繁浩太郎の自動車と世の中ブログ(新)

モータージャーナリストとブランドコンサルタントの両方の眼で、自動車と社会をしっかりと見ていきます。

日本の自動車産業は本当にダメなのか?

2016-09-30 11:48:24 | 日記

今回は、「日本経済の沈下」と「自動車産業の沈下」を探っていきます。

■自動車に飽きたユーザー・・・「良い商品」が必要。

右肩下がりの自動車産業の中で、自動車メーカーが収益を上げる為に一番大切なこと、本質的なことは、コストカットや他責にすることよりも、「良い商品を作り→販売台数を上げる」ことにつきると思います。

 

「良い商品」とは、「お客さんが喜び、世の中も良くなる商品」です。

 

自動車商品は、乗り心地が良くなったり、燃費がよくなったり、IT装備もついたりしていますが、何十年とその商品魅力の基本は変わらないように思えます。

 

結果、ユーザーは飽きてきています。

だからクルマ離れなんです。

 

どの車も、価格が違うのはわかりますが、性能に大差はなくなってきました。

モータージャーナリストも、走りや乗り心地のような性能軸ではあまり語らなくなってきました。

ユーザーにとっては、どれも性能のいい車になりました。

 

■「良い商品」と「創造性」

そんな中、自動車で「良い商品」を「作る」ためには、よく言われる「イノベーション」と言われるほど大層なことでなくても、「創造性」が必要です。

「創造性」を高めるためには、携わる人達が「クリエーティブ」になる必要があります。

その為には、公私ということでなく「普段からのクリエーティブ生活」が大切です。

 

「必要は発明の母」という言葉もありましたが、仕事や遊びなど普段の生活を通して日々様々な経験を積んでいる中で、能動的に問題意識を持って目の前のモノゴトに対して「気づき」さらにそれを「深く考え」それまでの自分の知識や経験と合わせて、新たな知見を見出し商品をクリエーションする。

クリエーションなくして、ユーザーや世の中の喜びはないのです。

 

デフレに陥っている日本経済の課題も同じと思います。

イノベーション/クリエーションを生み出すことで活性化することが本質的に大切なのです。

 

■日本は「枠にはめる教育」

日本は、教育に関しても過去は「つめこみ」と言われていましたが、今でも基本は変わらず「与えられた、目の前の問題を解く」、つまり「オペレーション的」な教育が主になっていると思います。

本来は、「自分で課題・問題を作り、その解き方も暗中模索する」と言うような、記憶やルーチンを使わないで、クリエーションで問題解決にあたることも大切ではないでしょうか。

そこには、多様性、独自性、個別性、創造性などが生き生きとしています。

そういう教育が大切なのではないでしょうか。

 

日本の教育は、多様性を認めない、共同体意識の強いものです。学校には制服で通い、朝礼などでは整列し、お習字の道具などは一括購入で安くなっていいが、教室の中みんな同じものを持っている。

結果、ちょっとオシャレなカバンやランドセルを持っていくとからかわれる。

授業中は、気分が乗らなくても、つまらなくても、とにかく椅子に座っておとなしくしていることを強要されます。

私にとって、授業は束縛されるので「監獄」みたいなものでした。

確かに、じっくりと腰をすえて考える事は大切なので、それを教えているつもりだったのでしょうが、そもそも興味のわかないことはじっくりと考えられません。

生徒一人一人興味のある対象は異なるのです。

これも一般教養ということかもしれませんが、一般教養ってあってもいいですが、なにか役に立つんですかね?

「こんなことも知らないの?」となると確かに恥ずかしいですが、それを経験して知識を付けていくものだと思います。

一言で言うと日本は「枠にはめる教育」なのです。

 

社会にでてからも、大手企業の社長は「強いリーダーシップがあって、自分で切り開いていける様な人材、やんちゃなくらいが良い」とまで言いますが、人事担当は使いやすさや問題を起こしてほしくないとなり「従順な人材」を求めます。

実際、この社長もやんちゃな社員では困るのです。

いざ社員がやんちゃを発揮して、イエスマンにならないと人事担当に、「何でこんなやつを採用した」と怒ります。

枠にハマったオペレーターを欲するのです。

つまり、高度成長の時代のままの感覚なのでしょう。

(高度成長の時代は、つべこべ言わず、目の前の難題課題をさっさとオペレーティブに消化することが求められた時代。)

