繁浩太郎の自動車と世の中ブログ(新)

モータージャーナリストとブランドコンサルタントの両方の眼で、自動車と社会をしっかりと見ていきます。

私のホンダ記録 Vol.1

2021-02-05 15:55:30 | 日記

私は、79年の5月連休明けにホンダの四輪開発部門に中途入社し、その後ありがたいことに開発一筋で定年まで勤めた。

ホンダでの仕事生活はチョット宗教的?とも言える魅力があり、出来るだけ長く働きたいと若い頃から思っていたので、途中、良い条件でのいわゆる「引き抜き」もあったりしたが断った。

宗教的とも言える魅力とは、会社というより集まる者を受け入れる集団みたいな組織で、みんな平等に尊重され、個人はモノづくりに一直線になれる、またその結果個人の生き方も有意義なものになるという、なんともうまく言えないが魅力的なホンダだったのだ。

会社では、噂や愚痴など言ってもしょうがないことを言う人は少なく、たとえ誰かが言い始めてもすぐに今度のあの構造は・・と今後のクルマの話にすり替わった。

当然、会社帰りの「新橋でチョット一杯」は無かった。

飲み会や慰安旅行は結構あって、その時は爆発して飲みまくった。(ちなみに私は45歳まで飲めなかった。)

ホンダは本田宗一郎というカリスマがいてその魅力などを語った本は多く出版されているが、研究所として開発部門が独立している組織は普通の会社とは大きく異なる稀有なもので、外からはわかりにくいのではないかと思う。

そこで、今回から「私のホンダ記録」と題して、私の記憶からエピソードを中心にして書くことにより、当時のホンダブランドの一角を成す四輪研究所の魅力を少しでも皆さんに伝えたいと思い、書き始めることにした。

 

今回は一回目なので、ホンダに入社して間もない頃のエピソードから始めたい。

入社後、私の場合は一週間の朝霞研究所での座学研修の後、一か月狭山工場で工場実習をした。(時期によっては、半年など様々だったらしい)

実習といっても完璧な現場要員で初代アコードのインパネの小組ラインについた。

私はテキパキ出来る方と思っていたが、これが煽られっぱなしで正直少々参ったのを覚えている。ラインではハーネスの束をインパネの裏側に力づくで組み付けるのだが、軍手をしていても手が腫れるほど大変な作業だった。

勿論、トイレタイムは決まっていて、その時間以外はラインから離れられない。万一のトイレのときは、手を上げて班長さんに変わってもらう。ある時、お腹を壊していてトイレに何回も行き班長さんにこっぴどく怒られた。健康管理も仕事のうちだと教わった

やっと実習期間が終わって、最後の日に班長さんにお茶に誘われた。その時、班長さんは日々組み付け作業で苦労しているラインの作業者を見ているわけだから、「研究所に帰って設計するなら、もっと組み付けやすい構造を考えろ」と言われるものと思っていたが、「研究所へ帰ったら良い商品開発してください。」という激励だった。

私が出会ったいわゆる「ホンダマン」の最初の人だった。

ホンダには、自分の立場からだけで考えて話すのでなく、「自分が社長の立場」であるかの如く、高所からの視点で考え話をする人が多くいた。

また、トイレ掃除のオジサンまで「このクルマのここは使いにくいおまえさん設計なら直したほうがいいよ」と言ってくれるのだ。

これには大変ビックリして、後にホンダ体質の一角を表現することばとして「全員社長」と名付け、多くの後援会で使わせてもらった。

 

その後、研究所のインパネの開発部門に配属になり、いきなりバラードというクルマのコインポケットの設計を任された。

コインポケットは、「コストなどの関係で蓋は設けないが、クルマの走りだしの加速時にもコインが室内へ飛び出さないようにする」というものだった。

 

図-1 バラードのコインポケット

一応インパネ全体がドライバーの視線や操作を考慮して、斜め上に傾いていたので、そのままでもコインは飛び出さないかと思っていたら「こんな傾きだけではコインは飛び出すよ」と完成車テスト室の先輩に言われ、「手前にこれくらいの土手を付ければ」と中々いいアイデアだろうと言わんばかりの今でいうドヤ顔で言われた。

テストが役目の人も、テスト結果を出すだけでなく、勿論構造まで理解していて、良いものにするため設計者と議論するという、100%縦割りの無い全員社長の「文鎮組織」だった。

 

「文鎮組織」は開発者間の自由闊達で建設的な議論をするのに適していた。相手が先輩や年上の人でも、丁寧な言葉で尊重しつつ(たが)、技術に関しては対等でトコトン議論した。

土手をつけるアイデアは良かったが、金型コストが上がるので、恐る恐る上司にコスト上がりますけど・・と相談にいったら。

「いいんじゃない」と簡単に言われ、ちょっと拍子抜けした。新卒で入社した小さい会社では、コストを叩き込まれていたのだ。

逆に「ここに土手付けられるの? 成型できるの?」と。

このころのホンダは開発機種の激増で、中途採用を多くとっていて、半分位は中途採用だった。新卒でホンダに入った先輩上司はプラスチック成型の知識もあまりないまま設計していた。

それゆえ、とても成型出来ない部品図面も多くあったが、そういう時は「部品メーカーさんから言ってきてくれるから」という至極簡単な話で終わった。

 

