「あ~あ、明日会社に行きたくない」と思う日曜の夜。
この気持ちも、自分が自分であるからこそ生まれるものなので、
日本だろうが上海だろうが関係ない。
で、そういうときこその読書。
本を開けば、いくつもの世界を旅することができる。
文字が読めてよかったと思う瞬間。
『追憶のカシュガル』(島田荘司著、新潮社)を一気に読んだ。
御手洗潔シリーズは、読みながら飲食ができなくなるほどの凄惨なシーンもあって、
一時期遠ざかっていたけれど、この本は久しぶりに楽しめた。
えぐい殺人は出て来なかった。
つまり特権的な固有の死は出て来なくて、
大量殺人と、日々繰り返され増幅する差別に向き合う内容だったのだと思う。
設定は、1974年。
先の大戦の記憶もいまよりは残っていて、
そして、カシュガルもまだウイグルの街だったころのこと。
私自身が20年近く前に訪れたシルクロードのオアシスの風景や、
少し前にサマルカンドに行ったときのことを思い出した。
ここで語られた物語が、戦後のひとつの越え方であり、鎮魂なのだとしたら、
ちょうど書き上げたときに東日本大震災に見舞われたのは、
なんらかの符合なのだと思ってしまう。
日本は、また新たな大勢の犠牲を抱えることになった。
死んだ人を弔えるのは、生きている人しかいない。
上海では、家や車などの財産を持っている人は偉いのだという。
だから、車に乗っている人は、それこそ歩行者を蹴散らすように通り過ぎて行く。
きっと当人は、そこに何らかの固有性を感じているのだろう。
でもそれこそが、大量生と大量死の渦中にあることを証明していると思う。
だからといって、旧日本軍の精神論は、いただけないが、
外国に暮らすと、過去も含め、日本を愛す心がつのる。
この気持ちも、自分が自分であるからこそ生まれるものなので、
日本だろうが上海だろうが関係ない。
で、そういうときこその読書。
本を開けば、いくつもの世界を旅することができる。
文字が読めてよかったと思う瞬間。
『追憶のカシュガル』(島田荘司著、新潮社)を一気に読んだ。
御手洗潔シリーズは、読みながら飲食ができなくなるほどの凄惨なシーンもあって、
一時期遠ざかっていたけれど、この本は久しぶりに楽しめた。
えぐい殺人は出て来なかった。
つまり特権的な固有の死は出て来なくて、
大量殺人と、日々繰り返され増幅する差別に向き合う内容だったのだと思う。
設定は、1974年。
先の大戦の記憶もいまよりは残っていて、
そして、カシュガルもまだウイグルの街だったころのこと。
私自身が20年近く前に訪れたシルクロードのオアシスの風景や、
少し前にサマルカンドに行ったときのことを思い出した。
ここで語られた物語が、戦後のひとつの越え方であり、鎮魂なのだとしたら、
ちょうど書き上げたときに東日本大震災に見舞われたのは、
なんらかの符合なのだと思ってしまう。
日本は、また新たな大勢の犠牲を抱えることになった。
死んだ人を弔えるのは、生きている人しかいない。
上海では、家や車などの財産を持っている人は偉いのだという。
だから、車に乗っている人は、それこそ歩行者を蹴散らすように通り過ぎて行く。
きっと当人は、そこに何らかの固有性を感じているのだろう。
でもそれこそが、大量生と大量死の渦中にあることを証明していると思う。
だからといって、旧日本軍の精神論は、いただけないが、
外国に暮らすと、過去も含め、日本を愛す心がつのる。