 

 

■ネット社会はルーチン社会

さらに、クリエーティブ生活がやりにくくなっているのが、ここんとこのスマホ生活も一因あると思います。

スマホ生活に毒されるような人は、元々大した能力もなく、クリエーティブ生活なんて出来ない人かもしれませんが、多くなってきたと感じます。

 

まず、電車の中では殆どの人が、退屈紛れかスマホを見ています。

注目してみると、それらの人は様々なウェブサイトやSNSなどを流し読みしているようです。

 これは、能動的に情報を選んでいるのではなく、自分なりの順番で多量の情報を流し読みしているだけではないかと思うのです。つまりこれは受け身なんです。

結果、漫然と見ているということになります。

 

スマホゲームをしている人も多いです。

これも一見ゲームをしているので能動的に見えますが、実は受け身です。決まったルールの上で繰り返しやるので、結果スキルは上がりますが、これは受け身です。

 

これらは、ルーチンといえます。

 

ルーチンを繰り返していると、楽です。

ルーチンに創造性はいりません。

普段から、ルーチン生活をしている人は創造的には思考停止状態で、何か問題に直面した場合に創造性を発揮することができません。

さらにこういう人達は、行動全体も受け身になっていきます。

 

私は、新宿や渋谷駅をよく利用しますが、利用者の歩く速度が遅くなってきていると、15年〜前くらいから感じています。

それが、スマホの普及とともに、さらに遅くなりました。

私は元々セッカチで歩くのは早いのですが、早く歩くとプラス思考になり「シャキ」っとするのです。ゆっくり歩くのは、漫然につながります。

しかも、スマホで浅いルーチン情報を見ながらだと余計です。

 

また、電車のドア付近に降りもしないのに、スマホを見ながらボーッと立っている人も多く見かけるようになりました。

混んできた時、これもスマホを見ているので邪魔するな的にさっさと奥へ詰めません。

当然、乗降時間も長くなりがちです。

その結果かはわかりませんが、乗客同士のトラブルも増えているようです。注意喚起のポスターが多くなりました。

これは、以前のさっさと行動できる人と、今風の漫然とした人の間で起こるのではと思っています。

以前は、日本の教育の成果か?乗客の価値観に大きな差がなく殆ど均一化していたので、混んだ車内でもトラブルは少なかったのだと思います。

 

こういうことからも、キチンと社会と自分ということを考えて生活している人、それから漫然として周りが見えないで自分本位で生活する人とがいて、当然後者の人達にクリエーティブな事は無理だろうと思います。

 

勿論、全員がクリエーティブになることはないですが、こういう人達はオペーレーターとしても、動きが悪いのではないかと思います。

つまり、社会や労働への生産性が低い。

 

■クリエーティブ生活を目指して

今の自動車産業、さらに日本全体としても右肩下がりで、それを打開する方法として「クリエーティブ生活」が大切になりました。

つまり、必要なのは「創造性」です。

教育やスマホや様々他人のせいにしてもはじまりません。

 

「今でしょ」という言葉が流行りましたが、過去の生い立ちなどは捨てて、今まさにこれから自動車産業に携わっている人も含めて日本国民は一人一人が意識して「クリエーティブ生活」をおくれるようにすることが、全体の底上げになり、日本経済の巻き返しにつながる「本質」のような気がします。

「クリエーティブ生活」に持っていくのは大変ですが、やはり、「急がば回れ」ですかね。

 

 


トヨタC-HRから、日本のSUV市場を読む。

2016-09-29 11:50:57 | 日記

新型コンパクトSUV『C-HR』日本仕様がトヨタ自動車から9月28日に初公開された。2016年年末より発売するらしい。

 

C-HRは、そのコンセプトモデルが2014年から海外のモーターショーで出展され、日本では2015年 東京モーターショーで出展された。勿論、コンセプトモデルということもあるが、未来系のカッコいいデザインだった。

しかし、市販モデルのデザインは、未来系というよりも、基本は現在のSUVのデザインの流れに寄り添ったものとなった。

勿論、調子のいいホンダベゼルの事も考えての事と思う。

 