コインポケットの図面が終わったら、すぐにコラムカバーに移った。

コインポケットはデザイナーがそんなに関わらず、設計のデザインセンスでよかったのだが、コラムカバーになるとデザイナーが出てくる。

集中スイッチのレバーの出口や全体の面の流れなどをデザインする。

私は、コラムカバーと中に入る集中スイッチやインパネとのあわせ方などを考えて図面を描いた。

 

当時、デザイン関連はデザイナーが面の具合や全体の雰囲気を、木型でチェックする「木型承認」というのがあって、部品メーカーさんの関連会社の木型屋さんが、コラムカバーの面や見切りなど図面を忠実に再現した木型を作って、それに合わせてプラスチック成型の金型を作るという段取りが一般的だった。コラムカバーは上面と下面でステアリングシャフトと集中スイッチを挟んで組み付けるので木型は二つになる。

図-2 コラムカバー上下

 

大先輩のデザイナーがコラムカバーの木型をそのスマートな手の平で撫でまくり、「ここは1/100mmかな、いや6/1000かな」などと、木型修正をひとしきり依頼する。

私は、コラムカバーの上面なんて、ハンドルとメーターの間でほとんどユーザーに見えないのに・・、と思いつつ大先輩の言うことなので、一応黙って横で聞いていた。

それで、やっと上側が終わりこれで終わりかと思っていたら「下側も見せて」とその大先輩のデザイナーが言った。

そこで、私は耐え切れずその大先輩上司に「Mさん、コラムカバーの下面のデザインなんて見る人いませんよ、だいたいのぞき込まなきゃ見えないじゃないですか」と言ってしまった。

Mさんの表情はみるみる変わって、ヤバイ雰囲気に感じたが、ちょっと間をおいてから優しく「人の見えるところだけデザインするのは合理的だが、合理でモノづくりしてはダメだ。それを続けていると気が付かないうちにどこか良くないところができてしまう。モノづくりは、見えないところまでも完璧にしないとダメなんだ。それがホンダだ。」と言われた。

この大先輩がホンダマン2号となった。

B2C商品には「エモーショナルな価値」「造り手の気持ち」が大切でそれが「ユーザーに伝わるもの」だということを教えてもらったのだ。

この言葉が、その後の私のモノづくりの考え方を大きく変えたのは言うまでもない。

次回は、また違ったエピソードで当時のホンダを語っていきたいと思う。

つづく。

 

 


ホンダの新組織

2020-06-22 19:26:15 | 日記

5月の日刊自動車新聞に寄稿したものを転載します。

 

ホンダ四輪開発部門の大きな組織変更

最近ホンダから「事業運営体制の変更について」というニュースリリースが発行された。今までホンダは魅力ある商品と技術の開発を目的に、開発部門は㈱本田技術研究所という形で本田技研工業㈱とは別会社になっていた。

四輪事業において、このユニークな組織で過去に数々の時代をリードする新技術や魅力商品を開発しブランドを築いてきたが、今回その開発部門を本田技研工業㈱に統合するというものだ(先進技術、デザイン部門等はそのまま)。長年のユニークな組織を変更する背景を考えてみたい。

  • 開発部門独立のいきさつ

ホンダは本田宗一郎という天才技術屋と藤沢武夫というこちらも天才経営者の二人三脚で、戦後の二輪メーカー乱立の中を生き延び、さらにスーパーカブをアメリカでも成功させ大企業の仲間入りをした。

そんな中、藤沢武夫は4輪参入を含め会社を持続的発展させるにはどうすれば良いか考え抜いたと聞いている。

・「新商品、新技術を創造するということは、試行錯誤する場が必要だ。」

・「試行錯誤が必要な創造性仕事と生産効率追求や利潤追求するような仕事とは、本質的に相まみえない。」

・「創造性仕事は上下関係に気を使っていてはできない。」

・「業務効率やお金の仕事をしている側から見ると、創造性仕事は仕事に見えない。」

このようなことを様々考えて、ユニークな文鎮組織の技術研究所独立にいきついたようだ。

文鎮組織とは、文鎮のように、指でつまむトコを社長と考え、あとは皆横一列という意味だ。その社長の本田宗一郎でさえ「社長なんて偉くも何ともない。課長、部長、包丁、盲腸と同じだ。・・・記号に過ぎない。」と言っている。

  • 開発部門独立の成果

80年代に発売された“ホンダ・エレクトロ・ジャイロケータ”は現在のナビゲーションシステムの元祖と言えるが、この他にもCVCCなど世界に誇れる技術を数多く創れたのは、研究所独立の成果だと考えられる。

また、ハード開発だけでなく員のチャレンジ精神も養われた。

例えば、開発者の「これが完成したらユーザーは喜ぶぞ」というような「夢」に向かう姿を大切にすることで、「チャレンジ」していく体質ができたと思う。

その成果は、60年代の黎明期から80年代以降に花咲く形で現れた。シビック、アコード、シティ、プレリュード、トゥデイ、さらにオデッセイ、ステップワゴンなど、時代をリーディングする4輪商品が生まれた。

