数はa littleではなくlittleである)、きょうび電子メールを送るという発想が人々の頭にないらしく、業者からの連絡メールを除き、受信する数は日に1通あるかないかである。

SNSをやってた頃は他人の動向がいちいち目に入ったが、今ではそうした情報は皆無である。だから、人がどこで何をしているかはまったく分からない。完全にネットワークの外に在る。その生活は、都会の一室にいながらにして、既に惑星タトゥイーンの砂漠の奥で一人暮らしをするオビ=ワン・ケノービのごとしである(ただし、オビ=ワンはちゃんとした住居で暮らしていたから、ときどき街に出て買い物はしていたようである。その点、私も、近所のスーパーに行って買い物をするから、東京島に漂流した木村多江演じる清子とは異なる)。

そもそもなぜSNSを止めたかと言えば、一つにはお節介がすぎるSNSのAI(他人の誕生日を教えてくれるにとどまらず、お祝いしろとまで言ってくる。お祝いするしないは自分で決める)に対するささやかな反抗である。

実は、SNSを止めてすぐの頃、SNS経由のメッセージが届いていた。え?なぜ?と思って試しにログインしてみたら、全く従来通りつながってしまった。調べてみると、アカウントを消した後、一定期間内にログインするとアカウントが復活するという。これでは、大言壮語を発して家出をしときながら2,3日中にこっそり家に戻るのと同じではだはな不格好である。あわてて、再度アカウントを廃止し、今では完全に縁が切れている。

懲役刑でも他の受刑者との交流はあるようだから(それでも食事中の会話はないようである)、私のお一人様加減は禁錮刑並みか。だが、禁錮刑は懲役刑と違って労役を科せられないはずだが、希望すると仕事をさせられるそうで、ほとんどの受刑者は労役を希望すると聞いて、せっかく自由時間がやまほどあるのになにを好んで仕事をするのだろう?と思ったが、みんな孤独に耐えかねて労役に就くのかもしれない。なお、労役の内容が炊事の場合、それは調理師免許をとる際の実務経験期間にカウントされるそうである。それはありがたい。私も、もし刑務所のお世話になることがあったら、是非にも炊事当番を担当させてもらいたいものである。なお、監獄に入る刑罰にはこれまで懲役と禁錮があったが、既に刑法が改正されていて、改正法が施行されるとその区別はなくなるそうである。因みに、ほりえもんは、受刑中、他の受刑者から「しゃちょー」と呼ばれて交流を持ったそうである。だが、他の受刑者がやばい相談をしているところに加わろうとすると「しゃちょーは知らなくていい話だから」と言われて話を聞かせてくれなかったという。なかなか仲間思いの方々である。

あれ?刑務所の中って、塀の内と外のどっちだっけ。たしか内だったと思うが見方にもよる(塀の外を「広ーい内」と見ることができないだろうか)。例えば、動物園だって、見物客から見れば檻の中にいるのが動物だが、動物から見れば人間こそが檻の中にいて、気の毒なことよと思っているかもしれない?

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車の騒音で発狂しそうな私

2024-10-19 15:02:45 | 生活

ようやく秋らしい日も「ときどき」ある昨今、エアコンを切って窓を開けるようにしたのだが、車の音が超うるさい。うるさくて気が狂いそうである。

もともと、ウチはマンションの上階なのだが、以前は、表の道路とマンションの間に人家があった。

写真は表の道を祭りの神輿が練り歩いてるときのものであり、下に写っているのが間の人家の屋根である。ところが、道路を拡張するらしく、間にあった建物が取り壊されて駐車場になり、マンションと道路を遮る物がなくなった。

これにより、表の道路をひっきりなしに走る車の音が直にわが家に達するようになった。中でもエンジン音に加えて「バッシャン、バッシャン」という音が頻繁に聞こえるのだが、これがなかなかの音量で、いったい何かと思ったらコンテナ専用車(上の写真にも写っている)の音であった。コンテナと荷台の摩擦音だろうか。ただ、大事な物流を担ってくださってるのだから感謝しなければいけないことは分かっている。我慢しようと思ったら、天はさらなる試練を与えたもうた。バリバリバリという殺人的な音である。その発信源はコレ。

大型バイクである。近くに大型バイクを扱うバイク屋ができたせいである。だが、その店は道路の向こう側。なのに眼下で聞こえる。音がワープして伝わってくるのか思ったら理由が分かった。マンションの眼下の駐車場にそのバイク屋のスペースがあって、運搬の際、大型バイクがそのスペースに来るのである。眼下で聞こえるわけである。

おかげでテレビの音がまったく聞こえない。いや、テレビの音が聞こえないだけではない。そもそも、私は、この手の都会の騒音には慣れてないのである。なにしろ、育ったのは某市チベット区の山の上で、当初、近所に人家はなく、お友達は鶏であった。

こんなだから、徒歩15分の所を走る電車の音が聞こえたし、夜になると響くのは山の下に広がる田んぼの蛙の大合唱であった。要は、私は田舎者であり、田舎者には自動車の騒音を聞くことは拷問に他ならないのである。なお、私がただ同然で買った奥地の家は静かである。宅急便の車がウチに来るのが分かるくらいである。早いとこ引っ越すことが身のためかもしれない(なかなか事情が許さず引っ越せないのだが)。

因みに、写真に写っている鶏は、その後、この家の構成員の胃袋の中におさまったそうである。「そうである」というのは覚えておらず、後から親に聞いて知ったから。聞いたときはショックだったが、これが当時の鶏の共通の運命だったようである。あと、私は、牛に産まれるのだったら乳牛がいいと思っていたのだが、乳牛だって結局は人間の胃の中におさまると聞いてがっかりしたものだ。なお、闘牛は、闘牛士の剣で痛い思いをしてお陀仏となるのが通常だが、希に、がんばり通したとき「お許し」が出るって話をなんかの映画で見た。

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