江戸時代の里の修験道は「霞(かすみ)」という縄張りのようなものを各寺社が持ち、里の住人の冠婚葬祭や占い事、年中行事を取り仕切っていました。
末端の寺社は地域内のヒエラルキーで地域内の本社を中心にまとまり、青森県の地域の本社は京都の修験道本山派聖護院か、当山派三宝院(醍醐寺)に属し、院号の申請などで京都まで出向いていたようです。
このような歴史はこの本にも詳しく書かれています。今熊神社の歴史
戸川安章の著作を読むと、明治の修験道禁止令の時に山伏の人数は17万とあります。人口3千3百万の時代に17万もの修験道者は多い。
全国津々浦々の地域のお堂を守っていたのは、今熊神社のように修験道者でもあった宗教者で、まだ仏教と神道が明確に分かれてはいない時代、加持祈祷や占いまでこなす修験道者は地域に住む人々の心のケアまで担っていたと言えるでしょう。
青森県内でもよく見かける「二十三夜」「庚申」の石塔や御地蔵様は、二十三夜講や庚申講など信仰由来の団体が定期的に集まっていた場所を示すもので、明治期に禁止されてその場所を移動したりと、江戸期そのままではないものの、そういう集まりがあったことを示しています。
定期的に集まる人間同士の間に次第に人間関係が育って行くのは、現代でも使われる人間関係の作り方ですし、困った時の神頼みや悩んだ時の占いは現代も生きています。
当時と今と違うのは「長く続く人間関係の中で」「同じ神を信心している」の二点でしょう。
信仰心を失った現在に、「同じ神を信心」は求められないのですが、たとえばこれが「同じ趣味を持っている」「同じ価値観を共有できる」という集合なら可能と思います。
断ち切られてしまった人間関係を、一人一人に心地よい形で再構築できるのかどうか。
それぞれがそれぞれの心の痛みや嬉しさなどを普遍として共有できるのかは、複線化された人間関係の中に同じ価値観を持つ人間関係を作れるかどうかにかかっているように思います。
そういう型を作り生きていた昔の人々の知恵に、現代は勝っているのか。
そんなことをつらつらと考えています。
末端の寺社は地域内のヒエラルキーで地域内の本社を中心にまとまり、青森県の地域の本社は京都の修験道本山派聖護院か、当山派三宝院(醍醐寺)に属し、院号の申請などで京都まで出向いていたようです。
このような歴史はこの本にも詳しく書かれています。今熊神社の歴史
戸川安章の著作を読むと、明治の修験道禁止令の時に山伏の人数は17万とあります。人口3千3百万の時代に17万もの修験道者は多い。
全国津々浦々の地域のお堂を守っていたのは、今熊神社のように修験道者でもあった宗教者で、まだ仏教と神道が明確に分かれてはいない時代、加持祈祷や占いまでこなす修験道者は地域に住む人々の心のケアまで担っていたと言えるでしょう。
青森県内でもよく見かける「二十三夜」「庚申」の石塔や御地蔵様は、二十三夜講や庚申講など信仰由来の団体が定期的に集まっていた場所を示すもので、明治期に禁止されてその場所を移動したりと、江戸期そのままではないものの、そういう集まりがあったことを示しています。
定期的に集まる人間同士の間に次第に人間関係が育って行くのは、現代でも使われる人間関係の作り方ですし、困った時の神頼みや悩んだ時の占いは現代も生きています。
当時と今と違うのは「長く続く人間関係の中で」「同じ神を信心している」の二点でしょう。
信仰心を失った現在に、「同じ神を信心」は求められないのですが、たとえばこれが「同じ趣味を持っている」「同じ価値観を共有できる」という集合なら可能と思います。
断ち切られてしまった人間関係を、一人一人に心地よい形で再構築できるのかどうか。
それぞれがそれぞれの心の痛みや嬉しさなどを普遍として共有できるのかは、複線化された人間関係の中に同じ価値観を持つ人間関係を作れるかどうかにかかっているように思います。
そういう型を作り生きていた昔の人々の知恵に、現代は勝っているのか。
そんなことをつらつらと考えています。