これらは、開発者の「夢」から機種開発時の「ワイガヤ」で事の本質まで議論し商品コンセプトを造り、あとは試作車をひたすら三現主義で造り上げ完成したものだ。

これらは、開発部門が本社の中にあっては決して出来なかったと思う。

  • その後の世の中の変化

バブル崩壊の90年頃から世の中は大きく変わり、ユーザーにとってクルマは段々と白物化していった。

そうなると、新技術満載の商品開発は不要となり、一方でコスト競争は激しくなり、開発業務には「効率」の考え方が大切になった。

この頃、ホンダは「TQM」という「効率で切る管理」を導入している。ただ、今までのいわゆる「自由闊達技術研究所」の慣性力もあり、当初完璧に導入されたとは言えなかった。

というのも、魅力商品を生み出すための自由闊達な研究所の成り立ちと「効率で切る管理」が相まみえない中、「結局どうしていくのか」という新しい研究所の方向性が所員には理解しにくかったのだ。

また、本社からは「研究所に商品創りの全てを任せておくと良い商品は出来るがコストが破綻する」となり研究所への干渉が強くなっていった。それは人事にまで及び、独立しているはずの研究所の役員が本社の役員を目指すようになり、商品開発から人事まで段々と研究所独立の意味が薄れていった。

  • ホンダブランド

ホンダ四輪ブランドは、北米と日本では随分と異なる。北米には当初から、国内とほぼ同じデザインやハードのクルマだったにも関わらず、まぎれもなく「信頼」のブランドで、日本では「先進・ワクワク」を期待されるブランドとなった。

これは、北米市場で2輪・4輪・汎用、ハード・ソフト共に「品質信頼性」を大切にした事が大きいと思う。大きな大陸での故障は命取りだ。北米のユーザーはいきさつなど関係なく「良いものは良い」と受け入れてくる。

国内では、ホンダの4輪は後発だったが、自分達の独創性を大切にした商品で日本市場を超えてデザイン・ハード共に世界的視野に立ったものだった。つまり、先輩メーカーの、日本を知り尽くしたデザインやハードとは異なっていた。そこが、何かしら「先進・ワクワク」感のある商品として日本人に受け入れられたのではないかと思う。

10年ほど前になるが、私はホンダの本格的軽自動車参入の企画を四輪事業本部で担当した。そのNシリーズの商品企画は、他社の軽自動車らしいデザインやハードを備えたものでなく、一つのクルマとして捉えたものだった。

事業的に考えると量販がマストなので、一般的には軽自動車ユーザーの価値観などを調べ、それに合わせた商品にしていくことになる。

形は丸く優しく、燃費は良く、コストを抑え、車名は愛称で、CMはキャラクターを設定し・・・。

Nシリーズは、結果的にこれらと真反対になった。

ホンダらしく一般常識にとらわれず、ユーザー価値観と車造りの本質までワイガヤで追求した結果だ。

  • 今後のホンダ

今は新車が発売されても昔のように話題にならない。ユーザー調査してもクルマに対する関心はあまりなく、そもそも「空でも飛ばない限り」魅力的な商品なんて今の時代にないということかもしれない。

今回の組織変更は、そういうユーザーや世の中の変化、さらに変化している本社と研究所の実質的な関係を肯定した中で行われたと思える。

しかし、魅力的な商品を生み出し続ける「仕組み」は必要だ。それは言うまでもなく、単に売れる商品企画でなく、ホンダブランドを大切にした商品企画が出来る「仕組み」だ。

「本田技術研究所」という「仕組み」に代わる「仕組み」だ。

その「仕組み」は外に公表されていない。

白物化した家電でも、ルンバのような魅力的な商品はまだまだ生まれている。

新技術開発はいつまでもどこまで必要なのだ。

今回、ホンダの新しい組織に組み込まれているはずの魅力的な商品を生むユニークな「仕組み」とそこから生まれる商品に期待したい。

 

 


「コロナ後の自動車産業」

2020-06-22 18:22:15 | 日記

この記事は、4月と5月に日刊自動車新聞に掲載されたものです。

 

〈車笛〉連載「コロナ後の自動車産業」〈上〉繁 浩太郎 

 

「コロナ後」には移動の概念が大きく変わることで、軽が一層注目されることになるかもしれない

 世界は新型コロナウイルスのニュースであふれている。この原稿を書いている4月中旬の時点で、まだまだ出口は見えていない。不安でしょうがないが、極度に悲観的になって体調まで崩しては元も子もない。コロナが収束する日は必ず来ると考えよう。今回は「コロナ後の自動車産業」を私なりに考えてみたい。

 現在、自動車産業は新型コロナウイルスの影響で生産が滞るのと同時に、ユーザーの購入意欲も落ち込み、厳しい局面を迎えている。日本自動車工業会の会長を務める豊田章男・トヨタ自動車社長は、3月19日に開いた定例会見で「こんなにも、世の中がガラッと変わることがあるのか」と現状を表現した。

 現実的に、知り合いの自動車販売店に聞いてみても、新車販売は半分以下に激減しており、さらにもともと自動車販売店の収入源の柱である車検などのサービス領域も落ち込んでいるそうだ。今年の後半戦に希望を持って今は頑張っていると話していた。持久戦のような形になっているので、長引くと息切れする自動車販売店も出てくるかもしれない。本当に、ガラッと自動車産業をとりまく状況は変わった。

 「コロナ後」と言っても、災害などのショックがあって復興するのでなく、相手はウイルスなので完璧にはこの世から無くならず、また感染力も強そうなので、気を許すとまたすぐ感染が広まる可能性はありそうだ。つまり、スイッチが切り替わるように「コロナ後」が明確にならないのではないかと思われる。

