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十和田湖民俗資料館と旧笠石家

2012-06-28 | 民俗
黒沢明の「夢」で、水車のある村の女性がかぶっていたバオリは、五戸のものでした。
青森県南地方で広く作られていたバオリを十和田湖民俗資料館で見かけました。
地域によって少しずつ形の変化があって、曲線には見飽きない美しさを感じます。

旧十和田湖町は山村のため、生活の道具で木挽きに使う鋸や斧などが数多くあり、立派な大鋸も展示してありました。
隣接する旧笠石家住宅の床板は、表面に綾型の凹凸があって、外光によって美しく模様が浮かび上がります。
これは板の表面を手斧(チョウナ)で仕上げたからとのことで、機械のない時代に手作業が生み出した形には暖かささえ感じます。

 


古い生活道具には色々なアイデアが詰まっています。
先日、かせくり器の形状について調べていたため、特に糸巻に興味が向いてしまうのですが、糸を巻いて束にするにも色々な方法と方式の違う道具があります。
自分でも、どのような形状が無理なく作業ができるかなど多くの事を考えていましたので、水平方向と垂直方向に巻き取る糸巻きの二種類が並んでいるのを見て、より効率的に作業できる道具に対する要求は、昔からあったのだなどと考えていました。



十和田湖民俗資料館



十世紀の自然災害と修験道

2012-04-19 | 民俗
震災以降よく語られるようになったのが貞観地震で、古い時代の災害についての理解も進んでいるように感じます。
貞観地震は869年と推定されていますが、9世紀は自然災害の多かった時代で、特に東北地方では871年に鳥海山の噴火、915年には十和田湖の御倉半島噴火と大災害が続いています。

9世紀の東北地方は文献記録も少なく、考古学的には末期古墳時代で防御性環濠集落が多く造られた時代であり、北海道アイヌ由来の擦文土器の出土が見られることから津軽海峡を越えた人的・経済的交流も盛んであった時代です。
725年には大和政権による多賀城が設置され、9世紀まで大和政権による支配の北上が続き、政治的には不安定であったとも考えられます。
新しい支配者による統治の途上に大災害が続いているのが9世紀のありようで、北方との交易と大和政権による「柵」と言われる出先機関の混在する時代、東北の人心掌握は宗教による部分が大きかったと思われます。
『日本三代実録』では9世紀の豪雨災害に対して「禍を転じて福と為すには、仏神是れ先となす。宜しく法を修め幣を奉るべし」と、信仰心を説く勅が発せられています。
鳥海山噴火では「明神にに祈っておりながらまだ感謝もしておらず(中略)神が怒って山を焼き、この災異を起こした。もし鎮め感謝しないならば兵役があるであろう」とのト占が出された記録があります。
「法を修め幣を奉る」「明神」「鎮め」などのキーワードを見ると、未だ精神的には大和国家といえない時代に、精神的な統一感をもたらすのは宗教による教化の力で、元々あった古信仰を取り込んだ修験道に近い信仰形態だったと推測されます。

「八郎太郎」の伝説は、蛇と化した八郎太郎と南祖坊が十和田湖を舞台に戦い、法力によって南祖坊が勝ち十和田湖の主となる話です。
これは915年に噴火した十和田湖御倉半島を伝える話だという解釈があります。
ここで注目したいのは十和田湖噴火と火砕流を表す八郎太郎が、宗教者の法力に負けたという話の流れで、自然災害に対して「法を修め幣を奉るべし」と説く権力者と、実際に布教に関わった宗教者が語ったであろう説話の相乗効果です。
十和田湖の噴火はヤマセの季節であったらしく、噴煙は西に流れ青森県南の被害はそれほど大きくはなかったと推測されていますが、それでも紀元後二千年間で最大とも考えられる大噴火を間近に見た人々の恐怖は大きかったのでしょう。
自然災害に対して神に祈るしかない時代、大きな恐怖はそのまま信仰心へと強く結びつきます。逆に信仰心があるからこそ乗り越えられる苦難もある。
現代でも十和田神社の名を持つ社や祠は多く、十和田湖の休屋にある十和田神社は熊野系修験道の一大聖地でした。
江戸時代までは女人禁制の聖地だったとも言われています。
十和田神社は対岸にある御倉半島を祭り鎮めるため建立されたと考えられます。


