そしてもうひとりは都はるみである。夜、仕事から帰ってから、母に見せるためだ。
都はるみの歌は勿論だが、何よりも彼女の着物姿を見るのが、母ともども大好きなのだ。
ほかの演歌歌手とは、まったく違うその着物と、柄と帯との調和、着こなしのセンス。
紬だ、ちりめんだと母に教えを乞う。母は和裁のプロなのだ。

大正生まれのわが母は、娘時代に長浜の和裁のお師匠さんのところに通っていた。
駅まで歩いて30分、米原で北陸線に乗り換えて長浜へ。当時のことだ。2時間近くかかったであろう。
東京時代には、専門的にしていたイメージはないのだが、
滋賀へ移ってから、隣近所から頼まれたりして、縫い物しているうちに、
町の呉服屋の仕事をするようになり、本格的に和裁を始めた訳だ。
子供たちの学費になり、家を買うための資金にもなったのだろう。
やがて京都の呉服屋からも注文が来るようになった。縫い賃がまったく違うのだ。
日本の産業の最盛期。かたわらに、次の次までの反物が積まれてあった。
一時期、遠縁の娘さんが弟子入りして、自分の一生分の着物を縫うため、通ってきたこともあった。
北陸のホテルでの展示会などがあれば、一泊の旅行の招待がくる。
お土産付きのいたれり尽くせりのおもてなし。呉服屋の景気も絶好調の頃だ。
しかし、まず京都の店が下火になる。地元の呉服屋は、得意先を小まめに回り、
幾らかの命運は保ったのだが、やはり注文が次第に減っていった。

その頃から手の空いた時を見計らい、ポーチや紙入れなどの小物を縫い始めた。
土曜日、買い物へ出かける途中、近くの道の駅に納品に寄るのだ。一週間のあいだに結構売れるものだ。
ふたつの道の駅に寄って、補充してゆく。刺し子、刺繍は、地元の名物・梅花藻をデザインしたもの。
少し値上げしたら!?と言っても首を縦には振らない。まったく欲のないひとなのだ。
それでも忘れた頃に呉服屋が縫い物を持ってくる。2日で仕上げたものが、
6日も7日もかかるようになり、厚手の生地に針を指すことが困難になり、
去年90歳の誕生日を前に引退を宣言した。それからは、小物に専念である。
この3月で91歳になる我が母の名前は、何故か、秋の花の名前である。