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同じ価値観を共有すること

2014-01-08 | 人間心理
江戸時代の里の修験道は「霞(かすみ)」という縄張りのようなものを各寺社が持ち、里の住人の冠婚葬祭や占い事、年中行事を取り仕切っていました。
末端の寺社は地域内のヒエラルキーで地域内の本社を中心にまとまり、青森県の地域の本社は京都の修験道本山派聖護院か、当山派三宝院(醍醐寺)に属し、院号の申請などで京都まで出向いていたようです。

このような歴史はこの本にも詳しく書かれています。今熊神社の歴史

戸川安章の著作を読むと、明治の修験道禁止令の時に山伏の人数は17万とあります。人口3千3百万の時代に17万もの修験道者は多い。
全国津々浦々の地域のお堂を守っていたのは、今熊神社のように修験道者でもあった宗教者で、まだ仏教と神道が明確に分かれてはいない時代、加持祈祷や占いまでこなす修験道者は地域に住む人々の心のケアまで担っていたと言えるでしょう。
青森県内でもよく見かける「二十三夜」「庚申」の石塔や御地蔵様は、二十三夜講や庚申講など信仰由来の団体が定期的に集まっていた場所を示すもので、明治期に禁止されてその場所を移動したりと、江戸期そのままではないものの、そういう集まりがあったことを示しています。
定期的に集まる人間同士の間に次第に人間関係が育って行くのは、現代でも使われる人間関係の作り方ですし、困った時の神頼みや悩んだ時の占いは現代も生きています。
当時と今と違うのは「長く続く人間関係の中で」「同じ神を信心している」の二点でしょう。
信仰心を失った現在に、「同じ神を信心」は求められないのですが、たとえばこれが「同じ趣味を持っている」「同じ価値観を共有できる」という集合なら可能と思います。

断ち切られてしまった人間関係を、一人一人に心地よい形で再構築できるのかどうか。
それぞれがそれぞれの心の痛みや嬉しさなどを普遍として共有できるのかは、複線化された人間関係の中に同じ価値観を持つ人間関係を作れるかどうかにかかっているように思います。
そういう型を作り生きていた昔の人々の知恵に、現代は勝っているのか。
そんなことをつらつらと考えています。





祈りの効用

2011-08-24 | 人間心理
毎年の事ながら、二学期の始業式の日というのは、夏の疲れをしみじみと感じる日でもあります。
単に子供の昼食の用意を毎日しているというだけでなく、宿題をさせるための叱咤激励もありますし、子供が家庭内で発散するエネルギーを見ているだけでも充分に疲れてしまいます(笑)

昨年中に登校拒否だった息子は、春から登校していますが、長い休みの間に学校との距離感を作ってしまうのではないかと心配しながらの夏休みでもありました。
夏休みは宿題もまとまった量が出されますが、その量を見て「どうせ出来ない」と言うこの子供の場合の問題点は、自分に自信が持てないことだと感じていました。
でも親として何が出来るのかや、子供にとって自身を持てるきっかけが何かは分からないまま一年が過ぎていただけでした。
先日の山形旅行も、行ってみたかった場所である他に、真剣に祈ってみたかったという理由がありました。

「苦しいときの神頼み」と言われるように、何かの宗教に帰依しているわけではなくとも、神様に祈りたくなることはあります。
私も何かの宗教を信じているわけではないのですが、家の壁に向かって祈っても集中できないので神社仏閣で祈っています。
祈り方にも効果的な方法があって、強く願うことを一つだけ、そうであればいいと思う状態を映像として思い描くのです。
それは祈っている時の思考の状態で、作法のことではありません。
苦しい時には冷静に分析・判断が出来にくく、現状把握や方向性もはっきりと見えなくなる場合が多くなります。
「一つだけ」というのは目標を明確にするために必要な取捨選択の作業で、「映像で思い描く」とは、より具体的に認識するための作業です。

私が思い描いたのは、得意そうに笑う子供の表情でした。
そういえばここ何年かは、そんな子供の表情を見ていなかったことに思い至り、自分のふるまいを自省しながら祈っていたのです。
不思議なことに帰宅してから一週間で、子供の表情は祈った通りになっていました。
「本当に神様に願いが通じた」とは思いませんが、「もしかしたら」と思えるような験のある寺社仏閣が自己暗示には重要な舞台装置になるのだと思いますし、目標をはっきりと認識することで、その方法を考え出すヒントになったのかもしれません。
宿題を全て終わらせて得意そうに笑う子供の顔は、結局は親の気持ち次第で出てくるものなのか、などと理由を考えている途中です。