この十和田湖への信仰を布教したのはどんな人々であったかについて、下のリンク内に詳しく書かれていますが、南祖坊の出身地とされる南部町の斗賀観音または八戸市豊崎にあった永福寺の修験道者ではないかとの説があります。
この二つの内、八戸市豊崎には七崎神社があり、また、近隣には防御性環濠集落遺跡である上七崎遺跡があります。
この遺跡は10世紀後半頃と推定されていますが、錫杖型鉄製品も複数発見されています。
10世紀は空也上人の時代でもあり、この時代において錫杖の持つ意味は宗教的な祭具と考えて差し支えないでしょう。
北東北に文字記録の無い時代から現代まで続いていて、十和田湖の噴火と十和田信仰とも深く関わっているのが、巨木の杜である七崎神社ではないか。そんな想像をしています。


十和田湖神社の占い場では、明治と昭和時代に複数回の潜水調査がなされ、たくさんの古銭が回収されたとのこと。
古銭の年代調査ができれば十和田湖信仰の歴史も詳しく知ることができるのでしょうが、明治時代に引き上げられた古銭は散逸してしまったらしく、現在もどこかで展示されているのかは寡聞にして知りません。
ぜひ見てみたいと思う歴史の遺物です。





秋田県出土銭貨資料一覧
『秋田銭貨史』によると、昭和10年頃「十和田湖、十和田神社の占場の湖水から夥しい金、銀、銅、鉄銭、銀貨、銅貨が潜水夫によって引き揚げられる」とある。占場の湖水は、十和田湖に突き出る二本の半島に挟まれた中湖を指す。占場は、十和田湖第一の霊地とされ、神社参拝者がここから浄財を湖中に投ずる風習があり、水揚げされた銭貨は信仰に伴う賽銭と推定される。   
地学セミナー 十和田湖の成り立ちと平安時代に起こった大噴火
十和田湖と周辺域の歴史と現状 [PDF]
日本海をはさんで10世紀に相次いで起こった二つの大噴火の年月日 --十和田湖と白頭山--
十和田湖「謎の洞窟探検記」
参考図書
青森県史 資料編 考古3 弥生~古代
十和田湖  武田千代三郎著
十和田湖町史 上





赤倉信仰と栄助様

2012-01-30 | 民俗
巫病と言うものがあって、神の託宣を聞く人が、その力を得る前に罹る体調の変化を指しています。
青森県はイタコやゴミソ、オカミサンなど巫業に関わる人が現在もいて、そういった技能を身に付けた時の話を聞くことも多い。
そんな風土であるため、巫病らしき病の人がいればその人の経過に関心を持つ事も多くあり、巫業というのは神がかりをする本人と周囲の期待との間に生まれてくる職業とも言えるでしょう。

板柳にある赤倉神社は、赤倉沢で神になったといわれる明治時代に実在の人物を祭っている社です。
奥の院は岩木山の赤倉霊場にあり、板柳の赤倉神社は、その人の家の敷地に創建された神社で、今も信仰する人は多いと感じます。
明治時代の人物ですから古い社ではありませんが、信仰心がどのように醸成されたのか。また、この地方特有の信仰感覚を考える上で人々がどのように認識していたのかがよく分かる、そんな神社でもあります。
地域によって信仰の形は変わってきます。でもその違いこそが地域の特色を炙り出す指標のような物だったりします。
津軽という独特の文化を、このような信仰心から考えてみるのも興味深いものです。
「古い」というのは、実はとても大きな魅力の源泉だと確信しています。



新和村種市の対馬佐治兵術といふ人の兄が代わり者で山人になったといわれてゐる。十七、八歳のころから性質がボンヤリとなり、寒中でも白衣一枚で褌をしないで座って目をつむり、人が近寄っても他を向いて物も言わないといふ風で、いつ誰が言ったともなく、この人を神様と呼び、その父の手を経てこの神様から護符をもらうやうになった。しかし、心が進まぬ時は、いくら父から乞はれても与えてくれず、尚はげしく言われる時は日をつむったまま、座ってゐるところを探ってふれたものを手あたり次第にくれてやった。多くは節のある一、二寸のわら片であるが、そういふ時は神様のきげんが悪いから病人の看護に気をつけよと、その父が護符を乞ふ人々に注意してやるが、その病人は助かることはなかったといふ。(中略)
寒中でも、例の学衣で外出し、三十日間も家に帰らないこともあった。ある時、今日は遊びに行くぞといふので、父が握り飯二つを持たせてやったが、それっきり一ヶ月経ってもニケ月経っても帰らなかった。父も心配して村人に頼んで山を探したところ、岩木山の赤倉といふところに着物が、たった今脱いだやうに捨てられてあったので、父は帰宅する腹がないのだらうといって、そのまま引返した。
翌年、この家の苗代田の傍の平地の体み場に不思議にも清水が湧くやうになったが、地方の人は、これは神様の与へた水だといって崇め、眼を痛む人がこの清水で洗ふと治るといはれ、今はここにお堂も建ってゐる。

