その古代中東の歴史書によると、今、トルコ共和国のあるアナトリア半島にヒッタイトという国があって、その国民はインド・ヨーロッパ語族(現在のヨーロッパ人)に属するということ。同地がトルコ人の国になったのはずっと後のことだという。そう言えば、お隣のイランの人々もインド・ヨーロッパ語族であった。その更に東方のインドもである。
その歴史書にはエジプトのことも載っている。ナイル川が毎年氾濫したおかげで土地が肥えたという話は聞いていたが、その方法は、溢れた水をわざと農地に溜めて(水門を閉めて)水がもたらす栄養分を土地に取り込んだのだそうだ。「氾濫」というと大変な災害を想起するが、その言葉とは裏腹に、当時の農民は積極的に増水を利用したらしい、ということが新発見であった。
ところで、ナイル川は多くの国々を流れエジプトはその最下流にある。現代において、上流の国々がダムをこしらえたためナイル川の水量が減って、エジプトは小麦の一大輸入国になってしまったという。かように、一つの川がいくつもの国を流れていると、ある国が川にしたことが他国にも影響を与えてしまうということも新発見であった。日本のように、源流から河口までが国内で完結していては起こりえない事態である。
ただし、もっと規模を小さくして、水流を小川に、国を個々の邸宅に置き換えればあり得る話となる。例えば、びわ湖の周りの集落では、各家の敷地内に隣から流れてくる水流があって、各家がその水流を家用に利用するのである。私は、その様子をテレビで見たとき、そうか、民法の水流に関する規定はこういう場合に役立つのだな、と思った。その規定の内容というのはこうである。水流地の所有者は、対岸が他人所有の場合は(こっち側だけが自己所有の場合は)その水路又は幅員を変更してはならないが、両岸が水流地の所有者に属するときは(自分とこの庭の中を流れている場合は)水路及び幅員を変更することができ、変更した場合は水流が隣地と交わる地点で元に戻さなければならない(いずれも異なる慣習があるときはそっちが優先する)というものである。
黒澤明の「椿三十郎」を見たときもこの規定のことを思い出した。すなわち、椿三十郎が肩入れする若侍達はある屋敷に身を隠しているのだが、その隣が敵の屋敷であり、二つの邸宅を小川が貫いている。敵側が上流である。椿三十郎は、身分を隠して敵の屋敷に入り込んだ。突撃の合図は、その小川に白い椿の花を流すことであった。私は、映画を鑑賞しながら、あの小川はそれぞれの庭の中を流れているので(両岸とも屋敷の主に属するので)、自分とこの庭の中では流れも幅も変えることができるが、隣の庭との境において元に戻さなければならないんだよな、と思ったものである。因みに、映画のクライマックスで流れて来た合図の椿の花があまりに大量だったので思わず笑ってしまったものだ。