 となると、感染を防止する生活が当たり前の生活になってしまう。つまり、人との接触はなるべく避けて、マスク生活ということだ。例えば飲み会や外食、ライブ、満員電車など人の集まる閉鎖空間は避けるようになり、人々の生活や価値観は以前と大きく変わるだろう。また将来不安が続くので消費もすぐには戻らないだろう。治療薬・ワクチンが開発されれば状況は変わるかもしれないが。

 クルマの販売は「コロナ後」に今までにない不況が予想されていることから、急回復とはならないかもしれない。コロナ前までの世界の自動車販売台数は、中国市場の成長が大きいこともあり右肩上がりだった。クルマの需要は公共交通機関が少ない地域・国では、まだまだ衰えないということだ。しかし、需要があってもコロナ不況で人々の収入が減れば、購入することは難しいだろう。

 さて、日本の自動車市場だが、バブル崩壊までは、「クルマが必要でない人も多く買っていた」こともあり、国内自動車販売台数は1990年のバブル時のピークで777万台あった。それが2019年で約520万台となっている。約35%減だ。

 バブル崩壊後は、経済的な厳しさと先を見通せない不安とで、クルマが「必要でない人」はだんだんと買わなくなったと考えられる。カッコいいとか見栄をはれるとか、そういう自動車の機能以外のいわゆる「付加価値」を認めて購入する人が減っているということだ。

 今回の「コロナ後」には、それが日本だけでなく世界で起こるだろう。もともと欧米先進国では、「必要だから買う」方が多かったが、それがさらに加速すると思われる。つまり、購入するとしてもより安いクルマ、あるいは今のクルマを壊れるまでできるだけ乗るということだ。世界の町に古い車があふれそうだ。

 クルマが今まで以上に売れなくなるということは、各カーメーカーの生産設備はさらに余剰となり、商品開発から物流、販売まで影響が及ぶ。CASE以前に、各カーメーカーはその生き様(体質)を大きく変革させる必要に迫られてくる。それは、大幅な業務効率アップ(経費削減)の改革だ。

 「コロナ後」でも感染対策を続けなければならなくなると考えると、移動を必要としないテレワークがキーとなるだろう。テレワークにはコミュニケーションをする上で、さまざまな課題があるとしても、改善しながら進めていくことになるだろう。

 テレワークが当たり前になると、〝ニアショア〟あるいはサテライトオフィスを検討する企業が増え、距離・移動などという概念は大きく変化するだろう。つまり、職住近接のような考え方はナンセンスなものになるのだ。また、移動が少なくなるということは、JRなどの公共交通機関の利用者が減ることになり、これはこれで世の中が大きく変わる。一方「地方創生」は進むだろう。

 今までなかなか進まなかったものが、コロナをきっかけに進むとなると、皮肉というか世の中ってそういうものというか。

 「コロナ後」は極少ない「富裕層」「クルマ好き層」と本当に「必要な人」以外は中々クルマを買わなくなるだろう。つまり「クルマが必要」という訳でなく、バブルの頃のようにクルマというモノが欲しいというエモーショナルな価値観の人達がクルマを買うことは少なくなるということだ。

 となると、「富裕層」「クルマ好き層」は全体からすると少なく量産メーカーのターゲットにならないので、「必要な人」がターゲットとなり、そのキーはロジカルな価値観で「安い購入価格・維持費(ダウンサイジング)」「高い耐久品質」となると考えられる。

 それは、日本では「軽自動車」カテゴリーということになるだろう。

 普通車や小型車に乗っていたユーザーからすると、軽自動車は馬力を稼ぐためにエンジンは高回転になりウルサイし、衝突性能は不安で乗り心地も軽い、黄色ナンバーはあまりにも差別的だ。現行の軽自動車では乗り替えるハードルは高いと思われる。

 逆に、地方の高齢者の足と考えると、1人乗り+買い物に持つ程度でよく、当然、高速性能も要らないので、今のサイズは大きく品質や性能は過剰だ。

 しかし、日本の道路や駐車場等のインフラが狭いこと、信号が多くゴーストップが多いことなどを考えると軽自動車のサイズと性能はぴったりだ。

 カーメーカー側からみると軽自動車はグローバルに販売出来ず、日本でしか償却できない。せめて排気量が1㍑になれば、インドなどの大市場と共用化できる。

 また政府からみると軽自動車からの税収入は少ないのに販売比率は上がっていて、何とか税収を上げたい。軽自動車比率が上がった後の2016年、「安すぎる」という批判もあったらしいが軽自動車税は7200円から1万800円に引き上げられている。軽自動車がさらに増えるということは、ユーザー、メーカー、政府に、さまざまなストレスが出てくる。

 これらを解決して、コロナ後の自動車販売の落ち込みを最小限にする方策を考えたいと思う。

 

 

〈車笛〉連載「コロナ後の自動車産業」〈下〉繁 浩太郎 

 

-1 自動車の税制と販売台数イメージ

 

 

 上の図から分かるように、現状は軽に偏ったマーケット構造になっており、今回の提案で、洋梨形の自然なマーケットの形を狙う。  コロナ以前からの、市場の二極化や高齢化社会化などで小さなクルマが増えるトレンドを捉え、またコロナ後の大きな販売ダウンを避ける意味で、行き過ぎた軽恩典でガラパゴス化した軽自動車領域改革と世界的に多く販売されている1㍑以下のAカテゴリーを持ち上げることを考えた。  これにより、ユーザー、自動車産業、国と3者のハッピーが期待できる。

