湖の子守唄

琵琶湖・湖北での生活、四季おりおりの
風景の移り変わり、旅先でのふれ逢いなど、
つれづれなるままに、語りたい。

お見事! ヤモリの忍者ぶり

2015年08月24日 | 詩歌・歳時記
毎夜茶の間の網戸に、獲物を求めて這い登り降りる「ヤモリ」が、孤独の長夜の
相棒である。夕べ今年初めて奴の「狩り」の現場を見届けられたのだった。

大きな蛾に、もどかしいほどの時間をかけて忍び寄るヤモリ。じりじりと縮まるそのディスタンスに、私も息を飲む。
美しき花火や母の居るごとし
獲物に飛びかかるのは、まさに一瞬であった。お見事! ホームランにはあまり縁のないホークスの今宮健太選手が、会心の一発を放ったごとき、快感をわがヤモリと共有しえた瞬間である。

ところが獲物が大きすぎた! ひと飲みにはできなくて、その姿♪ 往年の「エリマキトカゲ」である。
ジリジリと移動して、レストランへと帰ってゆく。拍手喝采ではある。
生きるとは失ふことか百日紅
ふと振り返ると、うふっ? 今夜もきている。心なしか? 少しおまえは太ったぜ。
♪ヤモリよ、今年もありがとう。

「今は昔のこんなこと」佐藤愛子

2015年08月21日 | 詩歌・歳時記
米原市のふたつの図書館の、食指がわく本はすべて読んでしまった。さて、どうしよう? 7度めの「鬼平犯科帳」へ行こうか? 2度めの「黒川博行」は、さかのぼつて全て読んでしまった。

図書館の書棚の最上段に、文庫本や新書が並んでいる。あぁ見っけ!
佐藤愛子「今は昔のこんなこと」。
生きている母に読ませたかったと、つくづく思いました。


ちなみに少タイトルを並べますね。
♪腰巻き 蚊帳 アッパッパ 居候 乳当て 釣瓶井戸~
ボクはほとんどの話題を理解できるし、かって母と交わした昔ばなしを思い出しては、鼻の奥がズーンであります。

「我が家の中学校の孫が・大つごもり・を持ち出して声をだして読み出した。」
♪井戸は車にて綱のながさ十二尋」
愛子さんが孫娘に説明する。けれど分かるはずがない。

現代ではほとんど「死語」となった、大正、昭和年代のけれども決して忘れてはならないさまざまな風俗や言葉を、ユーモアの衣に包んでは、相変わらずの毒舌で言い放っておられる。

亡き母と本を真ん中にして、昔むかしを語り合いたい! しみじみ思わせる本でありました。



猫は嫌いだ!

2015年08月16日 | 詩歌・歳時記
ボクの寝室の廻りを、「みゃおうー、みゃおうー」と野良猫が歩きまわっている。ボクは「猫が嫌いである」
だけれども、その鳴き声に「腹へった、食わせてくれ」と訴える声にボクは感応 した。

ボクは「猫は嫌いだ」でも、つい食べ残しの ポテトチップスやアラレを庭に撒いてしまった。庭の隅でひそやかにかじる音が聞こえる。満腹したのか? もう鳴き声は聞こえない。

これがなぁー、柴犬の子供だったら~ボクは一瞬にして、しあわせ! 家にあげて
ラブラブであったろう。
あっー、白昼夢を見せてくれた、真夜中の「野良猫」ではあった。


弟の納骨

2015年08月16日 | 詩歌・歳時記
2月に死んだ次の弟のお骨を持ち帰ったのは、東京でも珍しい大雪の翌日だった。肺癌を宣告されて10ヶ月の闘病の末のことであった。私よりも8歳も下の若すぎる死であった。

二人いる弟の上の弟は、6歳下。こいつはとにかく涙ぐましいほどの努力の結果、常にクラスのトップクラスの成績を保っていたのだが、それにひきかえ下の弟は真面目に勉強などしているところは見たこともなかった、天才型であった。

十藥や倉のうらにも風ながる 伸

普通に県立の高校へ上がってさえいれば、と今は思う。教師の多大な期待のあらわれか? 福井の高専へ進学したのが間違えの第一歩だったのであろう。
天童といえど100人も集まれば、落ちこぼれもでるのは必定である。

鷄頭花鳶には鳶の峡の空 伸

それから、弟・伸の波瀾万丈の物語のはじまりである。伊豆の御蔵島から手紙がくる。かと思えば「父島」で仕事してるよ! と連絡してくる。はては、流しの演歌師に弟子入りしたぜ、と電話がはいる。彼の知能、鋭さを受け入れる「社会」が日本にはないのである。

保存樹といひし落ち葉を焚きにけり 伸

いつだったか、私のデザイン事務所でアルバイトをした。ふつう3年はかかる総てのことを3ヶ月でマスターしてしまった。一を言えばたちまちに十を感得してしまう、あいつであったことだ。



今日、弟のお骨を母と父が眠るお墓に納骨しました。でもなぁー、あいつは今でも好きだった上高地の山々や梓川の畔を飛んでいるのだろうか?



たまには、父母の懐で甘えるんだぜ♪

そして、長崎の日。

2015年08月07日 | 詩歌・歳時記
トラックの仕事で広島へ納品に行ったおりに、走りまくった広島の町は美しかった。幾すじもの川と橋との光景を横目にして、けれども仕事だものね。原爆ドームもちら観して、私なりに「広島」を理解したのだった。



長崎は高校の修学旅行ってやつ。いわゆる名所を巡るくだらないスケジュールの旅でした。その後俳句を創るようになって、長崎出身の評論家「山本謙吉」氏に傾倒してからは、長崎の歴史も随分知りました。

当時の日本の軍部は、広島への原子爆弾投下でいまだ目が覚めなかったのか?
勿論たった2日である。情報もゆきとどなかったのか? そんな日本に戦争を続ける資格さえなかったのは当然ではあるが。長崎へは理不尽であると思うのだ。

前回にボクは「広島への原子爆弾投下は必然であり、アメリカは当然な戦略を行った」と書いた。それゆえ、戦争は悲惨であり二度と起こしてはいけないのである。ボクの父と母は戦争の話しは、けっこう聞かせてくれたのだ。

戦前の軍歌や歌謡曲も歳のわりには、随分知っている。被爆されたお年寄りが涙ながらに語るのを、お涙頂戴で感じ入るのは危険である。日本もアメリカ本土へ風船に結んだ爆弾を飛ばしたんだ。もっとも小さな山火事を起こしただけであったが★ たが戦争である。原爆と風船爆弾にどれ程の違いがあるか!

天皇家の謝罪こそ待ちたいものだ。