『津軽海峡夜話』―― 福士四郎、昭和一五年「種市の神様」






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宗教の効用について

2012-01-15 | 民俗
小正月も過ぎ、各種の正月行事もほぼ終わりました。
鏡餅やしめ飾り、初詣など、何がしかの正月行事を行っている人は多いと思います。
日本人は無宗教とよく言われますが、正月やお盆は地方においては今でも大きな行事ですし、何もしない場合でも意識はすることでしょう。

オウム真理教の事件から特に、「宗教は怖い」と考えられるようになったと感じます。もちろん私もそんな感覚を持つようになりました。
わが家には仏壇も神棚もありませんし、節目の行事もささやかに行うだけで、無宗教と言えば言えるのですが、完全に全部を取りやめると決意できるほど無宗教を自覚的に志向しているわけではありません。

三頭木を調べていくにあたって、民間信仰に関する書籍を読む機会が増えました。
明治維新後に、国家神道を普及させるための民間宗教の整理・統合と禁止の際に、庚申塔や山の神、賽の神など、伝承がはっきりせずに村の神社にまとめられた石碑もたくさんあると知りました。
道端に建てられている石碑などは、教義や伝承などと関わりなく信仰されていた存在でした。
これらの民間信仰につきものだったのが「講」の存在です。
現在でも百万遍塔の前で念仏数珠をたぐる風習は残っている地方も多いのですが、講は地縁に限らず血縁であったり知人による集まりであったりと、人間関係を複数化する働きがあったと思われます。
この「講」は相互扶助的な側面があり、経済に限らず困ったときの相談相手の幅を広くしていたとも考えられます。

現代でも人間関係の複線化の重要性はよく言われていますが、人間関係の構築は何もない所から作り上げるのは難しいものです。
人づてに何かの信仰に関わり、定期的な集会に参加し帰属性を育てるのは、行政によるセーフティネットのない時代には不可欠のものだったのかもしれません。
「村八分」など閉鎖的な社会と思われている地方の実情は、民間信仰によって複雑な人間関係を作り上げていたのかもしれません。
人間関係の構築という点で、現代にも通じる知恵なのだと感じています。
一概に宗教は怖い物とも言えませんし、取捨選択する目を養いながら、宗教にコミットすることも必要なのかもと思うようになりました。







南部小絵馬の話

2010-12-11 | 民俗
友人から学芸会に使用する舞台背景画を頼まれました。
演目は「南部駒踊り」との事なので南部小絵馬を題材に描いたところ、反対向きでもう一枚とリクエストされました。
南部小絵馬は左向きの物しか見たことがなくて、もしも自分の知らない言い伝えなどがあれば伝統から外れてしまう危惧が。そう思って色々と調べだしてみると奥が深い。

元々は神様に神馬を奉納していたものの、次第に扱いやすい馬の人形や馬の絵に変遷してきたため、本来の絵馬はその名の通り馬の絵が描かれているものでした。
願い事の内容によって、馬の絵はいつしか他の絵柄に変わっていきます。
なぜ馬なのかは、馬は神の乗り物とする信仰や、馬は神様であるとする信仰など多くの要素が絡み合います。青森県南部地域に多い蒼前信仰は葦毛四白の馬を神様としていますし馬には縁の深い地域です。
現在でも馬の絵の絵馬は奉納されているようで、1700年代に多かった図柄の絵馬が八戸市の岡田観音堂にありました。
岡田観音堂は南部小絵馬が最初に認められた場所です。その後七戸町の見町観音堂や小田子不動堂から同じような図柄の絵馬が見つかり、現在は七戸町立鷹山宇一美術館で展示されていますが、下の写真のデザイン性の高い絵馬絵は「藤右衛門の小絵馬」と名づけられています。藤右衛門とは岡田観音堂を管理していた人の名前であって作者ではありません。しかし1700年代に70年ほど続くこの系統の絵は、南部小絵馬のイメージを形作るほど強烈なインパクトを持っています。
自分で絵馬絵を描いてみて思うのですが、「藤右衛門の小絵馬」のデフォルメはとても親しみを感じさせ、この型の絵が当時も今も何故か人の心を掴みます。
今流行の「ゆるキャラ」の先がけかもしれません。