 

 

-2 提案サイズと排気量

 

 新型コロナウイルスによる世界的な経済打撃は大きく、その回復には時間がかかると言われている。自動車産業は国の基幹産業で、その回復がないと日本経済全体に及ぼす影響は大きい。そこで、コロナ後に自動車販売が活気づく施策を提案したい。政府もカーメーカーもユーザーも3者がハッピーになる施策提案だ。

 経済が厳しい方向に変化した中でクルマを販売していくには、ユーザーの価値観変化を捉えて商品や販売方法も変化していく必要があることは言うまでもない。不況下での多くのユーザーの価値観は、安価で維持費も安く、過剰な装備や性能は不要ということになるだろう。当然、ダウンサイジングの流れも起こりうる。

 つまり、ユーザーが「これがいい」と感じる「魅力商品」でなく、「これならいい」という「納得商品」方向で、より機能的な「ミニマル、シンプル」「必要にして十分」で「安価」と感じられるような商品だ。

 そうなると、施策の主役は軽自動車ということになる。現在の軽自動車よりも、もっと社会やユーザー、自動車産業を見直した形で提案したい。 全体の自動車販売台数が減少している中で軽自動車の販売比率は高く推移しているので、当然、政府の税収は減っているはずだ。しかし、地方で公共交通機関の少ない地域の人々や高齢者などの足となっている現状を考えると軽自動車の税制恩典は簡単にやめるわけにはいかない。また、メーカーにとっても恩典の廃止は即販売台数減に直結し、コストアップ→売価アップ→そして台数減という悪循環でカーメーカーだけでなくユーザーも困ることになる。

 「恩典享受型」ユーザー

 軽自動車の1万800円という税金は小型車の半額以下で恩典と言えるものだが、それは多くのダウンサイザーや一般のユーザーにとっては「有難過ぎる恩典」と言えるかもしれない。その証拠に、自動車販売における軽自動車比率は4割に迫っている。「有難過ぎる恩典」は自由競争でなくなり、自動車マーケットに歪をもたらす。

 事実、背(車高)を高くし室内を広く取った「軽のミニバン」が誕生し、その価格は小型車を超える200万円以上のものも少なくない。

 「恩典必要型」ユーザーA

 公共交通機関の不便な地域で暮らしていて、買い物や通勤など生活の足代わりとして一家で数台のクルマを維持するようなユーザーにとっては、恩典の意味はある。これらのユーザーの使い方では、長距離移動や高速道路を走るよりも「ちょい乗り」が多い。つまり、安い維持費で街乗りに特化したクルマで事足りる。このユーザーにとって軽自動車の機能性能は過剰ではないか。

 「恩典必要型」ユーザーB

 さらに、公共交通機関がない山村などで、歩くのが辛い高齢者などのユーザーにとっては、ほんの数キロ雨風をしのげて移動できる機能があればいいのだが、現状は機能・性能が過剰な軽自動車を買わざるを得ない。電動カートのようなモノでも良さそうだが、大量生産出来ないためコストが高く、また安全性に注意が必要だ。小型電気自動車はさらに高価になり、充電も意外と面倒だ。償却しきった軽自動車をうまく使うほうが車両価格は抑えられそうだし、高齢者にとっては何といっても慣れ親しんだクルマに限る。

 日本の道路や駐車場は狭く、街中は信号だらけ(ゴーストップが多い)、高速道路でも一部を除き最高速度は100㌔㍍/時で、こういう交通インフラに軽自動車は合っていると言える。また、使い勝手が良く恩典のある軽自動車と「フィット」クラスの間のクルマは成立しにくい。(事実、660cc~1㍑のクルマはほとんど無い)

 世界的には、この軽とフィットクラスの間の商品は「Aカテゴリー」として大きなボリュームとなっている。日本でも「Aカテゴリー」の販売が増えれば、カーメーカーの投資効率は良くなるだろう。

 以上のような現状認識を基に、最後にユーザー、メーカー、国(税徴収)の3者が全てハッピーになる改革案を提案したい。

 「恩典必要型」ユーザーBにとっては、旧規格程度の小さな軽自動車でもよく、車両を小さくすれば運転はしやすくなり、軽くもなり、燃費も良くなる。ユーザーにとって過剰な機能性能も省けばいい。結果、価格も今の軽自動車より安くなるだろう。税金は9千円程度で良いのではないか。これを軽自動車Bカテゴリーとする。

 「恩典必要型」ユーザーAには、現状の軽自動車を残すとしても、現状の行き過ぎた恩典を考え、税金は少し上げ現状1万800円を1万2500円としたい。これを軽自動車Aカテゴリーとする。

 このA/Bカテゴリーは、カーメーカーの負担を軽減するために、現状の軽自動車の生産設備や設計仕様をできるだけ使えるようにする。また、いわゆるAカテ車の税金を下げ販売量を増やす(1㍑以下は2万5千円を2万円程度)。ターゲットユーザーは、先の「恩典享受型」ユーザーだ。

 これにより、国の税収は軽自動車のほぼ倍の2万円のユーザーが増えることと、軽自動車の数は減るが1万2500円で、9千円のユーザーBは少ないので、全体として増収が見込めるはずだ(政府のハッピー)。

