黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

熟女のツェルリーナ(ドン・ジョヴァンニ)

2025-01-21 13:03:48 | オペラ

その映画仕立ての「ドン・ジョヴァンニ」(モーツァルト)でツェルリーナを歌ったのがテレサ・ベルガンサ。多くの公演では、この役は若いソプラノに割り振られるのだが、テレサ・ベルガンサはメゾ・ソプラノの大御所中の大御所。だから、これをミス・キャストという評論家もいた。だが、考えてみれば、ツェルリーナは、マゼットという彼氏がいながらドン・ジョヴァンニにほいほいついて行きそうになったことがバレるとマゼットに「あたしをぶって」と言ったり、ドン・ジョヴァンニにぼこぼこにされたマゼットに「いい薬がある」と言って自分の胸を触らせたりの百戦錬磨ぶり。娘っ子にできる芸当ではない。だからベルガンサが配役されたのだろうか。

音楽的にも、ツェルリーナ役は重要である。上記の二つのシーンで歌われるアリアも有名だが、私が声をあげて主張したいのは、最後の重唱におけるツェルリーナの役割である。ドン・ジョヴァンニが地獄に落ちた後、残された登場人物がそれまでの重苦しい雰囲気を一層するような活力に溢れた重唱を歌って締めるのだが、その冒頭がこう。

まず、ソプラノの二人が溌剌としたフーガのメロディーを歌い始めるのだが(上記楽譜の青いライン)、それを引き続いて歌うのはツェルリーナ一人である(赤のライン)。メゾ・ソプラノ一人でソプラノ二人を迎え討つ構図であり、下手をすると「あれ?聞こえなくなった」となりかねない。それだけの表現力と声量が求められる。ベルガンサ・クラスであれば十二分に受けて立てるのである。

実は、私は、この重唱が「ドン・ジョヴァンニ」で一番好きである。だいたい、私は暗い音楽は好まない。暗いのが好きな人は普段が幸福な人である。普段幸福だからたまに味わう暗さがアクセントになるのである。不幸な人にとって暗さはもう十分、飽き飽きである。「ドン・ジョヴァンニ」が地獄落ちのシーンで終わらず、最後にこれ以上ない元気な音楽で締めてくれるから明日への活力が湧くのである。

因んだ話その1。ウィーンでの初演時に地獄落ちのシーンで幕となったのは時間の都合だったという。映画「アマデウス」でもそうなっていたのは、史実に忠実というよりも、モーツァルトと父親との確執をオペラに重ねたい監督の意向に合致したのだと思う。

因んだ話その2。今回、このブログを書くにあたって楽譜を見てて驚いたことがある。終曲がドンナ・アンナ一人(ソプラノ一人)で始まっている楽譜があるのだ。えーっ?それだと、ベルガンサ一人でソプラノ二人を受けて立つという本記事の骨子が崩れてしまう。私がこれまで聴いた演奏はどれもソプラノ二人で出てるぞ、あれって楽譜通りでなかったの?と動揺しつつ他の楽譜を当たってみると、あー良かった、ソプラノ二人で歌い始める楽譜もあった、ということで、それを掲載したものである。

因んだ話その3。昔、チェコのオペラ座の引越公演で「ドン・ジョヴァンニ」を見たとき、終曲を歌いつつ、ツェルリーナ役の歌手が隣のレポレルロ役の歌手に手をつなごうとばかり手を差し出したのをレポレルロが執拗に拒んでいたの印象的だった。レポレルロは初老のベテラン歌手で、お前ごとき若い歌手と手などつないでなるものか、という感じだった。

因んだ話その4。たった今、「カムカムエヴリバディ」の再放送の今日の回を見終わった。るい役の深津絵里が若者とオー・ヘンリーの話で盛り上がっているのが羨ましかった。私も、ドン・ジョヴァンニの終曲でツェルリーナが活躍する話で誰かと盛り上がりたいが、そういう相手がこの世にいるだろうか?マッチングアプリでそういう相手を募集しても誰も引っかかりそうもない。かと言って、オー・ヘンリーをにわか読みしても、「にわか」はばれるものである。

 


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