ただ、よく見るとそのデザインのモチーフは筋肉モリモリ系?、つまり塊から削って作ったというより、塊に肉をもった造形のようで、ガンダムのような気もする。

考えて見れば、ガンダムは80年前後の放映だから、そのころ子供だった人は、40才〜45才〜となっており、ターゲットユーザーの中心だろうし、価値観的にはピッタリと考える。

50才代半ば以上には、この価値観はない。ガンダム造形は子供にみえるのだ。

 

こう考えるとクルマのデザインの価値観は世代間で、特にガンダム世代以降大きく異なるように思う。

高価な破れたジーンズを穿いた世代だ。「あんな破れたズボンはいてみっともない、お金無いのは可愛そうね」と上の世代は言ったものだ。

 

今回のトヨタC-HRのデザインの方向性は、そういう意味で時代性をとらえており、思惑通りユーザー価値観の琴線にうまく振れることができるような気がする。

 

過去には、日産ジュークのように良く言えば芸術的、悪く言えば「独りよがり」でこれが良いんだと主張したSUVもあった。

その後、トヨタ自身もその良さに気づかず、ユーザーの声によって日本仕様も作ったという「FJクルーザー」。

これは、カワイイ/楽しい系のちょっと流行りのコスプレに通じるような?、今は亜流ではあるが魅力的な商品だ。

日本ではサイズが大き過ぎてそんなに受け入れられないが、デザイン自体は一つの柱となる良いものだ。

それに続いたのが、軽自動車のハスラーだ。

また、海外からのレネゲードも近い。ミニのクロスオーバーなんかもこの部類だ。

ここは、メインストリームではないが、確実にマーケットとして存在していくと思う。

 

メインストリームの商品は、安心で良いのだが、新しさや面白さ、オシャレさなどに少し欠けるので、もう少しクルマを楽しみたいというユーザーにとっては、ここは良いマーケットとなる。

 

メインストリーム商品は、時系列の商品で、企画時にどれくらい先の商品にするかということがキーポイントとなる。

勿論、現在に近い方がユーザーは多く、受け入れてもらえる確率は上がるということだ。

つまり、「数」が出るということになる。

あまり、先の未来感で企画してしまうと、それに賛同できるユーザーは少なくなり、つまり「数」は出にくくなるということだ。

ちょうど良い「先感」を見定めなければならない。

(私も多くのクルマの開発に携わらせていただいたが、中には創り手が見ると非常にカッコいいが、先に行き過ぎているかもしれないというものもあった。そういう場合はデチューンして、今に近づける作業をした。)

 

そういう意味で、今回のC-HRは良く考えて作られている。価格も、多分きっちりとマーケットにハメてくると思うので、きっとNO1販売車になると思う。

勿論、運動性能などもユーザーにとって十分なものになるはずだ。

CX3は正統派のスマートな方向でデザインの路線が異なるが、近いヴェゼルはどう受けるのか? 

これは、これで面白い。

 

しかし、ユーザーを多く獲得するということを正義にするとこういう話だが、「クルマが楽しいか?」となると話は別になる。

つまり、ユーザーを多く獲得する=企業収益が上がるという図式で、企業にとっては正論だが、クルマ社会にとってはどうか?

楽しく、乗れるほうが良い。

この楽しくとは何だ?

 

スゥ〜っとスピードが出て、それでいてうるさくなく、操縦安定性が良く、乗り心地も良く、ということをユーザーは求め、それにそって、カーメーカーはクルマを改良して、販売を伸ばしてきた。

つまり、クルマを作っているのはカーメーカーで、その物差しは、どこまで行っても販売台数なのである。

もっというと、何が楽しいかという話は後にして、楽しいクルマを作っても、数が出ないのだ。

 

ここで、モータージャーナリストも含めて、車作りの関係者は、「最近のクルマは楽しくない。昔は楽しかった」と他人事のように言うのは、やめた方がいい。

楽しさ基準より、販売台数基準で作ったクルマを皆んなで「いい車」としてきたのだ。

 