 カーメーカーにとっては、軽自動車の販売台数は落ちるが、その分、グローバルに対応できるAカテゴリーのクルマを国内販売できるメリットが大きい(カーメーカーのハッピー)。

 まとめると、

 ①1㍑以下の税金を2万円程度とし、グローバルAカテゴリー(スモールカー)のイメージで販売増を図る。

 ②660cc以下の現行軽自動車イメージで、税金を1万800円から、1万2500円程度に上げ、行き過ぎた恩典を平準化。軽自動車Aカテゴリー

 ③軽サイズを旧規格程度に小さくし、税金は9千円程度とし、「恩典必要型」のユーザーを擁護する。軽自動車Bカテゴリー

 これにより、もともとの恩典が必要なユーザーを守りながら、経済打撃からくるダウンサイザーなどを受け入れ、総販売台数は増え、税収増、メーカーの台数増(共用化)という3者ハッピー(三方良し)で、コロナ後に自動車販売が活気づく提案だ。

 

 

 


世界に誇れる「技術の日産」再生のキー

2020-04-03 15:26:04 | 日記

世界的に新型コロナウイルスの影響は大きいが、2018年末のゴーン氏の逮捕に始まり、北米の不振、新しい経営体制のトップの転職、さらになど日産自動車にとって負のニュースが多い。

自動車産業は言うまでもなく日本の基幹産業であり、日産の行末は日本人共通の関心事だ。そこで日産の今後を私なりにマーケティングの見地から考えてみた。

 

  • 厄介な、日本企業の共同体体質

さて、ルノーから来たゴーン氏はご存知のように日産再建の立役者だった。多くの日本の企業は体質課題に対して、なかなか自浄作用が働かない。内部で「これではだめだ」と分かっていても、現状の事情や都合が優先してしまい、また共同体意識を重んじて効果のある対策が行われにくい。

高度成長期に成長した多くの製造業が大企業病から抜け出せずにいるのも、体質改革の難しさを物語っている。

 

  • 日産自動車の体質

ルノーからゴーン氏がきた頃、日産の体質課題は次のように大きく2つあったはずだ。

①魅力的な商品を開発する体質

②高コスト体質、後追い体質など共同体意識による硬直化した体質

ゴーン氏は日本の共同体意識に引きずられることなく、強力なリーダーシップで改革に取り組んだ。その結果、②は改革され、結果的に大きな収益を生み出せるまでになった。

一方、①に関しては、バブル以降の日産は、商品の本流トレンドをリードするような商品は少なく、フォロワー商品や支流の商品が多かったように思う(図-1参照)。

 

その中で、「ムラーノ」などは北米向けとして開発され、サイズもデザインも良く、北米のSUVトレンドをリードした。SUVカテゴリーは本流トレンドに乗って成長し、他のメーカーも多くのSUV商品を投入した。しかし、トレンドをリードしたはずのムラーノはモデルチェンジ毎にどこでもありそうな普通のSUVになっていった。その結果、初代ムラーノのブランドは薄れ、大きく育てられなかった。

 

  • マーケットの本流商品の開発

ブランドキープのいい例はフォルクスワーゲン(VW)「ゴルフ」だ。そのデザインは、大量販売という使命を背負いながら開発されるため、時代の先端を行くようなデザインによって先行層を狙うというよりは、フォロワー層の価値観に響くデザインをしている(図-2参照)。

基本的にデザイナーが腕を振るうというよりも、むしろデザイナーの存在を感じさせないようなスッキリとしたセンスの万人向けデザインだ。また、毎回のモデルチェンジに、少しずつ進化させている技は素晴らしい。

 

さて、クルマ商品は、本流カテゴリーと支流カテゴリーに大きく分かれると考える(図―1参照)。支流カテゴリーでチャレンジした商品から、次の本流カテゴリーへと成長する商品の企画は、それが成功すれば大きな先行者利益を得られるが、なかなか狙って出来るものでもない。

やはり、本流のカテゴリーでその先を行く商品企画を成功させることが大切だ。

日産には、グローバルで本流トレンドをリードする商品は少ない。特に、収益源のはずの北米市場では現状は古いモデルが多い。またムラーノの例からみると、商品ブランドを育てることは不得手のようだ。ゴーン氏はもちろん、魅力あるデザイン/技術の開発にも力を入れたようだが、多くの人が「コレは良い」というような本流トレンドの先の商品は生まれなかった。

チャレンジしていた商品の多くは支流で、本流のカテゴリーや本流の商品に成長しなかった。

つまり、トレンドを先取りする先行層(クルマ好き層)に受け入れられ、徐々にフォロワー層に広がるというマーケットをリードするような商品はなかったということだ。

 

  • 日産自動車のEV戦略(技術の軽視)

①の改革が進まなかった理由の一つに、ゴーン氏がEVにのめり込んだこともあるのではと考える。私はこのゴーン氏のEVの取り組みについて、単に「トヨタのHEV」に対する「日産のEV」という図式でなく、ゴーン氏が環境問題を事業戦略として、平たく言うと、近い将来への投資として考えていたのではないか?と想像する。結果は車載電池の技術はまだ革新せずに、EVは未だに本流の商品になっていない。

一方、トヨタやホンダはその生い立ちやマスキー法時代のホンダCVCCの件からも分かるが、戦略の核に「技術」があり、環境問題を技術戦略として捉えていたと思う。両社共にEV(電池)の研究は早くから取り組んでおり、電池の技術開発が難しいことはよく知っていた。一方、ゴーン氏はEVの電池技術は今後開発すればよいと簡単に考え、商売から戦略を考えたのではないか?

