南海ホークスの杉浦 忠
市町村合併も峠をこえたようだ。今は西東京市と言うのかな?その前が田無市。
保谷あたりと一緒になったのかな?そして、はるか以前は北多摩郡田無町だった。
50年も昔のことである。
武蔵境から真っ直ぐ北へ、一本の街道が通っていて田無へ至る。バス停があり、
すなわち下向台である。西へ少し入った所に住宅地があって、10棟程だったか?
一棟が二軒に分けられてあって、小学生の頃のわが住まいである。
まだまだ自然が豊富に残っていて、きつね山と称する雑木林や田畑があり、
玉虫やクワガタも捕りまくったものだ。裏がだだっ広い芝生の畑で、東京という気がしない。
お隣の住宅地は「しらかば村」何て言う小粋な名前がついていたっけ。
一番奥に屋根のついた洗濯場があって、母親ちは毎日金たらいに洗濯板で汗をながしていた。
今、「せんたく」を入力したら、洗濯機や洗濯物は候補にあっても「洗濯板」はないんです。
ひし、と時代を感じるね。
あの頃は塾が流行っていた。そろばん塾は敬遠して習字の塾へ。
当時の自分の書いた字を見ると、信じられない程上手い字だ。今は下手になる一方である。
時間前に先生のお宅の庭で走り廻っていたら、先生の奥様から「書道をするんですから、
気を静めてお待ちなさい」とたしなめられた。人間形成の始まりだったような気がする。
南海ホークスと読売が日本シリーズで激突。
エースの杉浦忠の四連投の大活躍を、わくわくしてラジオで聞いていた。
「なんと申しましょうか」の小西徳郎節が耳の奥にこびりついている。
以来、投球フォームは、アンダースローである。
お隣の家庭がテレビを買った。夕方になると見せてもらいに行った。「月光仮面」。
週に一回聞いただけの主題歌を、今に忘れないのはどうした事か、人の名前は出て来ないのに。
映画「三丁目の夕日」のファースト・シーンで、子供が模型飛行機のゴムを巻いていたが、
すごい違和感を覚えた。機体を上から持って巻いていたんだ。我らは逆さまにして、
つまり、脚を空に向けて巻いたものだ。その方が速くスムーズに巻けるのだ。
この映画は嘘だ、と即座に判断した。
北多摩郡田無町、忘れられぬ少年の日々と町である。
保谷あたりと一緒になったのかな?そして、はるか以前は北多摩郡田無町だった。
50年も昔のことである。
武蔵境から真っ直ぐ北へ、一本の街道が通っていて田無へ至る。バス停があり、
すなわち下向台である。西へ少し入った所に住宅地があって、10棟程だったか?
一棟が二軒に分けられてあって、小学生の頃のわが住まいである。
まだまだ自然が豊富に残っていて、きつね山と称する雑木林や田畑があり、
玉虫やクワガタも捕りまくったものだ。裏がだだっ広い芝生の畑で、東京という気がしない。
お隣の住宅地は「しらかば村」何て言う小粋な名前がついていたっけ。
一番奥に屋根のついた洗濯場があって、母親ちは毎日金たらいに洗濯板で汗をながしていた。
今、「せんたく」を入力したら、洗濯機や洗濯物は候補にあっても「洗濯板」はないんです。
ひし、と時代を感じるね。
あの頃は塾が流行っていた。そろばん塾は敬遠して習字の塾へ。
当時の自分の書いた字を見ると、信じられない程上手い字だ。今は下手になる一方である。
時間前に先生のお宅の庭で走り廻っていたら、先生の奥様から「書道をするんですから、
気を静めてお待ちなさい」とたしなめられた。人間形成の始まりだったような気がする。
南海ホークスと読売が日本シリーズで激突。
エースの杉浦忠の四連投の大活躍を、わくわくしてラジオで聞いていた。
「なんと申しましょうか」の小西徳郎節が耳の奥にこびりついている。
以来、投球フォームは、アンダースローである。
お隣の家庭がテレビを買った。夕方になると見せてもらいに行った。「月光仮面」。
週に一回聞いただけの主題歌を、今に忘れないのはどうした事か、人の名前は出て来ないのに。
映画「三丁目の夕日」のファースト・シーンで、子供が模型飛行機のゴムを巻いていたが、
すごい違和感を覚えた。機体を上から持って巻いていたんだ。我らは逆さまにして、
つまり、脚を空に向けて巻いたものだ。その方が速くスムーズに巻けるのだ。
この映画は嘘だ、と即座に判断した。
北多摩郡田無町、忘れられぬ少年の日々と町である。
琵琶湖は広く大きい、とあらためて実感したのは、
この夏に観光船に乗り、竹生島へ渡った折りのことだ。
今は、バスボートやウインドサーフィンのちっちゃな舟がひしめき合っているが
昔は、二つ割りにした丸太を胴の両側に付けた、「丸子舟」という琵琶湖独特の舟が活躍していた。
古く万葉の時代より、北陸と都を結ぶ交通・物流の要衝としてさかえたため、
最盛期の江戸時代には、約1400隻が湖上を往来していた。