「楽しさ」は数値で出ないので、確かに難しい。

ただ、ユーザーの車選びの兆候として「楽しさ基準」のクルマを選ぶユーザーも増えてきたように思う。

その証拠に、BMWのミニシリーズはいわゆる車格の割に高価で、性能はシッカリとしているが特筆すべきものはないのに、販売台数を伸ばしている。(最近、アメリカ市場を見ているせいかサイズが大きくなって、日本では受け入れられにくくなってきているかもしれないが。)

つまり、ユーザーも変わってきたのだ。

「楽しいクルマ」が販売台数を伸ばす時代がきており、しかもそれは高い収益が期待できる。

 

 

 

 

 

 


NSX オートプルーブ記事転載

2016-09-27 08:51:10 | 日記
今回は、オートプルーブに寄稿したNSXの記事を転載します。
もう少し、NSXについてはあちこちで書きたいと思っていますが・・・。



「繁浩太郎の言いたい放題」スーパーカーホンダNSXの宿命

十数年ぶりに復活したホンダのフラッグシップモデルNSX。価格も2000万円オーバーの超高級車として再登場した。世界の注目を集めているNSXはどんな宿命をもって再登場したのか?人気コラム、元クルマ開発指揮官の繁浩太郎氏がNSXへ言いたい放題。


■スーパーカー市場
日本で、2000万円以上のスーパーカーを含む高級車市場は、年間400台程度の販売台数だそうだ。では、全世界で見るとフェラーリ、ランボルギーニ等の有名メーカーでも、年間数1000台程度である。つまり、スーパーカー市場は、かなり小さなマーケットで、そこにホンダNSXを再投入したのだ。

では、通常、量販の自動車メーカーは、どの程度の台数を生産、販売しているのか?これまでの私の経験から言えば、クルマの製造販売ビジネスを成立させるには、車種開発や生産、販売、サービスなどへのトータル投資が大きいため、車種あたり年間数万台規模の台数を生産、販売しなければ採算が合わない。

具体的には、日本の自動車メーカーはすべてこの量販メーカーと言われる製造業で、つまり数を売って事業とする形態をとってきている。それ故、以前は「400万台クラブ」と言って、世界で年間400万台程度の生産規模がないと、やっていけなくなるだろうと、つい最近まで言われていたのだ。

従って、今回のNSXは小さなスーパーカー市場への参入ということは、生産販売台数が極端に少ない世界での商売となるため、量産メーカーホンダの体質のままでは、事業性はかなり厳しくなってしまうわけだ。だから、生産工場への投資などは根底から少量生産を前提として見直され、開発投資なども削減してきたと想像できる。こう考えると、NSXの2370万円という価格は高いと言われているが、こうした背景から算出される車両価格でもあるわけだ。

■量産車メーカーとスポーツカー
ベンツやBMW、アウディなど欧州プレミアムブランドと言われるメーカーの中で、スーパーカーやそれに準ずるようなスポーツカーをラインアップに加えているメーカーもある。メルセデス・ベンツのAMG GT 、BMWは i8 プロトピック・レッド・エディション、 アウディR8などがパッと思い浮かぶ。北米でもクライスラーには、ダッジ・バイパーとGMには伝統のスポーツカー、コルベットがあり、フォードは2代目「フォード・GT」を2016年末に発売予定だ。

GMのコルベットなどはスーパーカーよりは一般性があって、台数がある程度期待でき、また比較的コストを下げて造れることもあり、リスクは少ないと考える。一方で、コルベットには、専用ボディで造られたスペシャル感や非日常性もあり、イメージはスーパーカーに準じることができると思う。つまり、比較的リスク・レスでブランド構築に役立つモデルで、この辺りにヒントがあるようにも思う。

■なぜホンダはNSXなのか
アメリカ・ホンダは、アコード、シビック、CR-Vなど量販車種を多く抱え、これらの生産台数をキープしないと工場の製造コストが上がってしまう。販売台数が少ない時は、インセンティブをつけて実質「値引き」をした販売で台数を稼ぎ、結果として生産台数を確保することになる。これは、常に価格競争にさらされていることを意味する。

そんな中で、ホンダは、ホンダブランドとは異なった、より収益が見込めるプレミアムブランド「Acura(アキュラ)」を1986年にスタートしている。LexusやInfinitiに先駆けて立ち上げたプレミアムブランドAcuraの存在はホンダブランドにも良い影響をあたえ、相乗効果で北米でのホンダブランドのプレゼンス向上と、さらなる飛躍も期待できると考えられた。

