湖の子守唄

琵琶湖・湖北での生活、四季おりおりの
風景の移り変わり、旅先でのふれ逢いなど、
つれづれなるままに、語りたい。

さすらいの旅   その3

2011年05月26日 | 詩歌・歳時記

ひとが何事かをなす時に、大切なものは「天の時と、地の利と、人に恵まれるか」だそうである。
戦国時代、地の利を最大に活かしたのが、織田信長であるならば、京から遠く雪国の宿命に泣いたのが、
上杉謙信であろう。けれども、領地を広げようと、私利私欲のためには、けっして戦をしなかったのも、
彼、謙信であった。その謙信が築いた春日山城址へ、いざ、参ろうと存ずる。

麓の小さな駐車場に停めようとして、上をみる。急な坂道の舗装道路が延々と続いている。
如何にもしんどそうだ。ふと、右手を見ると「上には駐車場はありません」の看板が、
やむ無く歩くことにする。


左手は深い谷だ。前途多難である。何台かの車が追い越して行く。「えっ、なんで…」。
舗装が切れて、左手にソバ屋があり、なんと右手には駐車スペースがあるではないか!!
目の前に大きな謙信の銅像が遠く越後平野を見つめている。ここからが春日山城址への本番である。

山道が延々と伸びて、天空へ吸い込まれるようだ。ベルトを締め直し、靴紐を結び直す。
丸太で補強された急な階段を登る。幾つもの曲輪跡や遺構が現れ、さらに登るのだが、
天守跡の看板など何時のことやら。鋭く切り立った崖の上には「毘沙門堂」があった。
再建されたもの。だが、格子戸から見える高さ30センチほどの毘沙門の像は、謙信の念持仏である。
出陣にあたり、この前で毘沙門天に祈り、檄を飛ばしたと言うことだ。
         
直江兼続の屋敷跡は、まるで天空に浮かぶ丸い台地だ。奥方のお舟さんや女人たちの健脚を思う。
こんな山の上で営まれた生活とは如何なるものか?想像だにできない。
そして、ようやくにして天守跡に立つ。はるかに日本海を望む。咲き残る山桜が可憐である。

なんたる、スケールの大きさ。地形を巧みに用いた、縄張りのこの絶妙な配置。唸るしかないのであった。
そして、いつものことながら、帰り道の遠いこと。けれど、じわじわと充実感の充ちてくる帰途であった。


さすらいの旅   その2

2011年05月20日 | 詩歌・歳時記

旅のあいだは午後の3時ごろ、コンビニに寄って、ロックアイスと缶ビール2本、
それに…何かの時の助っ人に、カロリーメイトとロールパンひと袋を購入。ウィスキーは用意ずみだ。
これで、何処で夜を過ごそうが、高速に乗ってSAで寝ようが、大丈夫なのだ。

妙高高原駅の横の案内所で、立ち寄り温泉を教えてもらい、二枚の詳細な地図を頂く。
急な坂道の、静かな町だ。むかし、舟木一夫の「高原のお嬢さん」の映画のロケがあったそうな。
深く頷きうる風情の一帯である。温泉はやや青みがかった、柔らかな泉質のしっとりしたお湯だった。

道の駅で寝る準備をする。2本の缶ビールでうがいした後、ウィスキーの水割りを遣りながら、
本日の旅程を思い返して、徒然なるままに短歌と俳句を創る。テレビもラジオもオフのままだ。
そして、朝…妙高高原へ。
            
そこここに溶け残り、固く凍りついた雪が、春に背を向けるようにしてかたまっている。
いもり池を歩く。むかしは湿地帯だった由。
神聖な雪の耀く妙高は、素晴らしいの一語である。

いつも見馴れた愛する伊吹山も、日本百名山のひとつであり、薬草の宝庫ではあるが、比ではない。
宇宙から降りてきて、青空を従えて、この大地に君臨するかのように、威厳にみちて聳え佇つ。
鷲が両翼を広げたように見える。その雄大さと神秘性には完璧に圧倒されました。

池の反対側、板の道をはさんだ山側の湿地帯に

水芭蕉の群生が、緑と白の美しい姿を見せる。


                                                        
上越へ向かう途中、巨大な道の駅で、「きときと寿司」を味わう。氷見に本店がある回転寿司である。
即ち、わが生まれ故郷の味。地物の鯵、ホタルイカの軍艦巻き、忘れちゃいけないブリの握り。

さて、腹もくちたところで越後高田城を目指す。地図は一切見ない。勘を利かせて進路を決めてゆく。
初代城主、松平忠輝公。家康の六男にして、伊達正宗の娘、いろは姫の夫。時のスーパー・スターだ。
その器量の大きさを恐れた、二代将軍・秀忠によって改易させられた悲劇の武将である。

葉桜を揺らす五月の風が心地良い。石垣のない城。こじんまりとした、佳い顔をした城である。
                                                                                                    続く


さすらいの旅  その1

2011年05月14日 | 詩歌・歳時記

五月の連休を利用して、あてのない旅にでた。
とにかく四日目の宿を、富山県の氷見に取っただけで、あとは行き当たりばっ旅である。
何処へ行こう?と考える間とてなく、腕がハンドルを北へ回す。