琵琶湖の最北端に「北淡湖・丸子船の館」がある。
舟への郷愁に駆り立てられた地元民達が、現存するたった二隻のうちの一隻の丸子舟を、
復活させて展示している。二階から見る舟の全容は圧巻だ。
全長17メートル、米俵250俵を積載可能なこの舟の帆柱の高さ!!
船首周りに補強のため、太い鉄製のカスガイが斜めに打ち込めてある。
名付けて「伊達かすがい」と言う。さすが、京に近い土地柄だ。
舟大工の遊び心とその意匠の粋な感覚と美意識に、胸の内で拍手したものだ。
舟の両横腹に、太い丸太を二つ割にしたものが取り付けてある。
より多くの荷物を積み込むために、浮力をましている訳だ。これが「丸子舟」と呼ばれる所以である。
ITだ、PCだという世の中になっちゃって、昔の佳いものが次々になくなって行くなかで、
新しい機器、技術をより有意義に生かすためには、アナログ的な精神が必要なのだと思う。
そのきっかけとなりえる物や史跡が近江、とくに湖北地方にはすこぶる多く残されている。
この夏に観光船に乗り、竹生島へ渡った折りのことだ。
今は、バスボートやウインドサーフィンのちっちゃな舟がひしめき合っているが
昔は、二つ割りにした丸太を胴の両側に付けた、「丸子舟」という琵琶湖独特の舟が活躍していた。
古く万葉の時代より、北陸と都を結ぶ交通・物流の要衝としてさかえたため、
最盛期の江戸時代には、約1400隻が湖上を往来していた。

琵琶湖の最北端に「北淡湖・丸子船の館」がある。
舟への郷愁に駆り立てられた地元民達が、現存するたった二隻のうちの一隻の丸子舟を、
復活させて展示している。二階から見る舟の全容は圧巻だ。
全長17メートル、米俵250俵を積載可能なこの舟の帆柱の高さ!!

名付けて「伊達かすがい」と言う。さすが、京に近い土地柄だ。
舟大工の遊び心とその意匠の粋な感覚と美意識に、胸の内で拍手したものだ。
舟の両横腹に、太い丸太を二つ割にしたものが取り付けてある。
より多くの荷物を積み込むために、浮力をましている訳だ。これが「丸子舟」と呼ばれる所以である。
ITだ、PCだという世の中になっちゃって、昔の佳いものが次々になくなって行くなかで、
新しい機器、技術をより有意義に生かすためには、アナログ的な精神が必要なのだと思う。
そのきっかけとなりえる物や史跡が近江、とくに湖北地方にはすこぶる多く残されている。
今年の夏の暑さは異常に長く、果てしがないように思われたが、
一転秋になると、日毎に山は色づき、急速に深まってゆくようだ。
日々仰ぐ小谷山も、湖北特有のうすもやにけぶり、秋を急ぐ風情だ。
戦国の時代。信長の軍勢が小谷城を取り囲んだ時、織田勢は虎御前山に陣を敷いた訳だが、
地図上ではそこそこの距離が見て取れるのだが、小谷を間近に見上げる時、
ふと、左手にうずくまる形で、異常な近さで、虎御前山が迫る。その山よりはるかに高い、天守閣から見下ろす長政や浅井勢の心情は、いかばかりであったことであろうか?
背後には秀吉がゲリラ戦を仕掛ける横山があり、戦慄の極みであったことだろう。
来年のNHKの大河の舞台になる訳で、もうすでに小谷山周辺は賑わいを見せている。
虎御前山には、教育キャンプ場があり、平和なものだ。
近年発掘調査が進み、意外と整備された城郭であったらしい。この山全体が古墳で、
その遺構を巧みに城構えに利用した由。いかにも合理主義者、信長らしい。
この辺りは「虎姫」と言う地名だが、こんな伝説が残されている。
戦国時代の初期の頃、水利権を求めて奔走した「せせらぎ長者」という村の豪族に、
美しい娘が嫁いだ。
虎御前と呼ばれて、幸せに暮らしていたのだが、身籠り、やがて出産したところ、
生まれたのは蛇の子であった。わが身を恥じて虎御前は、深い渕に身を投げたと言うことだ。
明治になって、町名制度のおり、このお話しにちなみ、「虎姫」となったそうな。
小谷山も虎御前山も雑木の山だ。日ごとに赤や黄色の色を深めてゆく。
やがて、雪がすっぽりと包み、静かな眠りのひとときが訪れるだろう。