湖の子守唄

琵琶湖・湖北での生活、四季おりおりの
風景の移り変わり、旅先でのふれ逢いなど、
つれづれなるままに、語りたい。

若狭、鯖街道・熊川宿

2011年07月29日 | 詩歌・歳時記

御食国<みけつくに>という言葉が古代にあった。

                                            

朝廷の食料を献上する国を、こう呼んだそうだ。
若狭地方もその一つであり、「御食国」という言葉が、福井県の観光のシンボルになっている。
若狭湾や広く日本海で捕れた魚介類を、京都へ運んだ幾筋もの山道を「鯖街道」と呼んでいる。
                            
若狭・小浜から琵琶湖畔の港町、今津へ至る山道を九里半街道とも言い、その中継地が「熊川宿」である。平日のせいなのか、人も少なく、ゆっくりと歩きはじめる。

                                         
宿場の入り口にでんと構えるのが、復元された番所だ。所謂<入り鉄砲に出女>の統制と、
物資への課税が行われていた場所である。

                        

ここから「上の町」が始まり、「中の町」「下の町」へと続く、南北1.1㎞、道の左側に前川と呼ばれるおそろしく流れの速い水路が、水音も高く、走り下ってゆく。
               
春に歩いた、木曾街道の奈良井宿ほどの賑わいはなく、朽ちかけたままに、ほって置かれる家屋もある。まぁ、多種多様な家々が両側に建ち並ぶ。棟を街道に対して平行させて建つ「平入建物」と呼ぶ町屋。「妻入建物」という、棟を通りに直角に置く、屋根の三角の部分が見える建物。その間には土蔵がある。
                                     
一番感心するのは、防火意識が強いことだ。柱はおろか壁一面が、塗り込められた塗込造の家。
一階の屋根の両端に、隣家からの延焼を防ぐ、卯建を上げた町屋、それぞれに工夫した意匠が面白い。熊川城址があり、徳川家康が越前攻めの折り、泊まったという「得法寺」には、家康腰かけの松が……。
             
一番下まで歩き、同じ道を引き返す。今度はゆるやかな登り坂である。ちょうど腹も減ってきた。
出発点の道の駅で、ざるそばと名物の鯖寿司を味わう。デザートは、名物の葛もちで仕上げだ。

                                                                                   

馬籠や奈良井宿と比べると、確かに見劣りはする。だが、生活の匂いは一層に色濃く、つつましい。統一されていない面白さ。詩歌が湧いてくる邑ではある。

                                 


若狭~小浜・明通寺

2011年07月23日 | 詩歌・歳時記
若狭・小浜は「海のある奈良」と呼ばれている。前方に波穏やかな若狭湾が広がり、
後方の近江との国境である、山々との間に、数多くの古刹が点在している。
一年に一度は訪れる、お馴染みの町である。

小浜に入る少し手前の道を、山手へ折れると「瓜割りの滝」への道が見えてくる。
駐車場の傍らに、新しく採水施設ができていた。但し、有料。
ポリ・タンクに貼るシール一枚が300円、その容器でなら後は無料という訳けである。

さて、なだらかな坂道を歩いてゆくと、結構な水量が湧きだす岩場にさしかかる。
冷たく、軟らかな水である。その冷たさに浸けていた瓜が割れてしまう。
漂う冷気で汗も一瞬でひくほどだ。

小浜へ入って直ぐを、左折。必ず立ち寄る「明通寺」である。
蝦夷遠征で名を馳せた、坂上田村麻呂の創建。
鎌倉期の再建の本堂と三重塔は、質実剛健、無駄な飾りの一切ない造り、国宝である。

本尊の薬師如来は長く秘仏だったが、先の住職の英断で、常時拝観することができるようになった。
そもそも「秘仏」と言う観念が理解できない。密教系の大衆を置き忘れた、宗教寺院に多いようだ。
それはともかく、左の深沙大将と対をなす右側の降三世明王が好きだ。
特に逞しい両足で踏まれている、二つの邪鬼の恍惚とした、法悦の表情には、しばし見惚れます。