しかし、2013年度の世界販売台数でLexusは50万台オーバーだが、Acuraは19万台チョットであり、北米でのホンダブランドやAcuraブランドの存在感をあげることや、収益性の高さに期待するには台数が小さい。

そこで、Acuraブランドのテコ入れ施策の一つとして、NSXというスーパーカーが再度開発されたと考えるのが順当だ。しかしリスクは大きい。

■そのリスクとは
Acuraの販売台数増を考えた場合、スーパーカーではなく、比較的リスク・レスのコルベットのようなものが量も期待できて良いように思える。だが、そうはいっても日本だけでなく、アメリカでもスポーツカーは既に台数が売れなくなっている現実がある。結果、開発や工場の投資金額と販売台数と売価の関係が難しく、事業性は意外と厳しいのではないかと考える。

よって台数は極端に少なくなるが、それを前提にした、つまり車種開発や生産、販売、サービスなどへのトータル投資を減らした造りにして投資リスクを少なくし、価格を上げて事業性を成立させる。最終的には、最大限ブランドの象徴となるコンセプトのクルマにしたと思うのだ。これなら、ホンダブランドの象徴にもなると。

■NSXのブランド価値
新型NSXは、日本では年間100台の販売と発表されているが、これだと数年経っても街では殆どみかけないし、存在を実感できない。結果、ブランドづくりにはそんなに寄与しないと思われる。

また、あの広い北米でも年間800台ということは、日本と変わらずあまり見かけるということはないように思う。さらに、ホンダユーザーには、価格レンジが異なり過ぎ、実感できず象徴にならないかもしれない。また、あまりユーザーとは関係のない存在だから、すぐに忘れられるかもしれない。

しかし、長い年月をかけて、商品力向上やコミュニケーションにもキチンと力を入れて、プレゼンスを築けるように育てていければ、ホンダ、Acuraの「象徴」的な存在として、ブランドに寄与できる可能性はある。

実際、日産のGT-Rや、歴史ある高性能車のポルシェも、日々の性能アップはもちろんのこと、数々のレースで優勝したりして「勲章」を付け、長い年月をかけてブランドをつくってきた。もちろん、長年続く造り手の情熱もすごい。

「象徴」的な存在は、奉られなければならない。奉ってもらうためには、簡単に言うとメーカーは、長い年月をかけて商品力やコミュニケーションに注力し続け、最高のレベルにし、そのブランドを高みに至らせなくてはならない。量販車とは、存在目的そのものが異なるのだ。NSXは造って販売した時からが「開発スタート」と言えるクルマなのだ。

■ホンダのDNA
ホンダには、次々と新しい技術を創造してきたこともあり、先人の知恵の延長で考えるよりも、先人を否定して取り組む体質が変に残っている部分もあるようだ。商品でいうとディスコン(生産中止)も妙に多い。

世の中は変化していくものだから、悪いことではないのだが、それだけではダメで先人の延長でも普遍的で良いことは残すという姿勢も大切だ。

ホンダの創業者は、「普遍的価値」と「万物流転」という2つの言葉を残している。この両輪をわきまえて、NSXを日々注力して進化させ、世の中と共に存続させていくべきだと思う。

そうすれば、NSXはホンダ、Acuraブランドの象徴に育ち、NSXやホンダ、Acura商品を買わないユーザーまでにも存在を喜んでもらえるようなブランドになっていくと思う。NSXというスーパーカーはそういう宿命だ。

 
 

http://carview.yahoo.co.jp/news/newmodel/20160919-10251811-carview/?mode=full


「車検」って、何の検査?

