まず、言葉が違う。少年なりに育んできた文化がまるで違う。その頃の家の仕様というものは、
便所が玄関の横に外に独立して建っていた。向かいの家のおばはんが、やおらこっち向きで、
腰を折り、モンペを膝まで下げて用をたしたのだった。もうビックリ。
野蛮な処へ来てしまったとショックを受けたりもした。中学校の入学式全員、丸ボウズのなかで、
一人だけ坊っちゃん刈りだ。そんな恥ずかしい格好なんか出来るもんかと、一週間は抵抗したのだが。
当然の如く、陰湿ないじめに毎日のようにあった。結構な悪がウジャウジャといたのだ。
いつも飛んできて、助けてくれたのが、山形博道くんだった。
今は「ヒロ・ヤマガタ」として、世界に名高い版画家である。二人とも何より絵が好きだった。
それをきっかけにして、ただひとりの友になってくれた。
その頃の冬場の雪の多さは、とてつもないものであったが、それを楽しみに変える逞しさが、
雪国の子供達にはあった。雪深い山へ入り、竹を切ってくる。四つ割りにするのは鉈だ。
重いナタなんぞ、振り回すのは初めての経験だ。すべて、博道の後から付いて行き、
手取り足取り基本から教えてくれた。その竹を丁寧に薄く削り、先端10センチ辺りに、
ノコギリで浅く溝をつける。風呂の焚き口で火に当てて、慎重に曲げていく。
秋の間に母と山へ入っては、杉の落ち枝を拾い集めたものだ。
風呂やおくどさんの、良い焚き付けになったのだ。今も山間部を車で走る時、
誰も見向きもしない杉葉を横目にしながら、「もったいないナァ」とつい思ってしまう。
閑話休題。
二枚を横に並べて、前と後ろを針金で結ぶ。足の大きさの板を裏側の竹に四ヶ所、
ノコギリで十文字の彫りを入れ、釘で打ち付けるのだ。サンダルのベルトは、工場へ忍び込んで、
モーターの廃ベルトを失敬した。竹スキーの完成である。
滑る所は選ぶを待たない。お寺への坂道、山への登り道、雪ある処、即ちガキのスキー場である。
ストックはなし。尻から転んだ写真が、今も残っている。
美術部の先輩に逢うと、必ず冷やかされる。「おまえら二人は、金魚とフンだったなァ」と。
竹トンボ作り、川遊びの魚突くヤスもすべてが手作りであり、博道が先生である。
なにもかもが初めての経験だったのだ。博道の描く絵は、写実画の私と違って、当時から独特だった。
木の葉の一枚一枚、きっちり描きあげ、微妙に色彩を変えて、派手な絵であった。
そう、現在のシルク・スクリーンの版画、そのものである。
30年近く前に、週刊紙の伊勢丹の「展示会」の広告の絵を、一目見て、
博道、やったなぁとニヤリとしたものだ。彼は実にヒューマンな奴で、
小さなもの、弱いものに対するいたわりは、半端じゃなかった。
改築中の米原駅の通路の壁一面に、博道の絵が描かれるという。さても、楽しみな事だ。