ちなみに南部小絵馬にも右向きのものはありました。
小田子不動堂と見町観音堂の絵馬では、左向きが252点に対して右向きは4点。
左向きの方が描きやすい、馬は左から乗るから、などと考えられているようですが、圧倒的に多い左向きの絵馬には何かしらの信仰的な理由があるのではと思っています。


・・・・ 追記 ・・・・
現在認められている南部小絵馬の、奉納年代が室町時代のもので「藤右衛門の小絵馬」と同じデザイン性の高い絵柄の数点については、書かれている年号に疑問があるとされているため、「藤右衛門の小絵馬」は1700年代のものだけとしてまとめています。

 


物語のフォークロア

2010-11-09 | 民俗
小さい頃、祖母から5代前の先祖の武勇談を聞きました。お城に住み着いた怪物を退治した話でした。
祖父の曽祖父という、なんとなく想像できそうな近い先祖の話だった記憶を思い出して、先日母に聞いてみたところ
「ああ、あれはお城の石垣に大きな蛇がいたから捕まえた話だよ」
と、あっけない答えが。
子供心に一大スペクタクルと思えた話は、何のことはない話に成り下がってしまいましたが、文字を持っているいないにかかわらず、家族やの歴史は伝承という形で伝わる場合が多いのだと思った瞬間でした。

東北の歴史は文字による記録がなく、大和政権という外からの記録や考古学的アプローチから類推するのが歴史時代以前を知る方法です。
記録がないからといって歴史がないわけではなく、縄文時代から続く長い歴史は、今でも心の奥や古いしきたりの中に眠っているかもしれません。
アイヌ民族にはユーカラという叙事詩があり口伝によって伝えられています。
文字がなくても伝承の方法はあり、物語を大切にする文化もありました。

アイヌ語で物語を表す言葉は「イタク」で、恐山で有名な「イタコ」の語源とする説もあります。
柳田國男はイタコの語源を、吾妻鏡(鎌倉時代1300年頃編纂)に巫女を市子と表記されていることから市子(イチコ)からの転化と述べていますが、私は「イタク」語源説に共感できます。
死者との交流は家族の物語であり、個人の人生の物語でもあります。
部族の歴史、の歴史、家族の歴史は重なりながらも重ならない部分を残し、部族・の歴史からはみ出した家族の中の個人的な歴史はイタコの口を通して語られます。イタコはまさに物語を語る人だったのかもしれません。

同じように占いなどをする沖縄のユタは、音の似ていることからイタコの転化ではないかとも言われますが、言語的には琉球方言とアイヌ語は関連性も薄く全く別の語源によるものと思われます。
しかし沖縄方言には「話す」=「アビル」の他に「語らい」=「ユンタク」の語があって、巫女である「ユタ」と「ユンタク」の音が似ているのは「イタコ」と「イタク」の関係と同じように「物語する人」の意味を感じます。




今日の写真は、私の父方の祖父が亡くなった昭和10年代の葬儀の写真です。
当時は女性の喪服は白だったことが分かります。




現代のシャーマニズム 赤倉神社

2010-10-14 | 民俗
今年の春早くに、少し認知症のある老婦人が散歩に出たまま行方不明になりました。
家族は心配して必死に探したらしいのですが見つからず、特にお嫁さんは責任感からうつ状態になっていたので、知人が占い師を紹介したそうです。
占いによって罪悪感や後悔の意識を少しでも緩和できたのか、お嫁さんはうつ状態から抜け出すことができたと聞きました。
占いの結果というより、カウンセリング効果が役立ったのだろうと思える話でした。

青森にはイタコやゴミソ、オカミサンなど、占いをする人がいます。
平成になってから新しくイタコになった人はいないけれども、オカミサンは今でも志す人が絶えないと聞きます。
ゴミソの本社となるのがつがる市の高山稲荷神社で、調べてみると、大正時代からゴミソに神習教(神道の教派)の教導職免許状の斡旋をしたとありました。
高橋竹山の奥様もゴミソで、この高山稲荷神社で免許を受けているとも。
二百基の鳥居が並ぶ!高山稲荷神社!!アオモリ探検隊より

オカミサンの修行の場所としては、岩木山麓の赤倉神社があります。
岩木山への登山道入り口にあたり、赤倉沢のガレ場が修行の場所になっています。
赤倉神社周辺には主祭神の違うお堂が数多くあり、まだ新しい建物も多く、現在も信仰を集めていることが伺えます。


青森の民俗信仰に興味を持って赤倉神社を訪れてみましたが、神道に融合しながら現在も信仰が広まっている生の姿を垣間見た気がしました。
パワースポットとも言えるのでしょうが、生々しすぎて少し違うとも感じます。ただ社会の通奏低音ともいえる民俗文化の、音源のひとつであることを強く感じました。