          体内に毘沙門天の棲むごとく
          北目指す時
          心康らぐ

父ともども富山県魚津の生まれだ。そして、二人とも肌が真っ白である。間違いなく北方系だ。
もっとも、亡き父は顔と両腕は真っ黒であった。戦時中の南洋焼けである。
それは兎も角、岐阜の街を抜け、各務ヶ原、鵜沼と一路、木曾街道へ向かう。
旅の始まりに聴く歌は、いつも決まっている。


          「赤い花」             詞:水島 哲 曲:北原じゅん クラウンレコード


            ♪春に背いて 散る花びらを         ♪♪思い出さすな 夜空の星よ
             背に受けゆこう ひとり旅            深いひとみの 面影を
             流れる雲の そのまた果てに          道なき道を ふみしめ今日も     
             何が待つのか この俺を             たどる心よ 強くあれ

 45年来の愛唱歌である。坂道の登り、下りを繰り返して、中津川市から、いよいよ木曾路へ。
馬籠、妻籠は当然のようにパスする。

        木曾のナァ木曾の馬籠はなんじゃらホイ
        現代人が 
        ひしめき歩く     
                                                        
数年前、立ち寄ってへきへきしたのだ。完璧観光地、田舎とは到底思えない人の群れ。寄るだけ無駄である。せめて宿に泊まり、早朝を歩くのならば・・・。

                                         
「寝覚めの床」の石くれの道を歩く。
木曾川の激流が削り取った大岩の間を、あくまでも蒼い流れが、滔々と行く。
浦島太郎がその後、全国を旅していて、この地の美しさに魅せられて住み着いたとか。
ある日、この大岩の上で久し振りに玉手箱を開けた処、煙りに包まれて三百歳になったそうな。
苦笑しながらも、頷いてしまう、そんな長閑さに満ちた、場所であった。
             
再び北上。桜花いよいよ咲き盛ってくる。塩尻まで来て、初めて迷う。右へ行けば小諸である。
若草を尻に敷いて、藤村を気取り、遊子になりきってみたい。千曲川をじっくりと観てみたい。
だが、そうなるとその後の旅程がキツイ。またにするか?

左に進路を取る。日本海に抜けるルートがふたつある。大町、白馬を通り姫川沿いに進む道。
だが、ここは半月前に立山アルペン・ルートのバスツァーで通ったばかりだ。で、松本へ向かう。
ハンドル握りながらも、短歌と俳句が次々湧いてくる。一つづつ暗記するのだが、二つ目は無理だ。
その都度停車し、携帯のメモ欄に打ち込んでゆく。
初日は俳句ばかり湧いてきたが、今日は短歌の日のようだ。
自分で選ぶ訳にはいかない。短歌が来るのか?俳句が湧いて来るのか?先様次第なのだ。
                          
観光客でごった返す松本城を、早々に後にして、お目当ての妙高高原を目指す。   続く


木村重成の血染めのすすき

2011年05月01日 | 詩歌・歳時記
米原から北に長浜市があり、西に彦根市がある。両市とも城下町ではあるのだが、気質が全く違う。
長浜は商人の町だ。進取の精神にあふれ、新しいものに果敢に取り組んでいく。
秀吉の名残りが今も色濃く漂っている。長浜城博物館の建設費用の大半は、市民の寄付で賄われたのだ。

一方、彦根は徳川時代の封建的な気風に包まれて、ゆったりとして、静かであり、古風である。
前市長の伊井直愛氏は、伊井家直系の子孫であり、大老・直弼の曾孫だったかな?。
穏やかな風貌のなかにも、威厳と品格をそなえ、お殿様然とした、かくやあらんと言うお方であった。
     
彦根城を出て、外濠を渡る。一筋の道の両側に、城下町を模した食事処、土産店、ローソク屋などが、
ひとつのコンセプトに統一されて並んでいる。市の補助を受けて、整備された新しい観光スポットだ。
名付けて「夢京橋キャッスルロード」。
その中程に「宗安寺」の赤い門が見えてくる。浄土宗の名刹である。

豊臣家が滅んだ、かの大阪夏の陣の折り、 勇猛果敢に戦い、
討ち死にした木村長門守重成の首塚が、今も丁重に祀られている。一説には、秀頼の乳兄弟という。
合戦に望むにあたって、兜に名香をたきこめ、首実験の折り、その床しさに家康も感嘆したと言う。

伊井家の安藤長三郎が、その首をもらいうけ、傍らの薄の穂に包み、
彦根のわが菩提寺であるここ宗安寺に祀ったのである。
この血染めの薄は、みたび、場所を変え、今も宗安寺に現存している。

この往来を「朝鮮人街道」と呼ぶのだが、江戸時代に唯一交易していた朝鮮からの通信師一行が京から、
江戸へ下る道なのだ。国土を広く見せるため、やたら曲がりくねっている。
安土城の麓を巻くように道が続いている。

この一行の上官たちが、宿泊したのが宗安寺である。そのため、赤塗りの正門のとなりに、
肉類を搬入するためのやや小ぶりの黒門が、今は扉を閉ざして歴史の語り部のごとく存在している。