ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

縁分

2011-12-26 23:59:28 | Weblog
今日は仕事で会った人が、
前の仕事でお世話になった人と一緒に仕事をしている人とわかり、
思わず、ひとしきり盛り上がった。
別に、中国や上海と関係のない繋がりだったのに、すごく不思議。
最後は上海に集まるのか、やはり。

海外に出たとはいえ、やはり世間は狭い。
人と人は繋がっているし、自分の人生も繋がっている。
だからこそ、ときには輪廻転生を信じたくなる。
これは、前世からの因縁ではないかと。

というのも、自分の意志の力ではどうにもできないことに、
がんじがらめになっているのが人間だと思うから。

それにしても、いろんな人がいる。
中国人は、とてもフラットな感じで、ある程度まではざっくばらんだけど、
ある一定ライン以上は、なかなか踏み込ませてくれない。
これは、たぶん日本人も同じ。
お昼ご飯は一緒に食べに行けても、晩ご飯は一緒に行けない、というような感じかな。

とりあえず、すぐすねたり、自分が注目を集めていないといられない人は、
国籍に関係なく苦手だ。
そんな性格でも、こちらが納得するくらいの何かを持っていてほしいと思う。
さて、本当にそんな人に会った時、どう思うか。

ま、今日のところは、本を読んで寝よう。

夜読書

2011-12-26 01:28:12 | Weblog
「あ~あ、明日会社に行きたくない」と思う日曜の夜。
この気持ちも、自分が自分であるからこそ生まれるものなので、
日本だろうが上海だろうが関係ない。

で、そういうときこその読書。
本を開けば、いくつもの世界を旅することができる。
文字が読めてよかったと思う瞬間。

『追憶のカシュガル』(島田荘司著、新潮社)を一気に読んだ。
御手洗潔シリーズは、読みながら飲食ができなくなるほどの凄惨なシーンもあって、
一時期遠ざかっていたけれど、この本は久しぶりに楽しめた。
えぐい殺人は出て来なかった。
つまり特権的な固有の死は出て来なくて、
大量殺人と、日々繰り返され増幅する差別に向き合う内容だったのだと思う。

設定は、1974年。
先の大戦の記憶もいまよりは残っていて、
そして、カシュガルもまだウイグルの街だったころのこと。
私自身が20年近く前に訪れたシルクロードのオアシスの風景や、
少し前にサマルカンドに行ったときのことを思い出した。

ここで語られた物語が、戦後のひとつの越え方であり、鎮魂なのだとしたら、
ちょうど書き上げたときに東日本大震災に見舞われたのは、
なんらかの符合なのだと思ってしまう。
日本は、また新たな大勢の犠牲を抱えることになった。

死んだ人を弔えるのは、生きている人しかいない。

上海では、家や車などの財産を持っている人は偉いのだという。
だから、車に乗っている人は、それこそ歩行者を蹴散らすように通り過ぎて行く。
きっと当人は、そこに何らかの固有性を感じているのだろう。
でもそれこそが、大量生と大量死の渦中にあることを証明していると思う。

だからといって、旧日本軍の精神論は、いただけないが、
外国に暮らすと、過去も含め、日本を愛す心がつのる。