湖の子守唄

琵琶湖・湖北での生活、四季おりおりの
風景の移り変わり、旅先でのふれ逢いなど、
つれづれなるままに、語りたい。

写植商売

2011年03月25日 | 詩歌・歳時記
このブログは昼休みに、珈琲飲みながら、携帯に打ち込んでいる。
完成後にパソコンに飛ばす訳だが、文字を間違えても、削除一発、打ち直せば失敗の形跡も残らない。
ワープロでもパソコンでもそれが一番の利点だ。
あの頃のあの苦労は、いったい何だったのかと思わずため息がでる。

写植のツラいところは、誤植の修正だ。ひとまず、余白に正しい字を打っておき、現像後に乾かして、
誤字の4辺にカッター・ナイフで浅く切り込みを入れ、剥ぎ取る。
次に正字も、こちらは丁寧に、剥いだ跡と同じ大きさに薄く剥ぎ取り、糊をうすく付け、はめ込むのだ。
打ち上げた印画紙をみれば、腕の差は一目瞭然だ。

独立してからは、精神集中、極力カッターの跡のない印画紙を心掛けた。
打ち上げた印画紙が、商品であり、作品なのだ。快心作が現像液に浮き上がる瞬間は、快感である。
若いデザイナーが持ち込む、さまざまな原稿。彼らの業務は実にハードだ。
クライアントとの打ち合わせ。コピーライター、イラストレーターの手配。そして、写植・版下の発注。
次は製版所の確保。そしてようやく印刷、製本を経て納品に至る。
深夜まで仕事がずれ込むことなど日常茶飯事だ。時間に追われまくる、彼らを助けるため、
写植を打つ時は、誤字・脱字、また文脈まで直しながら作業を進める。
国語力なら負けない自負があった。それで信頼を得た訳だ。

校正から帰ってきたコピー紙が真っ赤な時は泣けてくる。いい加減な編集者を呪いながらも、
顔で笑って心で泣いて、写植商売のツラいところである。

ある日、初めての会社から仕事の依頼がきた。原稿を読むと巧妙に誤字が撒き散らしてある。
成る程、腕を試そうと言う訳だ。爪と瓜、専門と専問、完璧は壁ではないと言う具合だ。
さあ、気合いが入った。
A4のサイズのトンボを打ち、ノーミスで打ち上げて、そのまま台紙に貼れば版下の完成だ。
納品に行った。
社長はニヤリと笑っただけで、何も言わなかったが、その日から毎日の様に注文がくる様になった。

また、夜中に叩き起こされて、一文字をすぐに打ってくれと哀願されたことも、何度もあった。
青春と共に生き、天職ともいえた、そして今は世にない、写真植字機である。

「春を待つ少女」と蕗の薹

2011年03月19日 | 詩歌・歳時記

残雪の湖北の山々を背景に、野の梅もちらほらと咲き始めたこの日頃、
いまだ寒い風に向かって山並みを見つめる時、思わず口ずさむ昔の歌謡曲がある。


  ♪雪割草にくちづけて はるかな山を見る少女
    一人ぽっちは淋しいけれど ほらほらすぐに花咲く春が
   青い青いあの尾根に ほらほら君の瞳にも♪


45年も前にヒットした安達明の歌「春を待つ少女」である。
          詩:西沢爽、曲:遠藤実、64.12 日本コロムビア。¥300。
伸びやかな高音が心地よく、たたみかけるリズム感が沸き立つようで、早春のマイ・ソングである。
その他にも「女学生」「潮風を待つ少女」など多数のヒット曲を持つ、
ご三家に次ぐアイドル・スターであった。
                
この頃になると、蕗の薹を採りに行くのが、毎年の恒例だ。
    
家の裏手に名神高速道が走ってい、その土手に淡いみどり色の顔を覗かせるのである。
以前は、次にわらび・ゼンマイが生えてきて、5月になる頃はタラの芽が採れたものだった。
山菜の宝庫だったのだが、国土交通省の(整備・美化事業)によって、植物分布が変わってしまって、
今は蕗の薹のみが健在である。
そして、何故か時を重ねて持病の痛風が出るのであるが、今年は植物全般が遅いお蔭で、セーフだった。


採ってきた蕗の薹の半分を、東京の従妹に送り、残りの半分を天ぷらに、あとはふき味噌にして、
早春のほろ苦さと明るい季節の到来の歓びを味わうのである。

   海彦のカキフライ食い
   山彦のふきのとう食う
   春浅かれど

これからは1週間ごとに、北へ北へと野山に歩を伸ばすのである。
福井県との県境近くまで、1ヶ月は楽しめる訳だ。
この時期を狙って、大阪の弟が帰ってくる。自分の寝床が気になるのだ。