車はMTに限る

2011-07-26 | 人間心理
若い人の車離れが起きていると聞きます。
他に娯楽の多い世の中で、ランニングコストの高い車は若者の経済力では趣味たり得なくなったとも言えます。
車体の購入、保険加入、毎年の税金に駐車場賃貸料、そして燃料代。
車で出かければ駐車場を探し、パーキング料を払わなければいけないし、車はたまには故障する。
不幸なことに事故でも起こせば、それはまた出費の元になるし、盗難の心配も。
東京のように公共交通が充実しているなら、車を持たない選択もできるわけで、それでも持ちたいと思うには、支出に見合った魅力がなければ。

一昨年に愛車を買い替えた時、中古車販売店に並ぶほとんどの車はオートマチック(AT)車である現実を見て、とてもびっくりしました。
現在は自動車運転免許にもAT限定免許があり、AT車の運転者人口が多くなっている他、三種の神器といわれた様な憧れの存在ではなくなり、生活の足として便利に使うものと広く認識されています。
青森県でも乗用車は、一人に一台必要な生活道具ですが、それでも車を運転するという行為自体には、人を魅了する楽しさがあります。
ただ、それにはギアチェンジという少々難しく面倒くさい作業を通して感じる車との一体感が重要なポイントを握っているとも感じます。

各種のレジャースポーツに次々と手を出していた時期がありました。
面白くて長く続けていたものに共通するのは、難しくてなかなか上達しないという一点です。
「奥が深い」と評されるのは、長らく続けていて、ある程度上達しても、いつでも何がしかの課題の残ることだと思いますし、その難しさが魅力の源泉にもなると思います。
何十年も乗っていて、小さな車で燃費を考えゆっくり走るようになった今でも、ドライブをしながらギアチェンジの一つ一つで車と語り合っている、そんな感覚を持てるからこそ運転は楽しい。
軽・小型車でマニュアル車の生産は少なくなっていますが、なくならないで欲しいですね。




財布の価格

2011-07-09 | 人間心理
プレジデント 7月4日号の「年収は、なぜ「使う財布の値段」の200倍になるか?」という記事が話題になっています。
収入アップと財布の価格の相関関係という、多くの人の興味ある話題であることと、事例の単純化効果がもたらす話題性の好例なのだと思います。

ある大企業の理事をしていた方から、「収入に見合った暮らしをしなければいけない」という意味の話を伺ったことがあります。
この方はごく一般的な生活で不満もなかったものの、周囲から言われて車や住まいを変えたとのことで、世の中にはそんな圧力もあったのかと興味深く聞いた事を覚えています。
また、アメリカ在住で事業をしている知人は、「階級のないアメリカでは生活のクオリティが階級の代用である」と言って、それなりの生活をしています。これは事業で信用を得るための投資という考え方でした。
財布と収入の関係性は「ある」とも言えるのですが、順序を考えると財布が先ではなく、収入・仕事に見合った財布を買い求める場合で、高い財布を持てば収入が上がるわけではないはずです。何事にも例外はありますが。
ただ話題としては大変面白いので、話の種として楽しめればいいのだと思います。

アメリカ在住の知人の話の続きとして、こんな事を言っていました。
「いつでも自由に使えるポケットマネーをたくさん持てるようになりたい。今はそれほど大きい額じゃないけど、収入が増えたら百万単位で持つのが夢だ」
この方は、ポケットマネー以外の消費は全て事業のための投資であって、自分の人生の楽しみや、豊かな人間関係のためにポケットマネーがあるのだと語っていました。
単に遊興に散財するのではなく、全ての消費が投資であるという考え方は、今まで会ったお金持ちに共通する「認識」だったと記憶しています。





べき論と確率論

2011-04-21 | 人間心理
べき論は巷にあふれていて、その内容は物事を的確に指摘している場合が多いと感じます。
しかし「誰が」実行するのかが曖昧であり、現実的に実行に移すための行程が見えないので、言葉だけが表面を流れていってしまいます。
そして何かがあった後によく出てくるのも「べき論」です。
同じように事後に出てくるのが「確率論」で、「○○パーセントの確率はあった」という文脈で語られています。
確率を考えるとほぼゼロに近くても起きる可能性はありますが、現実的に形にするときどこまでを考えるのかは経済から考えるのが普通です。