こうして、「技術の日産」ブランドはさらに崩壊していく。

しかし、商品・技術と経営とを両方出来る人はなかなかいない。

 

 

  • 日産自動車の改革手法

このような事から日産の今後を考えると、②ももちろん大切だが、①の改革(技術+デザイン=商品)が優先されるべきだ。

現在、日本における日産の主なライナップをみても、マーケットをリードする商品はない(図-3)。

 

 

トヨタにはもちろん「プリウス」があり、「アクア」もSUVもと全方面的だ。ホンダは、「N-BOX」が軽マーケットをリードするブランドになったが、ハッチバック車をリードしていた「フィット」は自滅した。ただ、北米市場に「シビック」「アコード」「CR-V」などの柱になる本流商品があり安泰だ。

日産は「ノート」などに追加した「e-POWER」が国内では好評だが、北米市場で柱となれる本流をリードする商品がない。ちなみに、ノートはフリーウェイの利用が多い北米の走り方では、価格の割に燃費メリットが出にくいので販売できない。

柱となれる本流をリードする商品を生み出すには、技術とデザインの両輪でマーケットをリードする魅力的な商品を創れる開発体質がマストとなる。

 

  • 体質改革は「外の人」?

ゴーン氏がいなくなった日産はまた過去の体質に戻るのではないかという懸念を持つ人は多い。自浄作用が難しい日本の企業の体質改革〜成長には、ゴーン氏の例をみても分かるように、外部からのリーダーが良さそうだ。

昨年話題になった「ノーサイドゲーム」というラグビーチームの成功を描いたテレビドラマがあったが、得意分野を棲み分けた優秀なリーダー2人と潜在的に優秀なプレーヤーがいた。これを踏まえると、リーダーはやはり技術と商売との二人体制が良いのかもしれない。

 

企業が成長していくには、もちろん、プレーヤー(開発者)がお客さんに喜ばれることを目的として良い仕事をすることが大切だが、経営者はそのためのリーダーであるととらえることが必要なのだ。

ぜひ、日産には「技術の日産」という素晴らしいブランド・コピーのように、技術革新を基本に本流をリードする商品を生み出す開発体質を造り、私たち日本人が世界に誇れるブランドに成長してほしいと思う。

なぜなら、私の青春時代に技術の日産は輝いていて、こういうクルマを創りたいという夢をも私にもたせてくれたブランドだった。

サニー1200GX5(クロスレシオ5速)、チェリーX1、ブルーバードSSS,・・・。

 

 


バラードスポーツCR-Xとホンダ、と人生

2019-08-19 12:18:58 | 日記

A Little Hondaさんのウェブサイト(https://honda.lrnc.cc/)に、「バラードスポーツCR-Xとホンダをこよなく愛するカメラマン伊藤嘉啓氏」が記事を書かれています。

https://honda.lrnc.cc/_ct/17285389

 

伊藤さんとは、私と元同僚だった川田さんに紹介され、知り合いになりました。

伊藤さんは、バラードスポーツCR-Xを今でも相棒として日常的に使われており、その走行距離は70万キロ超えています。

 

バラードスポーツCR-Xといえば、私が20代後半に担当させていただいた機種で、時代的にもそうでしたがホンダとしても各機種開発ごとに新技術をふんだんに採用していて、当時は全てが新しい構造/設計と言っていいほどのことでしたから、しかも私はインパネGrから外装に転属して初めての機種だったこともあり、非常に苦労したのでよく覚えています。

また、当時は「ブラック」なんて概念はなく、休日出勤は当たり前(しかし、ホンダでは代休をいただけた)、残業は・・・、という時代でした。

私は、ホンダには中途採用で入社しましたが、その前の学卒で入った会社で鍛えられていましたから、ホンダでの労働?仕事?は、肉体的には全く厳しいものではありませんでした。

長い5月、夏休み、お正月と長期連休も、さらに有給休暇もありましたし、厳しいどころか「天国」でした。

 

しかし、仕事内容的には「設計」でして、しかも事例のない新しいものが多かったので、設計の勉強をして構造アイデアを考えたり、こちらは大変でした。

つまり、こなせば出来る仕事とは違って、とにかく「産み出す」必要があって、その連続でしたから、大変だったのです。

さらに、当時は、まだまだそんなに販売台数も多くない会社だったのに心意気は世界一で、その指示が厳しくきますから、「そんなの無理だよ」といつも自分の中では上司に向かって吠えていました。

(結果的には、これらのホンダイズムを中心としたモノづくりが、後の成長の基本になっていました。)

 

そんな中で、このバラードスポーツCR-Xの外装設計担当にになって、大変なことの連続でしたから、大変印象深かったわけです。

 

私にとってそんなバラードスポーツCR-Xでしたが、そのクルマを70万キロ超えても尚まだまだ元気に走らせている伊藤さんにお会いして、バラードスポーツCR-Xへの「すごい愛」に感心し、またその商品の中の少しの部品を苦労して創った私自身を思い出し、率直になんだか変な気持ちでした。