三重塔の屋根は去年、葺き替えが終わり、今は本堂の作業に入っている。
30年に一度、桧皮葺きの葺き替えが来年の春まで続く。
境内や庭園を歩いていると、少しずつ短歌や俳句が煮詰まってくる。

池に純白の睡蓮の花が咲き、参道には桔梗が可憐に揺れている。
特に、のうぜんの花は、普通、燃えるような爛れた紅色が多いのだが、
淡い橙色が涼やかで、清浄である。
橋を渡り車へ帰る。谷川から立ち上る清水の冷気に、いささかの功徳を賜わった気がした。

檎子ちゃん

2011年07月17日 | 詩歌・歳時記

冷房の効いた図書館で、おそらくは人生最後の履歴書を書き上げ、一階の自販機の取り出し口に、
ペットボトルのお茶がコロンと落ちた時、声を掛けられた。檎子ちゃんだった。


少し太って、血色の良い頬、満ち足りた生活を送っている事をうかがわせる、10年ぶりの再会だった。
東京ではほとんどが電算化された写植も、田舎では未だ健在だった。で、23年前に滋賀へ帰って来て、
長浜の会社に写植オペレーターとして就職した。入力の下請けで、出入りしていたのが彼女だった。


彦根の名門校を卒業した後、恋愛、結婚した相手が、伊吹山の麓の農家の長男だった。
当初、農作業はしないということで、嫁に入った訳けだが、何せ父君は市会議員という、
お嬢様育ちである。ひとには言えぬ苦労・悩みもあったことだろう。


仕事の合間の雑談で、俳句の話しになった時、私も創ってみたいと、彼女がいいだしたのが、
付き合いの深まるきっかけだった。当時、東京の親友と句会「湧燈」を運営していた。
          

月に一度、投稿句を東京へ送り、親友が編集したものを、写植の弟子が打ち上げて、印刷した 
両面二つ折りの句集を、また送り返して来る。天、地、人、一位から五位までの8句を選句し、
東京へ送り返す。                                                  そして、句会が後楽園の完徳亭で行われる。東京勢は7~8人ほどで、
関西勢の私、母、大阪の弟、そして檎子ちゃんの4人の披稿は、親友がやってくれる。
その模様を録音したテープと共に、作者名と各自が選した結果を入れた句集が、再び送られてくる。
なんと手間のかかる句会ではあった。檎子ちゃんの処女作品「衣替え衣裳缶より夏をだす」。
この感性が素晴らしい。何度目かの句会で、私が天に抜いた句「山芋や産着の如く添え木解く」。
      
檎子ちゃんの妹は、世界中で活躍中のソプラノ歌手である。自ずと音楽の血が騒ぐのだろう。
今、地域の主婦の先頭でハンド・ベルのサークル活動中だ。知性と感受性に恵まれた美しいひとである。


三島池の伝説

2011年07月11日 | 詩歌・歳時記

湖北の明峰、伊吹山の四季折々の姿を、池面に映す三島池は、わが国に飛来する鴨の最南端地である。
むかし、むかし、この三島池に水が溜まらず、これを占ってみると、一女を池中に生き埋めにして、
水神を祭れば、満水になると、卦が出たそうな。そこで、この地の豪族、佐々木秀義の乳母で、
比夜叉御前という女が、生きながら池底に入り、機織り共にに埋まると、たちまち水が溢れ出たそうな。
    
その後、常に満水で、いかなる旱天にも涸れたことがない。そこで比夜叉を水神として崇めている。今でも、深夜、水底から機織りの音が聞こえると言うことだ。
古歌に次のように詠む。


   名にも似ず心やさしきたおやめの誓いも深くみつる池水

池の端の緑陰に憩い、珈琲を沸かし、本を読み、ふと目を上げると、伊吹山の中腹あたり、色とりどりのハング・ライダーが軽やかに風に流れている。匂うような緑の氾濫である。伝説がまさにふさわしい、深いエメラルド・グリーンの水の彩りである。