雪が多い年は、ことのほか蕗の薹の味わいが深いようだ。
厳しく、長い冬を耐え忍び、乗り越えてきた人間たちへの、大自然からの賜物かも知れない。


ほたるいかの町・滑川( なめりかわ)

2011年03月13日 | 詩歌・歳時記
春の気配と冬の名残が、毎日のように綱引きをしているこの季節、スーパーに並ぶようになった。
ほたるいかである。
だが、きっぱりとまだ買わない。初期のこの時期、売り場に並ぶのは兵庫県産である。
やがて、北上して富山湾に入り、豊富な栄養と豊饒な海洋深層水に育てられ、
まごうことなき、富山のほたるいかとなるのだ。待てば海路の日和あり、である。

ほたるいかとくれば、滑川だ。快女優にして名エッセイスト、室井滋さんのご城下である。
すなわち、わが生まれ故郷、魚津の西側のおとなりさんだ。
国鉄の滑川駅から、なだらかな坂道がずっーと海辺まで続く、なんとも心おちつく町並みである。

その海辺に「ほたるいか・ミュージアム」がある。ほたるいかの発光ショーを見せてくれる劇場があり、
展示ホールやギャラリーなどの施設が充実している。
隣接して土産物売場があり、いつも買い求めるのが、ほたるイカの素干しである。
ライターであぶって食する。すぐに柔らかくなり、ほろ苦さとイカの旨味が口にひろがる。
二階がレストラン。「ほたるいか御膳」が旨かった。凝った容器に、さまざまに料理された
ほたるいか尽くしである。沖漬けは勿論、天ぷらがあとを引く美味しさであった。

その2つの建物の間に「タラソピア」がある。富山湾の沖合いから採取した海洋深層水を
引き込んだプールなのだ。ジェット水流が心地良い。故郷の海に身を任せているごとき安らぎを覚える。
すぐ近くには「アクア・スポット」があり、塩分を抜いた深層水を購える。キャンプの必需品である。
珈琲を淹れて飲むとき、故郷の味をゆっくりと楽しめる。
今日(3月9日)最近友だちになった、魚津生まれのひとから「ほたるいかが解禁になった」との、
メールが入った。2、3日後には、湖北にも入荷するだろう。
蕗の薹の天ぷらとともに、早春の楽しみな味わいではあることだ。

敦賀・トンネル温泉

2011年03月07日 | 詩歌・歳時記

明治のみ世、まず東海道にレールが敷かれ、次に北陸線の計画が立てられた訳だが、長浜のちりめん組合の猛反対にあって、路線を変えなければならなくなった。曰く、ちりめんの布地が蒸気機関車の煙りで汚れると言う訳だ。そのため、関ヶ原から山裾を迂回して越前海岸へ至ったのが、当時のルートであった。

今庄から杉津へ行く途中、むかしの汽車のトンネルが、一方通行の車道になっている。青信号で進入するのだが、インディ・ジョーンズの世界に紛れ込んだごとき、不思議な体験を味わえる。それはともかく、昭和になって米原を経由して、長浜から敦賀へて新しい北陸線がひかれた訳だが、そのトンネル工事の際、温泉が吹き出したのだった。それ故、「トンネル温泉」と称する。

敦賀の町の外れ、ひとつの山にホテル、旅館などいくつかの温泉施設が建っている。以前は日帰りの利用ができた、国民宿舎があったのだが、老朽化により閉鎖され、新しく建てられたのが、敦賀インター・チェンジを見下ろす高台に、豪華客船を思わせる風貌の「リラ・ポート」である。ゆったりとし
た造り、清潔で広々とした空間である。一階が受付、売店。二階に洋間と和室の休憩室とレストランがあり、三階が浴室だ。地下1500メートルから汲み上げた温泉とトンネル温泉を引いた、二つの湯槽があり、2倍楽しめる訳だ。肌がつるつるになる良いお湯である。露天風呂もあり、雪の日の風情は堪えられない。反対端には、温泉プールがあり、ジェット水流に身体を当てていると、1週間の疲れがスーと抜けていく気がする。お湯のなかをひたすら歩くひと。インストラクチャーの指導のもと、水中体操するひと。思い思いに楽しんでいる。入浴後もお楽しみが待っている。越前の海の豊富な魚介類、越前おろしそばも、処の名物である。車で10分ほど走ればたくさんの海産物店が集まった市場があり、今なら越前カニを求める人たちで、大にぎわいだ。この地は古代から、大陸との交流の窓口になっていた。鎧兜の異国人を見て「頭に角を生やした人が来る所」つのが……敦賀の名の謂われである。