加賀藩の所領加賀、能登、越中の魅力、海越しに観る山々、風光明媚なシーサイド・ラインの風景・出来事を写真で紹介する。
金澤・能登立山シーサイド・ライン



高岡市西田と言われ思い起こすのは“竹の子料理”。
竹の子の産地として地元では知られている。

ここ竹の子の里に摩頂山 国泰寺は建つ。
訪れる人も少なく境内は静寂に包まれている。

写真:参道と総門



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氷見市街地の海岸から眺めると富山湾にせり出した断崖を見ることが出来る。かつてここに阿尾城が建っていたところだ。もし、この城が再建できるならば。


写真:氷見市間島側から阿尾城址を望む

紺碧の海に迫り出してそそり立つ断崖絶壁、その上に建つ白亜の城、そこからは、富山湾を一望でき、その彼方に雪を頂いた3,000mの峰々、思い描いてみると夢が膨らむ。


写真:阿尾から立山連峰を望む(氷見市写真素材集より)

標高はそれほど高くない、最高地点で海抜38m、現在白峰社が建っている。
ここから先端の方へ進むと道は狭く鞍部状になっている、その先に本丸跡がある。
ここには展望台があり。ここから氷見市外、灘浦方面、そして富山湾立山連峰を一望できる。

阿尾城址より氷見市外・唐島を望む 阿尾城址より灘浦方面を望む
写真:左 阿尾城址より氷見市外・唐島を望む、右 阿尾城址より灘浦方面を望む


写真:阿尾城址案内板(城址登り口に掲示)

下記:富山県の歴史散歩 山川出版社 阿尾城址紹介文

阿尾城跡 

所在地:氷見市阿尾502
交通機関:加越能バス 脇・女良(めら)行阿尾下車5分

 バス停阿尾近くから民家の間の細道を海にむかって折れると,約100mで右手に榊葉乎布(さかきはおふ)神社の鳥居がある。ここが阿尾城跡(県史跡)への登り口である。阿尾城は,灘浦(なだうら)海岸に突き出た城ガ崎(じようがさき)といわれる舌状台地の上に築かれた。氷見市街地の海岸からながめる城ガ崎の白い断崖絶壁は,紺碧(こんべき)の海に影を落とし実に美しい。このあたりの海を古来阿尾の浦とよび,大伴家持は「英遠(あお)の浦に寄する白波いや増しに立ち重(し)き寄せ来東風(くあゆ)をいたみかも」と詠んでいる。


写真:2006.10.05撮影 shun

 築城は16世紀中頃と推定され、戦国時代に多くみられる平山城である。初代の城主は,肥後(熊本県)の菊池(きくち)氏の一族菊池武勝(たけかつ)である。この地ほ越中と能登を結ぶ灘浦や荒山越えの街道をおさえる要衝であり,初め上杉謙信の能登攻めの一拠点であった。その後、加賀の前田利家と越中の佐々成政が対立したとき、政体は前田方についた。1585(天正13)年、佐々方の守山城主神保氏張(じんぼうじほる)が兵5,000を率いて、氷見町を焼き払い阿尾城を攻めた。乱戦の末、前田方の支援もあって2,000の兵の守るこの城は落ちなかった。武将は1万石の城主であったが,長男の死後出家し、阿尾城を利家に献じた。1600年頃廃城になり、子孫は金沢城下に移り、加賀藩の上級武士となった。

 鳥居のある大手口の急な坂を上りつめると、道は左右にわかれる右手の丘陵上に榊葉乎布神社、左手の急な石段を上っていけば、途中南側に三の丸・二の丸の平坦地をみて、最高所(海抜38m)の白峰(しらみね)社のある高台に出る。物見櫓(やぐら)のあった所といわれ、氷見や灘浦の眺望がすばらしい。さらに進むと、狭い鞍部(あんぶ)状の道を通って本丸跡に出る。鞍部の中ほどから「ななまわり」といわれる急坂が麓の集落まで通じているが、いざというときの食糧や水の確保のための間道であったらしい。



