私は、79年の5月連休明けにホンダの四輪開発部門に中途入社し、その後ありがたいことに開発一筋で定年まで勤めた。
ホンダでの仕事生活はチョット宗教的?とも言える魅力があり、出来るだけ長く働きたいと若い頃から思っていたので、途中、良い条件でのいわゆる「引き抜き」もあったりしたが断った。
宗教的とも言える魅力とは、会社というより集まる者を受け入れる集団みたいな組織で、みんな平等に尊重され、個人はモノづくりに一直線になれる、またその結果個人の生き方も有意義なものになるという、なんともうまく言えないが魅力的なホンダだったのだ。
会社では、噂や愚痴など言ってもしょうがないことを言う人は少なく、たとえ誰かが言い始めてもすぐに今度のあの構造は・・と今後のクルマの話にすり替わった。
当然、会社帰りの「新橋でチョット一杯」は無かった。
飲み会や慰安旅行は結構あって、その時は爆発して飲みまくった。(ちなみに私は45歳まで飲めなかった。)
ホンダは本田宗一郎というカリスマがいてその魅力などを語った本は多く出版されているが、研究所として開発部門が独立している組織は普通の会社とは大きく異なる稀有なもので、外からはわかりにくいのではないかと思う。
そこで、今回から「私のホンダ記録」と題して、私の記憶からエピソードを中心にして書くことにより、当時のホンダブランドの一角を成す四輪研究所の魅力を少しでも皆さんに伝えたいと思い、書き始めることにした。
今回は一回目なので、ホンダに入社して間もない頃のエピソードから始めたい。
入社後、私の場合は一週間の朝霞研究所での座学研修の後、一か月狭山工場で工場実習をした。(時期によっては、半年など様々だったらしい)
実習といっても完璧な現場要員で初代アコードのインパネの小組ラインについた。
私はテキパキ出来る方と思っていたが、これが煽られっぱなしで正直少々参ったのを覚えている。ラインではハーネスの束をインパネの裏側に力づくで組み付けるのだが、軍手をしていても手が腫れるほど大変な作業だった。
勿論、トイレタイムは決まっていて、その時間以外はラインから離れられない。万一のトイレのときは、手を上げて班長さんに変わってもらう。ある時、お腹を壊していてトイレに何回も行き班長さんにこっぴどく怒られた。健康管理も仕事のうちだと教わった
やっと実習期間が終わって、最後の日に班長さんにお茶に誘われた。その時、班長さんは日々組み付け作業で苦労しているラインの作業者を見ているわけだから、「研究所に帰って設計するなら、もっと組み付けやすい構造を考えろ」と言われるものと思っていたが、「研究所へ帰ったら良い商品開発してください。」という激励だった。
私が出会ったいわゆる「ホンダマン」の最初の人だった。
ホンダには、自分の立場からだけで考えて話すのでなく、「自分が社長の立場」であるかの如く、高所からの視点で考え話をする人が多くいた。
また、トイレ掃除のオジサンまで「このクルマのここは使いにくいおまえさん設計なら直したほうがいいよ」と言ってくれるのだ。
これには大変ビックリして、後にホンダ体質の一角を表現することばとして「全員社長」と名付け、多くの後援会で使わせてもらった。
その後、研究所のインパネの開発部門に配属になり、いきなりバラードというクルマのコインポケットの設計を任された。
コインポケットは、「コストなどの関係で蓋は設けないが、クルマの走りだしの加速時にもコインが室内へ飛び出さないようにする」というものだった。
図-1 バラードのコインポケット
一応インパネ全体がドライバーの視線や操作を考慮して、斜め上に傾いていたので、そのままでもコインは飛び出さないかと思っていたら「こんな傾きだけではコインは飛び出すよ」と完成車テスト室の先輩に言われ、「手前にこれくらいの土手を付ければ」と中々いいアイデアだろうと言わんばかりの今でいうドヤ顔で言われた。
テストが役目の人も、テスト結果を出すだけでなく、勿論構造まで理解していて、良いものにするため設計者と議論するという、100%縦割りの無い全員社長の「文鎮組織」だった。
「文鎮組織」は開発者間の自由闊達で建設的な議論をするのに適していた。相手が先輩や年上の人でも、丁寧な言葉で尊重しつつ(たが)、技術に関しては対等でトコトン議論した。
土手をつけるアイデアは良かったが、金型コストが上がるので、恐る恐る上司にコスト上がりますけど・・と相談にいったら。
「いいんじゃない」と簡単に言われ、ちょっと拍子抜けした。新卒で入社した小さい会社では、コストを叩き込まれていたのだ。
逆に「ここに土手付けられるの? 成型できるの?」と。
このころのホンダは開発機種の激増で、中途採用を多くとっていて、半分位は中途採用だった。新卒でホンダに入った先輩上司はプラスチック成型の知識もあまりないまま設計していた。
それゆえ、とても成型出来ない部品図面も多くあったが、そういう時は「部品メーカーさんから言ってきてくれるから」という至極簡単な話で終わった。
コインポケットの図面が終わったら、すぐにコラムカバーに移った。
コインポケットはデザイナーがそんなに関わらず、設計のデザインセンスでよかったのだが、コラムカバーになるとデザイナーが出てくる。
集中スイッチのレバーの出口や全体の面の流れなどをデザインする。
私は、コラムカバーと中に入る集中スイッチやインパネとのあわせ方などを考えて図面を描いた。
当時、デザイン関連はデザイナーが面の具合や全体の雰囲気を、木型でチェックする「木型承認」というのがあって、部品メーカーさんの関連会社の木型屋さんが、コラムカバーの面や見切りなど図面を忠実に再現した木型を作って、それに合わせてプラスチック成型の金型を作るという段取りが一般的だった。コラムカバーは上面と下面でステアリングシャフトと集中スイッチを挟んで組み付けるので木型は二つになる。
図-2 コラムカバー上下
大先輩のデザイナーがコラムカバーの木型をそのスマートな手の平で撫でまくり、「ここは1/100mmかな、いや6/1000かな」などと、木型修正をひとしきり依頼する。
私は、コラムカバーの上面なんて、ハンドルとメーターの間でほとんどユーザーに見えないのに・・、と思いつつ大先輩の言うことなので、一応黙って横で聞いていた。
それで、やっと上側が終わりこれで終わりかと思っていたら「下側も見せて」とその大先輩のデザイナーが言った。
そこで、私は耐え切れずその大先輩上司に「Mさん、コラムカバーの下面のデザインなんて見る人いませんよ、だいたいのぞき込まなきゃ見えないじゃないですか」と言ってしまった。
Mさんの表情はみるみる変わって、ヤバイ雰囲気に感じたが、ちょっと間をおいてから優しく「人の見えるところだけデザインするのは合理的だが、合理でモノづくりしてはダメだ。それを続けていると気が付かないうちにどこか良くないところができてしまう。モノづくりは、見えないところまでも完璧にしないとダメなんだ。それがホンダだ。」と言われた。
この大先輩がホンダマン2号となった。
B2C商品には「エモーショナルな価値」「造り手の気持ち」が大切でそれが「ユーザーに伝わるもの」だということを教えてもらったのだ。
この言葉が、その後の私のモノづくりの考え方を大きく変えたのは言うまでもない。
次回は、また違ったエピソードで当時のホンダを語っていきたいと思う。
つづく。