2016-09-08 13:40:15 | 日記

先日、友人から「車検っていったい何なの?」と言われて、そう言えばそうだなと納得したので、その内容を書いておきたいと思います。

 

新車は3年に1回、その後は2年に1回、車検は行われなければならないですよね。その際には、それ相当の費用がかかります。よって、昔は代替の理由の上位に上がっていた位です。

 

今は、車検費用はかなり安くなりました。ガソリンスタンドでも出来るとこがあって、こういうトコはかなり安いです。(多分、点検だけで、整備や部品交換となると別途費用がかかる。)

 

特に輸入車は、ディーラーに出すとかなり高いです。かと言って、一般の修理工場のようなところでは、受け付けないトコもありますね。

つまり、キチンと点検整備している途中に不具合が見つかっても、「診断機」がないと不具合箇所、部分を特定できない場合があるのです。

 

「診断機」とは、クルマの制御にコンピューターを使い始めて、今では人間の神経系のように車体中にコンピューターとハーネスが張り巡らされているので、一つ一つ目では確認できませんから、その神経系にコンピューターを繋いで、不具合箇所を明らかにするものです。

つまり、クルマはコンピューター制御で動いているので、その不具合はまたコンピューターで見るということで、「診断機」なしに点検整備は出来ないです。

その診断機は、カーメーカーや車種によって専用になっています。診断機は高価なので、街の修理工場でそれら全てを揃える投資は厳しいのです。

 

結果的に、ユーザーはディーラーにお願いせざるを得ない状況になるのです。

・・・これは、カーメーカーの「策略」かもしれません。笑。

 

 

昔は、機械的に動いていましたけどね。車体を鉄で造り、シャシーもゴムのタイヤや鋳鉄や鋼材や機械的に作っていました。

ガソリンタンクから、ポンプでキャブレターにガソリンを送り、エンジン内に噴射して、点火して、回しました。点火は、コイルで昇圧した電気をディスビで各プラグに分配して、機械的にタイミングをみて点火していました。

全て、機械的だった。見えるものでした。コンピューターはありません。

 

よって、不具合も機械設計の未熟さや耐久不足や、機械的なものだったのです。

 

結果、診断機などはなくて、ディーラーでなく街の整備工場でも十分点検整備はできました。

 

しかし、なんだかんだと言っても、今のクルマは機械的なことの故障は少なくなって、耐久性も上がり、コンピューターのバグによる故障も少なくなり、簡単に言うと故障は殆どしないというのが、今のクルマです。 

部品などの故障は、製造段階におけるバラツキ(偏差値)で発生するのもが殆どではないでしょうか。

 

大切な事は「クルマは壊れなくなったから、車検は必要ない」かもしれないということです。

当然、ウォッシャー液やワイパーゴム、3〜5年でのバッテリー交換、タイヤ交換などはユーザーの責任で行われなければなりませんが、一般論として日本のユーザーは意識が低くワイパーゴムなんて車検でしか交換しないというユーザーが殆どではないでしょうか?

こんなことだと「車検」が必要ともいえますね。

 

街のカーショップで買えば200〜300円で買えるウォッシャー液もディーラーで入れると、ディーラーでは市販品と品質が違うと言いますが、10倍くらいの価格となる場合もあります。エンジンオイルなどもそうです。

しかし、下回りの簡単に点検整備しにくい項目として、ドライブシャフトのゴムブーツの破れなどがあります。何か引っ掛けたりして破れた場合は、交換しないとジョイント部分に直接タイヤが跳ね上げた泥水などがあたることになります。

故障の原因になります。

また、ブレーキパッドが減ってシャリシャリと音がしているのに使い続けると、ブレーキが効かなくなるだけでなく、ディスクに大きな損傷がでますし最悪はロックします。

つまり、簡単な点検でわからないこともあります。

 

しかし、こういうのも含めて、自分で出来るだけ点検をしていれば、本当に車検は要らないかもしれません。自分で出来ない人は車検というより点検整備に出せばいいのです。

 

車検の費用の内訳は、点検整備費用と自賠責保険+重量税+印紙代です。

重量税は、まさに税金です。

自賠責保険は、保険ですが殆どのユーザーが任意保険に入っていますから、不要と言えば不要です。

保険に入らず事故を起こす一部の心無い人のために、あるようなものかな?

点検整備費用は、車検でなくても各自の責任で点検やればいいのです。

 

このように見てくると、車検って結局お国にお金を支払うのと、ディーラーの収益源ということかなと思い当たります。

つまり、ユーザーが意識を高く持って、クルマを維持すれば、車検は要らないと思うのです。ただ、その財源で潤っている人は辛くなりますが。

 

車検制度は考えなおした方が良いと思います。殆どのクルマはもう贅沢品ではありません。

しかし、ユーザーもしっかりしなければなりません。

 

 

 

 

 

 

 


「天声人語 商品テストの願い」の内容について。

2016-09-03 17:17:14 | 日記

2016年9月3日の「天声人語」は間違っていないか?