たとえば10個のサイコロを振ったとして、すべての目が1になる確率は6の10乗の約6千万分の一で、ほとんど無いと言える確率になります。
この10個のサイコロを一つ一つ違う10色のサイコロにして、振ったとします。
赤は2、白は3、緑は・・・・と、てんでに出た目をひとつの組み合わせとすると、それは6千万分の一の確率で現れている事になります。
全部が同じ数字だと分かり易いだけで、何気なく振った一回ごとの数字の組み合わせはそれぞれ6千万分の一。
確率論では、ある組み合わせがいつ起きるのかがわからないだけで、非常に低い値でもゼロでなければいつかは起こる。それが数秒後なのか数百年後なのかの違いなだけで。


日本の技術や安全性が作り上げたジャパン・ブランド。
電力などのエネルギーが必要なのはジャパン・ブランドによってたつ製品を作り出し、ブランド力によって売る事です。
信用のための基盤が信用を壊してしまう現在の状況は、「ちびくろサンボ」で自分の尾を追いかけながらバターになってしまったトラを連想します。
この事故と災害から検証しなければいけない事はたくさんあるのだと思います。


原発事故考(上)失敗学会理事長・畑村洋太郎
「ゼロリスク幻想」とソーシャル・リスクコミュニケーションの可能性 山口浩


安心のための努力

2011-04-06 | 人間心理
『安心』には何も実体がない。
実際の状態がどうあれ、事象と全く関係なく「安心」は存在するのだと福島原発事故の成り行きを眺めながら考えていました。
東京電力が『安心』のための広報に力を入れていた事にも批判がありますが、安心とは個人の心の中にしかないもので、客観的事実とは関係なく生まれ出るものだとしたら安心感の広報をすることは間違ってはいないと思います。
問題は実際に『安全』のための対策がどうだったのかという事で。

「安全・安心のため・・・」という言い回しで並ぶ二つの言葉は、並べて使っている間に同じものとして認識され、「安全だから安心」から「安心だから安全」への変遷があったのかもしれない。
『安心』を強く求めるうちに前提となる『安全』は置き去りにされてしまった。
ほんらい求めるべきなのは『安全』であって、安心するために必要なのは意味を理解するための知識だったのだと思います。
そして『安心』のために必要な努力は際限がないのです。あくまで心の中の問題であるために。
原発の問題だけでなく、『安心』を過剰に求めるあまり、逆に大きな損失やリスクを作り出している場合も多いのではないでしょうか。






人間は不可解な事象に理由をつけたがる

2010-11-24 | 人間心理
今年の春に父が他界して間もなく、姉が父の夢を見たとのこと。
夢の中で出かける支度をしていた父は、どこへ行くの ? という問いかけに
「ちょっと青森に行ってくるわ」
そう答えたとのこと。
家族の中で青森に住んでいるのは私だけなので、当然私の所へ来るという意味ですが、夢枕に立つならまだしも夜中に枕元に立たれては嫌だなあと笑い話にしていました。

四十九日の納骨が済んだ頃からわが家のドアチャイムは頻繁に鳴るようになり、最近またピンポンダッシュが流行っているのかと思っていましたが、どう考えても誰もいない。
機器の故障と考えてそのままにしていたものの、気になってはいました。先日、その姉と色々と話していてその話になった所、
「お父さんはプライド高かったから、来てくださいと言われないと行かないし。一度も行っていないあなたの家が見たかったんだよ」
死後の世界を信じているわけではないけれども、その説明にとても納得してしまいました。

青森は信仰の厚い所です。
色々な神様を祭り上げ、信仰心は今も変わりなく続いています。
その背景を、神を希求する理由を知りたいと願いながら今も考えていますが、ここに住んでいるとそれが自然な考え方なのかもと、ふと思ったりします。






お願い力

2010-03-20 | 人間心理
生きていくのに一番大切な能力は何か。
そんな話をしていると、大概はお金を稼ぐ能力が最初に挙がるのですが、事故や災害など急を要する場合にはまた違う能力が必要になるのでしょうし、無人島に漂着したらなどと荒唐無稽な前提になってくると、火起こしとか魚釣りとか食べ物に関する能力の話になってきます。
食べていけるだけの収入があるとしたら、そんな現実的な前提を設けても、答えは人それぞれになると思います。
コミュニケーション関連の能力が比較的多くなるようですが、私はその中でも「お願い力」が重要だと思っています。

