(続き)
芝居への興味の入り口は多岐に渡っている。幼児期のお遊戯会に始まり、学芸会等もその入り口の一つである。また映画やTVドラマに代表される映像もそうであろうし、無論演劇そのものもそうである。
大雑把に言えば、大多数の人達が関心を示さないその入り口に気づいた少数の人達がそこから入り、そして芝居をやり始めるという事になる。
最初に芝居というものに手を染める環境も状況も多岐に渡っている。高校演劇等の学校関係、アマチュア劇団、演劇学校、プロ劇団の養成所等々その入り口はその人を取り巻く環境で大きく変わる。いずれにしても入ったその場で芝居の道への第一歩を印すのである。そしてどの場であろうが、そこには演劇の手ほどきをしてくれる先輩なり指導者がいる。その教えのもとに芝居的な知識と経験を手に入れていくのであるが、その手ほどき自体が実は丁半博打の様な危うさを持っている。というのはその手ほどきをする者の演劇に対する認識のレベルがまちまちだからである。つまり運の良し悪しで間違った知識のもとにその後の演劇人生を過ごさなければならないかもしれないのだ。
それでいいではないか、それで本人が良しとしているのであれば。
その通りである。それを良しとしている人に私は物申しているのではない。それはそれでその様なあり方があってもいいのだと思う。
私が物申したい対象は、自立という場所に立ちたいと望む俳優の卵諸君に限られている。
私の言う自立とは誤解を恐れずに言うと、演劇の演出家や脚本家と伍して表現者としての立つ事である。
自立という場所に俳優自身が立つ為には、あらゆる機会のもとで手に入れ、また教え込まれた知識を取捨選択し、それを自分の言葉に置き換える作業が必要なのだ。俳優はあらゆる劇的な現場や日常の中でその作業(自分の言葉に置き換える作業)を繰り返し行っていかなければならない。
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