土地の記憶

2010-07-27 | 民俗
道端のお地蔵様とか道祖神、庚申塚を見るとなぜか興味が湧きます。
地方においても新しい住宅が立ち並び、かつての村落の姿を見ることはできませんが、住宅に挟まれてひっそり佇む小さな石仏は昔の人の生活の中で流れてきた時間を感じさせます。

現在の地域の景観は、市町村での都市計画に沿って公園や学校や歩道などか造られ、個人や企業による建築物が建てられています。
行政での基本計画にはそこに住む人々の意思はどれほど取り込まれているのでしょうか。
地域が農林漁業主体の集落であった頃は住人の総意として、集落の境界や辻に石仏などのランドマークが置かれ、集落の中央や集落と山の間には神仏を祭る場所が造られたように思われます。
これらに出資したのは裕福な個人だったのかもしれないし共同での出資だったのかもしれないけれど、集落全員にとっての心の拠り所として機能したはずです。
今でも夏には集落ごとの小さな祭りがありますが、祭りに合わせてお地蔵様に新しい頭巾と前掛けを着せるのも、ほんの少し昔にはごく自然に行われていた年中行事だったと記憶しています。

都市化もしくは過疎化で集落の形が変わっていく時、条文化もされずに続いていた習慣は少しずつ忘れ去られ、ほとんどの人にとってその意味は分からなくなっても石仏は残り続けています。
青森に住んでいると、そんな小さな遺産に残る記憶はまだまだ生きていると感じます。

 百万遍の石碑にに飾られた御幣。

「いただきます」を考える

2010-03-15 | 民俗
小学校で読み聞かせをしているためもあって、日本の昔話もよく読んでいます。
最近の絵本は現代的な言葉遣いで書かれていますが、古い昔話集などでは会話が妙に間延びしているように感じます。
最近の特色なのか元々ある傾向なのかは分かりませんが、会話の中での定型句は短く変化することが知られています。
「とうもありがとうございます」が「どうも」へ変化するように、挨拶でも年々短縮されているのですが、慣れてしまうとこれが当たり前になって元になっている型を忘れ去ってしまうために、そもそもの意味が分からなくなってしまいます。

お金を払っているのに「いただきます」と言うのはおかしい、という意見は極端な例ですが、元の意味の代わりに経済を指標とした考え方で理解しようとすれば、こんな解釈になってしまうのも仕方ないのかもしれません。
童話以外にも古い邦画の台詞で聞く以下の会話から、「いただきます」は「めしあがれ」などの食事を勧める言葉への返答として成り立っていたと考えられます。
食事を作る人と食べる人の関係性は、金銭の介在や調理の労力の劇的な省力化で大きく変わっています。
現代では食事を勧める言葉はほとんど死語となっていて、だから「いただきます」の意味が流動的になりつつあるのかもしれません。



「どうぞめしあがれ」
「では、いただきます」

「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」

あおもりくまの生態 いただきます
TERRAZINE 「いただきます・ごちそうさま」こそ日本文化そのもの






霊柩車を見たら親指を隠す

2010-03-03 | 民俗
つい癖でやってしまうのですが、あの呪い(まじない)は小さいときに
「霊柩車を見たら親指を中にして手を握って、親指を隠さないと親が早死にするんだよ」
確かそう聞いたような記憶があります。

呪いは小さいときに聞いて、記憶の奥底に沈んでいます。何かの折に不意に思い出し、でもその意味は分からないままでした。
最近になってデーリー東北新聞社の前身の奥南新報で記事になった話をまとめた本があると知りました。
「奥南新報『村の話』集成」というその本は、民俗学の柳田國男も参考にしたという第一級の資料なのですが、その中に指の名前が記載されているそうで、親指から順に

へびかしら
あらあら
おにこぶし
いさぼっこ
かんしろ


体の部分の名前は比較言語学でも使われていたと記憶していますが、戦前の話で地域による変化があるとしても、これはまったく違う言葉です。
指の名前が違っていたのなら、親が早死にしないようにという理由は後付けで、昔の人は違う意味をこの呪いの中に込めていたのかもしれません。

時代の底辺に流れる共通認識は、それが共通認識であるために説明されることもなく、後世の人から見たらまるで意味の分からないものになっています。
昔の人は何を考えながら、どんな理由でこの呪いをしていたのか。
青森に住んでいると、その理由はすぐ近くにあるような、そんな感覚を感じることが多いのです。