稽古も早や中盤である。
ここに来て劇団芝居屋の標榜する「覗かれる人生」芝居の創造に欠かせぬ個人の確立というものにまだ届かない、もしくは至らない役者の存在が私を苛立たせている。
劇団芝居屋の言う「覗かれる人生」芝居で役者に求められているものは、個人の確立である。なんの何某という固有名詞を持つ人間を作る事である。個人史を持った人間を創る事である。
個人史をもった個人が他の個人史を持った個人と出合った時、我々ははじめて最小単位の人から人間になるのだ。そこには流れる様な在りもののスムーズな関係は成り立たない。それぞれの違いというもの意識した時から人間の関係が生まれるのだ。
劇団芝居屋はそこの劇性の宝庫を見る。台本の中の自分の役割を割り出し、あらゆる箇所から自分を形作る断片を拾い集めて、個人を想像し創造するのだ。そして役割を利用して芝居の中に生きる。
大胆さと繊細さの中の往復の頻度が、役の充実を生む。
考えたら、大胆に演じてみる。駄目だったら考える、そして大胆に演じる。この繰り返しが稽古なのだ。
下手な考え休むに似たり。実行のない考えは意味はない。
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