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柳田布尾山古墳【国指定遺跡】

富山県氷見市柳田34



国道160号線を走っていると目に付く、最初は宅地造成か何かだと思っていた。
そのうちに遊歩道が整備され公園でも造っているのだと思っていた。
(多分、新聞などで報じられていたと思うが。)

先日行った、大境ビジターセンターで見つけたパンフレットで初めて古墳であることを知った。(恥ずかしい話ですね)

早速、好天に恵まれた昨日訪ねてみた。
まだ、整備されて間もないということで施設にしても綺麗で気持ちが良い。
古墳の表示がなければ、隣に建つ高齢者の施設の一部かと勘違いする。

小高い丘になっており古墳の頂上からは氷見市街そして、富山湾が見渡せる。
あいにく施設の、古墳館は冬季の休館となっており見学することが出来なかった。古墳館の展望台からは古墳の全景が見れることだろう。

「柳田布尾山古墳」パンフレット


クリックして拡大でご覧ください。



富山県内では最大規模の前方後方墳だが埋葬品は盗掘れており誰の墓かは分からないのかどこにも載っていない。

柳田布尾山古墳について 国指定史跡・平成13年1月29日指定 所在地:富山県氷見市柳田字布尾山34番地外

柳田布尾山古墳について

国指定史跡・平成13年1月29日指定
所在地:富山県氷見市柳田字布尾山34番地外

氷見市は、冨山県の西北部に位置し、日本海に突き出た能登半島の東側付け根にあたります。市内には、洞窟遺跡としては日本で初めて発掘調査が行われた大境洞窟住居跡、日本海側を代表する貝塚のひとつ朝日貝塚などの著名な遺跡があります。

柳田布尾山古墳は、平成10年6月に発見された古墳です。 これまでの調査の結果、全長107.5m、後方部長さ54m、後方部幅53m、くびれ部幅30m、前方部長さ53x5m、前方部幅49m、後方部高さ10m、前方部高さ6mであることが判明しました。また、前方部では周濠が確認され、東側のコーナーには陸橋が設けられていました。

古墳全体の体積約23,000立法メートルに対して盛土は約14,000立法メートル(60%)あり、多くの労力を費やして造られたと考えられます。
この柳田布尾山古墳は、県内最大の古墳であり、前方後方墳としては全国で九番目、日本海側では最大のものとなります。
その偉容はまさに、古墳時代前期(4世紀頃)に冨山湾の海上交通を掌握した王者の墓といえるでしょう。



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シーサイドライン沿いの漁村の生業は、漁具の歴史とともに発展してきた。

農業があって、漁業が成り立っていた時代もあったことを初めって知った。
その昔、網に稲わらを使用していたとは創造もしていなかった。
古人の知恵には感心させられる、現在もこの知恵が生かされている。時代とともに、素材が変わっただけで、漁の方法はなんら変わりは無いように思えた。(漁業を知らないからこんなことをいっているのかも知れない。)

ここビジターセンターには漁民の生活、漁具の歴史が所狭しと展示されている。漁業に携わっている方ならこの道具今も使っているよ!なんて関心するかも知れない。
スズミ(錘)
スズミ(錘)
小石を藁縄で包んだもので、漁師の手製になる。おもに、小商売の人が刺網に用い、網のアシともいう網の下方部に結んで、刺し網のおもりとした。(展示品説明より)

氷見の漁業・ブリ漁にもこんな歴史があったのかと、遠い昔に想いを巡らせた一時だった。


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何度となくこの道を自転車で通った記憶がある。時にはこの社叢で暑さを凌いだことを思い出す。



今でこそ、道路を走っていても意識しなければ見落としてしまう朝日神社。
道路拡張工事がなされる前は、神社の石垣の横を国道が通っていた。
道はここで大きくカーブしていた、カーブには社叢の老木のタブの木?が覆いかぶさり、車が枝をこすりながら通っていた。

写真:「越中万葉歌碑めぐり」高岡万葉歴史館編 桂書房より

この朝日神社社叢は富山県指定天然記念物に指定されておりさまざまな植物が植生する。その昔、国道が通るまでは海岸が社叢にまでせまっていて、この老木もまた魚つき林だったのかもしれない。
また、ここには石碑、石仏、自然石の灯篭などが奉られている。

  


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