つまり、伊藤さんの凄さや頑張って造ったホンダを超えて、「モノ」ってのは、いったい「なんだろう」という気持ちになりました。

 

伊藤さんの記事にも出てくる「ヘッドライト・ガーニッシュ(ホントの名前は忘れてしまいました)」は、生産工場の鈴鹿製作所に量産移管されてから、「反る」という問題が発覚したのです。

 

ホンダ新商品の研究開発は、(株)本田技術研究所(社内通称HG)という本田技研工業(株)(社内通称HM)とは別会社で行われています。

これは、簡単にいうと「魅力的な商品」を産み出すための仕組みです。

藤沢武夫さんが、創造されたと聞いています。

 

仕組みは、(株)本田技術研究所で商品開発(企画、設計、テスト)して、その図面を本田技研工業(株)に売り、そこで造り、販売するというものです。

だから、ヘッドライト・ガーニッシュのように鈴鹿製作所に図面を売ったあとで、問題が発覚するというのは建前上ありえません。

しかし、当時の設計は先程も書きましたように、毎回新しい設計なので、期限までにキチンとテストまですませた完璧な図面を描いて売るのは難しいことでした。

つまり、開発中は勿論ですが、鈴鹿製作所で量産しようという段階になっても「設変」は多くありました。

つまり、この「設変」の仕方というか分配というか、やり方で設計者の技量がとわれていると私は感じていました。

研究所での開発中での設変と、製作所へいってからの設変のやりくりです。これをいかにうまくやるかと。

 

それ故当時は「SG」と言いまして、(鈴鹿=S 研究所=Gを足して名付けられた)鈴鹿製作所の新機種立ち上げに時に開発者が大挙して泊りがけでフォローに行っていました。

つまり、出た問題をその場ですぐ「設変」できるような体制を取っていました。

 

私の担当のヘッドライト・ガーニッシュも私なりの「設変分配の結果」として、鈴鹿製作所にいってから「反る」ということが発覚しました。

当時研究所の開発責任者の偉い方も同様に鈴鹿製作所に詰めていましたが、建前上は鈴鹿製作所にきてから設計の問題が出るのは研究所が仕事をできていないという事になり、開発責任者は鈴鹿製作所に対して「申し訳ありません」という立場でした。

よって、私の担当のヘッドライト・ガーニッシュが反ったときも、開発責任者は前後の状況をわかっていながら、鈴鹿製作所のメンバーの前で、私を烈火のごとく叱りつけました。

「お前はいったい何をやっていたんだ。スグナオセ。明日までだぞ。」

私は、どうやって反らないようにするか考えましたが、元々ヘッドライトという熱源があり、さらに射出成形したABS(プラスティック)では、反りは抑えられないというのは常識です。

ジャなんで、そんな構造を研究所で開発したのか?

これには「コスト」という魔物がありまして、研究所の段階では、コストを安く造らなければそれこそ製作所に図面を買ってもらえません。

製作所に移管になってからは、予算的に「立ち上がり経費」というものが、わずかですが積んであります。

それをいち早く使って対策すれば(予算のあるうちに)、私の担当のヘッドライト・ガーニッシュの開発コストは守れて、製品もキチンとしたものができます。

当然、どうやっても反るヘッドライト・ガーニッシュを反らないようにするには、「添え木」しかありません。

私は、ヘッドライト・ガーニッシュの裏側に鉄板を溶着する図面を出し、スグ試作品をつくり、開発責任者に「これで大丈夫です」と胸を張って報告しました。

2〜3日は経っていて、「スグ」ではありませんでしたが、開発責任者は「良いじやないか、よくやったと」と褒めてくれました。

 

この開発責任者は、Hさんという方で、私は、このHさんに、何度も「お前なんかクビだ」と言われています。原因は「コスト」が多かったです。

今なら、パワハラですね。なんといっても決定的な「クビだ」ですからね。(笑)

その都度、Hさんと私の間に入って取り繕ってもらったこちらもHさんという方がおられます。(紛らわしいのでHNさんとします)

あるときは、HNさんから「しげさん、今回はまずいよ。Hさんが本当に怒ってるよ」と。

続けて、「Hさんのルームミラーの取り付けが壊れていて、しげさんルームミラーも担当でしょ、部品あるでしょ。それを持っていってHさんのルームミラーを直してあげると、機嫌がなおるかもしれない」と言われて、私は「はい」と「スグ」Hさんとこにいって「ルームミラー壊れいるんですよね、私直せますから」と。

直した明くる日、Hさんから「ルームミラー直って中々調子良いよ」と笑顔でお礼があり、それで1件落着。

 

その後、このHさんとは年の差はありましたが、仲良くしていただけました。

数年前には、電話ですがご挨拶させてもらいましたが、その後体調を悪くされて亡くなられたと聞きました。全く、残念でした。Hさんは本田宗一郎さんとも一緒に仕事されていた世代で、リアルホンダマンでした。

ご冥福をお祈りします。

 

バラードスポーツCR-Xというクルマを通して、それを愛する人、造った人、売った人、周りで支えた人、・・・様々な人生が一つのクルマから派生しているような気がして、なんだか不思議な気持ちです。

これからも、様々携わった商品を通して、多くの方と知り合いになれたらと楽しいなと思います。

皆様、よろしくお願いします。