人に頼るのが嫌いな人は思われている以上に多いのではないでしょうか。
経済的にゆとりがあれば人に物を頼まなくても生きていける世の中で、わざわざ負い目を持つ行動が嫌がられるのもわかります。
自身のプライドから人に何かを頼めない人もいるでしょう。
それでも生きていると自分一人では対処できない難問が現れます。
私にとっては子供の発達障害や登校拒否でした。
自分が全力をかけてもどうしていいのか分からない困りきった時に、手を差し伸べてくれる人はいました。
そんな人にそうっと小さなお願いをすると気持ち良く助けてくれます。
私もお願いが苦手な一人でしたが、小さな出来事の積み重ねから人に頼る、お願いする事が出来るようになってきました。

人間一人の力は小さいと今では思います。
もっと周りの人に頼ってもいいのだし、それが上手に出来るようになれれば良いなとも。
ただ、上手に頼み事が出来ればいいというわけではなく、そこには充分な感謝と、自分が頼られた時には頼ってきた人のために動く心構えが絶対に必要なのだと思っています。




障害の孤独

2010-03-01 | 人間心理
先日たまたまつけたテレビでこの番組が流れていました。
爆笑問題のニッポンの教養 | 過去放送記録 | FILE074:「私は ここに いる」
再放送だったのですが、ちょうど「津軽三味線」を読んでいるところで、障害を持ちながら生きる人の事を色々と考えていたので思わず見入ってしまいました。

目の見えない人の職業といえば按摩・マッサージを思い浮かべますが、「耳なし芳一」の話にもあるように音楽を生業とする人も古い時代からいました。
視覚野 Wikipedia
大脳皮質の広い部分は視覚情報処理のために働いていますが、視覚を失うとこの部分は他の働きをするともいわれます。
題名は忘れてしまいましたが、以前読んだ本には視覚障害者へのインタビューを通して脳の感覚に対する機能を考証する内容のものがありました。
その中で、視覚障害者が音によって周囲の状況を感じているという記述があり、たとえば室内の音の反響などでその部屋の大体の広さがわかったり、呼吸音や衣擦れ音から人数の多少がわかったりするということです。
視覚を失う代わりに聴覚が鋭敏になる、手の感覚が敏感になる。按摩や音楽という生業が視覚障害者の仕事になるのは理に適ったことなのでしょう。


話を「爆笑問題のニッポンの教養」に戻しますが、この番組の中で福島智教授は、突出した才能を持たない大多数の平凡な障害者の感じる孤独について言及していました。
身体障害や機能障害にかかわらず人は人と繋がりたい欲求を強く持っている、その方法を塞がれる苦しみを「宇宙の暗闇にただ一人」と表現しています。
考えてみれば自閉症というものも、目も耳も機能しているのに人とのかかわりにおいては暗闇の中に一人佇んでいるようなものなのかもしれません。
障害児を育てながら、私はこの孤独に対して思い巡らせたことはあったのだろうか、そんなことを考えていました。


ペンフィールドのホムンクルス







観音参りのヒーリング効果

2010-02-21 | 人間心理
観音参りが好きなのですが、観音堂へ行くのはとても怖いのです。
誰かと一緒に行きたいところですが、そんな趣味の人も少なく自分一人で行くことも少なくありません。
一人で歩く参道は身のすくむ思いがして寒気すら感じます。
それでもお堂の前で手を合わせていると、次第に気持ちが落ち着いて、心が洗われていく気がします。

観音参りは現世利益を願うものと認識されることも多いのですが、信仰や祈りの効果はもっと別の所にあると思っています。
何か大きな存在の前で感じる自分の小ささと、だからこそ感じる今自分がここにある感謝の気持ちは対になっています。
遠い昔から、人間は知恵とともに脆い心も持っていて、その脆さを補うための方法として信仰があったのだと感じます。
科学技術が発達した現在でも、人の心は遠い昔と変わりはなく脆いままなのに、なぜか心までもが強くなったと感じてしまうのでしょうか。
怖いものもなくなった世の中で、やはり何かに不安と恐怖を感じ続けてしまう、そんな脆さを持っているのに。