「商品テストの願い」というお題で下記の内容が書いてあった。まずは、読んでいただきたい。

(天声人語)商品テストの願い

 石油ストーブがどこまで安全かを確かめるため、火がついたまま倒してみろ――。編集長の花森安治(はなもりやすじ)が言った。雑誌「暮(くら)しの手帖(てちょう)」が1954年から始めた「商品テスト」のひとこまである。天井まで火が上がり、砂をかけて消し止めた▼英国製を1位にし、「おすすめできるものは、国産六種の中にはありませんでした」と書いた。ソックス、フライパン、冷蔵庫……。業界からの反発も大きかったが、ひるまず続けた(酒井寛著『花森安治の仕事』)。NHK連続テレビ小説とと姉ちゃん」に出てくる雑誌のモデルである▼「すさまじい商品の洪水の中で、私たちが溺れかけようとしている」と、花森は60年代末に雑誌に書いた。企業に努力してもらい、ちゃんとした品質のものばかりが店に並ぶことこそ、テストの目的だった▼その頃からは随分よくなったはずだが、客の目をあざむくような振る舞いは今もなくならない。長引く三菱自動車の燃費不正問題ではきのう、3回目の立ち入り検査があった。多くの車種でカタログの値より燃費が悪いことが国土交通省の測定で明らかになっている▼おとといは、テレビ通販のフライパンの宣伝内容が大げさすぎたことが発表された。「ダイヤモンドの次に硬い」とうたい、金属製品で50万回こすっても傷がつかないかのような表示だったが、消費者庁のテストでは5千回で傷がついた▼花森の取り組みが始まって60年以上がたつ。テストがいらなくなる日は、まだまだ来ないようだ。



 

私は、今は定年になったが、カーメーカーで商品の造り手側の仕事をしていた。

雑誌「暮(くら)しの手帖(てちょう)」の「商品テスト」の件は、あるテレビ番組でも紹介されたりして、知っている。

当時のメーカーは、当然営利企業だから収益の事はあるけれども、主に世の中の人々の生活向上を思って、世の中の役に立つ商品をいち早く廉価に導入しようと頑張っていたと思う。

その結果、ストーブやその他の電化製品で確かに品質的に至らないトコはあったかも知れないが、それはその商品達が初のモノに近く、設計者がユーザーの使い方の隅々やハードの隅々まで考慮しきれていなかったからだ。

故意に、コストのために、品質を下げてたわけではないと思う。

 

例えば、差し障りの少ない範囲の事例でいうと、クルマのシートベルト・バックルのリリースボタンは赤色になっているが、当時この赤色が経年変化で色がとんでしまったのだ。ユーザーからの色がとぶというコンプレインが多く寄せられ、調べると紫外線でとぶとわかった。すぐ対応した。

今では、耐紫外線を考えてリリースボタンの赤色はとばない。

 

このように、品質が悪いことには間違いはないが、技術的に知らなかったり、至らなかったりでの不具合である。

決して、一年したら色がとんでも良いから・・コストダウンしておこうと思って造ったわけではない。

つまり、ユーザーのことをキチンと想って作っていた。

 

本文に出てくる、三菱自動車やフライパンの件は、やはり「故意」だと思う。

そこに大きな差がある。

 

今では、日本の商品ハードは世界に誇れる品質になっている。

これは、メーカーの努力の賜物というだけでなく、雑誌「暮(くら)しの手帖(てちょう)」の「商品テスト」のような、ユーザー目線の立場の方々の努力も大きかったと思う。

中国の方が、炊飯器を買って帰る時代になっているのだ。また、クルマの品質耐久性は必要以上と言っていいほど進化して、日本で廃車にしたクルマが、アフリカの新興国などで使われて喜ばれていると聞く。

 

しかし、「故意」の件は、テストというより、チェックで、それは行われなきゃいけないが、・・・寂しいことだ。